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18 どんな地獄に落ちるより

 礫が落ち、砂が煙る。水路の壁に大穴が開いた。

 無数に裂けた箇所から上水が噴き出し、滝のように細く流れる。


 その向かい、ゆらりと立ち上がったストラスが、濡れた壁にもたれるスヤンを眺めていた。

 彼女は吐息を漏らし、再び、あの感情を押し込めたような、泰然とした振る舞いを取り戻した。


引力(アトラクション)。私たちは常に、肉も魂も天の星々に惹かれている。普段それに気づかないのは、星はあまりに遠く、力が弱々しいからだ」


 ストラスは鳥かごをもたげ、澄ました顔で中の暗がりを覗き込む。


「私はその力を少し強めてやっているだけ。それを見抜いたのは感嘆に値するよ」


 スヤンは当然、立ち上がろうとして、しかし、手にも足にも力が入らないことに気が付いた。

 春の水路にしては生ぬるい濁流が、額から顎まで垂れ落ちる。

 スヤンが身じろぎをするとジョスランが悲鳴を上げた。


「骨を割った。動くと脳が零れるよ」


 ストラスは平然とそう言った。


 額から止めどなく溢れ出す鮮血によって、スヤンの顔は表情を窺うことさえ難しい。

 僅かに垣間見える素肌は一層青ざめ、軽い黒髪はじっとりと湿って頬に張りつく。


 ただ、ぎらぎらとした金眼ばかりが、動かぬ身体を引きずるように、ストラスを見据えている。


「それがどうした。関係ない(・・・・)


 口一杯の甘じょっぱい液を吐き出して、傘の柄を握り、瓦礫の山から背を剥がす。

 それはもはや勇敢な戦士の有様でも、腕利きの暗殺者の振る舞いでもない。


 流石のストラスも目を丸くし、堪らず笑った。


「気に入ったな。頭の壊れた馬のようだ。私はお前のほうが欲しくなってきたよ」


 ストラスは目を伏せて呟いた。


 きっと彼はもう、少女を守るという目的も忘れかけているだろう。

 今、彼を突き動かすのはただ一点にまで削ぎ落した至上の命題だ。

 殺すためなら死んでも構わない。

 一体こんな薄気味の悪い剣を、誰が作ろうと思ったのか。


 スヤンは立ち上がらなければならなかった。

 朦朧とした意識の中、ストラスを探して、彷徨うように手が泳ぐ。横から伸びた腕が、それを掴んだ。


 スヤンは、それが誰かを確かめることもなく振り払う。


「放せ」

「駄目です、駄目!」


 ようやく近寄れた。シャオは抱きしめるように、スヤンの痩せた身体を抑え込んだ。

 涙で視界が歪んで、酷い傷口を見ずに済んだ。それでも、その雫を袖で拭う。


「大人しく、していてください」


 小瓶の残りをありったけ注いだ。

 背骨も折ってしまうのではないかというほど強く抱きしめて。


 小瓶の所為でこうなっているのだとしても、使うことが罪だと分かっていても、そうするほかなかった。どんな地獄に行くよりも、スヤンを失うことのほうがずっとシャオにとっては恐ろしかった。


「……置いていかないで」


 シャオは小さく呟く。

 スヤンの呼吸から死に向かう色が抜けていく。それは段々と穏やかな寝息に移ろい、彼が気を失ったことが分かった。


 二人の身を寄せ合う姿があまりに痛々しかったからだろうか。ストラスは邪魔をすることもなく見ていたが、ふと、口を開いた。


「……娘、それをどこで手に入れた」


 それ、とは小瓶の水のことだろう。

 シャオは緊張した面持ちのまま、短く答えた。


「西に行った、森の中の湖で」


 すると、物陰に身を隠しつつ、遠巻きに騒ぎを見ていた野次馬が、思わずと言った素振りで言った。


「森? この辺に湖があるとは聞いたことがないぞ」


 確かにそうだ、とほかの野次馬たちも口々に言う。


 しかし、つい、とストラスが目をやるだけで、見物客はそそくさと離れていった。

 彼女はやる気をなくしたかのように鳥かごを持つ手を下ろした。


「なんだ、【妖精の湖】に行ったのだね」


 その声色から殺し合いの高揚は失せ、穏やかで理知的な響きが滲んでいた。

 それから、ストラスは瓦礫の陰に残っているルセロたちのほうに声をかけた。


「少し気になることができた。───悪いが、茶の仕度をしてもらえるかな?」


***


 ベレタ村のスヤンとシャオの家の庭の隅に、ルセロによって古いが上品な机と椅子が設えられた。


 その一つにストラスは、茶器を片手に悠然とした様子で腰掛けていた。

 もう一つには、目を覚ましたスヤン。最後の椅子には、警戒した表情のシャオが座った。


 横から小さな手が伸びて、皿に盛られた茶菓子を持ち去る。机の下では、可愛らしい帽子を乗せた白い頭が動いていた。人間の姿を得た犬の歪み、チコだ。


 チコは、知らない匂いの客人に誰何を問い、ガローテだという答えを聞いて目を丸くした。


「私も捕まえられちゃうの?」


 青ざめたチコは、恐ろしい客人の茶菓子を食べてしまった自分の口を押さえてそう尋ねる。

 しかし、ストラスは澄ました顔でチコを膝に乗せ、もう一つ茶菓子を与えた。


「さて。君が人を食べるというなら手加減はないが」


 チコは首を傾げて考えた。

 自分は人間を食べるか?

 あんまり美味しくなさそうだ。


「うーん? チコはおばあちゃんのくれるミルクとクッキーを食べるよ」

「それでいいのさ」


 それからすぐにチコは、ジョスランと遊ぶ、と膝を降り、スヤンたち三人だけが残された。


 紅茶に砂糖を三つ落とし、ストラスはティースプーンを手に取った。


「あの湖の水はね、傷を癒している訳じゃない。運命を変えるのさ」


 湖水によって改変されるのは、目の前の現実だけではない。その規模は、致命傷を負っていたスヤンやシャオが、生きていると変わる未来の大きさだ。


 ジョスランに使ったことで異常な改変反応が出たのも、彼女が試験を受けることで未来が大きく変わるからだろう。


「見た目の変化以上に現実が書き換えられる。禁忌とはそういうことだ。まあ、もう使い切ってしまったようだから問題はないが」


 もしもまだ一滴でも残っていれば、噂を聞きつけた各地の支配者(オーバーロード)や金持ちのために面倒なことになっていただろうとストラスは言った。


「しかし私でさえ、もう数十年は見たことがない。珍しいものを得たものだね」


 妖精の湖は見ようとして見えるものでも、行こうとして行けるものでもない。

 お伽話の妖精たちの悪戯のごとく、偶然に導かれた者だけが辿り着く理想郷の入り口なのだ。その湧水もまた、そうと知らずに持ち帰られた僅かな水滴が、ほんの時折、世の中に流れ出てくるのみだ。


 ストラスの話が終わり、また沈黙がしばらく続いたが、徐にスヤンが口を開いた。


「……何故、見逃すことにした」

「見逃した訳ではないさ」


 するとストラスは、紅茶を一口飲み、穏やかな口調で答えた。


「話せ。私に嘘はあまり通用しないと思いなさい」


 シャオは不安げにスヤンの顔を窺う。

 スヤンはしばらく黙っていたが、溜息をついて、話し始めた。


 自分たちがイザリアに来たのは望んでのことではなく、不思議な出来事の果てでしかない。

 今さら、大層なことを仕出かすほどの気力もなく、ただ訳の分からないことばかりで困っている。


 スヤンは使い込まれた茶器の縁を、そっと指でなぞった。

 傷は何事もなかったかのように消え失せ、あれほど流した血もその喪失を気取らせない。


 それでも、言いようのない疲労が、スヤンの口を正直にしていた。


「事情は分かった。お前たちは群れに紛れ込んだ機械の羊という訳だ」


 話を聞き終えたストラスは、塀の向こう、道を挟んだ先に広がる放牧地を、遠く眺めて頷いた。


「正直、お前たちをこの(イザリア)に残すべきかどうかは分からないな。無害だとも言い切れない」


 その言葉にシャオが何か言いたげに身を乗り出そうとして、スヤンが軽く制止する。

 それを見て、ストラスは実に面白そうに、目を細めた。


「しかし、まだ見守ることにしよう。何、いつ命令を終えるかということについては、結局、私の匙加減でしかないのさ」


 二人がその意味を飲み込む前に、ストラスはゆっくりと立ち上がり、小屋の赤い屋根を仰ぎ見る。


「それで、部屋は空いているかね? 牧人に聞いたが、なんとこの村には宿がないそうじゃないか」


 シャオを宥めるのに三日かかった、とスヤンは後にエピへぼやいた。

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