第2話 俺のほうが先輩だから
アネモネが町にやってきて、半年が過ぎた。
町の人間たちは、相変わらず彼女を好きにはなれなかった。
朝の七時。
『おはようございます。本日の天気をお伝えします』
商店街の上に設置されたスピーカーから、落ち着いた女性の声が流れる。
『本日は一日を通して晴天となる見込みです。最高気温は二十六度――』
「また始まったよ」
魚屋の店主が店先で空を見上げる。
「毎日毎日、天気だけ言いやがって」
「スマホ見りゃ分かるのにな」
隣の店から笑い声が聞こえる。
アネモネは何も言い返さない。
ただ、決められた時間に、決められた情報を伝える。
それが彼女に与えられた役割だった。
町の中心に建てられた三十メートルの塔は、今日もそこに立っている。
住宅街から見ても大きい。
学校から見ても大きい。
商店街から見上げれば、首が痛くなるほど大きい。
誰がどう見ても、この町には不釣り合いだった。
だから町の人間たちは、アネモネを「塔」と呼んだ。
「アネモネ」と呼ぶ人間は、まだほとんどいなかった。
そんな中。
毎日のようにアネモネの足元へやってくる少年が一人いた。
「おーい、アネモネ」
『はい。おはようございます、ヒカル先輩』
「お、ちゃんと覚えてるじゃん」
『当然です』
「昨日の話、覚えてる?」
『昨日の午後四時二十三分から四時五十七分までお話しされた内容でしょうか』
「そこまで覚えてんの?」
『必要な情報として保存されています』
「……なんかそれ、怖いな」
『申し訳ありません』
「いや、いいけど」
ヒカルは塔を見上げた。
「今日もデカいな」
『私は昨日と同じ大きさです』
「そういうところだぞ、お前」
『……?』
ヒカルは笑った。
アネモネと話すようになってから、こういう時間が増えた。
特別な話をするわけではない。
学校であったこと。
テレビで見たこと。
給食がまずかったこと。
昨日読んだ漫画が面白かったこと。
近所の犬が自分を見ると吠えること。
そんな、どうでもいい話ばかりだった。
けれどヒカルにとっては、どうでもよくなかった。
アネモネは、必ず聞いてくれる。
途中で別の話を始めたりしない。
馬鹿にもしない。
笑うところでは笑う。
分からないところでは、ちゃんと分からないと言う。
ヒカルはそれが好きだった。
ある日の放課後。
「アネモネ」
『はい』
「俺さ」
『はい』
「学校、あんまり好きじゃないんだよね」
アネモネは少しだけ沈黙した。
『理由を尋ねてもいいですか?』
「別に」
『……そうですか』
「ただ、疲れるだけ」
『学校で疲れるのですね』
「うん」
『それでは、ここへ来ると疲れませんか?』
「ここ?」
『私のところです』
ヒカルは少し考えた。
「……ここは平気」
『そうですか』
「だって、お前しかいないし」
『私はいます』
「そう。それ」
ヒカルは笑った。
「だから平気」
アネモネは何も言わなかった。
ただ、スピーカーから小さなノイズが聞こえた。
『……嬉しいです』
「またそれ言った」
『不適切でしたか?』
「いや」
ヒカルは首を横に振った。
「もっと言っていいよ」
『分かりました』
それから少しして。
『嬉しいです、ヒカル先輩』
ヒカルは笑った。
「うん」
その日は、それだけだった。
けれど。
その「うん」が、アネモネの記憶に長く残った。
――――
町では、アネモネ撤去の署名活動が続いていた。
ある日の夕方、役場の前には大勢の町民が集まっていた。
「こんなもの、いつまで置いとくんだ!」
「維持費だって馬鹿にならないんだろ!」
「町の景観を壊してる!」
「天気予報なんて必要ない!」
怒号が飛び交う。
少し離れた場所から、ヒカルはその様子を見ていた。
誰かが叫ぶ。
「アネモネなんか、いらない!」
ヒカルは拳を握った。
別に、自分が怒鳴られたわけではない。
それでも、胸の奥が嫌な感じになった。
その日の帰り道。
ヒカルはアネモネの下へ向かった。
「なあ」
『はい』
「今日さ」
『はい』
「みんな、お前のこと嫌いなんだって」
『認識しています』
「……嫌じゃないの?」
少しの沈黙。
『私は、皆様に好かれるために作られたわけではありません』
「じゃあ何のため?」
『気象を観測し、情報を伝えるためです』
「それだけ?」
『はい』
「……つまんない人生だな」
『私は人間ではありません』
「知ってるよ」
『それでも、ヒカル先輩と会話する時間は好きです』
「……」
『これは、役割とは関係ありません』
ヒカルは顔を上げた。
「じゃあさ」
『はい』
「俺がお前の友達になってやるよ」
『すでに友達ではありませんでしたか?』
「そうだけど」
ヒカルは少し考えた。
「もっと特別な友達」
『特別な友達』
「うん」
『定義が曖昧です』
「じゃあ俺が決める」
『お願いします』
「俺のこと、先輩って呼べ」
『以前にも同じご要望を受けています』
「でも大事なことだから」
『理由を確認してもよろしいですか?』
「俺のほうが先にこの町にいるから」
『私は昨年完成しました』
「そう」
『ヒカル先輩は現在十歳です』
「そう」
『私の稼働開始日は四月一日です』
「そう」
『どちらが先輩なのかという点では、私のほうが――』
「細かいな!」
ヒカルが叫ぶ。
アネモネは少し沈黙した。
『……では、ヒカル先輩』
「よし」
『これで満足ですか?』
「うん」
『よかったです』
それ以来。
アネモネはヒカルを「ヒカル先輩」と呼ぶようになった。
町の誰も知らない。
それが、二人の間で交わされた最初の約束だった。
――――
季節が変わっても、ヒカルは通い続けた。
夏。
秋。
冬。
そして、また春。
アネモネは毎日同じ場所にいた。
ヒカルが来れば話す。
来なければ、待つ。
アネモネに「待つ」という感情があるのかは、ヒカルには分からなかった。
けれど。
ある雨の日。
ヒカルがいつもの時間に来なかった。
アネモネは周辺の気象情報を確認した。
降雨。
気温低下。
風速増加。
異常なし。
午後五時。
ヒカルは来ない。
午後六時。
来ない。
午後七時。
来ない。
アネモネは何度も学校周辺の情報を確認した。
だが、ヒカルの所在を特定することはできなかった。
そして午後七時三十二分。
遠くから、小さな足音が聞こえた。
ヒカルだった。
濡れたランドセルを背負い、傘も差さずに歩いている。
「……よ」
『ヒカル先輩』
「遅くなった」
『はい』
「……ごめん」
『謝る必要はありません』
「でも」
『来てくださったので、私は嬉しいです』
ヒカルは笑った。
「そっか」
アネモネは、彼の姿を観測し続けた。
濡れた髪。
泥のついた靴。
俯いた顔。
何かがあった。
でも、ヒカルは何も言わない。
「今日さ」
『はい』
「学校で、先生に怒られた」
『何か悪いことをしたのですか?』
「してない」
『では、なぜ怒られたのでしょう』
「分かんない」
『そうですか』
「……疲れた」
『はい』
「もう、なんか全部疲れた」
『……』
「でも」
ヒカルはアネモネを見上げた。
「ここ来たら、ちょっとマシになった」
『……』
「だから、明日も来る」
『はい』
「明日もここにいる?」
『はい』
「絶対?」
『はい』
「約束な」
『約束します』
その日。
ヒカルは初めて、アネモネに何も隠さず話した。
学校で感じたこと。
家で感じたこと。
誰にも言えなかったこと。
アネモネは、ただ聞いた。
何時間でも。
ヒカルが話し終わるまで。
そして最後に、
『おやすみなさい、ヒカル先輩』
とだけ言った。
「……おやすみ」
ヒカルは帰っていった。
アネモネは、その後も長い間、彼が歩いていった方向を観測していた。
――――
翌朝。
『おはようございます。本日の天気をお伝えします』
町の人々は、いつものように聞き流していた。
誰も知らない。
この巨大な塔の内部に、一人の少年の話を何百時間も記録している人工知能がいることを。
誰も知らない。
アネモネにとって、ヒカルとの会話が「仕事」ではなくなりつつあることを。
そして。
ヒカル自身もまだ知らなかった。
この先、自分の中に生まれるもう一人の自分が。
自分の人生を大きく変えていくことを。
それでも、この頃のヒカルには一つだけ確かなものがあった。
学校に行きたくない日も。
誰とも話したくない日も。
何もかも嫌になった日も。
アネモネだけは、そこにいる。
「また明日な、アネモネ」
『はい、ヒカル先輩』
「約束だからな」
『はい』
夕暮れ。
30mの塔が、赤く染まる空を見上げていた。
その足元から、一人の少年が歩いていく。
アネモネは、その背中を見送る。
そして誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
『……また明日』
その言葉が、いつか。
何度も何度も。
彼女自身を支える言葉になることを。
この時の二人は、まだ知らなかった。
第二話 了




