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杏々のおさんぽグルメ  作者: わかめ


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10/18

9食目 焼肉♪


 休日。


 杏々は家のソファでごろごろしながら、手にしたスマートフォンで焼肉の写真を眺めていた。画面をスクロールしても、出てくるのは焼肉、また焼肉。杏々はそのたびに、嬉しそうに目を細める。


「お姉ちゃん」


「ん?」


 隣に座っていた妹が、杏々の画面を覗き込んだ。


「ずっと焼肉見てるね」


「うん」


「食べたいの?」


「うん」


「でしょうね」


 妹は小さく笑うと、自分のスマートフォンを取り出した。


「じゃあさ。この前の件で助かったお店、覚えてる?」


「定食屋さん」


「それもあるけど」


「お蕎麦」


「あるね」


「焼肉」


「正解」


「…………!」


 杏々が勢いよく起き上がる。


「行く?」


「行く」


「早い」


「今?」


「準備してからね」


「分かった」


 杏々はもう立ち上がっていた。


「お姉ちゃん、まだ私、着替えてないんだけど」


「待つ」


「うん」


 杏々は素直に座り直した。けれど、落ち着かない。妹が着替え終わるまでの間、何度もそちらを見ては、同じ質問を繰り返す。


「まだ?」


「今言ったばっかり」


「…………」


「焼肉は逃げないから」


「うん」


 そう答えながらも、杏々はそわそわと待ち続けた。


 ◇


 しばらくして、二人は街を歩いていた。


 今日は杏々一人のおさんぽではない。隣には妹がいて、目的地までの道を案内してくれている。


「こっち」


「うん」


「次の角を右ね」


「うん」


 杏々は妹の後ろを歩いていたが、ふいに足を止めた。


「お姉ちゃん?」


「…………」


 杏々が見ているのは、通りの向こうにある別の焼肉屋だった。


「そっちじゃないよ」


「匂いした」


「焼肉屋さん、別のお店だから。今日はこっち」


「…………」


 杏々は名残惜しそうにその店を振り返ったが、やがて妹の後を追った。


 数分後、妹が足を止める。


「あ、ここ」


 そこにあったのは、少し古めだが、きれいに手入れされた建物だった。赤い暖簾には『炭火焼肉 安⚪︎』と書かれている。入口には『営業中』の札が大きく掲げられていた。


「焼肉……♡」


「入ろっか」


「うん」


 二人は店の中へ入った。


 ◇


「いらっしゃいませー!」


 店内から元気な声が飛んでくる。


「二名です」


「はい、こちらへ――」


 店員は二人を席へ案内しようとしたが、杏々の顔を見たところで動きを止めた。


「…………」


「どうしたの?」


「えっ」


 店員は杏々と妹を交互に見たあと、慌てて店の奥へ走っていった。


「少々お待ちください!」


「?」


「店長ー!」


「なんだ?」


「来てます!」


「誰が?」


「例の!」


「例の!?」


 奥から、ばたばたと慌ただしい音が聞こえてくる。数秒後、五十代くらいの、がっしりした体格の男性がエプロン姿で現れた。


 店主は杏々を見るなり、目を見開いた。


「あなたが……!」


「?」


 店主は杏々の前まで来ると、勢いよく頭を下げた。


「本当にありがとうございます!」


「…………」


 杏々は店主ではなく、隣にいる妹を見た。


「知ってる人?」


「お姉ちゃんを知ってる人」


「そっか」


「違う違う」


 妹が苦笑する。


 店主は顔を上げると、改めて杏々に向き直った。


「この前の件です。うちも、あの業者からお金を借りていまして……」


 杏々は少し考えたあと、ようやく思い出した。


「あ」


「はい」


「助かったお店?」


「そうです!」


 店主はもう一度、深く頭を下げた。


「本当に助かりました。この店は、もう畳むしかないと思っていたんです。でも、契約を見直してもらえて、取り立てもなくなって……」


 店主の声が少し震える。


「またこうして、店を続けられています」


 杏々は店内を見回した。炭火の匂いが漂い、テーブルの上には焼肉用の網が置かれている。以前は失われるかもしれなかった光景が、今は当たり前のようにそこにあった。


「よかった」


 杏々がそう言うと、店主は目元を押さえた。


「今日は、お代はいりません!」


「…………」


「好きなだけ食べていってください!」


「…………!」


 杏々の目が輝く。


 その変化を見逃さなかった妹が、横から声をかけた。


「お姉ちゃん、今かなり揺れたでしょ」


「ちょっと」


「ちょっと?」


「かなり」


「正直」


 店主は笑いながら、もう一度勧めた。


「本当に遠慮しないでください!」


「でも」


 杏々は少し考えた。


「全部はダメ」


「え?」


 店主と妹が、そろって杏々を見る。


「お店、続けるんでしょ?」


「はい」


「じゃあ、お金払って食べる」


「でも!」


「美味しかったら、また来る。その時も払う」


 店主はしばらく黙って杏々を見つめた。


 杏々は、難しいことを考えているわけではないのだろう。店が続くなら、また食べに来る。食べたら、その分のお金を払う。ただ、それだけのことだった。


「……分かりました」


 やがて店主は頷いた。


「では、普通にお代はいただきます」


「うん」


「でも、何か一つくらいはお礼をさせてください」


「…………」


 杏々はまた考え込んだ。妹が隣から様子を見守る。


「お姉ちゃん?」


 しばらくして、杏々は顔を上げた。


「ご飯」


「え?」


「一杯」


 店主は目を瞬かせた。


「ご飯一杯?」


「うん」


「それだけでいいんですか?」


「いっぱい食べたい」


「…………」


 店主は少し考えたあと、にやりと笑った。


「分かりました。最高の一杯を用意します!」


「?」


 その笑顔を見て、妹は少し嫌な予感を覚えた。


 ◇


 二人が席に着くと、妹はメニューを開いた。


「何にする?」


「カルビ」


「うん」


「ハラミ」


「うん」


「タン」


「うん」


「ロース」


「うん」


「ホルモン」


「食べる」


「野菜は?」


「食べる」


「じゃあ盛り合わせにしよっか」


「うん」


「あとキムチ。スープは?」


「飲む」


「冷麺は?」


「あとで」


「あとでなんだ」


 妹は注文端末に次々と入力していく。


「こんな感じ?」


「もっと」


「まだ?」


「うん」


「お姉ちゃん、二人だよ?」


「うん」


「分かってる?」


「私、いっぱい食べるよ」


「それは知ってる」


 妹が注文を送信すると、ほどなくして肉が運ばれてきた。カルビ、ハラミ、タン、ロース、ホルモン。皿が一つ、また一つとテーブルに並べられていく。


「…………♡」


 杏々の顔が、見る見るうちに明るくなっていく。


「いただきます」


「まだ焼いてない」


「…………」


「お姉ちゃん、生で食べないでね」


「分かった」


 妹が肉を網の上に置くと、じゅう、と食欲をそそる音が立った。


 杏々は網の上をじっと見つめる。


「もういい?」


「まだ」


 肉を焼く音が続く。


「もう?」


「まだ」


「…………」


「その顔やめて」


「お肉」


「知ってる」


「焼けた?」


「五秒しか経ってない」


「…………」


「待って」


「うん」


 妹は肉を裏返し、もう少しだけ焼いた。やがて、ちょうどよく焼けたカルビを杏々の皿へ乗せる。


「はい、どうぞ」


「…………!」


 杏々はすぐに箸を伸ばし、カルビを口へ運んだ。


「…………♡」


 脂の甘みとタレの味、香ばしい焦げ目が口いっぱいに広がる。


「おいしい」


「よかったね」


「妹ちゃん」


「ん?」


「焼くの上手」


「お姉ちゃんが待てないだけです」


「?」


「まあいいや」


 次はハラミ、タン、ロース。妹が焼き、杏々が食べる。杏々が気に入ったものを見つけるたび、妹は追加で注文していった。


「これ好き」


「どれ?」


「ハラミ」


「じゃあ追加しようか」


「うん」


 妹が注文を送ると、店員がすぐに追加の皿を持ってきた。


 ◇


「失礼します!」


 店員の声が響いた。


「ご飯、お持ちしました!」


「…………!」


 杏々が顔を上げる。


 店員が運んできたものを見て、妹も言葉を失った。


 それは茶碗ではなかった。大きな丼に、白いご飯が山のように盛られている。まさに、丼の上に小さな山ができていた。


「…………!」


 杏々の目が、今までで一番輝いた。


「ご飯……♡」


「一杯ではあるね」


 妹が遠い目をする。


 店主も満足そうに胸を張った。


「一杯です!」


「いっぱい……♡」


「気に入って頂けましたか?」


「うん!」


 杏々は嬉しそうに手を合わせた。


「いただきます」


 焼いた肉をご飯に乗せ、ぱくりと食べる。


「…………!」


 しばらく黙々と噛みしめたあと、杏々は一言だけ呟いた。


「合う」


「そりゃよかった!」


 肉を食べ、ご飯を食べる。肉を食べ、またご飯を食べる。杏々の箸は止まらなかった。


 店主は満足そうにその様子を眺めていたが、店員が小声で尋ねる。


「店長、普通の人はあれ、食べ切れますかね?」


「……無理だろうな」


 その時、杏々が顔を上げた。


「おかわりできる?」


「…………」


 店主の動きが止まる。


「できます!」


 即答だった。


「する」


「もう!?」


 妹が思わず声を上げる。


「うん」


「一杯分サービスって話だったよね?」


「次は払う」


「そこは律儀なんだ……」


「うん」


 店主は笑いながら、厨房へ向かって声をかけた。


「おかわり一つ!」


 ◇


 食事はその後も続いた。


 肉を食べ、ご飯を食べ、スープを飲み、キムチをつまむ。最後には冷麺まで注文した。


 妹はふと、店内を見回した。


 料理は美味しい。店員の感じもいい。店主も親切だ。それなのに、店内には空席が多かった。


「お姉ちゃん」


「ん?」


「ちょっと静かだね」


 杏々も店内を見回す。


「美味しいのに」


「だね」


 妹は店主へ声をかけた。


「すみません。少し聞いてもいいですか?」


「もちろんです」


「お客さん、前からこんな感じなんですか?」


 店主は少し困ったように笑った。


「実は、例の件で一時期かなり店を休んでいたんです」


「うん」


「その時に、もう潰れるらしいとか、閉店したらしいとか、そういう噂が広まってしまいまして」


 妹はスマートフォンを取り出し、店名を検索した。


「……やっぱり」


「何?」


 杏々が画面を覗き込む。


 検索結果には、『休業中?』『閉店?』『最近やっていない』といった古い情報が並んでいた。


「古い情報が結構残ってる」


「そうなんですよ」


 店主はため息をついた。


「再開したことを伝えたいんですが、こういうことには疎くて」


「じゃあ」


 杏々は焼肉を一切れ口に運びながら言った。


「言えばいいんじゃない?」


「え?」


「営業してますって」


 妹は杏々を見て、小さく笑った。


「まあ、お姉ちゃんならそう言うよね」


「?」


「分かりました。やりましょう」


 妹はスマートフォンを操作し始めた。


「ネットの店舗情報、直せるところから直します」


「そんなことまで?」


「ついでです」


 妹は営業時間や住所、アクセス、営業再開の状況、おすすめメニューなどを確認しながら、情報を一つずつ更新していった。


「お姉ちゃん」


「ん?」


「ブログ、書く?」


「うん」


 杏々もスマートフォンを取り出し、短い文章を打ち込んだ。数十秒後、画面を妹へ見せる。


「できた」


「早い」


 妹が画面を見る。


『焼肉おいしかった。


 ご飯いっぱいでした。


 ちゃんと営業してます。』


「…………」


「どう?」


「短っ」


「ダメ?」


「間違ってはいない」


「じゃあいい?」


「……まあ」


 妹は少し考えたあと、苦笑しながら頷いた。


「お姉ちゃんはこれでいいか。私が補足する」


 杏々の文章に、妹が店の詳しい情報を追加していく。さらに、今日撮っていた動画の中から、山盛りご飯を見て目を輝かせる杏々の場面を選び出した。


「これ」


「?」


「使お」


「何に?」


「サムネ」


「?」


「お姉ちゃんは気にしなくていい」


「うん」


 杏々はすぐに焼肉へ戻った。


 ◇


 数日後。


 杏々は家のソファでお菓子を食べていた。そこへ妹がスマートフォンを持ってやってくる。


「お姉ちゃん」


「ん?」


「この前の焼肉屋さん、すごいことになってる」


「?」


 妹が画面を見せる。


 そこには、店の前にできた行列が映っていた。


「いっぱい」


「うん。お客さん、戻ってきたみたい」


「…………!」


 杏々は嬉しそうに画面を見つめた。


「よかった」


「それでね」


「うん」


 妹が別の写真を表示する。


 そこには、新しく作られたメニュー表が映っていた。


『ご飯 杏々盛り』


「…………!」


 杏々が固まる。


「私」


「正確には、ご飯」


「私のご飯」


「だから、お姉ちゃんの所有物ではない」


 写真には、あの日杏々が食べたものと同じ、山のようなご飯が写っていた。その下には、注意書きが添えられている。


『※かなりの量です』


『※食べ切れる方のみご注文ください』


「…………♡」


 杏々は、かなり嬉しそうだった。


「なんか、ファイターの人たちに人気らしいよ」


「ファイター?」


「うん」


 妹が投稿を見せる。


『ファイト後に杏々盛りチャレンジ』


『これ食い切って一人前』


『いや量おかしい』


『杏々本人はおかわりしたらしい』


「人気」


「変な方向にね」


「食べてくれてる」


「まあ、それはそう」


「よかった」


「うん」


 妹はスマートフォンを置いた。


「お店も忙しくなってるって」


「じゃあ」


「?」


「また食べたい」


「焼肉?」


「杏々盛り」


「ご飯の方?」


「焼肉も」


「でしょうね」


「今日行く?」


「この前行ったばっかり」


「…………」


「その顔してもダメ」


 杏々は黙ったまま、じっと妹を見つめた。


 妹も負けじと耐える。


 しかし、数秒後には小さく息を吐いた。


「……来週ね」


「やった♪」


「負けた……」


 杏々はすぐにスマートフォンを取り出した。


「何食べる?」


「もう決めてるの?」


「ハラミ」


「うん」


「カルビ」


「うん」


「タン」


「うん」


「杏々盛り」


「はいはい」


 二人はまた、楽しそうに焼肉のメニューを眺め始めた。


 少し前まで、なくなっていたかもしれない店。


 けれど今は、肉の焼ける音がして、誰かがご飯を食べて、美味しいと言っている。


 それでいい。


 杏々にとっては、きっとそれが一番だった。


 ――そしてまた一つ、お気に入りのお店が増えた。

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