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16 禁忌に触れること

 商業の街メルカードは相変わらずの活気だ。


 学校近くの橋まで来ると、午前の授業を終えたらしい子どもたちがぱらぱら走ってくるのが見えた。

 しかし、あの亜麻色の髪と緑の髪留めはその中に見当たらず、ルセロが首を傾げる。


「ふむ、常ならばこの辺りでお嬢様が待っているはずなのだが……」


 その脇腹を突き、スヤンが顎で指し示す。

 ジョスランの姿を、橋の脇、水路に降りる階段の上に見つけていた。


「あそこに」

「何か話していますね。お友だちでしょうか?」


 シャオが首を伸ばしてそう言った。


 二、三人の制服姿の少女が集まって、ジョスランと向かい合っている。

 いきなり大人たちが話しかけては気まずい思いをするかもしれないと、そっと橋桁(はしげた)の陰から見守ることにした。


 しかし、物陰から微かに窺えるジョスランの表情は、とても歓談を楽しんでいるという雰囲気ではない。

 彼女は一人の生徒に向かって、手を伸ばして叫んだ。


「返してよ!」


 向かいの少女は鼻で笑うと、その手を押し退けて、無理やり取り上げたらしいノートを見せびらかす。

 背の低いジョスランでは、背伸びをしても取り返すことは難しいようだ。


「あたしノート終わっちゃったんだもん」

「あんたは優しいパパにまた買ってもらえばいいでしょ~」

「だから返してって言ってるの! それはパパが……」


 勇敢に食ってかかるジョスランだったが、ノートを奪った少女の取り巻きらしい生徒が強くその肩を突き飛ばした。


「余所者の癖に、中央に行きたいとか生意気なんだよ!」

「あっ」


 それは彼女が後ろに倒れ込んでしまうほどの勢いで、場所も悪かった。

 ジョスランはそのまま石造りの階段を転がり落ちて、動かなくなってしまった。


「お嬢様!」

「ジョスランさん!」


 血相を変えたルセロとシャオが駆け寄ってくるのを見ると、少女たちは舌打ちをして、ノートを手にしたまま立ち去ろうとした。


 そんな彼女らの行く手を遮るように、傘を差した男が立つ。

 スヤンは、手に持ったノートを見つめると、彼女たちを咎めるでもなく呟いた。


「帳面か。向こうの店が安かった」

「あれ、えっ?」


 少女はきょとんとして自分の手元を見た。

 自分が持っていたはずのノートを、目の前の見知らぬ男がいつの間にか手にしていた。


 男の足元では黒い犬が舌を垂らして座っていて、ノートには少し歯形が付いている。少女たちは冷や汗をかいて彼を見た。


「必要なら新しいものを買ったほうがいい。これはもう使い込んである」

「……!」


 スヤンがそう言ってぱらぱらページをめくって見せると、そこには試験の対策か、びっしりと式や単語が書き込まれていた。


 それはすべて、ジョスランの努力の証だ。

 きっとそれは、くたびれたノート一冊を盗んでも、奪うことはできないだろう。

 しかし、だからといって、取り返さないでいては、ジョスランはまた別の価値あるもの────父との思い出を失くしてしまう。


 スヤンはそれ以上何も、責めることも叱ることもしなかったが、それがかえって少女たちには、自分の行いを突きつけられているように思われた。


「何だっての、キモ!」


 少女たちは目を泳がせてそう吐き捨てると、覚束ない足取りで引き返す。

 スヤンはその背を一瞥し、目を伏せてシャオたちの元へ戻った。


「大丈夫ですか!?」


 シャオの問いかけにジョスランは小さく頷いた。

 ひとまず、大きな怪我はないようだったが、ルセロが彼女を抱え起こすと、落ちたときに突いたのか、右の手首が真っ赤に腫れあがっていることに気がついた。


「お嬢様、手首が……」

「どうしよう、明日は大事な試験なのに……」


 ジョスランは何よりもまずそのことを恐れた。


 悪い点を取って、両親に叱られると思っているのだろうか。

 しかし、エピがそんなことをするとは考えられない。シャオが励ますと、ジョスランは首を横に振った。


「定期試験で何度も良い成績を取れば、中央の……魔術協会付属の学院(アカデミー)に推薦してもらえるの。パパとママはイザリアの生まれじゃないから、私が学院に入るにはそうするしかないって」


 痛々しい手首を押さえ、ジョスランが青ざめた表情で呟く。


 スヤンは彼女のノートを抱えたまま、少し離れてその光景を見ていた。ノートは紐が解けかけるほど使い古され、ページは端が粉っぽく擦り切れていた。


 エピから、ジョスランの夢は魔術研究者だと聞いたことがあった。


 ジョスランが学院への推薦にかける思いは如何ほどだったのだろう。それが、こんなつまらないことで台無しにされる絶望も。


 シャオには、その悲しみをただ眺めていることができなかった。それはきっと、自分が今まで、そのように与えられてきたからかもしれない。

 意を決し、息を潜めて囁いた。


「誰にも……言わないって、約束できますか?」


 ジョスランはよく分からないままに、こくり、と頷く。


 シャオが取り出したのは、あの湖の水を詰めた小瓶だった。


 スヤンとシャオがイザリアに来たあの日、死にゆく二人を繋ぎ止めた湖水。

 その中身は今も、くすむことも腐ることもなく、朝露のようにきらきらと美しく光を湛えている。


 貴重なものかもしれないが、惜しんでばかりでは本当の価値を損なうだろう。


 シャオは躊躇うことなく封を解き、それを腫れた手首に数滴垂らした。

 初め、ほんの少しの衝撃でも痛むのかジョスランは顔をしかめていたが、段々と眉間から険しさが抜けていく。


 みるみるうちに赤みも腫れも引いていき、ジョスランは恐る恐る手首に触れた。


「痛くない……治っちゃった……の?」


 奇蹟のような出来事に、彼女の表情が晴れる───直前、異様な響音が辺りに満ちた。


「何、この音……」


 それは荘厳な鐘の音によく似ていたが、どこか恐ろしい地鳴りのようにも聞こえた。暗く、純粋な、心を震わせる振動だ。


 町を往く人々も足を止め、不安げな表情で空を見上げる。

 ルセロが立ち上がり、警戒するように辺りを見回す。


「強力な転移魔術の警告音。イザリアでこの魔術の使用が許可されているのは───」


 空間を裂くように、漆黒の鉤爪が躍り出る。

 不可視の狭間、破られた宙空から、一人の女が現れた。


 白い外套、白い羽の襟飾り、金糸の刺繍。

 その姿は高貴であり、禁忌であり、絶対である。

 彼女が持つ金の鳥かごの隙間から、闇が囁く。


『───未登録の改変事象を検知しました。(ガローテ)は速やかに原因の特定、排除を行うように』

「これ、街中だよ。あまり脅かすようなことは言わないでおくれ」


 金色交じりの銀髪が揺れる。灰色の瞳が辺りを舐る。

 (ガローテ)、それは罪人を握り締める足爪であり、王の庭を差配する狩人である。

 彼女は鳥かごを灯火のように掲げ、薄く笑った。


「さあ、魔女は誰かな?」

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