キョーカイちゃん、のこと
水上和子。カズちゃん。キョーカイの子。大学進学後に自殺するまで数年の間「ミナト」と名乗る。
母親と祖父母が熱心な某新興宗教の信者で、父親は正しい教えに耐えきれず逃げ出した、と言い聞かされて、疑問を差し挟む暇もなく弟も含めた家族五人で小学校卒業まで育つ。幼い頃から母に連れられて近所で勧誘活動を繰り返す姿が同級生の目に入り、小学校では「キョーカイちゃん」というあだ名で通っていた。
しかし、この「キョーカイちゃん」というあだ名を重大ないじめと断定した当時の担任が、多様性尊重と差別防止のための特別カリキュラムを数週間にわたって乱発する。最終的には、『首謀者』たちの水上に対する謝罪と反省文の提出をもって事態は収束と認定されたらしい。
しかしクラスメートから見れば、水上が道徳や社会の教科書の向こう側にいる特殊な存在に押し込められて、あだ名で呼び合える気軽な関係ではなくなった、というだけだ。担任がニュートラルなあだ名として提案した「カズちゃん」は、もちろんほとんど使われないまま卒業に至った。この件がきっかけで、当時の同級生とは最後まで疎遠だったという。
水上自身も「キョーカイちゃん」という悪気のないあだ名一つでクラスメートとの関係を崩壊させた担任のことを深く恨んでいた。あの件がなければ普通の中学校に行ってもっと普通の友達ができていたのに、子供の社会が壊れるのはいつも頭の固い大人たちのせいだと、よく怒っていた。
――というような話を、マイは枝分かれになった取り留めのないエピソードをあちこち行ったり来たりしながら、私に語って聞かせた。もっとも、水上はマイの前では「ミナト」と名乗っていたらしいので、水上というのさえ本名なのかは怪しいところだ。だって、わざわざ本名を隠そうとして、連想ゲームのような名前を選ぶだろうか。
「じゃあ、その水上……ミナトさんが、去年亡くなって、今は教団のお墓に入ってるのね?」
「そう。でも、ミナトはそんなの嫌だって言ってた。キョーカイの子じゃなかったら、本当はもっと普通の学生生活を送れるはずだったのに、って」
「だから、ミナトさんのお葬式をやり直したい……っていうか、ちゃんとマイなりに見送りたくて、電話してきたんだ」
「う、うん! そうなの……あっ!」
スマホのスピーカーから、ガタンッと床にぶつかる大きな音が響く。慌てた様子のマイの声が遠くから近づいて、思っていた通りに言い当てられて驚いたのだと興奮交じりに告げた。それから、やっぱりユミってこういうオリジナルの儀式を作るのが得意だったもんね、としみじみ呟いた。
得意なもんか。オリジナルの葬式を考えるのが得意ですなんて、特技の欄にも書けやしない。
きっとマイが得意だと言って思い出しているのは、私が中学生の頃に何度か考えた勝手な節分や七夕のことだろう。マイは、私が作り上げるもっともらしい『非常識』がお気に入りだった。平日は授業と部活で忙しいから、毎年次の土曜日にずらすのは当たり前。縁起の悪さだって、二人が気にしないならどうでもよかった。私たちの常識が認めるなら、街一つ消し去るくらい簡単だったと思う。
だって、私はマイのために考えてあげたんだから。
河川敷で「鬼」と書いた石を対岸に届くまで何度も投げてみたり、願い事を書き込んだフラワーペーパーを手持ち花火で燃やしてみたり、一つ一つの所作に適度な意味を込めて、私たちはその場をぐるぐると回ってみせた。マイはそういうちょっぴり日常から外れた『儀式』をスラスラ作り上げる私のことを、憧れの視線で見ていた。きっと、マイの家では絶対にこんなことは許してくれないから。
もちろん、こんな儀式には宗教的背景も江戸時代から続く伝統もない。私とマイだけが楽しむことに、そんなものはいらなかった。木曜日に家で豆を投げるより楽しいことをしたい。自分の願いごとを笹につるして誰かに見られるのは恥ずかしい。それなら、今日からこれが正しい儀式です……やっていることは創作マナー講師と同じで、かれらも私もただ人より嘘をつくのがちょっと上手なだけだ。
だから、まるで新しい宗教みたい、というマイの言葉もあながち間違いではないと思う。
そういえば、大学に進学してから初めてのお正月に「飲みやすいお屠蘇ってないかな?」と言われて、カレー粉とスパイスリキュールとチャイ(しかもアーモンドミルクで割るのだ)を混ぜたような不思議なレシピを送った気がする。三色の猪口に三回に分けて注いで、それぞれ左右に三度回して飲むべし、なんて仰々しさも添えて。結局、あのレシピが上手くいったのかは結局聞いていない。
いずれにしても、私は誰かが惰性で守ってきた形だけの伝統を勝手にアレンジしただけで、オリジナルなんて名乗れるものじゃない。葬式とか祭祀とか、死んだ誰かのための儀式を作り出すなんてホラー映画の導入みたいだし。マイが話す水上という人間(そもそも本当に人間だろうか?)のことだって、今日知ったばかりでどうすれば喜ぶかも分からないし。何より私が考える必然性がなかった。
……いや、実際のところはそんな冷静で丁寧な言葉で語れるものではない――話を聞いている限りだとおそらく――高校を卒業してから私とマイがしばらく疎遠になった原因の一つであろう女のために、私とマイの秘密の遊びを汚したくなかった。マイがこんな女を弔おうだなんて相談してくること自体、私にとってはある種の裏切りだ。しかし、私がここで感情のままに断ればどうなるか。その結末も想像にたやすく、またどうしても避けねばならないはずだった。
マイの相談が電話越しでよかった。音にさえよく気を付ければ、イライラを逃がすためにクッションにがりがりと爪を立てているのも、きっとバレずに済むだろうから。私は明確に怒っていて、そしてそれ以上に焦っていた。
「えーと……マイはどう見送りたいとか、自分では何か考えてみた?」
「ううん。だって、ユミの方がいろんなこと知ってるし……私が考えても、正しいか分からないし……」
篠宮マイ。私とは小学校の頃からの幼なじみで、高校まで同じ学校で過ごしていた。地元ではちょっとした名家の生まれで、頭が凝り固まった父とそれに付き従うだけの母に厳しく育てられた結果、自分の常識から半歩もはみ出せない真面目で正直な子に育つ。小学校では階段を一段抜かしで上がる一過性のブームに乗れず変な子扱い。中学校ではちょっとした外出にも親の許可が必要で、そのノリの悪さでクラスの中心からはほんのりハブられていた。
私から見ても、マイは確かにつまらない子だったと思う。こんなお遊びのおまじない一つ考えるのもおぼつかない不自由な子だった。不自由というだけなら、消しゴムに誰かの名前を書いて祈っていた子と同じだけど、マイはそれ以上に意味もなく強い権威を求めて憚らなかった。
テレビや本で『正統』だと紹介されている無駄に細かい作法にこだわるのがまどろっこしくて、そんなのに正解も間違いもない、と突っぱねるとマイは困った顔をした。だから、最初はただ言いくるめてやろうと思っただけだ。
でも、目の前で一つ一つマイの主張する『伝統』を解いて見せただけで、まさかあんなに驚くなんて。私のちょっとした嘘で、マイをつまらない常識の足場からこんな簡単に連れ出せるなんて。マイが隣の席から恐る恐る「ユミちゃん、それあたしもやっていい?」なんて尋ねてきたこと、今でも思い出す。
マイの母親相手に三日遅れの七夕に連れ出す許可を取り付けたのも、マイにとっては魔法のように見えていたと思う。マイさんと一緒に自由研究で花火の形を観察したくて、昼に河川敷で花火をしたいんです、昼に花火をするのは子供だけでも十分に安全で……先に何度かマイの家に遊びに行っておいてよかった。突然家に来た子供が花火は安全だなんて言い出したら、しっかり警戒されて追い出されていたはずだから。
花火を選びながら、いかにも頭が悪くなりそうな若者の遊びに出かけていいですかなんて、そんなのバカ正直に言うからみんなと遊べないんだよ、と教えてあげたけど、マイはピンときていないようだった。でも、あんな広いだけで何もない家で育ったら、ただまっすぐなだけの子に育つのも無理はない。
そう、マイはまっすぐなだけだ。
だって、本当はマイと同じ大学に行くはずだった。マイが私とそう約束したから。でも、可愛い娘を遠くに行かせるのは心配だというくだらない親のこだわりで、結局マイだけが一回りも二回りもレベルを下げた県内のパッとしない私大に進むことになってしまった。女に学問はいらないんだって、と両親と姉の三人から言い聞かせられたと告げるあの時のマイは、裏切られた私の悲しみをぶつけるにはあまりに小さくて弱々しかった。
大学卒業までの何年か親をごまかすくらい、私に相談してくれれば簡単だったのに。そんな負け惜しみを伝えられないまま、マイと私は新幹線のホームで抱き合って別れた。それから――きっかけはどうあれ――私と離れてあのキョーカイ女とよろしくやっていたんだから、やっぱり私にとっては裏切りと変わらない。
「好きだったものを供えるとか、お香を焚くのは定番だけど……それはどう?」
「でもね、お墓の場所は教えてもらえなかったの。それに、あんなに嫌ってた場所に閉じ込められてるミナトにお線香を上げても、ちゃんと供養になるのか分からなくって」
「それは違うんじゃない? だって、あのお墓にいるのは水上さんで、マイが一緒にいたのはミナトさんだし」
だから、見方を変えればミナトさんはまだ誰にも供養されてないって言えるかもね、と呟いてみせると、マイはまた驚いた様子で、しかし今度はスマートフォンをしっかり握ったまま息を呑んだ。
「じゃあ……お母さんが連れて帰ったのはカズちゃんの身体で、ミナトのことはまだ……私がやらないといけないんだ。ねぇ、ユミ。どうしたらいいかな?」
……はぁ!? マイの言葉を聞いて反射的に振り上げた私の拳をぐりぐりと飲み込んだクッションが、勢いを吸収しきれず床にすり潰されて私の代わりに悲鳴を上げる。マイもマイで素直すぎるのだ。あんな家族と宗教に縛られて死んだだけの女を、優しくカズちゃんなんて呼ばないで。水上なんかにマイはもったいないのに。
そもそも、水上はマイとどういう関係だったのか。そう尋ねるのは簡単だけど、答えによっては電話先でもごまかせないほど動揺してしまうかもしれない。そう……少しずつ、少しずつ。
「……じゃあ、私たちでお墓を作ってあげるのはどう? マイとミナトさんだけのお墓を立てて、もう一回お葬式をして、ちゃんとミナトさんを見送ったらどうかな」
「お墓? でも、もうお骨は収められちゃったし、そもそもどこにあるかも分からなくて……」
「いいんだよ、別に。遺品を依代にするのも儀式の一つなんだから。神道では遺品を霊璽にすることもあるしね」
「そうなんだ……うん、それなら私でもできそう」
嘘はついてない。本来は白木の柱で作った霊璽に魂を宿らせる儀式で、代わりに遺品がその役目を引き受けることがあるという。マイが適度な権威や伝統に弱いことは知っていた。だって、私の儀式はそうやって作られていて、世界を書き換えるエネルギーの源だから。
「ミナトさんが使ってたもの、ミナトさんからもらったもの……なんでもいいよ。マイは何か持ってない? それを核にしてお墓を作ろうよ」
「あのね、ミナトはよく制服……ブレザーの可愛いのを着てたの。そうね……よく、東京の高校の子が着てるみたいな」
高校の制服? 思いもよらない答えにそう聞き返すと、マイはまたあちこちに散らばる水上との思い出を語り始めた。
担任の一面的な正義感、殊更に強調されるいじめの重大さ、悪魔のような同級生から娘を救いたい親心、その全てが不幸に噛み合ったおかげで、水上はもともと予定のなかった遠く離れた教団の中高一貫校に進学させられたらしい。
卒業する先輩からのお下がりが伝統とされた質素でぼろぼろの制服、娯楽のない真っ白な寮、狭義が生活の隅まで入り込む厳しい日々……そんな環境でも明るく笑顔の同級生に囲まれて数ヶ月が経ち、水上は徐々に自分が置かれた状況に疑問を持つようになった。
そうだ。あれもこれも、私が「キョーカイちゃん」だなんてあだ名を付けられたせいだ。あの担任が勝手に大騒ぎしなかったら。ママがこんな宗教に入っていなかったら。水上は次第に周囲への恨みを募らせると同時に、自分が謳歌するはずだった空白の六年間を取り戻す計画を立て始める。
その一つが、教団と関係のない大学に進んで、憧れの制服を着ることだった。
マイが語ったのはおおよそこういう事情だった。制服で講義を受ける、制服で遊びに行く……水上はそういう自分の人生に対する報復に固執していて、あろうことかマイにも制服を着るよう頼み込んでいたという。本当に許せない。
「それで、マイはミナトさんの制服持ってるの?」
「うん。実はね、ミナトが死ぬ前の日にお揃いの制服をくれたの。自分のと一緒に。預かっててほしいって」
「じゃあさ……その制服で、ミナトさんのお墓を作ってあげようよ」
お揃いの制服……そうそう、こういうのだ。屋上に靴を置いていくみたいに、自分の痕跡を誰かに託す投げやりな願い。水上はマイに形見でも残そうとしたんだろうけど、そんな布きれ一つで吹き飛ぶ人生なんて私の敵じゃない、と思った。こういうのはもっと、相手の身体を、心を切り刻んでから死ぬものだ。
すばしっこく現世を逃げ回る「ミナト」の姿を消し去るには、これが一番早い。
私の言葉をじっくり噛み締めてから「やっぱり、ユミってすごいね」なんて呟く電話先のマイの声は、やっと救いが得られたとでもいうように、ずっと背負っていた重荷が魔法で軽くなったみたいに、明るくて軽やかだった。




