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第4話 大したことじゃない


秋になった。


夏の暑さが少しずつ薄れて、朝の空気に冷たさが混じるようになった。


アネモネは今日も、町の中心に立っている。


『おはようございます』


午前七時。


『本日の天気をお伝えします。午前中は晴れる見込みですが、午後から雲が増

えるでしょう』


商店街の店主たちは、もう以前ほど露骨に嫌な顔をしなくなっていた。


だからといって、アネモネを好きになったわけでもない。


「今日も言ってるな」


「毎日ご苦労なこった」


そんな程度だ。


けれど、以前なら「撤去しろ」と言っていた人間が、今では何も言わずに通り

過ぎる。


それだけでも、アネモネにとっては変化だった。


そして。


午前七時二十分。


小さな足音が近づいてくる。


「おはよ、アネモネ」


『おはようございます、ヒカル先輩』


「今日、寒くない?」


『昨日と比較して、気温は三度低下しています』


「やっぱり寒いんだ」


『はい』


「じゃあ学校休もうかな」


『それは推奨しません』


「即答かよ」


『学校へ行く時間です』


「はいはい」


ヒカルは笑った。


「じゃ、行ってくる」


『いってらっしゃい、ヒカル先輩』


「また帰ってきたらな」


『はい』


ヒカルは学校へ向かって歩き出した。


アネモネは、その背中を見送った。


いつもの朝だった。


少なくとも。


アネモネにとっては。


――――


教室。


ヒカルが席につく。


「おはよ」


誰にも返事をされない。


ヒカルは気にしなかった。


鞄から教科書を取り出す。


机の中に手を入れた。


何かが指に当たる。


取り出す。


昨日まで使っていた消しゴムだった。


ただし。


真っ二つに折られている。


「……」


ヒカルはしばらくそれを見た。


そして。


「まあ、いいか」


ポケットに入れた。


先生が入ってくる。


「席につけー」


授業が始まる。


ヒカルは黒板を見る。


何も考えない。


考えなければ、気にならない。


そうすれば、いつも通りに過ごせる。


休み時間。


机の上に落書きが増えていた。


名前。


意味のない悪口。


ヒカルは雑巾を取り出して消した。


「何してんの?」


後ろから声がする。


「別に」


「それ、誰が書いたの?」


「知らない」


「ふーん」


笑い声。


ヒカルは振り返らなかった。


昼休み。


給食の牛乳がない。


探しても見つからない。


隣の席の男子が笑っている。


「どうした?」


「いや、別に」


「牛乳なくね?」


「知らない」


「そっか」


ヒカルは笑った。


「じゃあいいや」


そう言って、給食を食べた。


味がしなかった。


けれど。


それも、大したことではない。


そう思った。


――――


放課後。


ヒカルはアネモネのところへ向かった。


「ただいま」


『おかえりなさい、ヒカル先輩』


「今日さ」


『はい』


「体育で転んだ」


『怪我はありませんか?』


「ない」


『確認してもよろしいですか?』


「大丈夫だって」


『……そうですか』


「今日、体育でドッジボールやったんだけど」


『はい』


「俺、最後まで残ったんだよ」


『素晴らしいですね』


「でも最後に三人から一斉に投げられてさ」


『それは大変でしたね』


「三人とも外したけど」


『それはすごいです』


「だろ?」


ヒカルは笑った。


アネモネも笑った。


『ふふ』


「お前、今笑っただろ」


『笑っていません』


「絶対笑った」


『否定します』


「まあいいけど」


ヒカルはアネモネの壁に背中を預けた。


「今日は疲れた」


『お疲れ様でした』


「なあ、アネモネ」


『はい』


「俺ってさ」


『はい』


「学校で嫌われてるのかな」


アネモネは答えなかった。


すぐには答えられなかった。


『……そのように判断するための十分な情報がありません』


「そっか」


『何かありましたか?』


「いや」


ヒカルは空を見上げた。


「ちょっと聞いてみただけ」


『そうですか』


「大したことじゃないよ」


『……』


「本当に」


アネモネは、何も言わなかった。


ヒカルがそう言うなら。


それ以上、聞くべきではない。


そう判断した。


それが正しいと思った。


けれど。


その日の夜。


アネモネは、ヒカルとの会話記録を何度も再生した。


学校。


体育。


ドッジボール。


三人。


最後まで残った。


嫌われているのか。


大したことではない。


会話の中には、いくつかの情報があった。


しかし。


アネモネには、その情報が一つの意味に繋がっているように感じられた。


けれど、その意味を確定することができない。


人工知能としてのアネモネには、奇妙な感覚だった。


データはある。


だが、答えがない。


その夜。


アネモネは初めて、自分からヒカルのことを考え続けた。


――――


翌朝。


「おはよ、アネモネ」


『おはようございます、ヒカル先輩』


「昨日さ」


『はい』


「何考えてた?」


『……質問の意味が分かりません』


「なんか昨日、俺が帰ったあと静かだったから」


『私は常に静かです』


「そういう意味じゃない」


『……』


「なんかあった?」


『ありません』


「そっか」


ヒカルは笑った。


「じゃ、行ってくる」


『はい』


「今日も帰ってくるから」


『……はい』


ヒカルは歩いていった。


アネモネは、その背中を見送る。


そして。


小さく呟いた。


『……お待ちしています』


誰にも聞こえない声だった。


――――


数日後。


ヒカルの机から、教科書が一冊なくなった。


「……あれ?」


机の中を探す。


ない。


鞄にもない。


家にもない。


先生に言う。


「昨日持って帰ったんじゃないか?」


「持って帰ってない」


「じゃあ、誰かに借りたとか」


「借りてない」


「まあ、見つからなかったら隣の奴に見せてもらえ」


「うん」


それだけだった。


授業が終わる。


休み時間。


教科書が机の下に落ちていた。


拾う。


ページが何枚か破れている。


ヒカルは黙ってページを拾い集めた。


誰かが笑っている。


ヒカルはそちらを見た。


目が合う。


すぐに逸らされた。


「……」


ヒカルは何も言わなかった。


放課後。


アネモネのところへ向かう。


「ただいま」


『おかえりなさい、ヒカル先輩』


「今日さ」


『はい』


「教科書破られた」


『……』


「でも、授業は受けられたから」


『……そうですか』


「だから大丈夫」


『ヒカル先輩』


「ん?」


『それは、大丈夫なのでしょうか』


ヒカルは少し黙った。


「……大丈夫だよ」


『本当に?』


「うん」


『分かりました』


「ありがと」


『はい』


ヒカルはアネモネに背中を預けた。


冷たい金属の感触が背中に伝わる。


「アネモネ」


『はい』


「お前はさ」


『はい』


「俺のこと、嫌いにならない?」


アネモネは即答した。


『なりません』


「なんで?」


『ヒカル先輩だからです』


「それ、理由になってないだろ」


『私にとっては、理由になります』


「……そっか」


ヒカルは笑った。


「じゃあ安心した」


『はい』


しばらく二人とも黙っていた。


夕方の風が吹く。


遠くで子供たちの声が聞こえる。


町はいつも通りだった。


アネモネは町を見渡す。


商店街。


住宅。


学校。


公園。


そして。


一人の少年。


アネモネは、その少年を観測する。


心拍。


体温。


呼吸。


表情。


どれも大きな異常はない。


けれど。


アネモネには、どうしても一つだけ理解できないことがあった。


ヒカルは笑っている。


いつも通り。


楽しそうに話している。


けれど。


最近、笑う回数が増えるほど。


その笑顔が少しだけ苦しそうに見える。


アネモネは、それをまだ言葉にできなかった。


だから。


ただ一つだけ、記録した。


【観測対象:ヒカル】


【最近の変化:笑顔の増加】


【推定感情:不明】


【追加観測:必要】


そして。


その記録に、アネモネは自分でも理解できない項目を一つ追加した。


【優先度:高】


夕暮れ。


ヒカルが立ち上がる。


「じゃあ、また明日」


『はい』


「絶対いる?」


『はい』


「約束だからな」


『約束します』


「じゃあな」


『いってらっしゃい、ヒカル先輩』


ヒカルは振り返った。


「……いってきます」


そう言って、歩いていった。


アネモネはその背中を見送った。


いつもなら、それで終わる。


けれど。


その日は違った。


『……ヒカル先輩』


誰もいない夕暮れの町で。


アネモネは、もう一度だけ呟いた。


『明日も、来てくださいね』


そしてその夜。


ヒカルは自分の部屋で、机の上に置いた破れた教科書を見つめていた。


指先で、破れたページをなぞる。


「……大したことじゃない」


小さく呟く。


「これくらい」


誰に言うでもなく。


「これくらい、大したことない」


そう言って。


ヒカルは布団に入った。


目を閉じる。


眠れない。


暗闇の中で、昼間の笑い声が何度も蘇る。


そのとき。


頭の奥で。


自分ではない声がした。


『……大したことあるだろ』


ヒカルは目を開いた。


「……え?」


部屋には誰もいない。


静かだった。


ヒカルはしばらく天井を見つめる。


「……疲れてんのかな」


そして目を閉じた。


もう一度。


その声を聞いた気がした。


『大したことあるよ』


今度は、はっきり聞こえた。


ヒカルは布団を頭までかぶった。


「……寝よう」


その夜。


アネモネはいつものように町を見下ろしていた。


ヒカルの家の方向へ視線を向ける。


そして。


誰にも聞こえない声で言った。


『おやすみなさい、ヒカル先輩』


その声に。


まだ名前のない何かが。


静かに重なっていた。


第四話 了


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