13食目 ラーメン
昼下がり。
温泉旅行から帰ってきて、数日が経っていた。
杏々はまた一人で街を歩いていた。
特に目的地はない。
いつものように、美味しそうなものを探しながら、気の向くままに歩いていく。
「…………」
パン屋さん。
「…………」
定食屋さん。
「…………」
たこ焼き。
「…………」
一度は足が止まったものの、その少し先から漂ってきた匂いに、杏々の鼻が反応した。
鶏ガラ。
醤油。
油。
そして、何かを煮込んでいる濃い香り。
「ラーメン」
杏々は匂いのする方へ歩いていった。
角を一つ曲がった先。
そこに、小さな町中華の店があった。
『中華料理』
見覚えのある店構え。
以前、悪質なファイターたちに絡まれていたところを助けた店だった。
あの時、しばらく店の前に人だかりができていたが、今はすっかり落ち着いている。
赤い暖簾。
少し年季の入った看板。
入口の横には、手書きのメニューが貼られていた。
『醤油ラーメン』
『塩ラーメン』
『味噌ラーメン』
『チャーシューメン』
『五目あんかけラーメン』
『餃子』
「…………♡」
杏々。
立ち止まる。
チャーシュー。
いっぱい。
さらに。
『麺大盛り』
『味玉』
『半チャーハン』
という文字まで並んでいた。
「…………」
杏々は少し考えた。
でも。
答えはほとんど決まっていた。
◇
「いらっしゃいませ!」
店内へ入ると、カウンターの向こうから店主が声をかけてきた。
杏々の顔を見た瞬間。
「あっ!」
店主の表情が明るくなる。
「お嬢ちゃん!」
「うん」
「久しぶりだねえ!」
「久しぶり」
「この前は本当にありがとうな!」
「うん」
「おかげで、あれから変な連中も来なくなったし、協会の人もちゃんと話を聞いてくれてな」
「よかった」
「店も前より忙しくなったんだよ。お嬢ちゃんのおかげで、うちを公認店にしてくれって話まで来てるし」
「そうなの?」
「ああ。ありがたいことだよ」
店主は嬉しそうに笑った。
「今日は何にする?」
杏々は壁のメニューを見る。
「特製チャーシュー麺」
「うちにそんな名前のメニューはないけどな」
「チャーシューいっぱい」
「なるほどな」
店主は笑った。
「じゃあチャーシューメンに、チャーシュー追加ってことでいいか?」
「うん」
「麺は?」
「大盛り」
「味玉は?」
「入れる」
「餃子は?」
「二人前」
「半チャーハンもいくか?」
「…………」
杏々。
少し考える。
「食べる」
「よしきた!」
店主は注文を書き込んだ。
「チャーシューメン大盛り、チャーシュー追加、味玉、餃子二人前、半チャーハン!」
「はいよ!」
厨房から奥さんの声が返ってくる。
杏々はカウンター席へ座った。
◇
店内には、以前よりも多くの客がいた。
近所の会社員。
学校帰りの学生。
買い物帰りらしい親子。
壁には新しい札が貼られている。
『協会公認推薦店舗』
その横には、小さな杏々の写真まで飾られていた。
「…………」
杏々。
写真を見る。
「これ」
「ん?」
「私」
「ああ。協会の人が、ぜひって言うからな」
「いつ撮ったの?」
「この前、店の前でファイトした後だよ」
「覚えてない」
「食べてたからな」
「何を?」
「うちのチャーハン」
「そっか」
杏々は納得した。
店主は苦笑する。
「まあ、うちとしては助かったよ。あの件があってから、協会の人も定期的に見回りに来てくれるようになったし」
「うん」
「全部お嬢ちゃんのおかげだよ。またいつでもきてくれよな」
「分かった」
「本当に頼むぞ」
「うん」
杏々は厨房を眺めながら待った。
大きな寸胴から湯気が立ち上り、麺を茹でる音が聞こえてくる。
中華鍋を振る音。
油の弾ける音。
刻んだ葱と生姜の香り。
醤油ダレの香ばしい匂い。
「…………♡」
まだ食べていない。
それでも。
もう美味しそうだった。
◇
「お待たせ!」
どん。
大きな丼が置かれる。
「…………!」
表面にはチャーシュー。
チャーシュー。
チャーシュー。
中央には葱が盛られ、メンマ、海苔、味玉が添えられている。
その下には、濃い琥珀色のスープがたっぷりと入っていた。
「チャーシューメン大盛り、チャーシュー追加、味玉入り!」
「わぁ……♡」
続いて。
餃子が二皿。
半チャーハン。
「ごゆっくりどうぞ」
「うん」
杏々は手を合わせた。
「いただきます」
まずはスープをれんげですくう。
一口。
「…………」
熱い。
醤油の味に、鶏ガラの旨味が重なっている。
そこへ、豚の脂と野菜の甘みが加わっていた。
町中華らしい、どこか懐かしい味。
「おいしい」
次に麺を箸で持ち上げる。
中太。
少しだけ縮れている。
ふう。
ふう。
ずるっ。
「…………♡」
スープが麺によく絡む。
噛むと、ほどよい弾力がある。
「好き」
続いてチャーシュー。
箸で持ち上げる。
厚みがあり、少し重い。
口に入れると、柔らかくほどけた。
脂の甘み。
肉の旨味。
醤油の味。
「これも好き」
そして、チャーハン。
レンゲですくう。
ぱく。
「…………!」
卵。葱。焼豚。香ばしい油。
「これもおいしい」
杏々の箸とレンゲが止まらなくなった。
◇
麺。
チャーシュー。
チャーハン。
餃子。
そして味玉。
杏々は味玉を半分に割った。
中から黄身がとろりと流れ出す。
「…………!」
ぱくり。
「おいしい」
餃子は焼き目がぱりっとしていて、中から肉汁が溢れた。
「…………♡」
チャーハンを食べ、また餃子を口に運ぶ。
「これも合う」
店主が厨房から杏々を見ている。
「どうだ?」
「おいしい」
「そうかそうか!」
杏々は麺をすすり、チャーハンを食べ、餃子を頬張る。
以前助けた店。
その時よりも。
ずっと活気がある。
店主も。奥さんも。他のお客さんたちも。
みんな楽しそうだった。
「…………」
杏々は少しだけ店内を見回した。
そして。
またラーメンを食べた。
◇
その時。
「――ようやく見つけましたわ」
「?」
杏々が振り返る。
入口に、一人の女性が立っていた。
長い髪。上品な服装。ぴんと伸びた背筋。整った顔立ち。
ただし。眉間には、かなり深い皺が寄っている。
「…………」
杏々は女性を見る。
「誰?」
「…………」
女性の眉間がさらに寄った。
「あなた……」
「?」
「わたくしのこと覚えていませんの!?」
「会ったっけ?」
「会っていませんわ!」
「?」
「ですが!」
女性は胸元へ手を当てた。
「あなたのお父様とは、何度も顔を合わせております!」
「お父さんの友達?」
「友達という分類はやめていただけます!?」
「違うの?」
「そういう話ではありませんわ!」
店内に少しずつ視線が集まり始めた。
「お客様」
店主が声をかける。
「店の中では、あまり大声を出さないでくださいね」
「……失礼しましたわ」
女性は咳払いをして、声を落とした。
「とにかく、あなたにお話がありますの」
「うん」
杏々は丼を見た。
麺が少しずつスープを吸っている。
「あとでいい?」
「なぜですの!?」
「ラーメン」
「…………」
「のびる」
「…………」
女性はラーメンを見た。
杏々を見る。
もう一度、ラーメンを見る。
数秒の沈黙。
「……確かに」
「うん」
「それはいけませんわね」
「うん」
「先に召し上がりなさい」
「ありがとう」
杏々はすぐに麺をすすった。
「…………♡」
女性は空いている隣の席を見た。
「店主」
「はい?」
「わたくしも、こちらを一杯いただきますわ」
「何にします?」
「同じものを」
杏々が女性を見る。
「大盛り?」
「普通盛りですわ!」
「チャーシュー追加?」
「しません!」
「餃子は?」
「…………」
女性はメニューへ目を向けた。
「一人前」
「食べるんだ」
「食べますわよ!」
店主が笑う。
「はいよ。チャーシューメン一つ、餃子一人前!」
◇
数分後。
二人は並んでラーメンを食べていた。
「…………」
女性は一口すすったところで、少し動きを止めた。
「……美味しいですわね」
「うん」
「スープも丁寧ですわ」
「チャーシューも」
杏々はチャーシューを口に運ぶ。
「おいしい」
「確かに柔らかいですわ」
「でしょ?」
「…………」
女性は杏々を見た。
「なぜ、あなたが得意げなんですの?」
「美味しいから」
「あなたが作ったわけではありませんでしょう?」
「うん」
「…………」
女性は何かを言いかけた。
でも。ラーメンをもう一口すすった。
「…………」
「やはり美味しいですわね」
「うん」
二人はしばらく、普通にラーメンを食べ続けた。
女性は餃子も一口食べる。
「…………」
「美味しい?」
「美味しいですわ」
「でしょ?」
「だから、なぜあなたが!」
女性はそこで言葉を止めた。
「…………」
「?」
「違いますわ」
「何が?」
「わたくしはラーメンを食べに来たのではありません!」
「食べてるよ」
「結果的にですわ!」
◇
「それで」
女性は箸を置いた。
「あなた、一体どういうつもりですの?」
「?」
「協会のことですわ」
「協会?」
「それ以外に何がありますの!」
「ラーメン」
「今はありませんわ!」
女性は深呼吸した。
「公認推薦店舗の承認」
「うん」
「地域交流事業」
「うん」
「違反ファイターへの対応報告」
「うん」
「上位資格者への意見照会」
「…………」
「定例会議」
「…………」
「研修」
「…………」
「協力要請」
「…………」
杏々の表情が、少しずつ分からないものへ変わっていく。
「あなた」
「うん」
「本当に分かっておりますの?」
「何が?」
「全部ですわ!」
「…………」
「協会から通知が届いているでしょう!?」
「いっぱい来る」
「来ますわよ!」
「うん」
「そして、あなたはほとんどすべてに了承を押している!」
「そうなの?」
「そうですわ!」
「へぇ」
「へぇ、ではありませんわ!!」
女性の声がまた少し大きくなった。
「お客様」
店主が再び声をかける。
「……失礼しましたわ」
女性は声を抑えた。
◇
「いいですこと?」
女性は杏々へ向き直った。
「参加を押したイベントには来てくださいませ」
「この前行ったよ」
「温泉街のイベントでしょう?」
「うん」
「一件だけですわ!」
「妹ちゃんが連れてってくれた」
「一人でも来てください!」
「…………」
「なぜ黙るんですの?」
「途中に食べ物あったら」
「寄るんですのね!?」
「うん」
「でしょうね!」
女性は頭を押さえた。
「店舗承認についてもそうですわ」
「お店?」
「あなたが訪れた店舗から公認申請が大量に上がっております」
「そうなの?」
「そうですわ!」
「美味しいお店いっぱいあるから」
「それ自体は大変結構です!」
女性の声が少しだけ柔らかくなる。
「むしろ、あなたの推薦をきっかけに客足が増え、公認店となった店舗も少なくありません」
店主が厨房から振り返る。
「それ、うちもそうなんですよ」
「まあ」
女性が店内を見回す。
「こちらもあなたが推薦した店舗でしたのね」
「うん」
店主が頭を下げる。
「お嬢ちゃんには本当に世話になりまして」
「いえ」
女性は杏々を見る。
「あなた、こういうことはちゃんとやっているのですわね」
「美味しいお店だから」
「理由があなたらしすぎますわ……」
女性は一度息を吐いた。
「ですが!」
再び厳しい表情に戻る。
「申請内容を確認せず、全部了承するのはおやめなさい!」
「全部?」
「全部ですわ!」
「ダメなの?」
「確認してから押すものです!」
「…………」
杏々は少し考えた。
「いっぱいあるよ?」
「知っておりますわ!」
「読むの大変」
「読みなさい!」
「…………」
「ましてや、あなたは――」
女性は一度言葉を区切った。
「金印保持者なのですから、もう少し自覚を持って――」
「?」
杏々が止まる。
女性はそのまま続けようとした。
「上位資格者として――」
「金?」
「…………」
女性も止まった。
「はい?」
「金って何?」
「…………」
二人は見つめ合った。
「あなたの印章ですわ」
「黄色だよ」
「…………」
女性は完全に動きを止めた。
杏々はスマートフォンを取り出し、協会資格証を表示する。
そこには円形の印章が描かれていた。
「これ」
「…………」
「黄色」
女性は杏々のスマートフォンへ顔を近づけた。
「…………」
印章を見る。
もう一度、杏々を見る。
「あなた」
「うん」
「これを」
女性は印章を指差した。
「何色だと思っておりますの?」
「黄色」
「…………」
「違うの?」
長い沈黙の後、女性は答えた。
「金ですわよ」
「?」
「金色ですわ!」
「黄色じゃないの?」
「違いますわよ!!」
店内の空気がびくっと揺れた。
「お客様」
店主が困ったように声をかける。
「申し訳ありませんわ…」
◇
「……ちょっと待ちなさい」
女性はこめかみを押さえた。
「あなた、本当に知らなかったんですの?」
「うん」
「いつから?」
「何が?」
「この印章が金になった時からですわ!」
「分かんない」
「…………」
「ずっと黄色だと思ってた」
「…………」
女性は天井を見上げた。
「嘘でしょう……」
「ほんと」
「登録時の説明は?」
「覚えてない」
「ランク制度は?」
「色変わる」
「それだけ!?」
「うん」
「黄色の次は?」
「…………」
「杏々?」
「金?」
「今知ったでしょう!?」
「うん」
女性は深く、深く息を吐いた。
杏々はラーメンをすすった。
「……あなた」
「ん?」
「今、この状況でよく普通に食べられますわね」
「のびるから」
「…………」
女性は自分の丼を見た。
「……わたくしのも危ないですわね」
「うん」
二人は再び麺をすすった。
◇
少しして。
女性はラーメンを食べ終えた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
杏々は追加していた餃子の最後の一個を口へ運ぶ。
「…………♡」
女性は杏々を見た。
「一つ、確認しますわ」
「うん」
「あなたのお父様は」
「うん」
「あなたが金印を黄色だと思っていることを、ご存じですの?」
「分かんない」
「…………」
「聞いたことない」
「本当に?」
「うん」
女性は笑顔を浮かべた。
「…………」
しかし、その目は笑っていない。
「帰宅しましたら」
「うん」
「お父様に」
にこりと笑う。
「よぉく」
「うん」
「確認なさい」
「何を?」
「全部ですわ!!」
「…………」
女性はすぐに声を落とした。
「……店内でしたわね」
小声で続ける。
「全部、確認なさい」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは『はい』と言いなさい!」
◇
会計を済ませ、杏々と女性は店の外へ出た。
店主が暖簾の下から顔を出す。
「また来てくれよ!」
「うん」
「次はチャーハン大盛りも用意しとくからな!」
「…………!」
杏々の目が少し輝く。
「行く」
「毎度あり!」
女性はその様子を見て、思わず苦笑した。
「では」
「うん」
「わたくしは協会へ戻ります」
「お仕事?」
「ええ」
「大変?」
「あなたのせいで増えている仕事もございますわ」
「そうなの?」
「そうですわ」
「ごめん」
「…………」
女性は少し立ち止まった。
杏々は特に深い意味もなく、素直に謝っている。
「…………まあ」
女性は小さく息を吐いた。
「あなたの場合、成果まで大きいのが余計に困りますのよ」
「?」
「こちらの話ですわ」
「そっか」
女性が少し歩き出す。
杏々はその背中へ声をかけた。
「あ」
「何ですの?」
「ラーメン」
「?」
「美味しかった?」
「…………」
女性は少しだけ笑った。
「ええ」
「よかった」
「……本当に、あなたは」
「?」
「いえ」
女性は背を向けた。
「次に会う時までに、せめてご自分の資格について説明できるようになっておきなさい」
「分かった」
「本当にお願いしますわよ!」
「うん」
「それでは」
「またね」
女性は一瞬だけ足を止めた。
「ええ。また」
そう言って、彼女は去っていった。
杏々はその背中を少しだけ見送った。
それからスマートフォンを取り出し、資格証を表示する。
「金」
印章を見る。
「…………」
「黄色に見える」
杏々は首を傾げた。
◇
夜。
家に帰ると、父はリビングのソファに座ってテレビを見ていた。
妹も近くでスマートフォンを触っている。
「ただいま」
「おかえり」
「おかえり、お姉ちゃん」
杏々は靴を脱ぎ、リビングへ入った。
「お父さん」
「ん?」
「聞きたいことある」
「珍しいな」
「これ」
杏々はスマートフォンに資格証を表示した。
「…………」
父が画面を見る。
「ん?」
「私」
「うん」
「黄色じゃないの?」
「…………」
父の動きが止まった。
妹も顔を上げる。
「…………」
「今?」
父が聞く。
「うん」
「今それに気づいたの?」
「今日言われた」
「誰に?」
「ラーメン屋さんにいたお嬢様」
「…………」
父は「あー……」と声を漏らした。
「分かったの?」
「たぶんな」
妹が杏々のスマートフォンを覗き込む。
「これ?」
「うん」
「金だよ」
「…………」
杏々は妹を見る。
「妹ちゃんも知ってたの?」
「え?」
「金」
「知ってるよ?」
「…………」
妹は少し困ったように首を傾げた。
「逆に、お姉ちゃん知らなかったの?」
「黄色だと思ってた」
「…………」
妹は父を見る。
「お父さん」
「俺は言ったぞ」
「いつ?」
「前」
「覚えてない」
「だろうな!」
父は額を押さえた。
「昇格した時にちゃんと説明した!」
「そうなの?」
「した!」
「…………」
「お前、あの時何食ってた?」
「分かんない」
「なんか食ってた気がするんだよな……」
妹が呟く。
「たぶん、そっちしか覚えてないね」
「うん」
「認めるんだ……」
◇
杏々はソファへ座った。
「じゃあ」
「ん?」
「金だと何か違うの?」
父は杏々を見た。
少しだけ表情が変わる。
「まあな」
「何?」
「強さの評価が上ってだけじゃない」
「うん」
「金印まで行けば、協会からそれなりに役割を求められる」
「役割?」
「例えば、下のランクのファイターへの指導。違反ファイトや、一般人が巻き込まれる問題への対応。公認店舗制度への協力。地域イベント。それから、場合によっては協会の重要案件への協力だ」
「…………」
杏々の顔が少しずつ難しくなる。
「いっぱい」
「いっぱいある」
「知らなかった」
「今日知ってくれ」
妹が呟く。
「本当にそこからなんだ……」
杏々は資格証を見た。
「私、やってる?」
父は少し考えた。
「結果だけ見れば」
「うん」
「かなりやってる」
「そうなの?」
「自覚が一切ないだけでな」
「?」
父は杏々を指差した。
「お前、食べ歩きしてる途中で変なファイターを見つけるだろ」
「たまに」
「一般人に迷惑をかけていたら止める」
「うん」
「店で問題が起きていたら首を突っ込む」
「困ってたら」
「公認店も増やしてる」
「美味しいお店?」
「そう」
「じゃあやってる」
「……まあ」
父は苦笑した。
「やってはいる」
妹が続ける。
「ほとんど全部、お姉ちゃんの食べ歩きのついでだけどね」
「うん」
「そこは否定して」
「?」
◇
父は少しだけテレビの音量を下げた。
「ただな」
「うん」
「最近、ちょっと気になることがある」
杏々は父を見る。
「何?」
「違反するファイターが増えてる」
「…………」
「一般人へ無理にファイトを吹っ掛けたり、店へ圧力をかけたり、資格を偽造したり」
「…………」
杏々の目が少し変わった。
「この前みたいな?」
「そうだ」
父は頷いた。
「一件一件なら、昔からゼロではない。でも最近は、少し多い」
「どれくらい?」
「まだ、はっきり何かあると言えるほどじゃない」
「…………」
「ただ、偶然で片付けるには件数が増えてきてる」
妹もスマートフォンから目を離した。
「協会も調べてるの?」
「ああ」
「何かつながりがあるかも?」
「それを確認してるところだ」
杏々は少し考えた。
「悪い人いっぱい?」
「まだ分からん」
「そっか」
「だから」
父は杏々を見る。
「杏々」
「うん」
「お前は今まで通りでいい」
「?」
「好きな店に行って」
「うん」
「好きなものを食べて」
「うん」
「散歩して」
「うん」
父は少しだけ間を置いた。
「その途中で、また変なファイターや変なトラブルを見つけたら、止めるだけじゃなくて、ちゃんと協会へ報告してくれ」
「…………」
杏々は考えた。
「報告?」
「そう」
「どうやるの?」
「そこからか……」
父は項垂れた。
妹が手を挙げる。
「私がやる」
父は即答した。
「頼む」
「うん」
杏々は安心した。
「じゃあ大丈夫」
「お前も覚えろ!」
「?」
◇
妹が杏々のスマートフォンを受け取った。
「ここ」
「うん」
「協会アプリ」
「うん」
「報告」
「うん」
「ここから案件の種類を選ぶの」
「…………」
「お姉ちゃん」
「うん」
「見てる?」
「見てる」
「ほんとに?」
「うん」
「じゃあ、今どこ?」
「…………」
「お姉ちゃん?」
「ラーメンまた食べたい」
「見てない!」
父が笑う。
「まあ、妹が一緒にいる時は任せればいい」
「でも、お姉ちゃん一人の時もあるからね」
「…………」
「覚えようね?」
「うん」
「本当に?」
「たぶん」
「不安だなあ……」
◇
少しして、父が尋ねた。
「ところで」
「ん?」
「そのお嬢様とは、本当にラーメン屋で会ったのか?」
「うん」
「何ラーメン?」
「チャーシューメン」
「へぇ」
「チャーシューいっぱい」
「美味かった?」
「うん」
「チャーハンは?」
「美味しかった」
「餃子は?」
「美味しかった」
「いいな」
杏々は少し身を乗り出した。
「行く?」
「行こうかな」
「店主さん、次はチャーハン大盛り作ってくれるって」
「じゃあチャーハン大盛りだな」
「ラーメンも」
「もちろん」
「餃子も」
「頼むか」
「ご飯も」
「チャーハンがあるのに?」
「別」
「それ絶対うまいやつだな」
妹は杏々と父を見た。
「…………」
「何?」
杏々が尋ねる。
「いや」
妹はため息をついた。
「さっきまで結構大事な話してたよね?」
「うん」
父も頷く。
「してたな」
「もうラーメンの話になってるけど」
「美味しかったから」
「そうだな」
「お父さんまで!」
杏々はスマートフォンの資格証をちらりと見た。
そこに描かれた金色の印章は、まだ黄色に見える。
でも。
今日一つだけ知った。
自分が思っていたより、協会との関わりはずっと多いらしい。
杏々は資格証を閉じた。
「明日」
「ん?」
「行く?」
父が目を丸くする。
「早くない?」
「今日食べたばっかりだよね?」
「うん」
「…………」
「美味しかったから」
妹と父は顔を見合わせた。
そして。
二人とも笑った。
杏々のおさんぽは、これからも変わらない。
美味しいものを探して。
気になった店へ入って。
いっぱい食べる。
ただ。
その道の先には。
杏々がまだ知らない何かが。
少しずつ。
混ざり始めていた。




