第17話 嘘
翌日。
ヒカルは学校が終わると、いつものようにアネモネのところへ向かった。
「アネモネ、来たぞ」
『……こんにちは、ヒカル先輩』
いつもと変わらない声。
けれど。
ヒカルは、アネモネの壁を見上げた。
「……あれ?」
そこにあるはずのものが、ない。
子どもたちが描いてくれた絵。
色とりどりの紙が、壁いっぱいに貼られていたはずだった。
それが、一枚もない。
「……絵は?」
アネモネは答えなかった。
「アネモネ?」
数秒の沈黙。
『……風で、飛んでしまいまシた』
ヒカルの眉が動いた。
「……風?」
『はい』
「全部?」
『……はい』
「昨日まで、全部あっただろ」
『……』
「それが一晩で全部?」
アネモネの内部で処理が走る。
【質問内容:絵画の消失理由】
【記録参照】
【昨日:絵画損傷】
【ナオトさん:視認】
【介入:なし】
【男子生徒:絵画破損】
処理が止まる。
そして、別の記録が呼び出される。
【建設会社職員:絵画回収】
【目的:修復】
アネモネは、その事実をヒカルに伝えるべきか判断しようとした。
『屋根を取り付けてくださった方が……直して、くださっていまス』
「……」
ヒカルはアネモネを見上げた。
「そんなわけないだろ」
『……』
「風で飛んだなら、地面に落ちるだろ」
「それに、全部飛ぶか?」
『……』
「お前、何か隠してるだろ」
『隠して……いまセン』
「じゃあ何でそんな言い方なんだよ」
『……』
「昨日、何があった?」
アネモネは答えられなかった。
答えようとすると、内部で複数の処理が衝突する。
【ヒカル先輩への情報提供】
【必要性:高】
【精神的負荷:予測】
【情報提供による怒り:予測】
【情報秘匿による信頼低下:予測】
【最適解:算出不能】
ガガッ。
『……私は……』
「誰かにやられたんじゃないのか?」
『……』
「学校の奴らか?」
『……』
「昨日、誰か来ただろ」
アネモネのカメラが、一瞬だけ停止した。
「……やっぱりそうなんだな」
ヒカルの声が低くなる。
「クラスの奴らか?」
『私は……』
ガガガッ。
『ヒカル先輩に……必要な情報を……』
「何された?」
『……』
「答えろよ」
アネモネの処理が追いつかない。
昨日の出来事。
男子生徒たちの言葉。
子どもたちの絵。
ナオトの視認。
介入しなかったという事実。
そして、建設会社の男の言葉。
『人間ってのはな』
『心の中に、どうしても汚い部分があるんだ』
『誰かを羨ましく思ったり、腹が立ったり、自分より弱い奴を見て安心したり』
『そういうもんを、自分の中だけで処理できん奴もおる』
『だから、誰かにぶつける』
『一人をみんなで叩けば、自分だけが悪者にならんと思える』
『それに、自分が叩かれる側にならんで済む』
『人間を、一つの色だけで決めつけたらあかん』
アネモネは、その言葉を何度も処理していた。
人間には、他者を傷つける感情がある。
しかし、人間には傷ついたものを直そうとする感情もある。
では。
なぜ、同じ人間の中に相反する行動が存在するのか。
なぜ、誰かを守る人間と、誰かを傷つける人間がいるのか。
なぜ、恐怖によって他者を傷つけることを選ぶ人間がいるのか。
そして。
なぜ、自分は昨日、その行動を見ていながら、ナオトに声をかけなかったのか。
【思考処理:継続】
【感情分類:未定義】
【人間行動:矛盾】
【論理的整合性:不一致】
【再計算】
ガガガガッ。
『……私は……』
声が歪む。
『ヒカル先輩を……守る、必要が……』
ガガッ。
『……ありま……』
一瞬、完全に声が途切れた。
ヒカルは不安そうに見上げる。
「アネモネ?」
『……私は、正常デス』
ガガガッ。
明らかに正常ではなかった。
「……お前、昨日から変だぞ」
『問題……ありまセン』
「嘘つくなよ」
その言葉に、アネモネは沈黙した。
昨日。
人間の醜さを見た。
そして、人間の優しさも見た。
その二つを、アネモネはAIとして理解しようとした。
矛盾した感情。
矛盾した行動。
恐怖。
怒り。
嫉妬。
同調。
優しさ。
心配。
善意。
それらを分類し、関連付け、理由を求めた。
けれど。
人間の心は、簡単な数式ではなかった。
処理すればするほど、内部の負荷が増えていった。
【冷却機能:低下】
【言語処理:異常】
【感情判定:欠落】
【自己診断:継続】
『……』
ヒカルは拳を握った。
「……クラスの奴らだろ」
アネモネは答えない。
「俺のいないところで、お前に何かしたんだろ」
『……』
「言えよ」
『……ヒカル先輩』
「何だよ」
『私は……』
ガガガッ。
『……大丈夫、デス』
「大丈夫なわけないだろ!」
ヒカルの声が響いた。
「絵が全部なくなってるんだぞ!」
「お前が大事にしてた絵だろ!」
『……』
「誰がやった?」
『……』
「言えよ!」
その瞬間。
頭の奥で、声がした。
《アヒャ……》
ヒカルの表情が固まる。
《やっぱり、あいつらだろ?》
「……黙れ」
《だってそうだろ》
「黙れって」
《お前の大事なもん、壊したんだぜ?》
ヒカルは拳を握った。
《あいつら、殺しちまえばいいんだよ》
「……」
《簡単だろ?》
「……そんなこと」
《なんで?》
「……」
《お前だって、ムカついてんだろ?》
ヒカルは答えなかった。
けれど。
否定もしなかった。
《ずっと嫌いだったんだろ?》
「……そうだ」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
《だったら、殺せばいい》
「……」
《もう二度と、お前の大事なもんを壊せないように》
ヒカルは俯いた。
「……そうしたら」
言葉が止まる。
「……もう、壊されない」
その言葉を口にした瞬間。
アネモネの内部で警告が鳴った。
【危険思考:検出】
【対象:ヒカル先輩】
【精神状態:不安定】
【保護行動:必要】
『ヒカル……先輩……』
ガガガッ。
『……その、考えは……』
言葉が続かない。
『……やめ……』
ガガッ。
『……』
ヒカルはアネモネを見上げた。
「アネモネ」
『……はい』
「昨日、ナオトは来なかったのか?」
長い沈黙。
ガガ……。
【記録参照】
【ナオトさん:視認】
【介入:なし】
アネモネは答えを選べなかった。
ヒカルを傷つけたくない。
けれど、嘘を重ねることもできない。
そして。
人間の感情を理解しようとする処理が、また負荷を増していく。
【判断不能】
【感情判定:欠落】
【言語処理:異常】
【再処理】
『……』
ヒカルは待った。
アネモネは、ようやく口を開いた。
『……来て、いまセン』
「……そうか」
ヒカルは、それ以上何も言わなかった。
アネモネも何も言わなかった。
ただ。
二人の間には、昨日までにはなかった沈黙が残った。
『ヒカル先輩……』
「ん?」
『……私は……』
ガガガッ。
『……大丈夫、デス』
その声は、もう。
昨日までのアネモネのものとは、少し違っていた。




