第26話 粉物
ミットリオは数日ぶりに厨房へ足を踏み入れた。
窓から差し込む朝日がいつもより眩しく、そして優しく感じられる。
ここ数日は、納涼祭の準備でまるで戦場のようだった。
(ふっ)
ミットリオは、前世で見た男たちの暑苦しい記憶を思い出し、ニヒルに笑う。
だが、今日は違う。
誰も「坊ちゃんっ!」と呼びはしないし、誰も設計図を抱えて駆け込んでもこない。
今日だけは、静かに、好きなことだけに没頭できるのだ。
「……世界って、こんなに静かだったっけ」
朝日を浴びながら、ミットリオはぽつりと呟いた。
「……何やってるんすか?」
その姿をニカラに見られて、ミットリオはハッと正気に戻る。
「さて、やりますか」
ミットリオはエプロンの紐をきゅっと結び、改めて気合いを入れ直した。
「どんな料理をするんですか?」
すっかりエプロン姿が様になったニカラが尋ねてくる。
「夏祭りでしか食べられない、特別な食べ物さ」
ミットリオの目が輝き、ニヤリと意味ありげな笑みが浮かぶ。
普段、シトレアやシュトラにも向けたことのないその笑みに、ニカラは少し驚いた。
「……坊ちゃんってもしかして、料理が好きなんですか?」
「急にどうしたの?」
「いや~、前に料理してる時も、なんだかとても嬉しそうにしてたんで、ちょっと気になって」
「……うーん。別にそういうわけでもないかな」
「というと?」
「前にニカラが話してくれた、人のために料理を作りたいって気持ちは、俺には全然ないんだよね。俺は自分が食べたい物を作るのが好きなだけだから。そういうのとは、ちょっと違うと思うよ」
「でも、いつも楽しそうに料理してるじゃないすか」
「まあ、作った料理を美味しいって言ってもらえるのは嬉しいけどさ。ニカラみたいな探究心とか好奇心とか、奉仕の心とかは、俺には無いからね。好きかって聞かれたら……まあ、普通くらいなんじゃない?」
「そんなもんすかー」
「そんなもんだよ」
二人は雑談を交えながらも、テキパキと料理に必要な具材と器具を並べていく。
「何から作りますか?」
「うーん」
ニカラの何気ない問いに、ミットリオは腕を組んで頭を悩ませる。
(夏祭りで、一番に食べたい物ってなんだ? やっぱり王道の粉物系か?)
夏祭りと言えば、真っ先に頭に浮かぶのは王道の粉物だ。
たこ焼き、お好み焼き、焼きそば、ベビーカステラ。そういえば今川焼きという食べ物も見た覚えがある。
西の方では、お好み焼きを箸代わりの何かに巻いて食べる、という話も聞いたことがあった気がする。
「うーん……」
王道のたこ焼きは外せない、と言いたいところだが、すぐに用意できる鉄板や器具がない。
タコや青のりといった食材も手に入らない。
卵はある。
天かすなら何とか作れそうだ。
そういえば紅ショウガもなかった。
(たこ焼きは無理だな……)
条件が揃わない以上、たこ焼きは諦めるしかない。
(となると、比較的簡単な食材で作れるお好み焼きか、それとも豚肉を使ったとん平焼きか? でも味付けはどうする? ソースだけじゃ……、 ……っ!)
そこでミットリオは、ある重大な事実に思い至った。
「ニカラ! ソースってあるっ!?」
粉物の味を決定づけると言っても過言ではないソースが、この世界に存在するのかどうかを、すっかり失念していたのだ。
ミットリオはその事実に気付くと、すさまじい形相でニカラの方に振り返り詰め寄った。
「えっ! ソ、ソースっすか!? あるにはありますけど……」
「どんな感じのやつっ!?」
「と言われましても……、逆にどのようなソースをご所望でしょうか? 例えばホワイトソースやブルーテソース、それとも煮詰めたブラウンソースとか……」
「えっと、えっと、えっと! 野菜や果実に香辛料を加えて、発酵させたソースってあるっ?」
ミットリオは頭の奥底から記憶を引っ張り出し、ウスターソースのぼんやりとした特徴を必死に伝える。
「ああ、それなら……」
「あるの!?」
「ちょっと待ってください」
どうやら心当たりがあるらしく、ニカラは調理場の奥のヤードへと消えていく。
一分も経たないうちに戻ってくると、その手には小さな小瓶が二つ握られていた。
「これなんですけど……。昔、王宮にいた頃に偶然できた調味料を譲ってもらったんすよね。辞める時にもったいないからって持ってきたんです。あとこっちは、一応必要かなと思って持ってきた、匂いの薄い魚醤です」
「おおおっ……!」
ニカラの仕事ぶりに、ミットリオは感嘆して体を震わせる。
「どうしたんすか?」
「……ちょっと味見してもいい?」
「……いいですけど、大丈夫ですかね。こっちの魚醤はまだ大丈夫だと思いますけど、ソースの方は舐めたことないんで分かりませんよ。腐ってないかも保証できないですよ」
「まあ、舌に乗せてピリピリしなければ大丈夫でしょ」
これでも前世は、元軍人で戦士だ。
危ない食べ物も、腐りかけの食べ物も、クソ不味い食べ物も、経験として山ほど食べてきた。
何でも来いの精神は健在である。
「……ニカラも舐めてね」
「えっ! 私もですか!?」
「そりゃそうだよ、料理人なんだから味の探求はしないと」
「うっ……、そう言われると弱いです……」
「まあ、やばかったらすぐに父さんを呼べば治してもらえるから。大丈夫だって」
「それはそうですけど……」
ミットリオは、ニカラの手から小瓶を受け取ると、調理台の上にそっと置いた。
紐をスルスルと解き、瓶を覆う紙と蓋を慎重に開けていく。
「……おっ?」
蓋を開けた途端、思いのほか芳醇な香辛料の匂いがふわりと広がり、身構えていたミットリオとニカラの鼻をくすぐった。
「……意外といい匂い?」
「……そうですね。香辛料と、それと酸味の匂いがします」
さすが料理人の鼻を持つニカラだけあって、微かな匂いも逃さず嗅ぎ分けているようだった。
「……じゃあ、舐めるね」
「……はい」
二人は互いに手の甲へソースを少量乗せると、舌でぺろりと舐めてみる。
(っん!)
ミットリオは、口の中に流れ込んできた酸味と塩味の強さに、思わず体を震わせた。
(結構酸っぱいし、香辛料も利いてるな……。でも、思ったより悪くないぞ?)
前世で慣れ親しんだソースの味から、そう遠くないことに、ミットリオはじんわりと嬉しくなる。
ふとニカラを見ると、思ったよりも好印象だったのか、少し嬉しそうな顔でソースを舐めていた。
「……ちょっと酸味が強いけど、悪くないね」
「そうですか? 私は、なかなか悪くないと思いましたけど」
(そうか……。子供と大人じゃ味覚の感じ方が違うのか。だとすると、俺が当てにしてた前世の味の記憶も、案外ずれてるのかもな)
魚醤の方は、ニカラの言うとおり匂いは控えめながら、しっかりと魚を発酵させた旨みのある味だった。
(これなら、少し手を加えれば焼き鳥や焼きとうもろこしなんかも作れそうだ)
思いがけない副産物に、ミットリオはひそかに喜ぶ。
「うんっ、悪くないと思う。このソースをベースに味付けしようか」
「ちなみに、その料理というのは?」
「お好み焼きと、とん平焼きさ」
ミットリオは、ニヤッと笑った。
「じゃーん!」
ミットリオとニカラの目の前には、出来たてホカホカのお好み焼きと、とん平焼きが並んでいた。
小麦粉、ブイヨン、キャベツ、卵、川エビを使ったお好み焼き。
そこに豚の細切れを加えた、とん平焼き。
かつおぶしも青のりもないが、無いものは無いと割り切ることにした。
「それで、この上にソースを掛けると……」
ハケを使い、お好み焼きととん平焼きの表面に、丁寧にソースを塗っていく。
「おおおっ!」
「ソースを掛けたら、すっごく良い匂いですね!」
鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに、二人は思わず鼻をヒクヒクさせた。
「坊ちゃん!」
「うん! 食べよう!」
丁寧にナイフで切り分けると、まずはお好み焼きを一口。
「んっ!」
「これはっ……!」
「「美味しいっ!」」
ミットリオとニカラの口から、ほぼ同時に感嘆の声が漏れた。
「これこれっ、この味だよっ」
「出汁の利いた生地に、キャベツの甘さと川エビの香ばしさがたまらないですっ。そこにソースが絶妙に絡んで、癖になる味になってますっ!」
続けて、とん平焼きも切り分けて口に運ぶ。
「これもいいねっ!」
「こっちはこっちで、また違う味わいですね。豚肉の旨みがキャベツとよく合ってます。カリッと焼けた豚肉が香ばしくて、ふわふわの卵との相性も最高ですっ!」
二人は一旦水を口に含み、舌をリセットする。
「どうかな? 料理人のニカラの意見、聞かせてほしいな」
「そうですね、美味しいとは思います。ですが、少し塩っぱいのと、食べづらいのは気になりました」
「そうかぁ。味の濃さが売りなんだけど、濃すぎるのもダメかぁ」
「ダメというわけではないんですけど、ソースが濃い分、生地の出汁はもう少し控えめでもいいかと。それと生地を作る時の塩を減らしましょう。あと食べづらさは、提供する時に小さく切り分ければ解消すると思います」
「なるほどね」
「それと、他にも懸念点があります」
「なに?」
「確実にソースが足りません。これだと一店舗でしか出せませんし、人手も全く足りないです」
「あ~、そうかぁ~。デフィーに手伝ってもらうのは、ダメかな?」
「だとしても、私と坊ちゃんとデフィーの三人だけで回すのは厳しいかと……」
「だよねー」
客が押し寄せ、キャパオーバー寸前になる屋台の光景を想像して、ミットリオはげんなりした。
「ま、まあ、そこら辺は母さんや父さんに相談するよ」
「それがいいと思います」
お好み焼きととん平焼きをつまみながら雑談していると、ふいに調理場の入り口に人影が現れた。
「良い匂いね」
「母さん」
「匂いに釣られて、来ちゃった」
はにかんだ顔で、シトレアがそう言った。
「夏祭りの料理ね、順調かしら?」
「うん。ちょうど今、二品できたところだよ」
「そう、見せてくれるかしら」
シトレアは、出来たてのお好み焼きととん平焼きを手に取り、覗き込むように顔を近づける。
「っ……」
その瞬間、ソースの匂いがふわりと立ち上り、シトレアは思わず眉を寄せて、皿を体から遠ざけた。
頬の血色が一段階引いたように見える。
「奥様っ」
「大丈夫ですかっ!?」
デフィーとニカラが、慌てて駆け寄った。
「……ごめんなさい……、ちょっと、匂いが強かったみたい」
そう言うシトレアの顔は、明らかに先ほどより青白い。
額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「あぁ……、確かに、嗅ぎ慣れてないとソースの匂いは結構くるよね。待ってて、今果実水出すね」
具合の悪そうなシトレアのために、ミットリオは収納魔法から冷えた果実水を取り出す。
「ありがとう……」
「奥様、こちら椅子をどうぞ」
「助かるわ、ニカラ」
シトレアは渡された果実水を一口含むと、ほっと長い息を吐いた。
強張っていた肩から、ゆっくりと力が抜けていく。
その横でデフィーだけが小さく目を伏せ、口元を引き結んでいた。
慌てた様子もなく、ただじっと果実水を飲むシトレアの横顔を見つめている。
ふと、その視線がすっと横のニカラへ移った。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、デフィーの目がニカラを捉えすぐに逸れる。
それだけだった。
それなのに、ニカラの中でここ数日の細かな出来事が、ぱちん、ぱちん、と音を立てて繋がっていく。
香りの強いものを避けるようになった食事。
朝、顔色の優れない日が増えていたこと。
そして、今この瞬間の反応。
「……っ」
ニカラは思わず声を漏らしかけ、慌てて口を手で覆った。
デフィーは何も言わない。
ただ、唇の端をほんのわずかに緩めただけだった。
その落ち着き払った様子が、かえってニカラの胸をざわつかせる。
当のミットリオは、母の異変にまるで気付かぬまま、果実水を飲み干したシトレアの顔色が戻ってきたことに、無邪気に安堵していた。
「これの他には、どんな物を作るのかしら?」
落ち着きを取り戻したシトレアが、気を取り直すようにそう尋ねる。
「よくぞ聞いてくれましたっ! 次は、甘い物を作ろうと思ってたんだっ!」
「あら、いいわね。甘い物なら、今の私でも食べられそうだわ。どんな物を作るの?」
その「今の私でも」という一言に、ニカラの肩がぴくりと跳ねた。
慌てて隣を窺うと、デフィーは涼しい顔のまま、わずかに片眉を上げただけだった。
興味を惹かれたミットリオは、そんなやり取りにはまるで気付かず、目を輝かせて声を張り上げた。
「ふっふっふっ! それはねっ! 綿飴と、かき氷と、果物飴っ! それにベビーカステラさっ!」
シトレアとデフィーが、一瞬だけその最後の単語に反応し、ぴくりと肩を揺らした。
だが、それを口にした当のミットリオは、まるで気にしていなかった。
テンション最大値で答えるミットリオを前に、シトレアとデフィーは、揃って苦笑いを浮かべる。
ニカラだけが、その苦笑いの意味を測りかねたまま、ぎこちない笑みを返した。
「……そうと決まれば! 早速取り掛からないとっ! ニカラッ! 手伝ってっ!」
「あ、ああっ……、はいっ……」
慌ただしく動き出すミットリオとニカラの背中を、シトレアとデフィーは、しばらく困惑した表情で見送っていた。
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