15食目 お好み焼き
天ぷら屋での一件から、数日が経っていた。
その間も、杏々のスマートフォンには相変わらず協会からの通知が届いている。イベント案内、活動報告、公認店舗に関する連絡、協会からの確認事項。そして、その中には『公認店舗申請』という通知もあった。
「…………」
杏々はソファに座ったまま、画面を見つめていた。通知の下には、見慣れた二つのボタンが並んでいる。
『承認』
『保留』
杏々の指が、いつものように『承認』へ伸びる。しかし、押す直前でぴたりと止まった。
「確認してから」
小さく呟き、それから『保留』を押す。
杏々はスマートフォンを閉じると、テーブルの上に置いてあったお菓子へ手を伸ばした。
「…………♡」
ぱく。
その様子を少し離れたところから見ていた妹ちゃんは、何も言わずに笑った。
◇
さらに数日後の休日。杏々の家のリビングには、すっかり見慣れ始めた女性の姿があった。
「杏々」
「ん?」
「少々、こちらへいらっしゃい」
「今?」
「今ですわ」
「お菓子食べてる」
「食べながらでも構いません!」
「そっか」
杏々はお菓子の袋を持ったまま、テーブルの前へ移動した。ラーメンのお姉さんは杏々のスマートフォンを手にしており、その隣には妹ちゃんも座っている。
「こちらです」
画面には、一件の公認店舗申請が表示されていた。
「…………お好み焼き」
「店名を――」
ラーメンのお姉さんが言いかけたところで、杏々が先に続ける。
「豚玉」
「…………」
ラーメンのお姉さんは、言葉を飲み込んだ。
「もう諦めましたわ」
「何が?」
「何でもありません」
妹ちゃんが画面を覗き込む。
「あ、このお店」
「知ってる?」
「知ってるよ。前にお姉ちゃんと行った」
杏々も頷いた。
「豚玉」
「やっぱりそこなんですね……」
「あと海鮮」
「うん」
「焼きそばも」
「うん」
「モダン焼きも」
ラーメンのお姉さんが杏々を見る。
「料理の記憶だけは本当に完璧ですわね」
「美味しかったから」
「でしょうね」
ラーメンのお姉さんは画面へ視線を戻した。
「それより、この申請ですわ」
「うん」
「まだ承認しておりませんわね」
「うん」
ラーメンのお姉さんの目が、少し大きくなる。
「どうしました?」
妹ちゃんが尋ねる。
「いえ……」
ラーメンのお姉さんは、もう一度画面を確認した。
「本当に押しておりません」
「うん」
「数日前に届いておりますのよ?」
「うん」
「ずっと?」
「うん」
ラーメンのお姉さんは杏々を見る。
「よく我慢できましたわ!」
「ふふん」
杏々は少しだけ胸を張った。
妹ちゃんも笑う。
「お姉ちゃん、毎回ちゃんと止まってたよ」
「毎回?」
「何回か通知を開いてたから」
「承認は?」
「押してない」
「…………」
ラーメンのお姉さんは、しばらく黙って杏々を見つめた。
「成長しましたわね……!」
「うん」
「お姉ちゃん、えらい」
「ふふん」
杏々はさらに胸を張る。
その様子を見ていた妹ちゃんは、ふとラーメンのお姉さんへ視線を向けた。お姉ちゃんを褒めている。そのことが、なぜか少しだけ気になった。
「どうかしました?」
「別に」
「?」
◇
「では」
ラーメンのお姉さんは姿勢を正した。
「今日は、この申請について実際に確認します」
「確認?」
「前回教えましたでしょう?」
「…………」
「杏々?」
「うん」
「何を確認するか、覚えております?」
杏々は少し考えた。
「美味しいか」
「それだけではありませんわ!」
妹ちゃんが横から助け舟を出す。
「営業状態」
「うん」
「衛生面」
「うん」
「一般のお客さんへの対応」
「うん」
「ファイターへの対応」
「うん」
「公認店になって問題がないか」
「うん」
ラーメンのお姉さんが妹ちゃんを見る。
「完璧ですわね」
「この前聞いてたので」
「素晴らしいですわ」
「ありがとうございます」
杏々は二人を見比べた。
「仲良くなった?」
「なってません」
「仕事ですわ」
「そっか」
ラーメンのお姉さんは杏々へ向き直った。
「それを、今日はあなた自身で確認していただきます」
「私が?」
「そうですわ」
「妹ちゃんは?」
「いますけど」
「わたくしもおります」
「じゃあ大丈夫」
「あなたがやるんですの!」
杏々が少し困ったような顔をすると、妹ちゃんが笑った。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。分からなかったら聞いて」
「うん」
ラーメンのお姉さんは、そんな二人を見てため息をついた。
「……甘いですわね」
「妹なので」
「最近それを万能の言葉にしておりません?」
「してません」
「本当に?」
「はい」
ラーメンのお姉さんは、まだ少し疑わしそうな顔をしていた。
杏々はお菓子をぱくりと食べる。
「行く?」
「ええ」
「お好み焼き」
「仕事ですわ!」
「お好み焼きも」
「……まあ、それもですわ」
◇
三人は昼前に家を出た。街を歩きながら、ラーメンのお姉さんは今日の確認事項をもう一度説明している。
「いいですこと? 今回は前回のような問題店舗への調査ではありません。通常の公認申請ですから、あなた自身で店の様子を見て、店主から話を聞き、最終的に承認するかを判断します」
「うん」
「聞いております?」
「聞いてる」
「では、何をしに行くんですの?」
「お好み焼き食べる」
「杏々!!」
妹ちゃんが吹き出した。
「お姉ちゃん、それもするけど、その前に審査ね」
「食べながら?」
「……まあ、料理も確認事項ではあります」
ラーメンのお姉さんが渋々認めると、杏々は少し嬉しそうに呟いた。
「協会いいところ」
「そこだけ覚えないでくださいませ!」
◇
しばらく歩くと、商店街の一角に目的の店が見えてきた。赤い暖簾の向こうにはガラス越しに鉄板が見え、店の外まで焼けたソースの香りが漂っている。
「…………!」
杏々の足が速くなった。
「杏々」
「うん」
「走らない」
「走ってない」
「歩幅が急に倍になっておりますわ!」
妹ちゃんも杏々の横へ並ぶ。
「お姉ちゃん、逃げないよ」
「お好み焼き」
「分かってる」
三人は店の前で立ち止まった。看板には『鉄板焼・お好み焼き』と書かれている。
「ここ」
杏々が言う。
「ちゃんと覚えてるね」
妹ちゃんが笑う。
「うん」
「店名は?」
ラーメンのお姉さんが尋ねる。
「…………お好み焼き屋さん」
「やはりそこは覚えていませんのね!」
◇
「いらっしゃい!」
店内へ入ると、鉄板の向こうにいた店主が三人へ声をかけた。杏々の姿を見つけると、顔を明るくする。
「おっ、杏々ちゃん!」
「久しぶり」
「久しぶりだな! また来てくれたのか!」
「うん」
「前はいっぱい食べてったよなあ」
「豚玉四枚」
「三枚じゃなかったか?」
「四」
店主は少し考えたあと、手を打った。
「ああ! 最後にもう一枚追加したんだった!」
「うん」
ラーメンのお姉さんが杏々を見る。
「そこは訂正するんですのね」
「大事」
「何が大事なんですの……」
店主は妹ちゃんにも気づいた。
「妹ちゃんも久しぶり」
「こんにちは」
「今日は三人か」
「はい。今日は協会の用事もあって」
「ああ、申請の件か」
「そうですわ」
ラーメンのお姉さんが一歩前へ出る。
「本日は公認店舗申請の確認に参りました」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
杏々が鉄板へ視線を向ける。
「ご飯は?」
「お姉ちゃん」
「?」
「まず仕事。あとでちゃんと食べるから」
「分かった」
◇
三人は鉄板のあるテーブル席へ案内された。ラーメンのお姉さんが資料を開く。
「まず、公認申請を出された経緯について伺っても?」
「もちろん」
店主は頷いた。
「杏々ちゃんが前に来てくれただろ?」
「うん」
「そのあと、動画とかブログを見て来てくれる人が増えてね」
妹ちゃんが少し嬉しそうに杏々を見る。
「お姉ちゃん効果だね」
「?」
「あなたの発信の影響ですわ」
「そうなの?」
「まだそこですの!?」
店主が笑う。
「本当に増えたんだよ。ファイターの人も来るようになったし、普通のお客さんも増えた」
「よかった」
「ああ。最初は公認店なんて大げさかなと思ってたんだけどね。しばらく様子見して、それでもお客さんが来てくれるから、じゃあ申請してみようかって」
「なるほど」
ラーメンのお姉さんが記録する。
「申請そのものは、ご自身で?」
「そうです」
「代行業者等は?」
店主は少しだけ言葉を止めた。
「それなんだけど、申請する少し前に一回営業が来たんですよ」
「営業?」
「ファイター向けの店舗支援をしてるって会社」
妹ちゃんも表情を変えた。
「会社名、分かります?」
「名刺取ってあります」
「見せてもらえますか?」
「もちろん」
店主が奥へ向かう。
杏々はラーメンのお姉さんを見る。
「杏々」
「うん」
「今の話、分かりました?」
「営業来た」
「その通りです」
「お姉ちゃん、ちゃんと聞いてた」
「成長ですわ!」
妹ちゃんは、また褒めているラーメンのお姉さんを見た。
「…………」
少しだけ、むっとする。
◇
店主が一枚の名刺を持って戻ってきた。
「これ」
妹ちゃんが受け取る。
『店舗サポート事業部』
『ファイター向け集客・公認申請支援』
会社名、電話番号、メールアドレスが記載されている。ラーメンのお姉さんも横から確認した。
「何を提案されました?」
「公認申請の代行ですね」
「他には?」
「ファイター客を優先的に紹介できるとか、人気ファイターから推薦を受けやすくできるとか」
ラーメンのお姉さんの眉が寄る。
「そんなことできるの?」
杏々が尋ねる。
「通常はできませんわ」
「そっか」
「公認制度は、金銭を払って推薦を買うような仕組みではありません。特定ファイターの承認を確約することもできません」
「うん」
「杏々。そこは特に覚えてくださいませ」
「なんで?」
「あなたの名前が勝手に使われる可能性がありますので」
「私?」
「ええ」
杏々は少し考えた。
「やだね」
「でしょう?」
「食べてない店、おいしいって言えないし」
ラーメンのお姉さんは、少しだけ黙った。
「…………」
「?」
やがて、ラーメンのお姉さんは小さく笑った。
「それで十分ですわ」
妹ちゃんは、そんな二人を横から見た。
「…………」
今、少しだけいい感じだった。
「妹ちゃん?」
「何?」
「近い」
「え?」
気づけば、妹ちゃんは杏々へ少し寄っていた。
「別に」
「?」
◇
妹ちゃんは名刺をスマートフォンで撮影した。
「この番号……」
「何か?」
ラーメンのお姉さんが覗き込む。
「前回の募集アプリにあった連絡先とは違います」
「そうですわね」
「でも」
妹ちゃんは画面を切り替えた。
「使われてたマーク、似てません?」
ラーメンのお姉さんは名刺と画面を見比べる。
「確かに」
「完全に同じじゃないですけど」
「意匠が近いですわね」
「あと、文章」
妹ちゃんが指差す。
『資格保持者向け優先支援』
前回の募集画面には、『ファイター資格保持者優遇』と表示されていた。
「似てる?」
杏々が聞く。
「ええ」
ラーメンのお姉さんが答える。
「ただし、これだけでは同じところとは判断できません」
「そっか」
「偶然似ただけかもしれません」
妹ちゃんも頷いた。
「でも、記録しておく価値はありそう」
「そうですわね」
「協会に照会かけます?」
「お願いします」
「分かりました」
杏々は二人を見る。
「仲いい」
「仕事です」
「仕事ですわ!」
「やっぱり」
「何がですの!?」
◇
店主が少し申し訳なさそうに笑った。
「うちは怪しいと思って断ったんですけどね」
「それで正解ですわ」
「あとで普通に自分で申請しました」
「ありがとうございます」
ラーメンのお姉さんは資料へ書き込む。
「では、営業状態等も確認させていただきます」
「どうぞ」
杏々が鉄板を見る。
「食べる?」
ラーメンのお姉さんは杏々を見ると、少しだけ考えてから頷いた。
「はい」
「やった」
「料理も確認事項ですからね」
「うん」
「ただし、普通に食事を楽しむだけではなく、店舗確認であることも忘れないように」
「分かった」
「本当に?」
「うん」
妹ちゃんがメニューを開く。
「何食べる?」
「豚玉」
「うん」
「海鮮」
「うん」
「餅チーズ」
「うん」
「ねぎ焼き」
「うん」
「焼きそば」
妹ちゃんが顔を上げた。
「まだある?」
「モダン焼き」
「いっぱいだね」
「うん」
ラーメンのお姉さんが杏々を見る。
「三人分ですわよね?」
「…………」
「杏々?」
「私の」
「全部!?」
「みんなも食べる?」
「そういう問題ではありませんわ!」
店主が笑う。
「まあまあ。鉄板いっぱい使えばいけるよ」
「本当に全部頼むおつもりですの!?」
「うん」
「…………」
「審査だから」
「絶対それを便利な言葉として覚えましたわね!?」
◇
まず運ばれてきたのは、豚玉の生地だった。大きなボウルの中には、たっぷりの刻みキャベツ、生地、卵、天かす、紅生姜が入り、その上に豚肉が乗っている。
「自分で焼く?」
店主が尋ねる。
「焼く」
「お姉ちゃん、前も焼いたよね」
「うん」
「大丈夫ですの?」
「たぶん」
「その返事が不安ですわ!」
杏々はボウルを混ぜ始めた。キャベツと生地が混ざるたび、ざくざくと音がする。
「混ぜすぎないでね」
妹ちゃんが言う。
「空気を残した方がふわっとしますわ」
ラーメンのお姉さんも続けた。
杏々は二人を見る。
「何ですの?」
「何?」
「仲いい」
「違います!」
「違いますわ!」
二人の声が重なった。
「ほら」
「お姉ちゃん!」
「杏々!」
◇
熱した鉄板へ生地を落とすと、じゅうううう、と音が響いた。キャベツと生地の上で豚肉が焼け、香ばしい匂いが立ち上る。
「…………♡」
杏々は鉄板をじっと見つめた。
「まだ?」
「まだ」
「まだですわ」
二人の声がまた重なる。
「仲――」
「言わなくていいです!」
「言わなくて結構ですわ!」
「そっか」
時間が経つにつれて生地の縁が少しずつ固まり、豚肉から脂が染み出して鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てる。
「そろそろですわね」
「ひっくり返す」
杏々はヘラを一つ持った。
「待って」
妹ちゃんが声をかける。
「一個だと危ないよ」
「こちらも使いなさい」
ラーメンのお姉さんも、もう一本のヘラを差し出した。
杏々は二本のヘラを見比べる。
「こう?」
「もう少し奥ですわ」
ラーメンのお姉さんが杏々の手元へ近づき、ヘラの位置を軽く直した。
「ここまで入れて」
その様子を見ていた妹ちゃんが、すぐに反対側へ回る。
「お姉ちゃん、反対側、私やるね」
「うん」
「せーの」
「うん」
「いくよ」
三人で力を合わせると、お好み焼きが鉄板の上でふわりと宙へ浮き、少し回ってから、べちゃりと落ちた。
「…………」
三人で形を確認する。
「成功?」
杏々が尋ねる。
「成功」
妹ちゃんが答える。
「まあ」
ラーメンのお姉さんは、少し崩れた形を見ながら頷いた。
「ギリギリですわね」
「できた」
「お姉ちゃん上手」
「今のは二人がかなり補助しておりましたわよ!?」
「でもお姉ちゃんがやったので」
「甘いですわ!」
杏々は胸を張った。
「ふふん」
「そこは胸を張らない!」
◇
焼き上がった豚玉へソースを塗ると、鉄板の熱でじゅっと音が鳴り、甘く濃い香りが立ち上った。マヨネーズを細くかけ、青海苔を振り、最後に鰹節を乗せる。
鰹節は熱でふわふわと揺れた。
「動いてる」
「熱で動いてるだけだよ」
「生きておりませんわ」
杏々は二人を見る。
「仲いい」
「もういいです!」
「もう結構ですわ!」
妹ちゃんが笑い出し、ラーメンのお姉さんも額を押さえた。
杏々は小さなヘラでお好み焼きを切り分ける。中から湯気が立ち上り、ふわりとした生地と甘く蒸されたキャベツが顔を出した。
「いただきます」
ぱくりと口へ運んだ瞬間、杏々の表情が変わる。
「熱っ」
「気をつけて!」
「だから言おうとしましたのに!」
杏々は口の中を冷ますようにはふはふと息を吐き、それでもすぐにもう一口食べた。
「…………♡」
「美味しい?」
妹ちゃんが尋ねる。
「うん」
「生地は?」
ラーメンのお姉さんが聞く。
「ふわふわ」
「キャベツは?」
「甘い」
「豚肉は?」
「かりかり」
ラーメンのお姉さんは、少し満足そうに頷いた。
「ちゃんと見ておりますわね」
「食べてるだけだよ」
「そこは審査していると言いなさい!」
◇
海鮮ミックスには海老、いか、帆立が入っていた。鉄板の上で焼ける海鮮の香りに、杏々はまた目を輝かせる。
「…………♡」
海老を口へ運ぶ。
「ぷりぷり」
「それは見れば分かるよ」
「美味しい」
「そういう感想を報告へ書けばいいんですのよ」
次に焼いた餅チーズは、切り分けると中からチーズが伸びた。
「…………!」
杏々が持ち上げると、チーズはどこまでも伸びていく。
「妹ちゃん」
「ん?」
「切れない」
「もうちょっと下げて」
「うん」
ラーメンのお姉さんもヘラを伸ばした。
「ここで切れば――」
「私やります」
妹ちゃんがすっと手を出し、チーズを切り分ける。
「お姉ちゃん、はい」
「ありがとう」
杏々は受け取った餅チーズを口へ運ぶ。
「…………♡」
ラーメンのお姉さんは黙ってその様子を見ていた。妹ちゃんは、少しだけ満足そうだった。
◇
「そういえば」
店主が鉄板の向こうから声をかけた。
「公認店になったら、ファイターの客を優先しなきゃいけないとかってあるんですか?」
「ありませんわ」
ラーメンのお姉さんが即答する。
「一般のお客様とファイターで、店舗側の同意なく扱いを変えるよう強制する制度はありません」
「そうなんですね」
「はい」
「この前来た業者が、ファイター優先枠を作った方がいいって言ってたから」
ラーメンのお姉さんの表情が、また少し変わった。
「契約すれば?」
「そうそう。契約してる店なら、人気ファイターが来やすくなるって」
妹ちゃんが尋ねる。
「その資料、残ってます?」
「チラシならありますよ」
「お願いします」
「はい」
杏々はねぎ焼きを食べながら、店主の話を聞いていた。
「ファイター優先」
「うん」
「ダメ?」
「お店が自分で決めて設けるのは別だよ」
妹ちゃんが説明する。
「うん」
「でも、協会が強制してるって嘘をついて契約させるのはダメ」
「そっか」
ラーメンのお姉さんも頷いた。
「そして、一般のお客様の権利を一方的に奪うような制度でもありません」
「うん」
「覚えております?」
「食べてる人のは取らない」
ラーメンのお姉さんは少し笑った。
「ええ。それで結構ですわ」
妹ちゃんが杏々を見る。
「お姉ちゃんらしい覚え方だね」
「うん」
◇
焼きそばは太めの麺と豚肉、キャベツ、もやしを鉄板で炒め、濃いソースを絡めて仕上げられた。紅生姜が添えられたそれを、杏々は箸で持ち上げる。
「…………♡」
ずるり。
「美味しい」
ラーメンのお姉さんが呆れたように言う。
「お好み焼き屋でラーメンのようにすすらないでくださいませ」
「焼きそば」
「分かっております!」
続いて運ばれてきたモダン焼きは、お好み焼きと焼きそばが一つになったような料理だった。
「いっぱい」
「あなた向けですわね」
「うん」
妹ちゃんが笑う。
「お姉ちゃん、これ好きそう」
「好き」
「まだ食べる前ですわよ!?」
「見たら分かる」
ラーメンのお姉さんは、とうとう諦めたように息を吐いた。
「もう召し上がりなさい」
「うん」
杏々はモダン焼きを口へ運ぶ。
「…………♡」
「どう?」
「好き」
「でしょうね」
◇
食事の間、妹ちゃんとラーメンのお姉さんは店内の清掃状態、食材の管理、申請情報、営業時間、ファイターへの対応、一般客への対応を確認した。特に問題はなく、店主も制度について分からない部分は素直に質問している。ファイターだけを無理に優遇するつもりもないようだった。
料理については、杏々が最後のモダン焼きを食べ終えた時点で、十分すぎるほど確認できていた。
「…………♡」
杏々は満足そうだった。
ラーメンのお姉さんは資料を閉じる。
「では」
「?」
「杏々」
「うん」
「あなたが判断なさい」
「私?」
「そうですわ」
杏々のスマートフォンに、公認店舗申請の画面が表示される。
『承認』
『却下』
『保留』
いつもなら、ほとんど画面を見ずに承認を押していた。しかし今日は、杏々はすぐには指を動かさなかった。
店を見る。
鉄板を見る。
店主を見る。
普通に食事をしている客を見る。
妹ちゃんは何も言わず、ラーメンのお姉さんも黙って待っている。
杏々は少し考えた。
「美味しかった」
「うん」
妹ちゃんが頷く。
「お店の人もいい人」
「うん」
「変なの来ても断ってた」
「うん」
ラーメンのお姉さんが尋ねる。
「他には?」
杏々はもう一度、店内を見回した。
「みんな普通に食べてる」
「…………」
「ファイターだけ特別じゃない」
ラーメンのお姉さんの表情が柔らかくなる。
「ええ」
「だから」
杏々は画面へ指を伸ばした。
「いいと思う」
ぽち。
『承認しました』
妹ちゃんが笑う。
「できたね」
「うん」
ラーメンのお姉さんも小さく頷いた。
「ええ。今回は、ちゃんとあなた自身で承認しましたわね」
「前も私だよ?」
「意味が違いますの!」
「?」
「今回は、内容を確認して、自分で判断して押したでしょう?」
「うん」
「それが大事なのです」
「そっか」
「ええ」
杏々は少しだけ嬉しそうに胸を張った。
「ふふん」
「調子に乗らない」
妹ちゃんが笑う。
「でも、お姉ちゃんえらい」
「ふふん」
「あなたも甘やかさない!」
◇
その直後、店主の端末が音を立てた。
「おっ!」
「?」
「来た!」
画面には、『公認店舗申請が承認されました』と表示されている。
「公認になった!」
店主は杏々を見る。
「ありがとう、杏々ちゃん!」
「うん」
「いやあ、嬉しいなあ」
店主は笑顔で鉄板を見る。
「じゃあ今日は、お礼に全部――」
「全部はダメ」
「え?」
店主が止まり、ラーメンのお姉さんも杏々を見る。
「お金払う」
「いや、でも」
「お店続けるから」
「…………」
「また食べたいし」
妹ちゃんが笑った。
「お姉ちゃん、こういうところはちゃんとしてるんですよ」
ラーメンのお姉さんは杏々を見て、柔らかく笑う。
「ええ。知っておりますわ」
「…………」
妹ちゃんの表情が、ほんの少しだけ固まった。
「何ですの?」
「別に」
「?」
「知ってるんですね」
「ええ。前回も見ておりますし」
「そうですか」
「何ですの、その言い方は?」
「別に」
杏々は二人の様子に気づかないまま、店主へ向き直った。
「でも」
「何だい?」
「一枚ならいい」
「何が?」
「サービス」
「そこは貰うんだ!」
「うん」
ラーメンのお姉さんが呆れたように呟く。
「しっかりしておりますのか、しておりませんのか……」
妹ちゃんが続けた。
「お姉ちゃんなので」
「またそれですの!?」
◇
会計を終え、三人は店を出た。
「美味しかった」
杏々は満足そうだった。
「かなり食べたね」
「うん」
「審査もできましたわね」
「うん」
ラーメンのお姉さんは歩きながら杏々を見る。
「今日は、よくできましたわ」
「ほんと?」
「ええ。通知も勝手に承認しませんでしたし、店舗でも必要なことを確認できました。最後の判断も、自分でできました」
「うん」
「この調子でしたら、そのうち、わたくしが付き添わなくても――」
「それでいいと思います」
妹ちゃんが即答した。
「…………」
ラーメンのお姉さんは妹ちゃんを見る。
「随分と食い気味ですわね?」
「お姉ちゃん、もうできますから」
「まだ二回目ですわよ?」
「できます」
「先ほど確認項目の半分を忘れておりましたが?」
「次は覚えてます」
「あなたが決めることではありませんわ!」
「でも」
妹ちゃんは杏々の腕を軽く取った。
「お姉ちゃん、ちゃんと成長してるので」
「それは認めますけれど」
「じゃあ大丈夫です」
「何がそんなに大丈夫なんですの?」
「全部」
「全然説明になっておりませんわ!」
杏々は妹ちゃんを見る。
「妹ちゃん」
「ん?」
「寂しい?」
妹ちゃんは一瞬、足を止めた。
「違うよ」
「そう?」
「うん」
ラーメンのお姉さんは、そんな妹ちゃんを見て、何かに気づいたように小さく笑った。
「…………ふふ」
「何ですか?」
「いえ」
「今笑いましたよね?」
「別に」
「絶対何か分かってますよね?」
「何のことですの?」
妹ちゃんは少しだけむっとした。
杏々は二人を見比べる。
「仲いい」
「違います!」
「違いますわ!」
二人の声が重なった。
「やっぱり」
「お姉ちゃん!」
「杏々!」
三人の声が、また街に響いた。
◇
少し後ろを歩きながら、ラーメンのお姉さんはスマートフォンに届いた通知を確認した。
『照会受付』
『店舗支援業者に関する情報を確認中』
天ぷら屋の一件と、今回の営業。まだ同じものだとは決まっていない。ただ、どこか似ている。
「…………」
「ラーメンのお姉さん」
「はい?」
杏々が振り返った。
「置いてくよ」
ラーメンのお姉さんはスマートフォンを閉じた。
「今行きますわ」
まだ調べることはある。けれど、それはそれとして、今は杏々たちに追いつく方が先だった。
「杏々」
「?」
「次回までに、今日の確認項目を復習しておきなさい」
「…………」
「返事は?」
「うん」
「今、絶対嫌そうな顔しましたわね?」
「してない」
「しました!」
妹ちゃんが笑う。
「帰ったら一緒にやろうね」
「プリンある?」
「あるよ」
「やる」
「また食べ物ですの!?」
杏々の協会教育は、ほんの少しずつではあるものの、ちゃんと進んでいるらしかった。




