第13話 屋根をください
水害から、しばらく経ったある日。
アネモネの外壁には、色とりどりの紙が貼られていた。
先日の式典で、町の子どもたちから贈られた似顔絵だ。
赤、青、黄色、緑。
大きな塔として描かれたものもあれば、丸い目と口だけでアネモネを表現したものもある。
中には、なぜかアネモネに手足が生えている絵まであった。
ヒカルはその前に立ち、笑いながら絵を眺めていた。
「結構あるな」
『はい』
「全部貼ったんだ」
『はい。どれも、とても嬉しいです』
「よかったな」
『はい』
アネモネは嬉しそうに答えた。
けれど。
しばらくすると、少しだけ間が空いた。
『……ヒカル先輩』
「ん?」
『相談したいことがあります』
「どうした?」
『先日いただいた、似顔絵についてです』
「これ?」
『はい』
ヒカルも、改めて絵を見上げる。
「気に入った?」
『はい。とても嬉しいです』
「そっか」
『……ですが』
「ん?」
『少し、心配なことがあります』
「心配?」
『はい』
アネモネの視覚センサーが、一枚の絵を捉えた。
『現在は晴天で、風も弱い状態です。そのため問題はありません』
「うん」
『しかし、今後、天候が崩れた場合、この絵が雨に濡れてしまう可能性があります』
「まあ、紙だからな」
『さらに風速が現在の三メートル毎秒から十メートル毎秒まで上昇した場合、現在使用されているテープによる固定では十分な保持力を確保できない可能性があります』
「うん」
『特にこちらの絵は右上の部分が僅かに浮いています。この状態で風が入り込んだ場合、紙の一部が剥離し、そのまま飛散する可能性があります。周辺の樹木や建造物に引っかかれば回収が困難になる可能性もありますし、さらに降雨が重なった場合には紙の強度が低下し、破損する可能性が――』
「アネモネ」
『はい』
「ちょっと待って」
『ですが、まだあります』
「まだあるの?」
『はい』
アネモネは止まらなかった。
『雨だけではありません。湿度が上昇すれば紙そのものの強度が低下します。さらに夜間に気温が低下した場合、表面に結露が発生する可能性もあります。また、強風時にはテープの接着面に負荷が集中し、剥離が発生する可能性が――』
「アネモネ」
『はい』
「めちゃくちゃ心配してるじゃん」
『……はい』
「そんなに?」
『……はい』
「絵だぞ?」
『絵です』
「うん」
『ですが、大切な絵です』
その声は、いつもより少し小さかった。
『せっかく、皆さんが私のために描いてくださったものです』
『私が大切にしているものです』
『それが雨で濡れてしまったり、風で飛ばされてしまったりしたら……』
少し間が空く。
『……嫌です』
ヒカルは、アネモネを見上げた。
『なくなってしまうのは、嫌です』
「……そっか」
『はい』
「じゃあ、何か考えよう」
『何か、ですか?』
「屋根でも付ければいいんじゃない?」
『屋根』
「うん。雨が直接当たらないようにして、風も多少防げるようにする」
『……可能ですか?』
「たぶん」
『本当に?』
「たぶんって言ったけど」
『ヒカル先輩は建築を専門としているわけではありません。構造計算や耐風設計についても専門的な知識を有しているとは言えず、設置場所の地盤や既存構造物への荷重についても確認する必要があります。それに屋根の重量が大きすぎればアネモネ本体への負荷が――』
「はいはい」
『さらに強風時に屋根そのものが飛散した場合、現在よりも大きな危険が――』
「アネモネ」
『はい』
「俺がなんとかするから」
『…………』
「大丈夫」
『……』
「だから、そんな早口でいっぱい喋らなくていいって」
『……分かりました』
「心配だったんだろ?」
『……はい』
「じゃあ、任せて」
『……はい』
しばらく沈黙したあと。
『……ありがとうございます』
「どういたしまして」
そして翌日。
ヒカルはホームセンターへ向かった。
「屋根くらい、俺でも作れるだろ」
木材。
金具。
波板。
ネジ。
その他、よく分からない部品。
適当に買い込んで、ヒカルはアネモネの前で作業を始めた。
「ここをこうして……」
木材を組み合わせる。
ネジを締める。
金具を取り付ける。
何度か失敗した。
「……違うな」
やり直す。
さらに数時間。
「よし」
完成した。
「どうだ!」
ヒカルが胸を張る。
アネモネの外壁には、小さな屋根が取り付けられていた。
ただし。
どう見ても頼りない。
屋根というより、巨大な犬小屋の屋根を無理やり取り付けたような形だった。
『…………』
「どう?」
『これは……』
「うん」
『屋根……ですか?』
「屋根だよ」
『…………』
「なんだよ」
『いえ』
そのとき。
風が吹いた。
ギシッ。
「……」
『……』
ギシッ。
屋根が揺れる。
「大丈夫、大丈夫」
『…………』
「たぶん」
『たぶん、ですか?』
「いや、まあ……」
もう一度、風が吹いた。
ギィィ……。
屋根が少し傾いた。
『……ふっ』
「今、笑った?」
『笑っていません』
「いや、笑っただろ」
『笑っていません』
「絶対笑った」
『……少しだけ、面白かったです』
「正直に言うなよ」
『申し訳ありません』
「謝ることでもないけどさ」
ヒカルが屋根を押さえていると。
「兄ちゃん」
背後から声がした。
「何作っとんねん」
振り返る。
作業着姿の中年男性が立っていた。
「あ、こんにちは」
「いや、こんにちはやない。これ何や」
「屋根です」
「見たら分かるわ」
「……」
男性は屋根を見上げた。
しばらく黙った。
「兄ちゃん」
「はい」
「これ、台風来たら屋根だけ飛ぶぞ」
「……やっぱり?」
「下手したらアネモネまで飛ぶ」
「そこまで?」
『その可能性は否定できません』
「お前は否定しろよ」
男性は吹き出した。
ヒカルも苦笑する。
「アネモネの絵を守るためか?」
「あ、はい」
ヒカルが事情を説明する。
男性は、外壁に貼られた似顔絵を見上げた。
しばらく何も言わなかった。
「……そうか」
「?」
「ちょっと待っとれ」
男性は携帯電話を取り出した。
「おう。今から来れる奴、何人か連れてきてくれ」
電話を切る。
「え?」
「兄ちゃん、その屋根はいったん外そう」
「え?」
「うちの会社、建設屋やからな」
それから一時間もしないうちに。
大型トラックが何台もやってきた。
「えっ」
作業着姿の男たちが次々と降りてくる。
さらに。
重機までやってきた。
「えっ」
『……重機、ですか?』
「うん……」
ヒカルは完全に置いていかれていた。
「おじさん、これ……」
「この前の水害でな」
男性が言った。
「うちが建設中やった建物も、丸ごと流されてもうた」
「……」
「社員も、みんな大変やった」
男性はアネモネを見上げる。
「あんとき、アネモネが町の人間を逃がしてくれたやろ」
「はい」
「うちの社員にも、この町に家がある奴が何人もおる」
男性は少し笑った。
「だからな」
アネモネを見上げる。
「これは恩返しや」
「でも……」
「屋根一枚くらい、作らせてくれ」
作業員たちが動き始める。
「じゃ、兄ちゃん。悪いけどそこどいてな」
「はい……」
ヒカルの手作り屋根は、あっという間に撤去された。
「ちょっと待ってください」
「ん?」
「それ、俺が作ったんですけど……」
「うん」
「……」
「悪かったな」
「いや……」
ヒカルは何も言えなかった。
重機が動く。
大きな鉄骨が吊り上げられる。
専門の作業員たちが手際よく組み上げていく。
ヒカルが一日かけて作った屋根は、数時間で跡形もなくなった。
『ヒカル先輩』
「……何?」
『先ほどの屋根より、こちらのほうが安心できます』
「うん」
『とても安心できます』
「うん」
『……少しだけ、面白かったです』
「まだ言う?」
『はい』
「もう忘れてくれ」
夕方。
作業が終わった。
新しい屋根は、子どもたちの似顔絵をすっぽりと覆っていた。
これなら雨が降っても、強い風が吹いても簡単には飛ばされない。
『これで、絵を守ることができます』
「うん」
『ありがとうございます』
アネモネが言った。
ヒカルは、少し離れたところで作業員たちを見ていた。
みんな疲れているはずなのに、笑いながら片付けをしている。
「……なんか、不思議だな」
『何がですか?』
「俺、ずっとさ」
ヒカルは屋根を見上げた。
「アネモネは俺が守らなきゃって思ってたんだよ」
『……はい』
「でも」
ヒカルは、集まってくれた人たちを見る。
「誰かを守ろうとしたら、誰かが助けてくれることもあるんだな」
『……』
「人って、悪い奴ばっかりじゃないのかもな」
アネモネは少しだけ沈黙した。
『はい』
『私も、そう思います』
風が吹いた。
屋根の下で、子どもたちの描いた似顔絵が揺れる。
けれど、飛んでいくことはなかった。
『……これなら、大丈夫ですね』
「うん」
『もう、心配しなくてもいいですね』
「そうだな」
『……よかったです』
ヒカルは笑った。
「よかったな」
『はい』
アネモネの外壁には、たくさんの笑顔が並んでいた。
その上には、新しい屋根があった。
ヒカルが作ったものではない。
町の大人たちが、アネモネのために作ってくれた屋根だった。




