20 特別な一日を過ごすこと
日差しの燦々と降る中、スヤンたち三人は村を南に下り、一面に花畑の広がる遊閑地を歩いていた。
「兄上、重くはありませんか?」
「大した荷物ではない」
スヤンはそう答えると、脚の短い大きな机を背嚢のように背負いながら、遠く四方を囲む山嶺を仰いだ。
ベレタ村はイザリアの北部に位置し、一帯は山脈の隙間に広がる標高の高い草原である。
常々エピが言っているように開墾の人手が足りないため、村の周囲には「何でもない土地」が多い。
北に行くほど土地が荒れ、道は赤蹄騎士団の城砦に続く。
西はメルカードとの間に豊かな丘陵が広がり、農地と牧場が点在する。
東には小さな森があって、薪や建材の供給源となっている。
南に向かえば、渓谷と岩場の合間に手つかずの原野が残り、幻想的ともいえる空間が広がる。
そんな草原には、岩のひび割れのような隙間を湧水が抜ける、澄んだ小川が幾つも流れていた。
そういった流れは岸の縁までよく草が伸びていて、魚の好む日陰になりやすい。
しばらく川沿いを進むと、小さな古びた橋が架かっているのを見つけた。
誰が作ったか赤い煉瓦を積み上げて、今や蔦や雑草に覆われかけているが、通行には問題なさそうだ。
橋の脚で勢いが変わって、流れが滞っていそうなところもある。魚がひそむには恰好の環境に見えた。
「ここでいいだろう。魚が逃げるから、あまり物音を立てるでないよ」
「分かった」
ストラスの忠告に頷いて荷物を置くと、釣り竿を渡された。棒に糸と針を結んだだけの簡素な釣り竿だったが、これくらいのほうがかえって丁度いいらしい。
スヤンは橋の縁に腰かけると、ストラスから言われて家から持ってきたコーンの缶詰を開けた。ストラスが慣れた手つきで摘むのを見て、自分も見様見真似に一粒を針へ取り付ける。
まだ不承不承の気が抜けないシャオが、スヤンのほうへ顔を寄せて口を開く。
「本当にこれで魚が釣れるのですか」
「そこらで虫を拾ってこいと言われるよりはずっといい」
スヤンはそう答えると竿を振り、そっと水面に針を投げ入れた。
釣りというものは気長に待つのが肝要らしい。
そして、その時間はただ必要経費と割り切るのではなく、魚と自分、水面に隔てられ対となった世界を感じるために使う。
傘の柄を肩に乗せ、赤く色づいた日陰の中で、敢えて言葉を交わすこともないが、両脇に座るシャオとストラスの気配は確かに感じていた。
川の水が過ぎゆくように、静かな時間を心地よく消費する。
釣り竿を握ってじっとしていると、どことなく瞼を瞑っていたくなるような欲求に駆られる。剣の構えに似ているからかもしれない、と思った。
ある瞬間、指先に微かな振動が伝わり、スヤンはひょいと釣り竿を引き上げる。
光が散らばるように、飛沫が跳ねた。
釣り糸の先には少し黄味がかったまだら模様の、小ぶりな魚が食いついていた。小ぶりと言ってもスヤンの手をはみ出すくらいの大きさはあって、よく肥えてもいる。
「釣れた」
「鱒だ」
スヤンは初めて自分で釣り上げた獲物をしげしげと見つめた。
ストラスの見立てでは、生まれて二年ほどを経た若い成魚だろうということだ。
魚は川の水を汲み置いたバケツに入れ、再び針を落とす。すべてはその繰り返しだ。
それから間もなくシャオも釣果を上げ、コツを掴んできたのかスヤンも二匹、三匹と釣り上げる。
正午になるまでに、小さいものが四、五匹、大きいものが二匹釣れた。
賑やかになったバケツを覗き込み、ストラスは満足げにする。
「帰って調理するかね」
スヤンは首を横に振った。
「いや、ここでいい」
ここまで担いできた机を川の浅瀬に置き、簡易な床にする。
その上に敷物を広げ、木製の茶碗に飲みものを注げば、一休みするのにぴったりな川床の完成だ。
意図を理解したらしいストラスは、興味深げに微笑んだ。
「せせらぎを眺めながら一服か。風流だね」
川岸の岩場で火を熾し、その周りに、串に通した鱒をくべておく。
よく焼けるのを待つ間に、大ぶりな魚もはらわたを抜いて血を流しておくことにする。こちらは持ち帰って、包み焼きにでもするのがよいだろう。
魚から滴る油で、炎が喜ぶように爆ぜた。
段々と鰭に塩が白く浮き上がり、皮に焦げ目が滲み出す。
少しほぐして火が通ったのを確かめ、焚火から引き上げる。
皮の焼き目の隙間から、ほくほくとした身が柔らかく覗いている。
三人は誰ともなく目を合わせ、一斉にかぶりついた。
「うわ~! これが食べたかったんです!」
真っ先に声を上げたのはシャオだった。
「なんだか懐かしい気持ちになります」
「うん」
川魚に塩をまぶして焼き上げただけの料理だが、それがイザリアで口にした中で最も親しみのある味だった。
シャオが黙々と塩焼きを味わう横で、食の細いスヤンは再び釣りという新たな境地へ向き合うことにした。
そんなとき、道のほうから声をかけられた。
「あっ、釣りですか? いいですね~」
「エピさん」
土地の調査に来ていたのか、ノートや測量道具を抱えたエピが、ざくざくと草を踏んでこちらにやってきた。ストラスの存在についてまったく気にした様子がないのは、流石の器だ。
スヤンは顔を上げると、小さな古バケツには荷が重くなり始めた魚の山を指差した。
「少し釣りすぎた。何匹か持っていけ」
「いいんですか? ありがとうございます~」
いつも通りの柔らかな態度で屈んで魚に手を伸ばしかけたエピだったが、ふと何かを思いついたかのように動きを止め、身を起こした。
「あ、ちょっと待っててくださいね!」
エピはそう言うと村の方へ走っていき、数分後には別の荷物を抱えて駆け戻ってきた。
「折角なので、ご一緒させてください!」
エピも川床の上に上がってくるといそいそと荷物を広げる。
それは幾つかの食材や調味料だった。スヤンたちが不思議そうに集まってくるのを見て、エピは自慢げに鼻を鳴らした。
まず取り出されたのは塩漬け肉の塊だった。エピはナイフで器用に、布のように薄く、何枚か切り出す。
「随分薄く落としたな」
「味が濃いので……ちょっと食べてみますか」
スヤンとシャオが頷くと、一枚を半分にして渡される。
しばらく噛んで味わってみるが、スヤンはいつもの仏頂面をさらにしかめて口を尖らせた。
「獣臭い」
「です」
シャオも同じように微妙な顔をしている。後ろではストラスが息を殺して笑っていた。
確かに肉の旨味は強く感じたが、それ以上に後味の獣めいた風味が強すぎる。淡白な川魚と合わせても、魚の味が負けてしまう気がした。
「これがアクセントになるんですよ」
二人の反応を予見していたのか、エピは苦笑いをして作業を進める。
「魚の腹にハムを詰めて」
まるでハムのサンドを魚で作ったような光景だ。エピはそこへ塩を振り、下味をつけたあとに小麦粉をまぶす。
それからスキレットを取り出し、薪を足した焚火にかける。
スキレットへ油をたっぷり注いだところに潰したニンニクを加え、しばらく炒めて香りを移してから、鱒を焼き始めた。
「カリっと焼いちゃいますよ!」
宣言通り、きつね色になるまでこんがり焼かれたそれは、先ほどまでの塩焼きとはまた違った趣で食欲を誘ってくる。
完成を告げられると、スヤンたちは興味津々に皿をつついた。
「ん、うまい」
「泥臭さが抜けましたね」
川魚特有の臭みは、ニンニクの風味と高温の油に通されたことで薄まって、ハムの塩気がよく効いている。あれほどきつく感じた肉の味も、油が溶けて魚の身と馴染み、旨味だけが主張するようになった。
うまいうまいと頬張る二人を見て、エピも一仕事を終えたとばかりに嬉しそうに額を拭いた。
「もしこの辺りの伝統料理が気になるなら、うちで勉強会を開いても楽しそうですね!」
***
「そろそろ帰ろう」
川の楽しみを味わい尽くし、心地良い疲労感に包まれながらスヤンが立ち上がると、シャオもそれに頷いた。
今日は特別な一日だった。明日からはまたエピとの約束通り、畑仕事や家の整備に奮闘する日々に戻るのだ。
川床を片付け、帰路につく。二人の後ろを歩きながらストラスは悪戯っぽく言った。
「さて、私は締め出されないといいのだが。何分、夜はまだまだ冷えるものだから老骨には堪えるよ」
すると、シャオはすっと歩みを遅くし、彼女の横に歩調を合わせる。
「……別に許した訳じゃないですから」
決して目が合う訳ではなく、独り言にも似た声だった。それでも、ストラスはシャオの頬に柔らかな赤みが差したことに気がついていた。
「その上で、それはそれ、これはこれです。……ありがとうございました」
敢えて言葉を返すことなく、ストラスは微笑みだけで応えた。
シャオはふいと顔を背け、また机を背負って先を往くスヤンのほうへ駆け寄る。
スヤンは久しぶりに口元が緩むのを感じながら、シャオの頭を撫でた。
「偉いぞ」
「何がですか……?」
心の底から感動した故の惜しみない称賛は、怪訝そうな顔で受け取られてしまったのだった。




