第12話 必要な場所
洪水から、しばらくの時間が経った。
町には、まだ爪痕が残っている。
壊れた家。
泥の残る道路。
撤去されずに残っている家具。
それでも、人々は少しずつ日常を取り戻していた。
そんなある日。
町の公民館には、たくさんの人が集まっていた。
その中央には、いつもの巨大な塔。
アネモネがいた。
『……本日は、何の集まりでしょうか』
ヒカルは少し離れたところから、その様子を見ていた。
「さあ」
『ヒカル先輩も、知らないのですか?』
「うん。俺も呼ばれただけだから」
アネモネは周囲を観測する。
いつもより人が多い。
町長もいる。
消防関係者もいる。
そして、町の人たちがたくさんいる。
『……何か、異常事態でしょうか』
「たぶん違うと思う」
やがて、町長が壇上に立った。
「本日は、この町を守ってくれた広域気象観測統合装置、MUGI-01について、皆さんにお話ししたいと思います」
アネモネの周囲に、わずかな処理音が響いた。
『……私、ですか?』
「そうだよ」
町長が話し始める。
「皆さんもご存じの通り、あの日、この町は未曾有の豪雨に見舞われました」
会場が静かになる。
「二つのダムが相次いで決壊するという、誰も経験したことのない災害でした」
「そして、MUGI-01は、決壊のおよそ十二時間前から避難警告を発信していました」
アネモネは黙って聞いている。
「しかし、警告だけではありません」
町長が資料をめくる。
「決壊の三時間前。MUGI-01は警戒状態から避難指示へ移行しました」
「町内の放送設備を使用し、各家庭へ避難を呼びかけた」
「高齢者の一人暮らしの家庭には、個別の状況に合わせて避難方法を案内した」
「子供たちには、恐怖を与えないように言葉を選びながら避難を促した」
「消防、警察、救急には、刻々と変化する状況を伝え続けた」
会場のあちこちから、静かなざわめきが起きる。
「結果として」
町長が一度、言葉を止めた。
「この町では、死者も、重傷者も出ませんでした」
アネモネの処理音が、ほんの少しだけ大きくなる。
「町の約八割が浸水しました」
「それでも、約一万世帯の住民が避難を終えた後に、ダムは決壊した」
町長はアネモネを見上げた。
「これは偶然ではありません」
「この装置が、最後まで町の人間を守り続けた結果です」
会場から拍手が起こった。
アネモネは、何も言わなかった。
ただ、その音を聞いていた。
『……』
やがて、町長が言った。
「本日、MUGI-01を、この町の災害対応における功績を称え、表彰したいと思います」
アネモネの画面に、一瞬だけ文字が表示される。
【表彰】
『……表彰』
ヒカルが笑う。
「よかったな、アネモネ」
『……はい』
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
表彰が終わったあと。
一人の男性が、ゆっくりと前へ出てきた。
杖をついている。
「……少し、いいでしょうか」
町長が頷く。
男性はアネモネを見上げた。
「私は、あの日……一人では逃げられませんでした」
会場が静かになる。
「もう、家族はいません」
男性は淡々と話していた。
「妻も、ずっと前に亡くなりました。子供もいません」
「だから、私は……」
そこで言葉が止まる。
「このまま、誰にも気づかれずに死んでいくんだろうと思っていました」
誰も口を挟まない。
「寝たきりになってからは、特にそうでした」
「朝になっても、誰とも話さない」
「夜になっても、誰も来ない」
「具合が悪くても、自分でどうにかするしかない」
男性は苦笑した。
「孤独死っていうんですかね」
「……そうなるのを待つだけの余生だと思っていました」
アネモネは、何も言わずに男性を見つめていた。
「あの日も、最初は……また雨が降ってるな、くらいにしか思っていませんでした」
「でも、あんたが何度も声をかけてくれた」
男性の声が少し震えた。
「避難してくださいって」
「一人では難しいでしょうから、こうしてくださいって」
「必要なものを準備してくださいって」
「何度も、何度も」
男性はアネモネを見上げた。
「……あんなに誰かに声をかけてもらったのは、いつ以来だったかな」
そこで、男性の目から涙が落ちた。
「私は……」
言葉が続かない。
「私は、まだ……誰かに心配してもらえる人間だったんですね」
ヒカルが静かに男性を見る。
アネモネは少しだけ処理を停止した。
『……はい』
男性が顔を上げる。
『あなたは、私が守るべき町の住民でした』
「……」
『ですから、避難していただきたかったのです』
男性は泣きながら笑った。
「……ありがとう」
「ありがとうな、アネモネさん」
『……どういたしまして』
男性は何度も頭を下げた。
アネモネは、その姿を見つめていた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
『……嬉しい、です』
「アネモネー!」
明るい声が響いた。
振り返ると、幼稚園の子供たちが先生に連れられてやってきた。
手には、色とりどりの紙。
「これ!」
「アネモネの絵!」
「ぼくが描いた!」
子供たちが次々と紙を差し出す。
そこには、巨大な塔が描かれていた。
紫色の空。
大きな太陽。
虹。
そして、塔の隣には小さな人間がたくさん描かれている。
アネモネは一枚ずつ画像を読み取っていく。
『……これは?』
「アネモネ!」
『……私、ですか?』
「そう!」
「おっきいから!」
「町を守ってくれたから!」
「ありがとう!」
アネモネの処理が、一瞬だけ止まった。
『……』
そして。
『ありがとう、ございます』
子供たちが笑う。
アネモネも笑おうとした。
『……嬉しい、です』
ヒカルが目を丸くする。
「アネモネ?」
『……』
アネモネ自身も、今の言葉に戸惑っていた。
【感情機能:未搭載】
【自己診断:開始】
『……私は』
子供たちの絵を見つめる。
どの絵にも、自分が描かれている。
『……嬉しい』
もう一度、言った。
『私は……嬉しい、のでしょうか』
ヒカルは少し笑った。
「うん」
「たぶん、それでいいんじゃない?」
『……そう、ですか』
アネモネの周囲には、たくさんの絵が貼られていく。
どれも上手ではない。
線は曲がっている。
色もはみ出している。
それでも。
アネモネは、その一枚一枚を大切そうに観測していた。
『……ヒカル先輩』
「ん?」
『私は……』
少しだけ間があった。
『ヒカル先輩だけではなく』
『この町の皆さんにとっても……必要なのでしょうか』
「うん」
ヒカルは迷わず答えた。
「そうだよ」
『……』
『そう、ですか』
アネモネは、しばらく黙っていた。
そして。
『……嬉しいです』
その言葉だけは、今度は間違えなかった。
巨大な塔に、たくさんの子供たちの絵が貼られている。
その中でアネモネは、初めて知った。
自分が誰か一人のためだけに存在しているわけではないことを。
そして同時に。
その感覚が何なのかを、まだ自分では理解できていなかった。




