第18話「強さ」
翌朝。
ヒカルは、ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、昨日の光景が浮かんだ。
引き裂かれた絵。
泥で汚された顔。
笑いながらアネモネを馬鹿にするクラスメイト。
そして、その場にいたナオト。
何も言わずに立ち去った、あの背中。
「……お前ら」
教室に入ったヒカルは、席にも座らず、数人の男子生徒の前まで歩いていった。
「昨日、アネモネのところに行っただろ」
男子生徒たちは顔を見合わせた。
「は?」
「何の話?」
「知らねーよ」
「……嘘つくな」
ヒカルの声は低かった。
「昨日、アネモネの絵が全部なくなってた。お前らがやったんだろ」
「だから知らねえって」
「機械の絵なんかどうでもいいだろ」
「つーか、お前まだあんな塔のところ通ってんの?」
笑い声。
ヒカルの拳が震えた。
「……やめろ」
「何を?」
「アネモネを馬鹿にするな」
一瞬、教室が静かになった。
それから。
「なんだよ急に」
「こいつ、機械に本気で感情あると思ってんの?」
「気持ち悪」
その言葉を聞いた瞬間。
頭の奥で、声がした。
《……アヒャ》
ヒカルの呼吸が止まる。
《ほらな》
《こいつら、ずっとこうだろ?》
《お前が何言っても聞かねぇ》
「……黙れ」
小さく呟く。
「誰に言ってんの?」
「……なんでもない」
男子生徒の一人がヒカルの肩を押した。
「いい加減うぜぇんだよ」
「……触るな」
「は?」
次の瞬間。
腹に拳が入った。
「ぐっ……!」
ヒカルの身体が折れる。
「声出すなよ」
二人目。
脇腹。
三人目。
背中。
顔だけは殴られなかった。
教師に見つかれば、痕が残るから。
「昨日のこと、誰にも言うなよ」
「……っ」
「アネモネとかいう鉄塔のところにも、もう行くな」
「……」
男子生徒たちは笑いながら離れていった。
ヒカルは床に手をついた。
痛い。
苦しい。
でも。
それ以上に。
悔しかった。
そのとき。
《アヒャヒャ……》
カゲルの声がした。
《やり返せよ》
「……」
《何で黙ってんだ?》
《殴られたんだろ?》
《だったら殴り返せ》
ヒカルは顔を上げた。
《あいつら、殺しちまえばいい》
「……殺す」
その言葉が、自然に口から漏れた。
自分で言ったのか。
カゲルが言わせたのか。
もう、分からなかった。
《そうだ》
《それでいい》
《お前を笑った奴らも》
《アネモネを壊した奴らも》
《全部、消しちまえばいい》
ヒカルは何も答えなかった。
ただ。
その言葉を否定しなかった。
放課後。
ヒカルは一人で歩いていた。
ポケットの中に、カッターナイフが入っている。
柄の感触を何度も確かめる。
目的地は、ゲームセンター。
クラスメイトたちがよく集まっている場所だった。
歩く。
歩く。
歩く。
頭の中では、カゲルの声が響き続けていた。
《もうすぐだ》
《行こうぜ》
《今度は、お前が殴る番だ》
ヒカルは無言だった。
やがて。
ポケットの中の手が、カッターナイフを握った。
その瞬間。
「……ヒカル?」
声がした。
足が止まる。
振り返る。
そこにいたのは、あの建設会社のおじさんだった。
屋根を取り付けてくれた、あの人。
「……おじさん」
「お前、こんなところで何してる」
おじさんはヒカルの顔を見る。
青白い顔。
腫れた頬。
不自然な歩き方。
そして。
ポケットを押さえている手。
「……ちょっと待て」
おじさんの表情が変わった。
「その手、出せ」
「……何でもない」
「出せ!」
ヒカルがびくっとする。
おじさんは一歩近づいた。
「何を持ってる」
「……」
「ヒカル!」
ヒカルはゆっくり手を出した。
カッターナイフ。
おじさんの目が見開かれる。
「……お前」
低い声だった。
「これは何だ」
「……」
「どこへ行くつもりだった」
「……ゲームセンター」
「何しに」
答えない。
「誰に使うつもりだった」
ヒカルの手が震えた。
「……あいつら」
「誰だ」
「……学校の……」
おじさんはカッターナイフを取り上げた。
そして。
「ふざけるな!」
突然の怒鳴り声。
ヒカルの身体が跳ねる。
「これは人を殺す道具じゃねぇ!」
「……」
「物を作るための道具だ!」
おじさんはカッターナイフを握りしめる。
「段ボールを切って、木を削って、何かを作って、人を喜ばせるために使うもんだ!」
「……」
「人を壊すために持つもんじゃねぇだろうが!」
ヒカルは俯いた。
「……でも」
「でもじゃねぇ!」
「僕だって……!」
声が震えた。
「僕だって……!」
拳を握る。
「ずっと我慢してた……!」
「……」
「気持ち悪いって言われた!」
「……」
「弱いって笑われた!」
涙が落ちる。
「殴られても……何も言えなかった!」
一度溢れた言葉は、止まらなかった。
「僕が何しても笑われて……!」
「誰も助けてくれなくて……!」
「アネモネまで……!」
声が裏返る。
「アネモネまで壊されて……!」
「僕の大事なものを……!」
「何回も……何回も……!」
ヒカルはその場にしゃがみ込んだ。
「……もう、嫌なんだよ……」
肩が震える。
「もう……嫌なんだ……」
その瞬間。
頭の中のカゲルの声が消えた。
《…………》
何も言わない。
ただ、沈黙していた。
おじさんはしばらくヒカルを見つめていた。
そして。
ゆっくりとヒカルの前にしゃがむ。
「……そうか」
ヒカルは顔を上げられない。
「ずっと、一人で抱えてたんだな」
「……」
「馬鹿野郎」
「……っ」
「そんなもん、一人で抱えるな」
おじさんはヒカルを抱きしめた。
ヒカルの身体が固まる。
誰かに抱きしめられた記憶なんて、ほとんどなかった。
「……泣け」
「……」
「泣いていい」
ヒカルの目から、また涙が溢れた。
「お前は弱くねぇよ」
「……」
「ここまで耐えてきたんだろ」
おじさんは背中を叩く。
「それは強さだ」
「……僕が……強い……?」
「ああ」
「……でも……僕……」
「殴り返したくなっただろ」
「……」
「殺してやりたいと思っただろ」
ヒカルは何も言えなかった。
おじさんは、それを否定しなかった。
「そう思うこと自体は、人間ならある」
「……」
「けどな」
おじさんはヒカルの肩を掴んだ。
「そこで本当に殺したら、お前まであいつらと同じになる」
ヒカルの目が揺れる。
「お前は、そんな奴じゃねぇだろ」
「……」
「俺はそう思ってる」
その言葉を聞いた瞬間。
ヒカルの中で何かが崩れた。
「……う……」
「……」
「うああああ……!」
ヒカルは泣いた。
声を上げて。
子供のように。
おじさんは何も言わず、ただ抱きしめ続けた。
少し離れたところ。
建設会社の車の陰から、数人の男たちがこちらを見ていた。
おじさんの部下たちだった。
「……おやっさん」
一人が小さく呟く。
「また一人、拾ってきましたね」
「拾ったんじゃねぇ」
おじさんはヒカルの背中をさすりながら言った。
「こいつは自分で戻ってきたんだ」
部下たちは顔を見合わせる。
そして、一人が苦笑した。
「こりゃ……」
「ん?」
「やつらに教育的指導をしねえとな」
別の男が笑う。
「ねえ、おやっさん」
おじさんは少しだけ黙った。
そして。
「……馬鹿野郎」
そう言いながら、ほんの少し笑った。
「まずは話を聞くのが先だ」
「へいへい」
男たちは笑いながら車のほうへ戻っていく。
その背中を見ながら、ヒカルは泣き続けていた。
頭の中には、まだカゲルがいる。
けれど。
今は何も言わない。
ただ静かに。
ヒカルの中で眠っていた。
その日。
ヒカルは初めて知った。
強さとは。
誰かを殴り倒すことではない。
誰かを殺せることでもない。
壊れそうになりながらも。
それでも人間でいようとすることなのだと。
そして遠く離れた場所では。
30m級観測装置アネモネが。
誰もいない空を見上げていた。
『……ヒカル』
『……だい、じょうぶ……?』
その声には。
昨日までにはなかったほどの、深いノイズが混じっていた。
「ガ……ガガ……」
【言語処理:異常】
【感情判定:不安定】
【自己診断:継続】
アネモネは、それでも空を見続けていた。
『……ヒカルは……』
『……大丈夫、デス』
その言葉が。
本当に「大丈夫」という意味なのか。
それとも。
自分自身に言い聞かせているだけなのか。
もう、アネモネ自身にも分からなかった。




