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杏々のおさんぽグルメ  作者: わかめ


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16/17

14食目 天ぷら


 数日後の休日の朝、杏々はリビングのソファに座り、のんびりと朝のお菓子を食べていた。その向かいには、長い髪を整え、上品な服装に身を包み、ぴんと背筋を伸ばしたラーメンのお姉さんが座っている。見覚えのある顔だった。


「ラーメンのお姉さん」


「その覚え方はおやめなさい!」


 ラーメンのお姉さんの声がリビングに響く。


「ちゃんと覚えてるよ」


「どこがですの!?」


「一緒にラーメン食べた」


「それは事実ですけれども!」


 少し離れたところでは、妹ちゃんが二人の様子を眺めていた。そこへ、キッチンからコーヒーを持って戻ってきた父が、ラーメンのお姉さんの向かいへ腰を下ろす。


「まあまあ」


「まあまあ、ではありませんわ!」


「悪いな。面倒見てもらって」


「なぜわたくしが、この子の再教育まで担当しなければなりませんの?」


「一番向いてそうだったから」


「どういう意味ですの!?」


「ちゃんと怒ってくれそう」


「褒めてませんわよね!?」


 父は笑いながらコーヒーを飲み、ラーメンのお姉さんは大きく息を吐いた。その横で、杏々はお菓子を一つ口へ運ぶ。


「何するの?」


「まずは、協会から届いている通知をきちんと読むところからですわ」


 ラーメンのお姉さんはテーブルの上に杏々のスマートフォンを置くように促した。


「いっぱいあるよ」


「知っております!」


「全部?」


「全部ですわ!」


 杏々が露骨に嫌そうな顔をすると、妹ちゃんが小さく笑った。


「お姉ちゃん、頑張って」


「妹ちゃん読んで」


「こら」


 ラーメンのお姉さんがすぐに妹ちゃんを見る。


「あなたも甘やかさないでくださいませ」


「甘やかしてないですよ」


「今、『私が代わりに読みます』と言おうとしていたでしょう?」


「…………」


「図星ですわね」


 妹ちゃんは少しだけ目を逸らした。


「でも、お姉ちゃん通知多いから」


「多い原因の半分はご本人です!」


「そうなの?」


 杏々が尋ねる。


「そうですわ!」


「へぇ」


「またそれですの!?」


 父が横で笑う。


「楽しそうだな」


「どこを見たらそう見えるんですの!?」


「杏々」


「ん?」


「ちゃんと習っとけよ」


「うん」


「返事だけはいいんだよなあ……」


 ラーメンのお姉さんは気を取り直すように息を吐くと、杏々のスマートフォンを操作した。


「まずはこちらですわ」


 画面には、『公認店舗申請――承認済』と表示されている。


「覚えております?」


 杏々は画面を見た。


「天ぷら」


「店名を聞いておりますの!」


「天ぷら屋さん」


「それは分かっていますわ!」


 妹ちゃんが横から画面を覗き込む。


「あ、ここ」


「知ってる?」


「うん。お姉ちゃん、前に行ってる」


 杏々も頷いた。


「海老おいしかった」


「それしか覚えていませんの?」


「穴子も」


「食べ物の記憶だけ妙に鮮明ですわね……」


「あと、かき揚げ」


「増えましたわ」


 ラーメンのお姉さんは額を押さえた。


「こちらは、あなたが以前訪問して推薦した店舗です。その後、店舗側から正式な公認申請が上がり、あなたが承認しました」


「…………」


「覚えております?」


「ない」


「でしょうね!」


 ラーメンのお姉さんは深く息を吐いた。


「ところが、公認店となったあと、店側から協会へ少々気になる相談が入っております」


「相談?」


「ええ」


 杏々の表情が少しだけ変わった。


「困ってる?」


「その可能性がありますわ」


「じゃあ行く」


 ラーメンのお姉さんは一瞬、言葉を失った。


「そこは早いんですのね」


「天ぷら屋さんだし」


「やはりそちらですの!?」


 妹ちゃんが小さく笑う。


「どっちもだと思いますよ」


「…………まあ」


 ラーメンのお姉さんは一度だけ杏々を見た。


「そういうことにしておきますわ」


 父が立ち上がる。


「じゃ、今日は二人に任せた」


「二人?」


 妹ちゃんが聞き返す。


「え?」


 父は妹ちゃんを見る。


「お前も行くんだろ?」


「行くよ」


「やっぱり」


「お姉ちゃん一人にはしないから」


「わたくしがいますわよ?」


 妹ちゃんはラーメンのお姉さんを見た。


「それでも行きます」


「?」


 杏々だけが、何も分かっていなかった。


 ◇


 三人は街を歩いていた。先頭を杏々、その隣をラーメンのお姉さんが歩き、妹ちゃんは少し後ろをついてきている。


「いいですこと?」


「うん」


「今日はまず店舗側から状況を確認します。相談内容と提出された資料に相違がないか確認し、必要であれば追加の聞き取りを――」


 説明を聞きながら、杏々が道を曲がろうとする。


「そちらではありませんわ」


 ラーメンのお姉さんは杏々の肩へ手を置き、進行方向を修正した。


「こっちです」


「そっか」


「話を聞いておりました?」


「聞いてた」


「では、何を確認するんですの?」


「天ぷら」


「違いますわ!!」


 少し後ろを歩いていた妹ちゃんは、ラーメンのお姉さんの手が杏々の肩に置かれているのを見た。ほんの少しだけ目を細める。


 ラーメンのお姉さんはそんな妹ちゃんの視線に気づかないまま、杏々へ顔を近づけた。


「まったく。あなた、本当に協会の案件を――ちゃんと聞きなさい」


「聞いてるよ」


「では答えてくださいませ」


「困ってるか確認する」


 ラーメンのお姉さんは少し黙った。


「まあ……大雑把すぎますが、間違ってはいませんわ」


「よかった」


 妹ちゃんはまた二人の距離を見た。やはり近い。


「妹ちゃん?」


 杏々が振り返る。


「何?」


「遅いよ」


「…………」


 妹ちゃんは少しだけ歩調を速め、杏々の反対側へ並んだ。


「これでいい?」


「うん」


 ラーメンのお姉さんは左右を見た。


「なぜ三人横並びなんですの?」


「別に」


 妹ちゃんは杏々の腕を軽く取った。


「危ないから」


「?」


「歩道狭いし」


「先ほど杏々が勝手に曲がろうとしただけでは?」


「…………」


「何ですの?」


「何でもないです」


 杏々は二人を見比べた。


「仲良くなった?」


「なってません」


「なっておりませんわ」


 二人の声が重なる。


 互いに顔を見合わせたあと、杏々が言った。


「仲いい」


「違います!」


「違いますわ!」


 また声が重なった。


「ほら」


「お姉ちゃん」


「杏々!」


 ◇


 しばらく歩くと、三人は大通りから少し外れた場所にある小さな天ぷら屋へ到着した。木の引き戸に白い暖簾がかかり、そこには『天ぷら』と書かれている。


「ここ」


 杏々が立ち止まる。


「覚えておりますの?」


「うん」


「何を?」


「海老」


「やはり料理ですのね……」


 妹ちゃんが笑った。


「でも、ちゃんとお店まで覚えてるからすごいですよ」


「基準が低すぎません?」


 三人が店内へ入ると、カウンターの奥にいた店主が杏々を見て、ぱっと表情を明るくした。


「おお、杏々ちゃん!」


「久しぶり」


「久しぶりだなあ! また来てくれたのか!」


「うん」


「前はずいぶん食べたよな」


「海老」


「そうそう!」


「穴子」


「ああ!」


「かき揚げ」


「覚えてるじゃないか!」


 ラーメンのお姉さんは驚いたように杏々を見た。


「そこまで覚えておりますのね」


 妹ちゃんが答える。


「食べ物なので」


「なるほど……」


 店主はラーメンのお姉さんへ視線を移した。


「今日は協会の方も一緒なんですね」


「ええ。少々確認したいことがありまして」


「ああ」


 店主の表情が少し曇る。


「例の件ですね」


「はい」


 ◇


 三人はカウンターへ座り、ラーメンのお姉さんが資料を開いた。


「まず、公認申請について確認させてくださいませ」


「はい」


「申請は先月」


「そうです」


「推薦ファイターは杏々」


「はい」


 杏々が画面を見る。


「私」


「あなたですわ」


「いつ?」


「先週、承認したでしょう!」


「覚えてない」


「もう驚きませんわ!」


 店主が笑った。


「いやあ、俺も杏々ちゃんから承認が来たって聞いて嬉しかったんだけどな」


「そうなの?」


「そりゃそうだよ」


 店主は店内を見回した。


「杏々ちゃんが前に来てくれたあと、動画やらブログやら見て来てくれる人が増えてな。ファイターの客も増えたし、普通のお客さんも増えた」


「よかった」


「ああ。だから正式に公認店へ申請してみようと思ったんだ」


 杏々は壁に目を向けた。そこには新しい公認店の札がかかっている。


「私、押した?」


「押しましたわ」


「…………」


「まさか、今実感しましたの?」


「ちょっと」


 ラーメンのお姉さんの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「あなたが押しているボタン一つにも、こうして影響がありますのよ」


「うん」


「ですから、今後は――」


「確認して押す」


 ラーメンのお姉さんの目が少し開く。


「覚えていましたの!?」


「この前言われた」


「成長していますわ!」


 妹ちゃんも頷いた。


「お姉ちゃん、えらい」


「ふふん」


「ちょっと待ってくださいませ」


「何ですか?」


「なぜ二人とも、この程度でそんなに感動しているんですの?」


「お姉ちゃんなので」


「基準が!」


 ◇


「それで」


 ラーメンのお姉さんは仕事の表情に戻った。


「今回のご相談ですが」


「はい」


 店主が奥から一枚の紙を取り出す。


「これです」


 ラーメンのお姉さんが受け取り、妹ちゃんも横から覗き込む。


 そこには、『協会公認店舗 管理維持費』『推薦上位ファイター特別管理区分』『月額――』と書かれていた。


 ラーメンのお姉さんの眉が寄る。


「やはり」


「変?」


 杏々が尋ねる。


「変どころではありませんわ」


 ラーメンのお姉さんは紙をテーブルへ置いた。


「このような制度は存在しません」


「ないの?」


「ありません!」


「そっか」


「覚えてくださいませ」


「うん」


 店主が困ったように説明する。


「公認になった数日後に、ファイターだっていう人が来たんですよ」


「その人物が、こちらを?」


「はい。協会から管理を任されている、公認店は毎月維持費が必要だって」


 ラーメンのお姉さんの目が鋭くなる。


「一度、支払いました?」


「……はい」


「金額は?」


 店主が答えると、妹ちゃんはすぐにスマートフォンへ記録した。


「振込先は?」


「この口座です」


「請求書、写真を撮ってもいいですか?」


「もちろん」


 妹ちゃんが撮影を終えると、ラーメンのお姉さんは画面を確認した。


「話が早いですわね」


「こういうのは得意なので」


「助かりますわ」


 妹ちゃんは一瞬だけラーメンのお姉さんを見たが、すぐに杏々へ視線を移した。杏々は資料ではなく、カウンターに置かれたメニューを見ている。


「お姉ちゃん」


「ん?」


「今、仕事中」


「分かってる」


「何見てるの?」


「これ」


 杏々が指差したのは、『季節のおまかせ天ぷら』だった。


「前なかった」


 店主が笑う。


「ああ。最近始めたんだよ」


「食べる」


「お姉ちゃん!」


 ラーメンのお姉さんも声を上げる。


「仕事中ですわ!」


 杏々はラーメンのお姉さんを見る。


「お店の料理確認」


「…………」


 ラーメンのお姉さんが黙り込む。


 妹ちゃんも少し考えた。


「一応、公認店舗の確認としては間違ってないですよね」


「あなたまでそちら側に回らないでくださいませ!」


「でも」


 妹ちゃんはメニューを見る。


「揚げたて天ぷらは美味しそう」


「…………」


 ラーメンのお姉さんもメニューへ目を落とした。


「…………」


「食べます?」


 妹ちゃんに尋ねられ、ラーメンのお姉さんは数秒黙ったあと、姿勢を正した。


「仕事をしながらですわよ」


「やった」


「そこまで喜ぶことですの!?」


 ◇


 店主がカウンターの向こうで油の温度を確かめる。


「じゃあ、季節のおまかせ三人前でいいか?」


「うん」


「お願いします」


「……お願いしますわ」


 衣が油へ落ち、じゅっと音を立てた。


 杏々の目は、完全に仕事から離れている。


「杏々」


「うん」


「先ほどの請求についてですが、公認店だからといって、協会からこのような管理費を個別徴収することはありません」


「うん」


 油がまたじゅうと鳴る。


「また、公認店であることを理由に、ファイター優先席や料理の無償提供を強制する制度も――」


 杏々は揚げ場を見ていた。


「聞いております?」


「聞いてる」


「では、今わたくしが何を――」


「お待たせ」


 店主が皿を置いた。


「海老です」


「…………!」


 杏々はすぐに箸を取り、「いただきます」と口にした。


「ちょっと!」


 揚げたての海老は衣が薄く軽く、塩を少しつけて口へ運ぶと、さくりとした衣の中からぷりっとした身の甘みが広がった。


「おいしい」


 ラーメンのお姉さんは杏々の海老を見たあと、自分の皿へ目を落とした。


「揚げたてですからね」


 妹ちゃんが言う。


「……そうですわね」


 ラーメンのお姉さんも海老を口へ運ぶ。


「美味しいですか?」


 杏々が尋ねる。


「……美味しいですわ」


「でしょ?」


「またそれですの?」


「美味しいから」


「…………まあ」


 ラーメンのお姉さんはもう一口食べた。


「今回は認めますわ」


 ◇


 次に出てきたキスはふっくらと柔らかく、舞茸は衣の中に香りを閉じ込めたまま、噛むほどに風味が広がった。蓮根はしゃくりとした食感が心地よく、杏々は小さく頷く。


「これ好き」


 店主が笑った。


「気に入ってくれてよかったよ」


 ラーメンのお姉さんは天ぷらを食べながら、まだ資料を確認している。


「妹ちゃん」


「はい」


「こちらの振込先ですが、過去の相談案件と照合できます?」


「口座番号が分かれば、協会側の記録と照合した方が早いと思います」


「そうですわね」


「請求書のフォーマットも残しておきます」


「お願いしますわ」


「はい」


 杏々は二人を見た。


「仲良くなった」


「なってません」


「仕事ですわ!」


「そっか」


 次に出てきた茄子を見て、妹ちゃんが杏々へ尋ねる。


「塩?」


「天つゆも」


「半分ずつ?」


「うん」


 ラーメンのお姉さんも茄子を見ながら口を挟んだ。


「茄子なら天つゆも合いますわね」


「じゃあ天つゆ多め」


「さっき塩も食べるって言ってたよね?」


「食べる」


 妹ちゃんは小皿を杏々の前へ置き、ラーメンのお姉さんも塩を杏々の方へ少し寄せた。


 二人の手が同時に止まる。


 杏々は何も気づかず、二人へ向かって「ありがとう」と言った。


「どうぞ」


 妹ちゃんが先に塩を杏々へ差し出す。


「こちらも」


 ラーメンのお姉さんは天つゆを杏々へ寄せた。


「うん」


 杏々は両方を食べ、満足そうに頷いた。


 ◇


「半熟卵です」


 店主が出した卵の天ぷらは、衣がさくりと揚がり、中から黄身がとろりと流れ出した。


「これ、どう食べる?」


 杏々が尋ねる。


「塩がおすすめですわ」


 ラーメンのお姉さんがすぐに答える。


「お姉ちゃん、前は半熟卵の天ぷら、天つゆ好きだったよね」


 妹ちゃんが続ける。


 二人の視線を受けた杏々は、卵を見つめた。


「半分ずつ」


「…………」


「…………」


「両方食べる」


 妹ちゃんが頷く。


「それが一番だね」


 ラーメンのお姉さんも少し考えてから頷いた。


「まあ……そうですわね」


 杏々は卵を塩で食べ、続けて天つゆでも味わった。


「どちらがよかったですの?」


「両方」


「でしょうね」


 ◇


 その時、店の引き戸が開いた。


「どうも」


 一人の男が入ってくると、店主の表情が変わった。ラーメンのお姉さんもすぐに気づき、店主へ小声で尋ねる。


「もしかして」


「はい。この人です」


 男はカウンターへ近づいた。


「今月分、用意できてます?」


 店主は答えない。


「店長?」


「その前に」


 ラーメンのお姉さんが立ち上がった。


「少々よろしいかしら」


「誰だよ」


「協会の者です」


 男は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに言い返した。


「俺もファイターですけど」


「資格証を確認させていただきますわ」


「何で?」


「公認店舗管理業務を協会から委託されているのでしょう?」


「…………」


「でしたら、確認できるはずですわね」


 男はしばらくラーメンのお姉さんを見たあと、舌打ちしてスマートフォンを取り出した。


「ほら」


 表示された資格証をラーメンのお姉さんが確認する。


 杏々も横から覗き込んだ。


「黄色?」


「杏々」


「?」


「あなたはしばらく、印章の色で判断するのをおやめなさい」


「なんで?」


「あなたの色彩認識が信用できないからですわ!」


「…………」


 男が怪訝そうに二人を見る。


「何の話だよ」


「こちらの話です」


 ラーメンのお姉さんは資格証をもう一度確認した。


「登録自体は本物ですわね」


「当たり前だ」


「では」


 ラーメンのお姉さんは請求書をテーブルへ置いた。


「この業務について説明してくださいませ」


「…………」


「協会には、このような公認店舗管理費の制度はありません」


「俺は知らねえよ」


「知らない?」


「仕事として受けただけだ」


「どちらから?」


「アプリ」


「アプリ?」


 妹ちゃんがすぐに立ち上がった。


「見せてもらえます?」


「何で見せなきゃいけねえんだよ」


「協会を名乗って店舗からお金を受け取ってるんですよね?」


「だから仕事だって!」


「誰から受けた仕事です?」


「…………」


 男の口が止まる。


「知らねえよ」


「連絡先は?」


「アプリだけ」


「相手の名前は?」


「知らねえ」


「運営会社は?」


 男は答えなかった。


 妹ちゃんはじっと男を見た。


「本当に何も確認してないんですね」


「金もらえりゃいいだろ!」


 店主が声を上げる。


「でも、うちはそれで金払ってるんだぞ!」


「知らねえよ!」


 ラーメンのお姉さんの目が冷たくなる。


「十分ですわ」


「何がだよ」


「協会を騙る不正徴収の疑いがあります。詳しい事情を確認しますので、協会まで同行していただきます」


「は?」


 男は後ろの出口へ目を向けた。


「冗談じゃねえ」


「お待ちなさい」


「うるせえ!」


 男が走り出す。


「杏々」


「ん?」


 ラーメンのお姉さんが杏々を見る。


「実地教育ですわ」


「私?」


「あなたが対応なさい」


 杏々は天ぷらの皿を見た。まだ穴子が来ていない。


「嫌そうな顔をしない!」


「天ぷら途中」


「終わったら新しく揚げ直していただきます!」


 杏々は店主を見る。


「ほんと?」


「ああ! 好きなだけ揚げてやる!」


「分かった」


 杏々が立ち上がる。


「動機!!」


 ◇


 男は店の外へ飛び出した。杏々もその後を追う。


「来んな!」


 男が振り返る。


「来てって言われた」


「知らねえよ!」


 男が拳を振るう。杏々は一歩下がって避け、続けて放たれた蹴りを腕で受け止めた。重い衝撃が腕に伝わる。


「どうだ!」


「…………」


 杏々は男を見た。


「黄色って」


「杏々!!」


 店の入口からラーメンのお姉さんの声が飛ぶ。


「色で考えるのをおやめなさい!」


「まだ何も言ってない」


「言おうとしましたわね!?」


 男が苛立ったように拳を振り抜く。杏々は半歩前へ出て手首に触れた。男が腕を引こうとした瞬間、杏々はその動きに合わせて肘と肩へ手を添え、重心を崩す。


「な――」


 男が踏ん張って体勢を戻そうとする。しかし杏々が腰を入れ、その力をそのまま流すと、男の身体が浮いた。


「うおおっ!?」


 次の瞬間、男は地面へ叩きつけられた。


「ぐっ……!」


 杏々は男を見下ろした。


「もうやる?」


 男が起き上がろうとしたところを、杏々が腕を押さえる。


「痛っ!」


「逃げる?」


「…………」


「逃げないなら離す」


「……分かったよ!」


「そっか」


 杏々が手を離すと、ラーメンのお姉さんと妹ちゃんが店から出てきた。


「……終わりましたの?」


「うん」


「早いですね」


 妹ちゃんは杏々の身体を確認する。


「怪我ない?」


「ない」


「よかった」


 ラーメンのお姉さんも杏々へ声をかけた。


「杏々。一応、よくできましたわ」


「ほんと?」


「ええ」


「じゃあ天ぷら」


「そこへ直結しますの!?」


 ◇


 店内へ戻ると、男は協会への連絡を待つ間、椅子に座らされていた。妹ちゃんは男のスマートフォンに表示された仕事募集画面を確認している。


『ファイター資格保持者募集』


『公認店舗管理補助』


『協会関連業務』


『短時間』


『即日報酬』


 妹ちゃんの表情が変わった。


「これ」


 ラーメンのお姉さんへ画面を見せる。


「どうです?」


「似ていますわね」


「何に?」


 杏々が尋ねる。


「最近上がっている相談です」


「お父さんが言ってた?」


「ええ」


 ラーメンのお姉さんは画面を確認した。


「登録ファイターに、協会関連業務を装った仕事を紹介する。そして、公認店舗やその周辺から金銭を集めさせる」


「…………」


「少なくとも似た形式の案件が、ここ最近いくつか上がっておりますわ」


「同じ人?」


「まだ分かりません」


 ラーメンのお姉さんは少し真面目な表情になった。


「単なる模倣かもしれませんし、同一の人物や集団が関与している可能性もあります」


「そっか」


「ただ」


 ラーメンのお姉さんは画面を見つめた。


「偶然にしては、少々多すぎますわね」


 妹ちゃんも頷く。


「この募集ページ、保存しておきます」


「お願いします」


「振込先と募集アカウントも一緒にまとめますね」


「助かりますわ」


 杏々は二人を見た。


「やっぱり仲良くなった」


「仕事です」


「仕事ですわ!」


「そっか」


 ◇


「はい、お待たせ」


 店主が新しい皿を置いた。


「穴子!」


 杏々の表情が戻る。


 一本丸ごとの穴子は大きく、揚げたての衣はさくりと軽い。中の身はふわりと柔らかく、口の中でほどけていく。


「どうだ?」


「おいしい」


「そうか!」


 続いて季節野菜が出され、最後に店主が尋ねた。


「かき揚げ、どうする? そのままでも、天丼でもいいぞ」


 杏々は少し考えた。


「両方」


「やっぱりそう来たか!」


「一枚追加で揚げようか?」


「うん」


 ラーメンのお姉さんが呆れたように言う。


「また増えましたわね」


 妹ちゃんは当然のように答えた。


「お姉ちゃんなので」


 一枚目のかき揚げは、そのまま口へ運ぶ。小海老と三つ葉、玉ねぎの香りが衣の中から広がった。


「…………♡」


 二枚目は白いご飯の上へ乗せ、タレをかけて天丼にする。杏々は一口食べると、満足そうに頷いた。


「おいしい」


 ラーメンのお姉さんも自分の天丼を食べる。


「……これは確かに美味しいですわね」


「でしょ?」


「もう何も言いませんわ」


 妹ちゃんが笑う。


「諦めた」


「毎回訂正する方が疲れますの」


「分かります」


 二人はまた妙に意気投合した。


 その様子を見ていた妹ちゃんは、少しだけラーメンのお姉さんへ視線を向ける。ラーメンのお姉さんは杏々のすぐ近くに座り、杏々の口元へ目を留めた。


「杏々」


「?」


「衣が――」


 ラーメンのお姉さんが手を伸ばす。


 その瞬間、妹ちゃんが先にハンカチを取り出した。


「お姉ちゃん、付いてるよ」


「ほんと?」


「うん」


 妹ちゃんが杏々の口元を拭く。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 ラーメンのお姉さんの手が止まった。


「…………」


 妹ちゃんがラーメンのお姉さんを見る。


「何ですか?」


「いえ」


「?」


「……さすがですわね」


「妹なので」


「そうですの」


 杏々は何も気づかず、天丼を食べ続けていた。


 ◇


 食事が終わる頃には協会スタッフも到着し、男は事情聴取のため連れていかれた。店主への返金や今後の対応についても、協会側で確認することになった。


「本当に助かりました」


 店主が頭を下げる。


「いえ」


 ラーメンのお姉さんが答えた。


「こちらの制度を騙られた以上、協会側でも対応いたします」


「杏々ちゃんもありがとな」


「うん」


「また食べに来てくれよ」


「来る」


「次は何揚げようかな」


「全部」


「全部!?」


「お姉ちゃん」


「?」


「また店主さん困らせてる」


「でも食べる」


「知ってる」


 ◇


 店を出ると、ラーメンのお姉さんが杏々へ向き直った。


「さて」


「?」


「まだ終わっておりませんわ」


「報告」


 杏々の足が止まる。


「覚えております?」


「うん」


「では」


 ラーメンのお姉さんはスマートフォンを杏々へ渡した。


「先ほどの案件について、あなた自身で報告してみなさい」


「私?」


「そうですわ」


 杏々は妹ちゃんを見る。


「妹ちゃん」


「今日は自分でやろうね」


「…………」


「頑張って」


 杏々はスマートフォンを操作した。しばらくして、画面をラーメンのお姉さんへ見せる。


『天ぷら美味しかった。


変な人が来た。


投げた。


穴子も美味しかった。』


 ラーメンのお姉さんは黙り込み、妹ちゃんも画面を覗き込んだ。


「できた」


「できてませんわ!!」


「ダメ?」


「事件報告に穴子の感想はいりません!」


「美味しかったよ?」


「そういう問題ではありませんわ!」


 妹ちゃんは画面を見ながら言った。


「でも、お姉ちゃんにしては四行も書いてる」


「褒めないでくださいませ!」


「前より長いよ」


「長さの問題ではありません!」


 杏々はもう一度、スマートフォンへ入力した。


「できた」


「今度こそ?」


 画面には、こう表示されていた。


『協会の人じゃなかった。


お店からお金取ってた。


投げた。』


「短くした」


「なぜ削る方向へ行きますの!?」


「穴子消したよ」


「そこだけ直せと言ったのではありませんわ!!」


 妹ちゃんが笑う。


「お姉ちゃん、私と一緒に書こっか」


「うん」


「いけません!」


 ラーメンのお姉さんがすぐに止めた。


「え?」


「杏々本人に書かせますわ!」


「でも」


「あなたが全部やってしまったら、この子は永遠に覚えません!」


「…………」


 妹ちゃんは少し考えた。


「それは困る」


「でしょう?」


「じゃあ」


 妹ちゃんは杏々の反対側へ並んだ。


「私も教える」


 ラーメンのお姉さんも杏々の隣へ並ぶ。


「わたくしが教えておりますわ」


「二人で教えれば早いです」


「…………」


「何ですか?」


「いえ」


 杏々は左右にいる二人を見た。


「近い」


「誰のせいですの!?」


「お姉ちゃんが真ん中だから」


「?」


 三人はスマートフォンを覗き込んだ。


「まず時刻」


「うん」


「店舗名」


「うん」


「相手の資格情報」


「うん」


「請求内容」


「うん」


「暴力行為の有無」


「うん」


「それから――」


 杏々は少しずつ文章を入力していく。さっきよりは長い。


「杏々」


「うん」


「寝ない」


「寝てない」


「目が死んでますわよ!」


「お腹いっぱいだから」


「関係ありません!」


 妹ちゃんが励ます。


「あと少し」


「うん」


「終わったら帰ろ」


「うん」


「家にプリンあるよ」


「…………!」


 杏々の指が急に速くなった。


「やる気の出し方!」


 ラーメンのお姉さんの声が街に響く。


 杏々の協会教育は、どうやらまだしばらく続きそうだった。

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