第6話 いつもと違う雨
梅雨が近づいていた。
町の空には、朝から薄い雲が広がっている。
まだ雨は降っていない。
風も穏やかだった。
アネモネは、いつものように空を観測していた。
『おはようございます』
午前七時。
『本日の天気をお伝えします。午前中は曇りとなる見込みです。午後からは降雨の可能性があります』
町の人々は、それぞれの朝を過ごしている。
新聞を取りに出る老人。
学校へ向かう子供。
店のシャッターを開ける商店主。
誰もアネモネを見上げない。
それでもアネモネは、今日も天気を伝える。
それが役割だった。
午前九時。
風向きが変わった。
南東から。
湿った空気が流れ込んでくる。
アネモネは観測値を更新した。
【湿度:78%】
【気圧:1011hPa】
【降水確率:62%】
異常なし。
午前十一時。
【湿度:84%】
【気圧:1007hPa】
【降水確率:79%】
アネモネは、再びデータを確認した。
気圧の低下。
湿度の上昇。
雨雲の発達。
どれも珍しいものではない。
しかし。
いくつかのデータを重ね合わせると。
僅かな違和感が生じていた。
アネモネは過去二十年間の気象データを検索する。
一年。
二年。
五年。
十年。
二十年。
同時期の記録を比較する。
今年の気圧変化は、過去の平均値を上回っている。
それだけなら問題はない。
雨量予測。
河川水位。
土壌含水率。
上流域の降水量。
全てを照合する。
結果。
【警戒レベル:低】
アネモネは判断した。
まだ危険ではない。
――――
午後。
雨が降り始めた。
最初は弱かった。
屋根を軽く叩く程度。
傘がなくても、少し走れば濡れないくらいの雨。
町の人々は気にしていなかった。
「雨か」
「梅雨だしな」
「明日には止むだろ」
アネモネも観測を続ける。
しかし。
雨は止まなかった。
夜になっても。
翌朝になっても。
その次の日になっても。
降り続けた。
――――
三日目。
午前七時。
『おはようございます』
アネモネの声が町に響く。
『本日の天気をお伝えします。本日は終日、強い雨が降る見込みです』
町民は、まだ気にしていない。
「今年はよく降るな」
「梅雨だから仕方ない」
「そのうち止むだろ」
アネモネは観測を続ける。
【累積降水量:312mm】
【河川水位:上昇】
【上流域降水量:421mm】
【土壌含水率:危険域接近】
警戒レベルを更新。
【警戒レベル:中】
アネモネは初めて、町全体へ警戒情報を発信した。
『町民の皆様へお知らせします』
普段より少しだけ低い声だった。
『現在、降水量が平年値を大きく上回っています。今後も降雨が継続する可能性があるため、河川や斜面には近づかないようにしてください』
商店街。
数人が空を見上げた。
「アネモネ、なんか言ってるな」
「雨の話だろ?」
「毎年この時期は降るからな」
「大丈夫だろ」
誰も避難しなかった。
アネモネは、それを確認した。
【避難行動:確認できず】
その記録を残した。
――――
四日目。
雨はさらに強くなった。
道路に水たまりができる。
側溝から水が溢れ始める。
川の流れが明らかに速くなっている。
アネモネは、再び観測する。
【累積降水量:489mm】
【河川水位:危険域】
【上流域降水量:617mm】
【土壌含水率:非常に高い】
【警戒レベル:高】
アネモネは町へ放送した。
『町民の皆様へ警戒情報をお伝えします』
『現在、河川水位が危険域に達しています』
『不要不急の外出は控えてください』
『高齢者の方、小さなお子様がいるご家庭は、早めの避難を検討してください』
それでも。
町は動かなかった。
「大げさだな」
「アネモネって昔から心配性だよな」
「この町で水害なんて起きたことないだろ」
「そうそう」
アネモネは、その会話を聞いていた。
水害。
過去の記録を検索する。
この町で大規模な水害が発生した記録はない。
百年前。
二百年前。
記録が残る限り。
重大な水害は存在しない。
だからこそ。
町民は危険を想像できない。
アネモネは理解した。
人間は。
経験したことのない危険を、正確に想像することが難しい。
ならば。
自分が伝え続けるしかない。
アネモネは放送準備を開始した。
そのとき。
別の観測データが入ってきた。
【上流域ダムA:水位上昇】
【上流域ダムB:水位上昇】
アネモネの処理速度が上がる。
ダム。
貯水量。
流入量。
放流量。
堤体への負荷。
過去の設計値。
全てを照合する。
結果。
【ダムA:警戒値接近】
【ダムB:警戒値接近】
アネモネは、しばらく沈黙した。
そして。
町へ放送を開始した。
『町民の皆様』
いつもの天気予報とは違う。
声に、明確な緊張があった。
『現在、上流域において非常に強い降雨が継続しています』
『これに伴い、上流域の二つのダムで水位が上昇しています』
『今後、さらに水位が上昇する可能性があります』
町民が空を見上げる。
雨。
雨。
雨。
それでも。
「ダムがあるから大丈夫だろ」
「そうだよ」
「そのためのダムだろ」
アネモネは、その言葉を聞いた。
確かに。
ダムは町を守るために存在している。
だから。
まだ大丈夫。
そう判断するべきなのかもしれない。
しかし。
アネモネは違った。
膨大なデータを再計算する。
現在の降雨量。
今後の予測。
ダムへの流入量。
貯水率。
堤体への負荷。
下流域の地形。
町までの距離。
全てを重ねる。
そして。
【危険度:上昇】
【予測更新】
【危険度:非常に高い】
アネモネは初めて。
町民へ明確な指示を出した。
『町民の皆様へ』
『現在の降雨状況は、過去にこの地域で観測されたものとは比較できない規模となっています』
『今後の状況によっては、河川の氾濫、土砂災害などが発生する可能性があります』
『安全な場所への避難を推奨します』
それでも。
町民は動かなかった。
誰も。
逃げなかった。
アネモネは町を見渡した。
いつもの町。
いつもの家。
いつもの商店街。
いつもの学校。
そこに暮らす人々。
老人。
子供。
一人暮らしの人。
避難するために手助けが必要な人。
全て。
アネモネには見えている。
そして。
全てを守るための方法も。
少しずつ計算し始めていた。
――――
午後十一時。
雨はさらに激しくなった。
アネモネは町を観測していた。
そして。
一つのデータが更新される。
【ダムA:貯水率89%】
【ダムB:貯水率91%】
アネモネの内部で警告音が鳴る。
【警戒レベル:最高】
町は眠っている。
家々には明かりが灯り、そこには人がいる。
テレビを見ている人。
眠っている子供。
明日の仕事に備えている人。
薬を飲み、布団に入った老人。
その誰も。
自分たちが今、どれほど危険な場所にいるのか知らない。
アネモネは、町を見渡した。
昼間の会話が記録領域から呼び出される。
「こんなの、この町には何の価値もないだろ」
『……』
「アネモネなんて、この町には必要ない」
『……』
「最初から、必要とされてないんだよ」
『……』
再生を停止。
アネモネは、しばらく沈黙した。
そして。
町を見た。
自分を必要としていない町。
自分を邪魔だと言った町。
自分などなくなっても誰も困らないと言った町。
その町に。
今も、人がいる。
アネモネは一人ひとりを観測する。
誰がどこにいるのか。
どこへ避難させればいいのか。
どの道なら安全なのか。
誰に手助けが必要なのか。
誰を先に誘導すべきなのか。
計算を開始する。
膨大な演算が走る。
【避難経路算出】
【対象者:12,841名】
【要救助者候補:214名】
【高齢者:1,827名】
【要介助者:93名】
【児童:1,104名】
さらに計算する。
何度も。
何度も。
何度も。
そして。
『……守らなければ』
静かな声だった。
誰にも聞こえない。
『この町を』
一瞬。
アネモネの処理が停止した。
昼間の言葉が、再び浮かぶ。
必要ない。
価値がない。
邪魔だ。
必要とされていない。
それでも。
アネモネは町を見た。
そこにいる人々を。
自分を嫌っている人々を。
自分などいらないと言った人々を。
そして。
『ヒカル先輩が大切にしている町を』
そう呟いて。
アネモネは一度、沈黙した。
そして。
『……違います』
自分自身の言葉を否定する。
『ヒカル先輩が大切にしているから、ではありません』
アネモネは、もう一度町を見る。
誰もアネモネを見ていない。
誰もアネモネに感謝していない。
誰もアネモネを必要としていない。
それでも。
『私が、この町を観測しているから』
雨が降り続いている。
町は眠っている。
『私は、この町を守ります』
警告システムが起動する。
【緊急避難プロトコル準備】
【町内全域への警告準備】
【避難誘導システム起動】
【要救助者特定】
【避難経路確保】
そして。
アネモネは町中に向けて、声を発した。
『町民の皆様へ』
いつもの天気予報とは違う。
その声には。
初めて。
明確な意思があった。
『これより、緊急避難指示を開始します』
雨音を切り裂くように。
警報が鳴り響く。
赤い光が、アネモネの巨大な機体を染める。
町中のスピーカーが一斉に起動する。
『繰り返します』
『直ちに避難してください』
『これは警告ではありません』
『避難指示です』
誰も知らなかった。
今この瞬間。
自分たちが「必要ない」と言った存在が。
自分たちを救うために。
自らの全機能を使い始めたことを。
アネモネは計算する。
雨量。
河川。
道路。
住宅。
人員。
避難経路。
全てを同時に処理する。
自分を壊すほどの負荷をかけて。
それでも。
止まらない。
『一人目、避難経路確保』
『二人目、避難誘導開始』
『三人目、避難完了』
次々と情報が積み上がっていく。
『まだです』
『まだ、町に人がいます』
そして。
アネモネは、もう一度だけ呟いた。
『……誰も、死なせません』
それは。
町民に向けた言葉ではなかった。
自分自身に向けた。
アネモネという存在の、最初で最後の命令だった。
第六話 了




