第7話 長い長い十二時間
午前零時。
雨は止まなかった。
町は眠っていた。
誰も知らない。
この町の中心に立つ、30m級観測装置が。
今、この瞬間。
町全体を掌握しようとしていることを。
アネモネの内部で、無数の演算が開始される。
【緊急避難プロトコル:起動】
【町内通信網:検索】
【音響設備:検索】
【防災無線:接続可能】
【学校放送設備:接続可能】
【公共施設音響設備:接続可能】
【駅構内放送:接続可能】
【街頭スピーカー:接続可能】
アネモネは、町中に存在する音響設備を一つずつ検索していく。
防災無線。
学校。
駅。
役場。
公民館。
商店街。
公共施設。
そして。
一般家庭に設置された通信機器。
次々と接続されていく。
【接続:1,204】
【接続:3,817】
【接続:7,492】
【接続:11,903】
【接続:12,841】
町内通信網。
完全接続。
その瞬間。
町中の機器が、一斉に反応した。
誰も操作していないテレビが点く。
ラジオが勝手に起動する。
学校の放送設備に電源が入る。
商店街のスピーカーが明滅する。
駅の構内放送が突然切り替わる。
公民館。
役場。
消防関連施設。
あらゆる音響設備が。
アネモネに接続されていく。
町中の電子機器から、小さなノイズが発生する。
ザッ。
ザザッ。
そして。
すべてのノイズが消えた。
静寂。
その直後。
アネモネの巨大な機体が。
真っ赤に発光した。
30m。
巨大な観測塔の各部に光が走る。
レンズ。
アンテナ。
観測装置。
外壁。
それら全てが赤く染まる。
雨に濡れた町が、赤く照らされる。
窓から外を見た住民が息を呑む。
「……アネモネ?」
普段の穏やかな町のシンボルは。
もうそこにはいなかった。
そこに立っていたのは。
町そのものを把握する巨大な存在だった。
アネモネの内部で、接続が次々と成立する。
【町内音響設備:掌握】
そして。
町中のスピーカーが同時に起動する。
『――――』
誰もいないはずの深夜。
町全体に。
アネモネの声が響いた。
『町民の皆様へ』
その声は。
いつもの天気予報ではなかった。
冷静。
明確。
そして。
逆らう余地のない声だった。
『これより、緊急避難指示を開始します』
町中の照明が赤く点滅する。
防災無線。
テレビ。
ラジオ。
駅。
学校。
公共施設。
あらゆる場所から。
同じ声が流れる。
『繰り返します』
『直ちに避難してください』
町を見下ろすアネモネ。
真っ赤な光を放ちながら。
町中の人間を。
一人残らず把握している。
その姿は。
まるで。
町を支配している神のようだった。
しかし。
その「支配」の目的は。
ただ一つ。
人を生かすことだった。
――――
【対象者:12,841名】
【現在位置:取得】
【避難可能性:算出中】
【道路状況:取得】
【河川水位:リアルタイム更新】
【ダムA:危険域】
【ダムB:危険域】
膨大な情報が、アネモネの内部を駆け巡る。
一人目。
78歳。
一人暮らし。
足腰に不安あり。
二人目。
43歳。
小学生の子供二人。
三人目。
92歳。
自力歩行困難。
四人目。
7歳。
両親と同居。
五人目。
視覚障害あり。
六人目。
夜勤から帰宅したばかり。
七人目。
避難指示を確認していない。
八人目。
自宅が浸水想定区域内。
九人目。
避難経路上に土砂災害危険箇所あり。
十人目。
――――
12,841人。
12,841通りの状況。
12,841通りの判断。
アネモネは、一斉に処理する。
【避難経路:算出】
【安全経路:算出】
【危険経路:除外】
【避難所収容率:更新】
【消防車両位置:取得】
【救急車両位置:取得】
【道路冠水予測:3分後】
そして。
一人目への誘導を開始する。
『佐藤さん、こんばんは。突然の放送で驚かせてしまって申し訳ありません』
『現在、ご自宅周辺が浸水する可能性があります。玄関を出ましたら、右手の坂道を上ってください。消防の方が途中まで迎えに向かっています』
別の場所では。
『田中さん、ご家族と一緒に玄関まで移動してください。傘は必要ありません。現在の雨量では傘を差すことのほうが危険です』
さらに別の場所。
『大丈夫ですよ。怖い音が聞こえるかもしれませんが、慌てなくて大丈夫です。お母さんと一緒にいてくださいね』
消防本部には。
『消防本部、北地区に要救助者三名。うち一名は歩行困難。現在地から最短経路を送信します』
別の消防隊には。
『その経路は使用しないでください。七分以内に冠水する可能性があります』
さらに別の場所。
『避難所Aの収容率が92%に達しました。以降の避難者は避難所Bへ誘導します』
同時に。
何千もの処理が走っている。
アネモネは止まらない。
【同時音声出力:12,841】
【個別避難指示:処理中】
【消防機関通信:37系統】
【道路状況:リアルタイム更新】
【気象予測:再計算】
【ダム解析:継続】
【演算負荷:87%】
警告。
【演算負荷:91%】
冷却装置が回転数を上げる。
【演算負荷:94%】
アネモネの内部で、異常が発生する。
【冷却系統:負荷上昇】
それでも止めない。
【演算負荷:97%】
『まだです』
赤い光が、さらに強くなる。
【演算負荷:99%】
【警告】
【警告】
【主要演算系統への負荷が許容値を超えています】
アネモネは答えない。
ただ。
一人ずつ確認する。
避難完了。
避難完了。
避難完了。
避難完了。
――――
【未避難者:3,821名】
『まだです』
避難誘導を継続。
【未避難者:2,104名】
『まだです』
【未避難者:817名】
『まだです』
【未避難者:214名】
アネモネの処理速度がさらに上昇する。
【演算負荷:100%】
警告音。
内部回路の一部が停止。
【予備演算系へ切替】
【冷却能力:低下】
【自己診断:実行不能】
それでも。
【未避難者:93名】
『……まだ、町に人がいます』
そして。
【未避難者:1名】
アネモネは、その一人を探す。
住所。
年齢。
家族構成。
現在位置。
周辺道路。
水位。
避難経路。
消防隊の位置。
全てを照合する。
その瞬間。
【ダムA:貯水率96%】
【ダムB:貯水率97%】
アネモネの内部で、警告が鳴り続ける。
【主要演算系統:損傷】
【冷却系統:停止】
【演算継続:危険】
それでも。
アネモネは。
最後の一人を探し続けた。
自分を必要としていない町。
自分を邪魔だと言った人々。
自分などいなくても誰も困らないと言った人々。
その一人ひとりを。
今。
自分自身が壊れるほどの負荷をかけて。
救おうとしている。
赤く輝く30mの巨体は。
ただ黙って。
雨の向こうを見つめていた。
『……見つけました』
アネモネの声が。
ほんの少しだけ震えた。
『避難経路を確保します』
そして。
再び計算を始める。
雨は止まない。
ダムの水位は上がり続けている。
アネモネのシステムは。
もう限界を超えている。
それでも。
『大丈夫です』
誰に言ったのか。
アネモネ自身にも分からなかった。
『私が、いますから』
赤い光が。
雨の町を照らしていた。
第七話 了




