9食目 焼肉♪
休日。
杏々は家のソファでごろごろしながら、手にしたスマートフォンで焼肉の写真を眺めていた。画面をスクロールしても、出てくるのは焼肉、また焼肉。杏々はそのたびに、嬉しそうに目を細める。
「お姉ちゃん」
「ん?」
隣に座っていた妹が、杏々の画面を覗き込んだ。
「ずっと焼肉見てるね」
「うん」
「食べたいの?」
「うん」
「でしょうね」
妹は小さく笑うと、自分のスマートフォンを取り出した。
「じゃあさ。この前の件で助かったお店、覚えてる?」
「定食屋さん」
「それもあるけど」
「お蕎麦」
「あるね」
「焼肉」
「正解」
「…………!」
杏々が勢いよく起き上がる。
「行く?」
「行く」
「早い」
「今?」
「準備してからね」
「分かった」
杏々はもう立ち上がっていた。
「お姉ちゃん、まだ私、着替えてないんだけど」
「待つ」
「うん」
杏々は素直に座り直した。けれど、落ち着かない。妹が着替え終わるまでの間、何度もそちらを見ては、同じ質問を繰り返す。
「まだ?」
「今言ったばっかり」
「…………」
「焼肉は逃げないから」
「うん」
そう答えながらも、杏々はそわそわと待ち続けた。
◇
しばらくして、二人は街を歩いていた。
今日は杏々一人のおさんぽではない。隣には妹がいて、目的地までの道を案内してくれている。
「こっち」
「うん」
「次の角を右ね」
「うん」
杏々は妹の後ろを歩いていたが、ふいに足を止めた。
「お姉ちゃん?」
「…………」
杏々が見ているのは、通りの向こうにある別の焼肉屋だった。
「そっちじゃないよ」
「匂いした」
「焼肉屋さん、別のお店だから。今日はこっち」
「…………」
杏々は名残惜しそうにその店を振り返ったが、やがて妹の後を追った。
数分後、妹が足を止める。
「あ、ここ」
そこにあったのは、少し古めだが、きれいに手入れされた建物だった。赤い暖簾には『炭火焼肉 安⚪︎』と書かれている。入口には『営業中』の札が大きく掲げられていた。
「焼肉……♡」
「入ろっか」
「うん」
二人は店の中へ入った。
◇
「いらっしゃいませー!」
店内から元気な声が飛んでくる。
「二名です」
「はい、こちらへ――」
店員は二人を席へ案内しようとしたが、杏々の顔を見たところで動きを止めた。
「…………」
「どうしたの?」
「えっ」
店員は杏々と妹を交互に見たあと、慌てて店の奥へ走っていった。
「少々お待ちください!」
「?」
「店長ー!」
「なんだ?」
「来てます!」
「誰が?」
「例の!」
「例の!?」
奥から、ばたばたと慌ただしい音が聞こえてくる。数秒後、五十代くらいの、がっしりした体格の男性がエプロン姿で現れた。
店主は杏々を見るなり、目を見開いた。
「あなたが……!」
「?」
店主は杏々の前まで来ると、勢いよく頭を下げた。
「本当にありがとうございます!」
「…………」
杏々は店主ではなく、隣にいる妹を見た。
「知ってる人?」
「お姉ちゃんを知ってる人」
「そっか」
「違う違う」
妹が苦笑する。
店主は顔を上げると、改めて杏々に向き直った。
「この前の件です。うちも、あの業者からお金を借りていまして……」
杏々は少し考えたあと、ようやく思い出した。
「あ」
「はい」
「助かったお店?」
「そうです!」
店主はもう一度、深く頭を下げた。
「本当に助かりました。この店は、もう畳むしかないと思っていたんです。でも、契約を見直してもらえて、取り立てもなくなって……」
店主の声が少し震える。
「またこうして、店を続けられています」
杏々は店内を見回した。炭火の匂いが漂い、テーブルの上には焼肉用の網が置かれている。以前は失われるかもしれなかった光景が、今は当たり前のようにそこにあった。
「よかった」
杏々がそう言うと、店主は目元を押さえた。
「今日は、お代はいりません!」
「…………」
「好きなだけ食べていってください!」
「…………!」
杏々の目が輝く。
その変化を見逃さなかった妹が、横から声をかけた。
「お姉ちゃん、今かなり揺れたでしょ」
「ちょっと」
「ちょっと?」
「かなり」
「正直」
店主は笑いながら、もう一度勧めた。
「本当に遠慮しないでください!」
「でも」
杏々は少し考えた。
「全部はダメ」
「え?」
店主と妹が、そろって杏々を見る。
「お店、続けるんでしょ?」
「はい」
「じゃあ、お金払って食べる」
「でも!」
「美味しかったら、また来る。その時も払う」
店主はしばらく黙って杏々を見つめた。
杏々は、難しいことを考えているわけではないのだろう。店が続くなら、また食べに来る。食べたら、その分のお金を払う。ただ、それだけのことだった。
「……分かりました」
やがて店主は頷いた。
「では、普通にお代はいただきます」
「うん」
「でも、何か一つくらいはお礼をさせてください」
「…………」
杏々はまた考え込んだ。妹が隣から様子を見守る。
「お姉ちゃん?」
しばらくして、杏々は顔を上げた。
「ご飯」
「え?」
「一杯」
店主は目を瞬かせた。
「ご飯一杯?」
「うん」
「それだけでいいんですか?」
「いっぱい食べたい」
「…………」
店主は少し考えたあと、にやりと笑った。
「分かりました。最高の一杯を用意します!」
「?」
その笑顔を見て、妹は少し嫌な予感を覚えた。
◇
二人が席に着くと、妹はメニューを開いた。
「何にする?」
「カルビ」
「うん」
「ハラミ」
「うん」
「タン」
「うん」
「ロース」
「うん」
「ホルモン」
「食べる」
「野菜は?」
「食べる」
「じゃあ盛り合わせにしよっか」
「うん」
「あとキムチ。スープは?」
「飲む」
「冷麺は?」
「あとで」
「あとでなんだ」
妹は注文端末に次々と入力していく。
「こんな感じ?」
「もっと」
「まだ?」
「うん」
「お姉ちゃん、二人だよ?」
「うん」
「分かってる?」
「私、いっぱい食べるよ」
「それは知ってる」
妹が注文を送信すると、ほどなくして肉が運ばれてきた。カルビ、ハラミ、タン、ロース、ホルモン。皿が一つ、また一つとテーブルに並べられていく。
「…………♡」
杏々の顔が、見る見るうちに明るくなっていく。
「いただきます」
「まだ焼いてない」
「…………」
「お姉ちゃん、生で食べないでね」
「分かった」
妹が肉を網の上に置くと、じゅう、と食欲をそそる音が立った。
杏々は網の上をじっと見つめる。
「もういい?」
「まだ」
肉を焼く音が続く。
「もう?」
「まだ」
「…………」
「その顔やめて」
「お肉」
「知ってる」
「焼けた?」
「五秒しか経ってない」
「…………」
「待って」
「うん」
妹は肉を裏返し、もう少しだけ焼いた。やがて、ちょうどよく焼けたカルビを杏々の皿へ乗せる。
「はい、どうぞ」
「…………!」
杏々はすぐに箸を伸ばし、カルビを口へ運んだ。
「…………♡」
脂の甘みとタレの味、香ばしい焦げ目が口いっぱいに広がる。
「おいしい」
「よかったね」
「妹ちゃん」
「ん?」
「焼くの上手」
「お姉ちゃんが待てないだけです」
「?」
「まあいいや」
次はハラミ、タン、ロース。妹が焼き、杏々が食べる。杏々が気に入ったものを見つけるたび、妹は追加で注文していった。
「これ好き」
「どれ?」
「ハラミ」
「じゃあ追加しようか」
「うん」
妹が注文を送ると、店員がすぐに追加の皿を持ってきた。
◇
「失礼します!」
店員の声が響いた。
「ご飯、お持ちしました!」
「…………!」
杏々が顔を上げる。
店員が運んできたものを見て、妹も言葉を失った。
それは茶碗ではなかった。大きな丼に、白いご飯が山のように盛られている。まさに、丼の上に小さな山ができていた。
「…………!」
杏々の目が、今までで一番輝いた。
「ご飯……♡」
「一杯ではあるね」
妹が遠い目をする。
店主も満足そうに胸を張った。
「一杯です!」
「いっぱい……♡」
「気に入って頂けましたか?」
「うん!」
杏々は嬉しそうに手を合わせた。
「いただきます」
焼いた肉をご飯に乗せ、ぱくりと食べる。
「…………!」
しばらく黙々と噛みしめたあと、杏々は一言だけ呟いた。
「合う」
「そりゃよかった!」
肉を食べ、ご飯を食べる。肉を食べ、またご飯を食べる。杏々の箸は止まらなかった。
店主は満足そうにその様子を眺めていたが、店員が小声で尋ねる。
「店長、普通の人はあれ、食べ切れますかね?」
「……無理だろうな」
その時、杏々が顔を上げた。
「おかわりできる?」
「…………」
店主の動きが止まる。
「できます!」
即答だった。
「する」
「もう!?」
妹が思わず声を上げる。
「うん」
「一杯分サービスって話だったよね?」
「次は払う」
「そこは律儀なんだ……」
「うん」
店主は笑いながら、厨房へ向かって声をかけた。
「おかわり一つ!」
◇
食事はその後も続いた。
肉を食べ、ご飯を食べ、スープを飲み、キムチをつまむ。最後には冷麺まで注文した。
妹はふと、店内を見回した。
料理は美味しい。店員の感じもいい。店主も親切だ。それなのに、店内には空席が多かった。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「ちょっと静かだね」
杏々も店内を見回す。
「美味しいのに」
「だね」
妹は店主へ声をかけた。
「すみません。少し聞いてもいいですか?」
「もちろんです」
「お客さん、前からこんな感じなんですか?」
店主は少し困ったように笑った。
「実は、例の件で一時期かなり店を休んでいたんです」
「うん」
「その時に、もう潰れるらしいとか、閉店したらしいとか、そういう噂が広まってしまいまして」
妹はスマートフォンを取り出し、店名を検索した。
「……やっぱり」
「何?」
杏々が画面を覗き込む。
検索結果には、『休業中?』『閉店?』『最近やっていない』といった古い情報が並んでいた。
「古い情報が結構残ってる」
「そうなんですよ」
店主はため息をついた。
「再開したことを伝えたいんですが、こういうことには疎くて」
「じゃあ」
杏々は焼肉を一切れ口に運びながら言った。
「言えばいいんじゃない?」
「え?」
「営業してますって」
妹は杏々を見て、小さく笑った。
「まあ、お姉ちゃんならそう言うよね」
「?」
「分かりました。やりましょう」
妹はスマートフォンを操作し始めた。
「ネットの店舗情報、直せるところから直します」
「そんなことまで?」
「ついでです」
妹は営業時間や住所、アクセス、営業再開の状況、おすすめメニューなどを確認しながら、情報を一つずつ更新していった。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「ブログ、書く?」
「うん」
杏々もスマートフォンを取り出し、短い文章を打ち込んだ。数十秒後、画面を妹へ見せる。
「できた」
「早い」
妹が画面を見る。
『焼肉おいしかった。
ご飯いっぱいでした。
ちゃんと営業してます。』
「…………」
「どう?」
「短っ」
「ダメ?」
「間違ってはいない」
「じゃあいい?」
「……まあ」
妹は少し考えたあと、苦笑しながら頷いた。
「お姉ちゃんはこれでいいか。私が補足する」
杏々の文章に、妹が店の詳しい情報を追加していく。さらに、今日撮っていた動画の中から、山盛りご飯を見て目を輝かせる杏々の場面を選び出した。
「これ」
「?」
「使お」
「何に?」
「サムネ」
「?」
「お姉ちゃんは気にしなくていい」
「うん」
杏々はすぐに焼肉へ戻った。
◇
数日後。
杏々は家のソファでお菓子を食べていた。そこへ妹がスマートフォンを持ってやってくる。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「この前の焼肉屋さん、すごいことになってる」
「?」
妹が画面を見せる。
そこには、店の前にできた行列が映っていた。
「いっぱい」
「うん。お客さん、戻ってきたみたい」
「…………!」
杏々は嬉しそうに画面を見つめた。
「よかった」
「それでね」
「うん」
妹が別の写真を表示する。
そこには、新しく作られたメニュー表が映っていた。
『ご飯 杏々盛り』
「…………!」
杏々が固まる。
「私」
「正確には、ご飯」
「私のご飯」
「だから、お姉ちゃんの所有物ではない」
写真には、あの日杏々が食べたものと同じ、山のようなご飯が写っていた。その下には、注意書きが添えられている。
『※かなりの量です』
『※食べ切れる方のみご注文ください』
「…………♡」
杏々は、かなり嬉しそうだった。
「なんか、ファイターの人たちに人気らしいよ」
「ファイター?」
「うん」
妹が投稿を見せる。
『ファイト後に杏々盛りチャレンジ』
『これ食い切って一人前』
『いや量おかしい』
『杏々本人はおかわりしたらしい』
「人気」
「変な方向にね」
「食べてくれてる」
「まあ、それはそう」
「よかった」
「うん」
妹はスマートフォンを置いた。
「お店も忙しくなってるって」
「じゃあ」
「?」
「また食べたい」
「焼肉?」
「杏々盛り」
「ご飯の方?」
「焼肉も」
「でしょうね」
「今日行く?」
「この前行ったばっかり」
「…………」
「その顔してもダメ」
杏々は黙ったまま、じっと妹を見つめた。
妹も負けじと耐える。
しかし、数秒後には小さく息を吐いた。
「……来週ね」
「やった♪」
「負けた……」
杏々はすぐにスマートフォンを取り出した。
「何食べる?」
「もう決めてるの?」
「ハラミ」
「うん」
「カルビ」
「うん」
「タン」
「うん」
「杏々盛り」
「はいはい」
二人はまた、楽しそうに焼肉のメニューを眺め始めた。
少し前まで、なくなっていたかもしれない店。
けれど今は、肉の焼ける音がして、誰かがご飯を食べて、美味しいと言っている。
それでいい。
杏々にとっては、きっとそれが一番だった。
――そしてまた一つ、お気に入りのお店が増えた。




