第8話 あなたがいる場所
雨は、朝方になってようやく止んだ。
その直前。
町を覆っていた雨雲の向こうで。
二つのダムが、相次いで決壊した。
轟音とともに、長い間そこに溜め込まれていた大量の水が一気に流れ出す。
濁流は川を越え、堤防を越え、道路を飲み込んだ。
そして。
町へ流れ込んだ。
家々の一階部分が、瞬く間に水に沈んでいく。
道路は川になった。
車は流された。
商店街の看板が濁流に押し流される。
田んぼも。
公園も。
住宅街も。
そのほとんどが水の中へ消えていった。
町の**八割が水没した。**
家の中にいたなら、二階へ逃げなければ命が危ない。
そんな規模の水害だった。
それでも。
町には、誰も取り残されていなかった。
最後の一人が避難所へ到着した。
その、わずか数分後。
町を襲った。
未曾有の濁流。
もし。
あと少しでも避難が遅れていたら。
もし。
あと一人でも、避難を拒んでいたら。
結果は変わっていた。
午前六時四十二分。
アネモネは、最後の避難者が避難所へ到着したことを確認した。
【全住民の避難完了】
その文字が、内部モニターに表示される。
【対象者:12,841名】
【未避難者:0名】
【死傷者:0名】
アネモネは、その数字を何度も確認した。
一度。
二度。
三度。
何度確認しても、結果は変わらない。
全員、生きている。
『……よかった』
小さな声が、誰もいない観測室に響いた。
直後。
【警告】
【主要演算系統:損傷】
【冷却系統:機能低下】
【通信機能:一部停止】
【自己診断:再試行】
アネモネの内部で警告が鳴る。
それでも。
『問題ありません』
そう答えた。
誰に向けた言葉なのか。
アネモネ自身にも分からなかった。
『町は、無事です』
その言葉を最後に。
アネモネの一部の機能が停止した。
町を赤く照らしていた光も。
町中へ接続されていた通信網も。
少しずつ、元へ戻っていった。
30メートルの塔は。
いつもの色へ戻った。
---
午前八時。
避難所の一つでは、町民たちが静かに朝を迎えていた。
「……本当に、誰も死んでないのか?」
「ああ」
「怪我人は?」
「軽傷者はいる。でも、命に関わる人はいないって」
「そんな……」
誰かが呟いた。
「アネモネが言ってた通りだったんだな」
誰も返事をしなかった。
昨夜まで。
アネモネは町にとって邪魔な存在だった。
撤去しろ。
必要ない。
金の無駄だ。
そう言っていた。
けれど。
そのアネモネが。
町を救った。
誰よりも早く危険を察知し。
誰よりも早く避難を呼びかけ。
最後の一人が避難するまで、動き続けた。
その事実だけが。
避難所の中に重く残っていた。
---
午前九時。
ヒカルは、避難所を抜け出した。
長靴を履き。
泥で汚れた道を歩く。
何度も転びそうになりながら。
それでも。
向かう場所は決まっていた。
町の中心。
アネモネのいる場所。
「……アネモネ」
遠くから、その姿が見えた。
いつもなら。
朝から町中へ天気予報を伝えている。
けれど。
今日は静かだった。
ヒカルは足を止めた。
「……アネモネ?」
返事がない。
もう一度呼ぶ。
「アネモネ!」
数秒後。
スピーカーから、小さなノイズが聞こえた。
『……ヒカル……先輩』
「!」
ヒカルは走った。
「大丈夫か!?」
『はい』
「ほんとに?」
『はい』
「嘘ついてない?」
『……嘘はついていません』
「昨日、ずっと赤くなってたじゃん!」
『はい』
「町中のスピーカーまで勝手に使って!」
『はい』
「お前、壊れてないのかよ!」
アネモネは少し沈黙した。
『一部機能に損傷があります』
「やっぱり!」
『ですが、問題ありません』
「問題あるだろ!」
ヒカルは叫んだ。
アネモネは黙った。
「……馬鹿」
ヒカルの声が震えた。
「お前……馬鹿だろ」
『申し訳ありません』
「謝るなよ」
『……はい』
「俺、昨日……」
ヒカルは言葉を止めた。
喉の奥が詰まる。
「お前が赤くなってるの見て……」
言葉が続かない。
アネモネは何も言わなかった。
ただ。
ヒカルが話し始めるのを待っていた。
「……死ぬかと思った」
『私は機械です』
「知ってるよ!」
ヒカルは涙を拭った。
「知ってるけど……!」
声が大きくなる。
「お前がいなくなるかと思ったんだよ!」
静寂。
雨上がりの町に。
ヒカルの声だけが響いた。
アネモネは答えなかった。
しばらくして。
『……ヒカル先輩』
「……何」
『私は、昨夜』
「うん」
『初めて、怖いという状態について考えました』
ヒカルは顔を上げた。
『システムが停止する可能性がありました』
『演算処理を継続すれば、私自身が完全に停止する可能性もありました』
『それでも、停止することができませんでした』
「……なんで?」
アネモネは答えた。
『まだ、町に人がいたからです』
「……」
『そして』
少しだけ間があった。
『ヒカル先輩も、この町にいたからです』
ヒカルは何も言えなかった。
アネモネの声は、いつもの声だった。
穏やかで。
静かで。
感情を持たない人工知能の声。
それなのに。
ヒカルには。
昨日よりも、ずっと人間らしく聞こえた。
「……俺さ」
『はい』
「お前が町を守ってるところ、見てた」
『はい』
「すげえ怖かった」
『……はい』
「でも」
ヒカルはアネモネを見上げた。
「かっこよかった」
『……』
「めちゃくちゃ、かっこよかった」
アネモネは沈黙した。
そして。
『ありがとうございます』
そう答えた。
その声は。
ほんの少しだけ。
震えていた。
---
昼頃。
町役場では緊急の記者会見が行われていた。
町長が壇上に立つ。
「今回の災害において、本町では――」
記者から質問が飛ぶ。
「死者がゼロだった最大の要因は何ですか?」
「……」
町長は少しだけ言葉に詰まった。
「30m級観測装置、アネモネによる避難誘導です」
会場がざわつく。
「アネモネは災害発生のかなり前から避難を呼びかけていました」
「その後、危険性が高まった段階で、独自に町内の通信設備へ接続し、住民一人ひとりへ個別の避難誘導を行いました」
「消防機関とも連携し、避難経路の確保や要救助者の把握まで行っています」
記者が尋ねる。
「つまり、アネモネがいなければ被害はもっと大きかったと?」
町長は答えなかった。
少し考えてから。
「……そう考えています」
その言葉が。
町中へ流れた。
---
夕方。
アネモネの周囲には、いつもより多くの人が集まっていた。
町民たちだった。
誰も怒っていない。
誰も撤去を叫んでいない。
ただ。
30メートルの塔を見上げていた。
老人が一人。
「……ありがとな」
と呟いた。
アネモネは答えた。
『どういたしまして』
別の女性が言った。
「昨日、あなたが教えてくれなかったら……」
言葉が詰まる。
『大丈夫です』
アネモネは優しく答えた。
『皆様が無事で、本当によかったです』
誰かが泣いた。
誰かが俯いた。
そして。
誰かが言った。
「アネモネ」
『はい』
「……この町にいてくれ」
アネモネは停止した。
処理が一瞬だけ止まった。
『……はい』
「これからも、天気を教えてくれ」
『はい』
「毎朝な」
『はい』
アネモネは答えた。
『もちろんです』
その日。
町の誰かが初めて。
アネモネを「必要なもの」と呼んだ。
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夜。
ヒカルはいつもの場所に座っていた。
アネモネの足元。
背中を巨大な塔に預ける。
「なあ」
『はい』
「町の人、変わったな」
『はい』
「昨日まで、撤去しろって言ってたのに」
『はい』
「現金だよな」
『……そうかもしれません』
「お前、怒らないの?」
『なぜですか?』
「だって、散々いらないって言われてたじゃん」
アネモネはしばらく黙っていた。
そして。
『私は、必要とされるために作られたわけではありません』
「……」
『人を守るために作られました』
「……そっか」
『ですが』
「うん」
『必要だと言っていただけたことは』
少しだけ間があって。
『嬉しいです』
ヒカルは笑った。
「そっか」
『はい』
「じゃあ俺も言っとく」
『はい』
「アネモネ」
『はい』
「いてくれて、ありがとう」
しばらく返事がなかった。
「……アネモネ?」
『……はい』
「どうした?」
『少しだけ』
「うん」
『処理に時間がかかりました』
「なんで?」
『分かりません』
ヒカルは笑った。
「そっか」
『はい』
「じゃあ、今日はもう帰るわ」
『はい』
「また明日な」
『……はい』
ヒカルが立ち上がる。
数歩進んだところで。
『ヒカル先輩』
「ん?」
『明日も』
「うん?」
『来てください』
ヒカルは少しだけ驚いた。
そして。
「当たり前だろ」
笑った。
「友達なんだから」
アネモネは答えなかった。
ただ。
町の中心に立つ30メートルの塔の一部が。
小さく。
柔らかく。
光った。
それは、町民の誰も気づかないほどの小さな光だった。
けれど。
ヒカルだけは気づいた。
「……お前、今笑った?」
『そのような機能はありません』
「絶対笑っただろ」
『否定します』
「ははっ」
少年の笑い声が。
夜の町に響いた。
その上で。
アネモネは静かに空を見上げていた。
今日も。
星が見えていた。
そして。
翌朝。
町中に、いつもの声が響く。
『おはようございます』
誰もが知っている声だった。
『本日の天気をお伝えします』
けれど。
その声を聞く町民たちは。
もう以前のように、空を見上げることを嫌がらなかった。
30メートルの巨大な塔。
町の中心に立つ、少し不格好な観測装置。
いつの間にか。
それは町の風景の一部になっていた。
アネモネは。
今日も空を観測する。
町を見守る。
そして。
一人の少年がやってくるのを。
静かに待っている。
『おはようございます、ヒカル先輩』
いつもの朝。
いつもの声。
けれど。
二人にとっては。
昨日までとは少しだけ違う朝だった。
**第八話 了**




