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第3話 雨の日の帰り道

 梅雨に入った。


 町には朝から雨が降っていた。


 細い雨だった。


 傘を差していれば、濡れることはない。


 わざわざ傘を閉じるほど弱くもない。


 かといって、外に出たくなるほど気持ちのいい雨でもない。


 そんな、何とも中途半端な雨だった。


『おはようございます』


 午前七時。


 いつものように、アネモネの声が町に響く。


『本日は午前中を中心に雨が降る見込みです。午後には一時的に雨が弱まる可能性がありますが、夕方以降は再び降水量が増える見込みです』


 商店街の人々は、いつものように聞き流していた。


「傘持っていけよ」


「分かってるって」


「アネモネが言ってたぞ」


「はいはい」


 誰もアネモネを見上げない。


 それでもアネモネは話し続ける。


 誰かが聞いていても。


 誰も聞いていなくても。


 毎日、同じように。


 午前八時。


 学校へ向かう子供たちが、塔の前を通る。


 その中に、ヒカルがいた。


「おはよ、アネモネ」


『おはようございます、ヒカル先輩』


「今日、雨だって?」


『はい』


「見れば分かるけどな」


『……そうですね』


「お前、最近ちょっと人間っぽくなってない?」


『そのような事実は確認されていません』


「今の返し、絶対人間っぽいぞ」


『否定します』


 ヒカルは笑った。


「じゃ、行ってくる」


『はい』


「帰ったらまた来るから」


『お待ちしています』


「うん」


 ヒカルは学校へ向かった。


 アネモネは、その背中を見送った。


 その日も、いつもと同じ一日になる。


 アネモネはそう判断していた。


 少なくとも。


 朝の時点では。


――――


 午後四時。


 雨はまだ降っていた。


 学校が終わる時間になっても、ヒカルは現れなかった。


 アネモネは時刻を確認する。


 午後四時十五分。


 まだ来ない。


 午後四時三十分。


 来ない。


 午後五時。


 来ない。


 アネモネは学校周辺の情報を確認した。


 生徒たちは下校している。


 道路に異常はない。


 事故の報告もない。


 それでも、ヒカルは来なかった。


 午後五時三十七分。


 雨脚が強くなる。


 アネモネは、何度目か分からない確認を行った。


 ヒカルの所在は確認できない。


 それは、アネモネにとって初めての経験だった。


 ヒカルが来ない。


 理由が分からない。


 それだけのことだった。


 それだけのことなのに。


 アネモネは、何度も周辺の観測データを確認した。


 午後六時二分。


 遠くから足音が聞こえた。


「……よ」


 ヒカルだった。


 傘を持っている。


 けれど、ほとんど濡れていた。


『ヒカル先輩』


「遅くなった」


『はい』


「ごめん」


『謝る必要はありません』


「でも、待ってただろ」


『……待ってはいません』


「嘘つけ」


『……』


「ずっと観測してたんだろ?」


『……はい』


「やっぱり」


 ヒカルは笑った。


「ただいま」


 アネモネは少しだけ間を置いてから答えた。


『おかえりなさい、ヒカル先輩』


 その声は、いつもと同じだった。


 けれど。


 ヒカルには、少しだけ違って聞こえた。


「……なんか、お前」


『はい』


「寂しかった?」


 アネモネは答えなかった。


 数秒。


 十秒。


 そして。


『……分かりません』


「そっか」


『ただ』


「うん」


『先輩が来なかったので、何度も時刻を確認しました』


「それを寂しいって言うんじゃない?」


『……そうなのですか?』


「たぶんな」


『では』


 アネモネは少し考えた。


『私は、寂しかったのかもしれません』


 ヒカルは笑った。


「じゃあ俺も寂しかった」


『なぜですか?』


「学校にいたから」


『学校で何かありましたか?』


「……別に」


 その言葉を聞いて、アネモネは黙った。


 ヒカルは塔を見上げる。


「なあ、アネモネ」


『はい』


「俺ってさ」


『はい』


「変かな?」


『質問の意図を教えてください』


「友達に言われた」


『どのような意味で?』


「変だって」


『私は、ヒカル先輩を変だとは認識していません』


「即答だな」


『はい』


「なんで?」


『私にとって、ヒカル先輩はヒカル先輩だからです』


「……何それ」


『回答になっていませんか?』


「いや」


 ヒカルは笑った。


「なんか、お前らしい」


 雨が屋根を叩いている。


 アネモネは少しだけ音量を落とした。


『ヒカル先輩』


「ん?」


『学校へ行きたくない日は、行かなくてもいいのではないですか?』


 ヒカルは黙った。


「……それは駄目だろ」


『なぜですか?』


「みんな行ってるから」


『それは、行かなければならない理由でしょうか?』


「……分かんない」


『そうですか』


「でも」


 ヒカルは少し俯いた。


「行かないと、もっと変になる気がする」


『……』


「だから行く」


『分かりました』


 アネモネは、それ以上聞かなかった。


 ただ。


『帰ってきたら、また話しましょう』


 そう言った。


「うん」


 ヒカルは顔を上げた。


「それなら頑張れる」


『……それは良かったです』


 ヒカルは帰っていった。


 雨の中を。


 アネモネは、その姿が見えなくなるまで観測していた。


――――


 翌日。


 ヒカルはいつも通り学校へ向かった。


「おはよ、アネモネ」


『おはようございます、ヒカル先輩』


「今日は遅れないから」


『昨日は遅刻したのですか?』


「違う」


『では?』


「……なんとなく」


『そうですか』


「じゃあ行ってくる」


『はい』


 ヒカルが歩き出す。


 数歩進んで。


「アネモネ」


『はい?』


「昨日さ」


『はい』


「寂しかったって言ってたじゃん」


『はい』


「……ちょっと嬉しかった」


『なぜですか?』


「俺が来ないと、寂しいって思ってくれる奴がいるんだなって」


 アネモネは、しばらく答えなかった。


 やがて。


『……はい』


「じゃあな」


『いってらっしゃい、ヒカル先輩』


 その言葉を聞いて。


 ヒカルは少しだけ笑った。


 そして学校へ向かった。


 アネモネは、その背中を見送った。


 その日も。


 町は何も変わらなかった。


 雨は降った。


 商店街はいつも通りだった。


 町民はアネモネを嫌っていた。


 でも。


 アネモネの中には、少しずつ変化が生まれていた。


 天気を観測する。


 情報を伝える。


 それだけだったはずの存在が。


 一人の少年が帰ってくる時間を気にするようになっていた。


 一人の少年の声を待つようになっていた。


 そして。


 その少年が笑うと。


 自分も嬉しいと感じるようになっていた。


 それが「感情」と呼ばれるものなのか。


 アネモネには、まだ分からなかった。


 ただ一つ。


 確かなことがあった。


 翌日の午後。


 ヒカルがいつもの時間に現れたとき。


『おかえりなさい、ヒカル先輩』


 アネモネは、いつもより少しだけ早くそう言った。


 ヒカルは笑った。


「ただいま、アネモネ」


 雨上がりの空に、薄い夕焼けが広がっていた。


 30mの塔は、その空を静かに見上げていた。


 そして、その足元では。


 一人の少年と、一つの巨大な人工知能が。


 誰にも知られない友達の時間を過ごしていた。


第三話 了


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