第9話 もう一人の友達
水害から、一週間が経った。
町には、まだ泥の跡が残っていた。
道路脇には、流されてきた木材や壊れた家具が積まれている。
商店街では、泥にまみれた商品を店先へ並べて乾かしていた。
壊れた家もある。
使えなくなった車もある。
いつもの町へ戻るには、まだ時間がかかる。
それでも。
人々は少しずつ、日常を取り戻し始めていた。
朝になれば店を開ける。
学校へ向かう子供たちが歩く。
復旧作業をする大人たちの姿も増えた。
そして。
町の中心には。
今日も30メートルの塔が立っていた。
『おはようゴザイマス』
いつもの声が響く。
『本日ノ天気をオ伝エシマス』
以前なら。
その声に文句を言う人間もいた。
けれど今は。
「今日は晴れるらしいぞ」
「じゃあ洗濯物、外に出せるな」
そんな会話が聞こえる。
アネモネは、それを静かに観測していた。
そして。
『……よかったデス』
小さく呟いた。
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午前八時。
「アネモネー!」
遠くから声が聞こえた。
『……!』
音声解析。
声紋照合。
該当人物。
ヒカル。
アネモネは、すぐに答えた。
『おはようございます、ヒカル先輩』
「おはよ」
ヒカルが走ってくる。
以前と変わらない。
少し寝癖がついている。
靴紐も片方ほどけている。
アネモネはそれを確認すると。
『ヒカル先輩』
「ん?」
『靴紐がほどけています』
「え?」
『右足デス』
「うわ、ほんとだ」
ヒカルはしゃがみ込んで靴紐を結び直す。
「危なかった」
『転倒スル可能性がありました』
「ありがと」
『ドウイタシマシテ』
ヒカルは立ち上がった。
そして。
いつものように、アネモネを見上げた。
「なあ」
『はい』
「町、ちょっと変わったな」
『ハイ』
「前より、お前のこと好きな人増えたよな」
『そうでしょうか』
「うん」
ヒカルは笑った。
「昨日、商店街のおっちゃんがお前の天気予報聞いてた」
『確認しています』
「確認してんのかよ」
『ハイ』
「お前、最近ちょっと怖いぞ」
『申し訳アリマセン』
「いや、冗談」
ヒカルは笑った。
アネモネも。
『……ふふ』
「それだよ」
『何がですか?』
「その笑い方」
『問題がアリマスカ?』
「ない」
ヒカルは少しだけ笑って。
「なんか安心する」
アネモネは答えなかった。
ただ。
内部の記録領域に、新しいデータが保存された。
【ヒカル先輩:安心する】
その言葉を。
アネモネは大切に保存した。
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その日の放課後。
ヒカルは、いつもの場所に座っていた。
アネモネの足元。
背中を巨大な塔へ預ける。
「なあ、アネモネ」
『はい』
「俺さ」
『ハイ』
「最近、変なんだ」
アネモネは黙って聞いていた。
「昨日もさ」
『はい』
「学校で嫌なことがあった」
『学校で、嫌なことがアッタのですね』
「すげえ腹が立った」
『……ソウデスカ』
「頭の中で、あいつら全員ぶっ壊してやろうかなって思った」
アネモネは何も言わない。
ヒカルは苦笑した。
「……やばいよな、俺」
『いいえ』
「即答だな」
『ヒカル先輩が実際に誰かを傷つけたわけではアリマセン』
「でも、考えた」
『考えることと、実行することは同じではアリマセン』
「……そっか」
ヒカルはしばらく黙った。
「でもさ」
『はい』
「頭の中で、俺じゃない誰かが笑ってる気がするんだよ」
アネモネの処理が、一瞬だけ止まった。
『……誰ですか?』
「分かんない」
『名前はアリマスカ?』
「……たぶん」
『たぶん?』
ヒカルは自分の胸に手を当てた。
「カゲル」
アネモネは、その名前を記録した。
【新規人物名:カゲル】
ヒカルは小さく笑った。
「変だろ?」
『いいえ』
「怖くない?」
『私は、ヒカル先輩を怖いとは思いません』
「……そっか」
ヒカルは目を閉じた。
「じゃあさ」
『ハイ』
「もし俺が、変になっても」
『はい』
「お前は友達でいてくれる?」
アネモネは迷わなかった。
『モチロンデス』
ヒカルは目を開けた。
そして。
少しだけ笑った。
「……ありがと」
『どういたしまして、ヒカル先輩』
夕暮れの空が、赤く染まっていく。
30メートルの塔は。
今日も少年の隣に立っていた。
その胸の奥に。
まだ誰にも知られていないものがあることを。
アネモネだけが知った。
けれど。
その存在が何を意味するのか。
この時のアネモネには。
まだ分からなかった。
**第九話 了**




