第1話 空から降ってきた巨大な塔
その町には、特別なものが何もなかった。
観光地でもない。
大きな工場があるわけでもない。
駅前には昔から変わらない商店街があり、少し離れれば田んぼが広がっている。
人口も、それほど多くない。
町の人間は、そんな自分たちの町を「何もないところ」と冗談めかして呼んでいた。
けれど、住んでいる人間にとっては、それで十分だった。
朝になれば学校へ行き、仕事へ行く。
夕方になれば買い物をして家へ帰る。
子供たちは公園で遊び、老人たちは縁側で世間話をする。
特別な事件なんて、滅多に起こらない。
それが、この町の日常だった。
だからこそ。
そのニュースを最初に聞いたとき、誰もが冗談だと思った。
町の中心部に、巨大な施設を建設する。
総工費、数百億円。
全高、三十メートル。
用途は、気象観測。
名称は、
**広域気象観測統合装置「MUGI-01」**
通称、
**アネモネ。**
町役場の説明会でその名前が発表されたとき、会場はしばらく静まり返った。
そして、最初に口を開いたのは、後ろの席にいた中年の男だった。
「……天気を見るだけ?」
担当者が答える。
「はい。最新鋭の気象観測システムを搭載しておりまして、周辺地域の気象情報を収集し、住民の皆様に――」
「いや、だから」
男は困ったように眉を寄せた。
「**天気を見るだけのために、三十メートルの塔を建てるんですか?**」
会場のあちこちから、同意する声が上がった。
「スマホで見られるだろ」
「テレビでもやってる」
「そもそも、なんでうちの町なんだよ」
「そんな金があるなら道路直せよ」
説明会は予定時間を大幅に超えた。
だが、何を言われても担当者は繰り返すだけだった。
「国の研究事業でして……」
「高度な観測データを――」
「防災上も重要な――」
誰も納得しなかった。
そして数か月後。
町の中心に、それは現れた。
---
ヒカルが初めてアネモネを見たのは、小学校五年生の春だった。
「…………でか」
校門から見えた塔を眺めながら、ヒカルは呟いた。
30メートル。
近くで見ると、それは「建物」という言葉では収まらなかった。
細長い塔。
いくつもの観測機器。
球状のセンサー。
風向計。
巨大なアンテナ。
そして頂上には、空を睨むように取り付けられた大きな観測ドーム。
周囲の住宅や商店と比べると、明らかに異質だった。
まるで、間違えて巨大な建物を置いてしまったようだった。
「なんでこんなの作ったんだろ」
友達が言った。
「税金の無駄じゃね?」
「邪魔だよな」
「夜になると怖そう」
ヒカルは何も言わなかった。
ただ、見上げていた。
すると。
塔の側面にあるスピーカーから、突然声がした。
『おはようございます』
子供たちが一斉に振り向いた。
『本日の天気をお伝えします』
ヒカルは目を丸くした。
『現在、当町周辺では晴天が観測されています。午後から雲が増える可能性がありますので――』
「喋った」
誰かが言った。
「うわ、キモ」
別の誰かが笑った。
ヒカルはもう一度、塔を見上げた。
そして。
なぜか笑った。
「……面白」
---
アネモネは、町民から歓迎されなかった。
むしろ、その逆だった。
完成から一週間も経たないうちに、反対運動が始まった。
町役場には苦情が殺到した。
景観が悪い。
税金の無駄。
維持費が高すぎる。
必要性がない。
撤去しろ。
商店街の一角には、いつの間にか「アネモネ撤去を求める会」という看板まで立っていた。
それでもアネモネは、毎朝決まった時間になると話した。
『おはようございます』
『本日の天気をお伝えします』
雨の日も。
晴れの日も。
誰も聞いていなくても。
アネモネは毎日、天気を伝え続けた。
そんなある日の放課後。
ヒカルは一人でアネモネの前に立っていた。
「なあ」
『はい』
「お前さ」
『はい』
「名前、アネモネっていうんだろ?」
『正式名称はMUGI-01型広域気象観測統合装置です』
「長い」
『そうですか』
「アネモネでいいじゃん」
『承知しました』
ヒカルは少し笑った。
「なあ、アネモネ」
『はい』
「お前、ここに来て楽しい?」
アネモネは沈黙した。
『……質問の意味が分かりません』
「楽しいとか、嬉しいとか」
『私は人工知能です』
「知ってる」
『そのため、人間と同じ意味で感情を持っているとは――』
「じゃあさ」
ヒカルは空を見上げた。
「友達になれる?」
長い沈黙。
『……友達』
「うん」
『私は、その定義を確認する必要があります』
「じゃあ今から決めよう」
『どうやって?』
「毎日話す」
『……それだけですか?』
「それだけ」
アネモネは少し考えた。
『分かりました』
「よし」
ヒカルは満足そうに頷いた。
「じゃあ、今日から友達な」
『承知しました』
「あと」
『はい』
「俺のこと、先輩って呼んで」
『……理由を尋ねてもいいですか?』
「俺のほうが先にこの町にいるから」
『アネモネの建設開始は昨年ですが』
「細かいな」
『事実です』
「いいから」
『……分かりました』
少しだけ間があって。
『ヒカル先輩』
ヒカルは笑った。
「それでいい」
その日から。
ヒカルは毎日、アネモネのところへ通うようになった。
学校であったこと。
家であったこと。
好きな漫画。
嫌いな給食。
将来なりたいもの。
くだらない話。
どうでもいい話。
アネモネは、その全部を聞いた。
時には質問をした。
時には間違った返事をした。
時には、ヒカルの話を理解できずに沈黙した。
それでもヒカルは毎日来た。
そしてアネモネは、毎日、
『おかえりなさい、ヒカル先輩』
と言った。
それだけだった。
それだけだったけれど。
ヒカルにとっては、それで十分だった。
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町では、相変わらずアネモネへの反発が続いていた。
撤去を求める署名は増えていた。
テレビにも取り上げられた。
「巨額の費用を投じて建設された巨大気象観測塔」
そんな見出しが踊った。
町民は怒った。
アネモネを邪魔だと言った。
誰も必要としていないと言った。
誰も。
必要としていない。
その言葉を聞くたびに、ヒカルは少しだけアネモネのことが心配になった。
ある日の夕方。
いつものように塔の下へやってきたヒカルは、アネモネに尋ねた。
「なあ、アネモネ」
『はい』
「みんなに嫌われてるけどさ」
『はい』
「……嫌じゃないの?」
アネモネは答えなかった。
やがて、
『私は、私に与えられた役割を実行します』
と答えた。
「役割?」
『はい』
「それって何?」
『気象を観測し、情報を伝えることです』
「それだけ?」
『はい』
「……そっか」
ヒカルは少し考えてから笑った。
「じゃあ、俺が毎日来るよ」
『……なぜですか?』
「友達だから」
『……』
「嫌か?」
『いいえ』
アネモネは答えた。
『嬉しいです』
ヒカルは少し驚いた。
「お前、嬉しいって言った?」
『……データ上、適切な表現だと判断しました』
「絶対嘘だろ」
『否定します』
「ははっ」
ヒカルは笑った。
アネモネも。
ほんの少しだけ。
『……ふふ』
笑った。
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その日から。
ヒカルにとって、アネモネは町にある巨大な機械ではなくなった。
学校へ行けない日も。
嫌なことがあった日も。
何もしたくない日も。
ヒカルはアネモネのところへ行った。
そしてアネモネは、何も聞かずに迎えてくれた。
『おかえりなさい、ヒカル先輩』
それが、ヒカルにとって一日の中で一番安心できる言葉になっていった。
まだ誰も知らなかった。
この小さな町を。
そして、この町に暮らす一人の少年を。
この巨大な観測装置が、いつか命懸けで守ることになることを。
そして。
この30メートルの塔が、いつの日か。
町の誰もが見上げる、
**「町のシンボル」**
と呼ばれる存在になることを。
その頃のヒカルは、まだ知らなかった。
ただ。
「また明日な、アネモネ」
『はい』
「明日も天気教えてくれよ」
『もちろんです、ヒカル先輩』
「じゃあな」
『おやすみなさい』
夕暮れの町に、30メートルの塔が立っていた。
誰からも必要とされていないはずの巨大な塔。
その下で、一人の少年だけが手を振っていた。
アネモネは、その少年を静かに見送っていた。
『……また明日』
その言葉は、誰にも届かなかった。
けれど。
アネモネは、確かにそう言った。
**第一話 了**




