19 新たな住人と話すこと
油の跳ねる小気味よい音に目を覚ます。瞬きをすると、パンの焼ける甘い匂いも分かるようになった。
スヤンはまだ慣れない藁の寝床の上で、果たして今日の食事当番は自分ではなかったかと思い至った。
もしや寝過ごしてしまっていて、痺れを切らしたシャオが自分で作り始めてしまったのだろうか。
半分寝ぼけながら、スヤンは自室を出て居間に向かった。
「おはよう。朝食を用意しておいたから庭へ出る前に食べてしまいなさい」
台所に立っていたのは、シャオではなかった。
前掛けを付けたストラスが、おたまを片手に声をかけてくる。
訳も分からず頷いて席に着くと、程なく、具の詰まったサンドと温かいスープが目の前に置かれた。
美味しそうだ、とスヤンは珍しいことを思った。
パンには端まできっかりバターが塗られ、炒り卵だったり、豆の煮物だったり、ハムと、庭で採れるようになった野菜だったりがそれぞれ挟んである。
スープから立ち昇る温かさは、まだ眠たいスヤンの頭を優しく起こしてくれるようだ。
それは実に穏やかな牧場の朝で────
「なに馴染んでるんですかっ」
────勢いよく扉を開け放ち、シャオが叫ぶ。どうやら水やり当番を終えたらしい。
「兄上、私は認めていませんからね。こんな胡散臭い女、いつ寝首を掻かれるか分かったものではありません」
シャオは精一杯に、のしのしと居間の中に入ってきて、ストラスを横目に見ながらそう言った。
スヤンはスプーンを咥えて考えた。
シャオは何故、自分が好き好んでこの女を家に置いているかのような言い方をするのだろう。
昨夜のスヤンとて、ついさっき、脳みそを零されそうになったばかりの相手が隣の部屋で寝ているのはちょっと嫌だった。
「……? ……あっ、そうか」
間抜けな声を上げて、スヤンはシャオの言いたいことに気がついた。
これまで生活のあらゆることを任せてきた副頭がいない以上、今この家の主人はスヤンであり、誰が入るべきか出るべきか、スヤンが好きに決めてよいのだ。
「変に思わなかった……。いつの間にか知らないやつが家の中にいるのは古屋敷にいた頃もそうだったから……」
「気にしたことなかったんですか……?」
シャオは困惑気味に突っ込んだが、実際スヤンにとって、仲間───睡花会について、今も昔も自分が率いていたという自覚はほとんどなかった。
『先生』から任されるスヤンの仕事はあくまでスヤンだけの仕事であって、睡花会に任せたことは一度もない。
スヤンと、ほかには副頭だけが、『先生』との実質的な主従関係にあり、シャオを筆頭としたそれ以外の構成員は、食いっぱぐれていたところを副頭の独断で拾われた居候に近い。深く気にしたことはなかったが彼らの生活費も、自分が『先生』から貰う報酬で賄っていたのではないだろうか。
スヤンにとっては、名前や顔ぶれこそ多少覚えても、その増減を気にすることは、庭の梅に止まる小鳥を数えるくらい意味のないことだった。
しかし、自分が気にならないからといって、それを強要する訳にもいかないのは確かだ。
特にシャオのことは幼い頃から傍で見てきたし、今や遠い異邦にまで伴をしてくれている訳だから、気遣ってやらねばならないと思う情も湧く。
「お前が嫌と言うならそうしよう。表に出ろ、ストラス。昨日の続きだ」
スヤンが立ち上がるが、ストラスは肩を竦めたきり取り合わない。
「しかしねえ、お前たちは私に監視されることで束の間の自由を享受できるのだから」
「ああ、確かに」
現在、魔術協会がストラスを派遣した目的であるシャオの規制違反の件については、調査の途中であるという体で有耶無耶になっている。
しかし、もしストラスがスヤンたちのことを見失ったと報告すれば、その瞬間、二人は非常に困難な逃亡生活を送ることになるだろう。
簡単に言いくるめられ、スヤンはそのまま再び席に着く。
どうしたものかと目を落とし、ふと、自分の皿が空になっていることに気がついた。
「うまかった」
「それは何より」
それきり、また沈黙が続く。
今のスヤンに理屈を無視して動くほどの激情はなく、ストラスも戦う気がない。シャオはスヤンの判断を優先するので、結局、消極的な休戦状態が維持されるのは自然なことだった。
「うぐぐ……!」
シャオはひとしきり唸ると、渋々席に着いた。
空腹にも逆らえなかったのか、悔しそうな顔でサンドを頬張り出す。
ストラスはエプロンを解くと、三つ目の椅子に自分も座って肘をついた。
「まったく、お前たちはもっといいものを食べなさいな。昨日の夕食は何だ。見た目も滋味も貧相で見ていられないよ」
昨日の食事当番も自分だったので、スヤンは突然の中傷にむっと黙り込んで抗議の意を示す。
しかし、ストラスはそんなささやかな抵抗は意にも介さず言葉を続けた。
「まあ無理もないことではあるな。イザリアの食文化は本来のお前たちのそれとは程遠く、素材の扱い方も分からないだろう」
東の綿と西の綿、できる糸の太さや長さに違いがあるように、同じ類の食材に見えても、土地が違えば合う調理法も異なる。
だからイザリアのものをスヤンたちの感覚で使ったところで、十全の味にはできない。
ストラスが言っているのはそういうことだった。
「ほんの老婆心だ、食べたいものがあるなら言ってみなさい」
ストラスは目を伏せがちにそう尋ねた。
スヤンは答える代わりに、シャオのほうをそっと見やった。
これまで、腹が膨れるなら重畳と二人が食事に気を払ってこなかったのは事実だ。
それは多かれ少なかれ見えない心の負担になっていたのだろう。
図星だったのか、シャオは少しだけ警戒を緩め、肩を落として呟いた。
「魚が、食べたいです……。新鮮な魚……」
言葉の通り、ベレタ村において鮮魚はあまり入手できない品物の一つだった。
山間地というのもあって港が遠いらしく、市場で手に入るのは小魚の塩漬けや油漬けばかり。
たまには大きな一匹を、さっぱりと食べたい気持ちはスヤンにもあった。まだ若く食べ盛りのシャオならば尚更だろう。
スヤンはしおらしいシャオを励まそうと、努めて前向きに声をかけた。
「ならば、今日は魚を探しに行こう。塩焼きがいいのか?」
「……はい」
シャオが喜ぶから、と副頭が遠出までして鮎を買ってきていたのは、どうやら記憶違いではなかったらしい。ほっと心の中で息を吐く。
しかし、言ったはいいが当てはないままだ。どうしたものか、と再び思案に耽る。
メルカードの普段は寄らない店を覗いてみたり、どうしようもなければ商館に聞いてみたりしてもいいかもしれない。
すると、視界の隅でストラスがすっと立ち上がる。
「決まりだね。ここは私に任せてもらおう」
そう言うと、ストラスはあの金色の鳥かごの、ビロードに覆われて見えない中に手を差し入れる。
奇術のように、獲れたての魚を取り出してくれるのかというスヤンの淡い期待とは裏腹に───再び出てきた彼女の右手には、釣り竿が三本、握られていたのだった。




