ミナト、のこと
ミナトは傷だらけの子だった。
同期にアイドルみたいな服で講義に来ている子がいる、と嘲笑混じりに語る噂を聞いたのは、大学に進んで初めてのゴールデンウィークが明けた日のことだ。オリエンテーションで同じグループだったのがきっかけで、一緒に学食に行くようになったゴシップが好きな子。顔は少し覚えてるけど、名前はもう忘れちゃった。
服なんて何を着たっていいのに、とユミなら言い返してくれる気がする。ユミのことだから、豪華なドレスで講義に行くくらい平気な顔でやってしまうかも。これも一種の儀式だよ、なんて笑い飛ばして。
だから、私はその子のことが少し気になっていた。
その日は、えーと……ゴシップちゃんが自主休講の日で、久しぶりに一人で過ごす昼休みだった。五月の第二食堂は、サークルで知り合ったらしい先輩と後輩がごちゃ混ぜのグループとか、ゴシップちゃんみたいな子が高速で会話を繰り広げるテーブルとか、初夏の気配に当てられた浮足立った空気でいっぱいだった。
そんな騒がしさの中で、日当たりのいい窓際の一角だけが波が引くように静かだったのをよく覚えてる。そこにいたのがミナトだったから。アイドルみたいな服の子。噂の制服の子。紺のブレザーにチェックのスカート。確かにそれは、私たちが今いるキャンパスの風景からはふわりと浮いていた。
それでも、制服ちゃん――ミナトは当たり前のような顔でパスタランチを口に運び、ゆっくりと水を飲む。何かの撮影でもなければ、誰かの視線を気にしているわけでもない。そこで自分の昼休みを過ごしているだけ。
「ここ、座ってもいい?」
ミナトが座るテーブルに向かったこと、突然話しかけたこと……あの時どうして私の身体がミナトに向かったのかは、もう思い出せない。でも今振り返ると、大学食堂に高校の制服で出入りするその姿に、きっとユミの気配を感じていたんだ。儀式を作るのが上手なユミ。儀式のためならどんな障壁も気にしないユミ。もしかしたら、この子もユミに似てるんじゃないかと思った。
私が声をかけると、彼女はフォークを止めて顔を上げた。不安と警戒心で強張った瞳。じっと見下ろされて後ずさりする野良猫みたいに。
「……他のテーブルも空いてるけど。私のこと、笑いに来たの?」
「ううん。その制服、すごく可愛いなって思って」
半分はちょっとしたお世辞、でももう半分は本心だった。彼女は面食らった顔をして、それからゆっくりと、強張っていた肩の力を抜く。傷だらけの野良猫なら、ちろちろとミルクを舐めるみたいに。少しずつ彼女の縄張りが狭まって、私はそれに合わせて距離を詰めるように席に座った。
「……ありがとう。これ、本当は高校の時に着たかった服なんだ」
それが、私とミナトの最初の会話だった。
彼女は自分の名前をミナトだと名乗った。水上和子……カズちゃんと呼ばれていたのだと教えてくれたのはもっとずっと後のことで、でもあれがどんな日だったかはもう覚えてない。答案か郵便物か、偶然見かけた名前を何気なくミナトに聞いてみたのは覚えていて、彼女は特に本名を知られても気にしていなかったと思う。本名なんてただの名前の一つで、私の友達は『ミナト』だった。
ミナトは少しずつ、でも昼食を食べるのも忘れて自分のことを話し始めた。きっとこんな話、今まで誰も聞いてくれなかったんだと思う。大好きだった家族のこと、それらを全て壊していった宗教のこと、灰色だった学生生活のこと、そうやって自分が『キョーカイ』という狭い世界に閉じ込められていたこと。本当はこんな制服を着て、放課後にクレープを食べて、カラオケに行って、そんな当たり前を送りたかったこと。
自分が今やっているのは、ただのコスプレなんかじゃない。奪われた人生をやり直すための復讐なのだと、ミナトは熱っぽく語ってくれた。昼休み終わりのチャイムが鳴っても二人の皿にはパスタが残ったままで、私たちは慌てて放課後の約束をした。
「変だよね。大学生にもなって、中学生から遊び直したいなんて」
講義後に再び顔を合わせたラウンジで自嘲して笑うミナトを見て、私は胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛んだ。そんなわけないでしょ、と思わず立ち上がって反論する私のことを、ミナトは不安そうな目で見上げて、そして気圧されるように謝った。別にミナトに謝ってほしいわけじゃなくて、私も少し涙ぐんだ声でどうにか彼女をなだめた。
父が決めた習い事、母が選んだ洋服、厳格なだけの門限、その他明文不文の禁止事項のリスト……私の青春もまた、見えない檻の中で置き去りのままだ。だから私には、ミナトがこうして青春を取り戻そうとする気持ちがよく分かった。
でも、私にはユミがいた。逆に言えば、ユミがいたというだけだ。ユミは魔法使いみたいに、河川敷を儀式の場に変えて、私を連れ出してくれた。ユミが作った新しい儀式だけが、私の呼吸できる場所だった。溺れながらユミの手を握ってきらきらした水面に顔を出す……それが私にとっての青春だったから。
ミナトが復讐と名付けた作戦は、一見するとただ二人で遊びに出かけるだけの平和なものだった。駅前のクレープ屋で一番カロリーの高いメニューを頼むこと、カラオケで流行りの曲を歌うこと、市立図書室の自習スペースで並んで勉強すること。
中でもミナトが強くこだわっていたのは、ゲームセンターのプリクラだった。私服の私と制服のミナトが並んで笑顔でピースするキラキラの写真。肌は陶器みたいに真っ白に、目はぐりぐりと大きく、もっと丸く。慣れないタッチペンでスタンプを貼り付けたシールを手帳の裏に並べて、こうしてたくさん写真を残すのが、彼女なりの証明のつもりだと言っていた。
ミナトは私にも同じような制服を着てほしいみたいだったけど、結局最後までお互いその話はしなかった。大学生にもなってアイドルみたいな制服を着て出かける、というのは実際に向き合えばやはり恥ずかしいことだったし、ミナトも彼女自身の復讐に私を巻き込む勇気がなかったんだと思う。
結局のところ、ミナトが描き出す儀式は、世界を書き換えるにはあまりに独りよがりで脆かった。
ユミの作る儀式は、現実を塗り替えてしまう圧倒的な説得力があったから。河川敷の石ころに呪いを込めて、何でもない一日を新たな祭日に変える、誰にも有無を言わせない言葉の力。ユミが「これがルールだ」と言えば、世界はそれに従った。私が彼女の手つきだけなぞっても真似できない魔法の力。
もちろんミナトにもそんな力はなくて、そうして青春のやり直しを繰り返していくうちに少しずつ、少しずつミナトはすり減っていった。
最後の日のこと、今でもよく覚えている。
「マイちゃん、前に地元の友達のこと教えてくれたでしょ。魔法の儀式を作ってくれる子のこと」
ユミのことは何度か話したことがあったけど、ミナトは『儀式』という言葉に抵抗があって、ユミのこともかなり警戒していた。ユミに教えてもらった儀式も、ミナトはどうも気乗りしなかった。最初の頃は、ミナトをユミに会わせれば何か変わるかもしれないと思っていたけど、ミナトの無意識にこびりついた宗教観と伝統の意識は予想以上に根深くて、捨て去れない心の奥底に残っていた。
だからこそ、唐突にミナトの口からユミの話が飛び出したのは、少し不思議だった。
「その子なら、解けない魔法もかけられる?」
「どうだろう……でも、解けない魔法はないと思う。だからユミは、いっぱい儀式を考えてくれたんだよ、きっと」
「じゃあさ、もしも魔法が解けちゃったら、もう一回儀式をしてくれない? マイちゃんになら、任せられるから」
どんな儀式をしたらいいのかな、とは聞けなかった。ミナトは私に制服を手渡して、そのまま姿を消してしまったから。
助けられた人はまた別の人を助けるようになる、なんてよく言うけれど。どうやれば私はミナトを助けられたんだろう。結局ユミの真似しかできなかった私に、彼女の手を引く資格があったのかな。ミナトが制服を残していなくなった今でも、時々そんなことを思う。




