17 趾
高く、鐘の音が鳴る。
鳥かごにかけた青いビロードをなびかせて、その女は薄ら笑いを浮かべていた。
「さあ、魔女は誰かな?」
顔立ちこそ若いが老成した口ぶりは、彼女の余裕と、積み上げた経験を滲ませる。敵を刺す剣も身を守る盾をも持たず、ただ暗闇の棲む鳥かごばかりを提げた腕が、袖なしの外套から突き出ていた。
「趾……?」
「魔術協会の狩人が何でこんなところに……」
遠巻きにざわめく人々の声色は、訝しむというより恐れているようだった。
それもそのはず、彼女の金で縁取られた純白の外套は、このイザリアの地において燦然と輝く、苛烈な秩序の証だからだ。
趾は静淑に降り立ち、呆然と座り込むジョスランの顔を覗き込んだ。
「残り香は……君からするね?」
「あ……」
ジョスランは目を丸くして、息を漏らすばかりだった。
あまりにも突然な出来事に思考がついていけなかったのかもしれないし、彼女が憧れ、目指していたもののずっと先、魔術協会の根幹である存在が、今や彼女自身に刃を向けようとしていることに気づいていたからかもしれない。
しかし、ジョスランから趾の視線を奪うように、シャオが機敏に立ち上がる。
「いいえ。使ったのは私です」
すると、趾は薄い灰色の目を細め、感心したように呟いた。
「おお、殊勝な罪人だ。いつもこうなら私も楽なのだけれどね」
そして、彼女が鳥かごを傾けた、その瞬間、光輪がシャオの両手を縛り上げる。
「お前は禁忌に違反した。連行させてもらおうか。抵抗はしてもいいが勧めはしない」
「違うんです、趾さん! この人は私を助けてくれただけで……」
ジョスランが身を起こすが、趾はそれを得体の知れない微笑みで見下ろすだけだった。
「済まないがね、私の仕事は、言われた通りに獲物を持ち帰ることだけなんだよ」
趾がついと指を振ると、光の縄がつるつると動き、シャオが前へと引き寄せられる。
その肩を引き留め、スヤンのほうへ預けるように押し戻す者がいた。ルセロだ。
彼が筒帽子を深く被り直すのを見て、趾は興味を持ったらしく、僅かに眉を上げた。
「ふむ、彗星の一族が我々の前に姿を晒すとは」
「趾よ、彼らは我が主の客人である故……せめて、私が主人に申し訳を立てられる程度には説明を得たいものであるが」
その問いかけは意味のない抗議だと一蹴されるかに思われたが、意外にも、趾は少し考えを巡らせ、ルセロを見据えて淡々と答え始めた。
「そうだね……ありふれた魔術規制違反程度の案件であれば、呼び出されたのは私ではなく六十五趾以下だっただろう。だが、この反応は並の改変事象ではなかった。歪曲に匹敵する規模だ。私のあずかり知らぬことだが、上は彼らが星の使者かもしれないと思っているのかもしれないね。納得したかな?」
「……承知した」
ルセロは帽子と襟巻の隙間から、どこかを窺うように目をやったあと、一転して大人しく引き下がった。
その様子は傍目に見ても、保身以上の意図があることは明確で、流石の趾も警戒を顕わにする。
「危険を冒した割に、随分と物分かりがいいことだ。ん……いや、時間稼ぎだったか」
彼女が笑みを消し、振り向いた方角には、それまで野次馬がひしめき集まっていたのだが、今は様子が違う。海が割れるように人波を押し退けて、ずんずんと進んでくる影があった。
「おうおう、何の騒ぎやあ!」
「……メルカードの支配者。ハァ、誰も彼も暇なのかい?」
趾は呆れたように声を上げた。
宣言通り、歪曲災害を討伐してきたのだろう。いつも通りの赤い衣装を、今や濁った返り血の黒に染め上げ、絡繰りめいた大剣を担いだまま、ラディアンテスが息を切らしてやってくる。
妙な余所者を連れ帰るだけの簡単な仕事かと思えば、次から次へと邪魔だてされる。
そんな趾の不満そうな表情と対照的に、ジョスランが元気を取り戻して叫んだ。
「騎士団のおじさん! シャオが連れていかれちゃうの、止めてよ!」
しかし、趾の姿を認めたラディアンテスはひたりと足を止め、事態を理解したかのように顔を歪ませる。
それを見て、趾は愉快そうに肩を揺らした。
「残念ながら我々の権威は互いに干渉できない。同時に在るためには、そうするしかないからね」
彼女の言葉は些か詩的で不十分だったが、ラディアンテスへの牽制としては充分だった。
それぞれの土地を守護している限り暴政さえ認められる支配者と、イザリア全体の魔術秩序を管理する魔術協会。二つの絶対的な権力が共存するには、互いの特権に関して不干渉でいるしかない。
それが、一切の納得の上でなくともだ。
「それとも、縄張りを主張して噛みついてみるかい? お前の得物では……それこそ本末転倒だと思うけれど」
「……チッ」
ラディアンテスは一瞬辺りを見渡し、諦めた。
正直なところ、スヤンやシャオが異物かどうかというのはさして興味がない。
もし、彼らが悪であるのなら、ラディアンテス自ら叩き潰せばいいだけであるし、それこそ彼の望むところでもあるからだ。
ただ、自分の土地で、自分以外のやつに大きな顔をされることだけが、どうにも気に食わない。
それでも、趾と支配者が争うには、この街は脆すぎる。
苛立ちを見せるラディアンテスの傍に、スヤンが近寄る。
今まで黙り込んでいたスヤンが、ようやく、口を開いた。
「あいつは誰だ」
それは初め、間抜けな質問に聞こえた。
今さらそんなことを気にするか、と怒鳴ろうとして、やめた。
その目に宿した爛々とした光に、ラディアンテスは唾を呑む。好奇心をくすぐられた。興奮した、と言ってもいい。
やはりこの男は、あの少女のことになると本性を剥き出す。
ラディアンテスは、趾の持つ鳥かごを覆う布を指差した。
そこには外套と同じく、金の刺繍で数字があしらわれていた。
「魔術協会第三十六趾、ストラス! ……趾っちゅうんは魔術協会の飼い犬や。親切で言うたるけど、一回噛んだらごめんなさいが通用する相手ちゃうで」
「連れていかれると、どうなる」
「知らん! 誰も帰ってこやんもんで!」
スヤンはそれを聞いて、目を伏せる。
「分かった」
趾───ストラスが再び手を構える。シャオを引き連れるためだ。
黒い手袋に覆われた指をもたげる。しかし、何も起こらない。
伸ばされた光の縄を、スヤンの赤い傘が雨粒よりも強く弾く。
「───なら、退かない」
荒唐無稽な理想に溺れる、凶暴な吐息。
それは以前、ラディアンテスに向けたものと同じ、スヤン自身でさえ手綱を握れていない、不安定な欲望の表出だった。
「……興が乗った」
それで初めて、ストラスは心の底からの笑みを浮かべた。
***
ストラスの攻撃は結果こそシンプルだが、故に仕組みは難解だった。
スヤンが踏み込もうとすると、地面に引き寄せられるように見えない力に叩き潰される。普通の攻撃魔術を避けようとすると、また別の向きに引っ張られ、体勢を崩される。
それはまるで見えない流れがスヤンの周囲を取り巻いているかのようだった。
その流れはストラスが鳥かごを振る度、向きや強さを変え、獲物を翻弄する。
シャオへの致命的な干渉だけは払い除けつつも、攻めきれないまま、スヤンの体力も着実に削られている。
「おいおい、傘なんかで勝てる相手がおるかいな、何であいつ剣を抜かんのや!」
そう歯噛みするラディアンテスの傍で、エミリオが小さく声を漏らす。
「そ、それはラディアンテス様が……」
「あ、ワシが持っとるんやった……」
スヤンの刀、明天は赤蹄騎士団の倉庫に置いたままだ。
まさかこんなことになるとは思わず、ラディアンテスは恥ずかしそうに頭を掻いた。
煉瓦が砕ける音が盛大に響く。
僅かに意識が遠のいて、スヤンは自分が橋脚に叩きつけられたことを理解した。
それでも傘を手放さず、ふらふらと立ち上がって鼻血を擦る。
「なんか、ずるいな、それ」
「狩り手とは圧倒的であるべきだからね」
スヤンの子どもじみた文句に、ストラスは飄々と返す。
今のところ、スヤンは彼女に一撃も与えられていない。
猫が鼠をいたぶるように、ストラスはスヤンをからかって遊んでいた───はずだった。
スヤンが身をかがめ、縮地の構えを取る。
愚かな男だ、とストラスは内心で呆れていた。
意気は買ったが、芸がない。そろそろ壊しても構わないだろう、と思った。
鳥かごを振る。
こうしてやるだけで、愚直なスヤンは自分に指一本触れられない。
先ほどまでの話だが。
スヤンは、吹き飛ばなかった。
赤い傘が鈍器のように迫りくる。
「……っ」
ストラスが咄嗟に防いだ左手、その内側で骨や関節がべきべきと音を立てて砕けていく。
途方もない威力だった。
返す一撃で、遂にストラスが地面に叩きつけられる。
弱々しく籠を掲げるが、それもスヤンの動きを止めることはできなかった。
「もう覚えた」
今度は、スヤンが彼女を見下ろす番だ。
自分の血で霞んだ視界のまま、スヤンは息を調え、目を細める。
「見えない流れは綱ではなく罠だ。数が限られていて、お前はその籠で仕掛ける場所を切り替えている。そうと分かれば踏まないことは難しくない」
正確には、流れそのものは最初からスヤンに繋がれているはずだ。
もしかすれば、どこにでもありふれたものを利用しているに過ぎないのかもしれない。
故に、見抜かなければならないのはその発動の目安、起動の琴線のほうだった。
何度も攻撃を受け、ストラスの振る舞いを観察した。
どこまでが彼女の匙加減で、どこからが確定した挙動なのか。
弦に触れれば音が鳴るように、ストラスは見えない糸を張り巡らす。彼女がタイミングを操作しているのはここまでだ。
スヤンが自らそれに触れた瞬間、流れは応じて強まり、自動的にスヤンを攻撃する。
つまりスヤンがその罠にかからなければ、ストラスからできることはない。
視線、体勢、予測の予測。慣れれば、罠を張られた位置は手に取るように分かる。
思うように動かなくなった左手を眺め、ストラスは感心したように呟いた。
「獣の勘は侮れないな」
眉をひそめながらも、ストラスの声は嬉しそうだった。当然だった。その純白の外套は強さそのものの証明であり、裾に土をつける者さえ、長らく現れなかったのだ。
もう一度、とスヤンは挑みかかる。何故なら、彼女の魔術は二度と彼には通用しないのだから───
「しかし、それを容易く上回ってこその狩人さ」
「!」
───弾かれる。
スヤンが察したときには既に手遅れだった。
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