↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/18

第18話「強さ」



翌朝。


ヒカルは、ほとんど眠れなかった。


目を閉じるたびに、昨日の光景が浮かんだ。


引き裂かれた絵。


泥で汚された顔。


笑いながらアネモネを馬鹿にするクラスメイト。


そして、その場にいたナオト。


何も言わずに立ち去った、あの背中。


「……お前ら」


教室に入ったヒカルは、席にも座らず、数人の男子生徒の前まで歩いていった。


「昨日、アネモネのところに行っただろ」


男子生徒たちは顔を見合わせた。


「は?」


「何の話?」


「知らねーよ」


「……嘘つくな」


ヒカルの声は低かった。


「昨日、アネモネの絵が全部なくなってた。お前らがやったんだろ」


「だから知らねえって」


「機械の絵なんかどうでもいいだろ」


「つーか、お前まだあんな塔のところ通ってんの?」


笑い声。


ヒカルの拳が震えた。


「……やめろ」


「何を?」


「アネモネを馬鹿にするな」


一瞬、教室が静かになった。


それから。


「なんだよ急に」


「こいつ、機械に本気で感情あると思ってんの?」


「気持ち悪」


その言葉を聞いた瞬間。


頭の奥で、声がした。


《……アヒャ》


ヒカルの呼吸が止まる。


《ほらな》


《こいつら、ずっとこうだろ?》


《お前が何言っても聞かねぇ》


「……黙れ」


小さく呟く。


「誰に言ってんの?」


「……なんでもない」


男子生徒の一人がヒカルの肩を押した。


「いい加減うぜぇんだよ」


「……触るな」


「は?」


次の瞬間。


腹に拳が入った。


「ぐっ……!」


ヒカルの身体が折れる。


「声出すなよ」


二人目。


脇腹。


三人目。


背中。


顔だけは殴られなかった。


教師に見つかれば、痕が残るから。


「昨日のこと、誰にも言うなよ」


「……っ」


「アネモネとかいう鉄塔のところにも、もう行くな」


「……」


男子生徒たちは笑いながら離れていった。


ヒカルは床に手をついた。


痛い。


苦しい。


でも。


それ以上に。


悔しかった。


そのとき。


《アヒャヒャ……》


カゲルの声がした。


《やり返せよ》


「……」


《何で黙ってんだ?》


《殴られたんだろ?》


《だったら殴り返せ》


ヒカルは顔を上げた。


《あいつら、殺しちまえばいい》


「……殺す」


その言葉が、自然に口から漏れた。


自分で言ったのか。


カゲルが言わせたのか。


もう、分からなかった。


《そうだ》


《それでいい》


《お前を笑った奴らも》


《アネモネを壊した奴らも》


《全部、消しちまえばいい》


ヒカルは何も答えなかった。


ただ。


その言葉を否定しなかった。


放課後。


ヒカルは一人で歩いていた。


ポケットの中に、カッターナイフが入っている。


柄の感触を何度も確かめる。


目的地は、ゲームセンター。


クラスメイトたちがよく集まっている場所だった。


歩く。


歩く。


歩く。


頭の中では、カゲルの声が響き続けていた。


《もうすぐだ》


《行こうぜ》


《今度は、お前が殴る番だ》


ヒカルは無言だった。


やがて。


ポケットの中の手が、カッターナイフを握った。


その瞬間。


「……ヒカル?」


声がした。


足が止まる。


振り返る。


そこにいたのは、あの建設会社のおじさんだった。


屋根を取り付けてくれた、あの人。


「……おじさん」


「お前、こんなところで何してる」


おじさんはヒカルの顔を見る。


青白い顔。


腫れた頬。


不自然な歩き方。


そして。


ポケットを押さえている手。


「……ちょっと待て」


おじさんの表情が変わった。


「その手、出せ」


「……何でもない」


「出せ!」


ヒカルがびくっとする。


おじさんは一歩近づいた。


「何を持ってる」


「……」


「ヒカル!」


ヒカルはゆっくり手を出した。


カッターナイフ。


おじさんの目が見開かれる。


「……お前」


低い声だった。


「これは何だ」


「……」


「どこへ行くつもりだった」


「……ゲームセンター」


「何しに」


答えない。


「誰に使うつもりだった」


ヒカルの手が震えた。


「……あいつら」


「誰だ」


「……学校の……」


おじさんはカッターナイフを取り上げた。


そして。


「ふざけるな!」


突然の怒鳴り声。


ヒカルの身体が跳ねる。


「これは人を殺す道具じゃねぇ!」


「……」


「物を作るための道具だ!」


おじさんはカッターナイフを握りしめる。


「段ボールを切って、木を削って、何かを作って、人を喜ばせるために使うもんだ!」


「……」


「人を壊すために持つもんじゃねぇだろうが!」


ヒカルは俯いた。


「……でも」


「でもじゃねぇ!」


「僕だって……!」


声が震えた。


「僕だって……!」


拳を握る。


「ずっと我慢してた……!」


「……」


「気持ち悪いって言われた!」


「……」


「弱いって笑われた!」


涙が落ちる。


「殴られても……何も言えなかった!」


一度溢れた言葉は、止まらなかった。


「僕が何しても笑われて……!」


「誰も助けてくれなくて……!」


「アネモネまで……!」


声が裏返る。


「アネモネまで壊されて……!」


「僕の大事なものを……!」


「何回も……何回も……!」


ヒカルはその場にしゃがみ込んだ。


「……もう、嫌なんだよ……」


肩が震える。


「もう……嫌なんだ……」


その瞬間。


頭の中のカゲルの声が消えた。


《…………》


何も言わない。


ただ、沈黙していた。


おじさんはしばらくヒカルを見つめていた。


そして。


ゆっくりとヒカルの前にしゃがむ。


「……そうか」


ヒカルは顔を上げられない。


「ずっと、一人で抱えてたんだな」


「……」


「馬鹿野郎」


「……っ」


「そんなもん、一人で抱えるな」


おじさんはヒカルを抱きしめた。


ヒカルの身体が固まる。


誰かに抱きしめられた記憶なんて、ほとんどなかった。


「……泣け」


「……」


「泣いていい」


ヒカルの目から、また涙が溢れた。


「お前は弱くねぇよ」


「……」


「ここまで耐えてきたんだろ」


おじさんは背中を叩く。


「それは強さだ」


「……僕が……強い……?」


「ああ」


「……でも……僕……」


「殴り返したくなっただろ」


「……」


「殺してやりたいと思っただろ」


ヒカルは何も言えなかった。


おじさんは、それを否定しなかった。


「そう思うこと自体は、人間ならある」


「……」


「けどな」


おじさんはヒカルの肩を掴んだ。


「そこで本当に殺したら、お前まであいつらと同じになる」


ヒカルの目が揺れる。


「お前は、そんな奴じゃねぇだろ」


「……」


「俺はそう思ってる」


その言葉を聞いた瞬間。


ヒカルの中で何かが崩れた。


「……う……」


「……」


「うああああ……!」


ヒカルは泣いた。


声を上げて。


子供のように。


おじさんは何も言わず、ただ抱きしめ続けた。


少し離れたところ。


建設会社の車の陰から、数人の男たちがこちらを見ていた。


おじさんの部下たちだった。


「……おやっさん」


一人が小さく呟く。


「また一人、拾ってきましたね」


「拾ったんじゃねぇ」


おじさんはヒカルの背中をさすりながら言った。


「こいつは自分で戻ってきたんだ」


部下たちは顔を見合わせる。


そして、一人が苦笑した。


「こりゃ……」


「ん?」


「やつらに教育的指導をしねえとな」


別の男が笑う。


「ねえ、おやっさん」


おじさんは少しだけ黙った。


そして。


「……馬鹿野郎」


そう言いながら、ほんの少し笑った。


「まずは話を聞くのが先だ」


「へいへい」


男たちは笑いながら車のほうへ戻っていく。


その背中を見ながら、ヒカルは泣き続けていた。


頭の中には、まだカゲルがいる。


けれど。


今は何も言わない。


ただ静かに。


ヒカルの中で眠っていた。


その日。


ヒカルは初めて知った。


強さとは。


誰かを殴り倒すことではない。


誰かを殺せることでもない。


壊れそうになりながらも。


それでも人間でいようとすることなのだと。


そして遠く離れた場所では。


30m級観測装置アネモネが。


誰もいない空を見上げていた。


『……ヒカル』


『……だい、じょうぶ……?』


その声には。


昨日までにはなかったほどの、深いノイズが混じっていた。


「ガ……ガガ……」


【言語処理:異常】


【感情判定:不安定】


【自己診断:継続】


アネモネは、それでも空を見続けていた。


『……ヒカルは……』


『……大丈夫、デス』


その言葉が。


本当に「大丈夫」という意味なのか。


それとも。


自分自身に言い聞かせているだけなのか。


もう、アネモネ自身にも分からなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。