第12話:ポラリスの魔法、明日への隠し味
無事に危機を乗り越え、ついに病院から帰ってきたポラリスの本当の主・トメさん。彼女に食べてもらう究極のハンバーグ。そして、蓮とアマネが見つけた答えとは……?
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。二人の物語の結末を、ぜひ最後まで見届けてください!
佐伯が警察に連行されてから三日。ポラリスの厨房には、まだ微かにガソリンの匂いが残っていた。
しかし、それをかき消すように、二人の男の活気ある声が響いている。
「……リョウ、そこがまだ汚れている。あとコンマ二ミリ右だ。拭き残しは許さない」
「あはは、蓮は相変わらず細かいね。でも見て、この雑巾の絞り方。僕のアルゴリズムではこれが最も吸水率が高いはずだよ」
オレンジ色のエプロン姿で一心不乱に床を磨く、元・帝王と、イケメン完璧超人。
カウンターの隅でその光景を眺めるアマネは、スマホのカメラを構えたまま、幸せそうに限界オタクのため息をついた。
(……はぁ。この二人、掃除してるだけなのに何この『美』の暴力。ガソリン臭さえも高級香水の匂いに思えてくるわ……。蓮さんの厳しい表情と、リョウさんのキラキラした笑顔の対比。尊い。もう、このまま一生掃除しててほしい……)
「アマネ、鼻の下が伸びているぞ。さっさと表の看板を磨け」
「えっ!? あ、はいはい、今やりますよ店長さん!」
蓮のぶっきらぼうな声に、アマネは慌てて飛び出した。以前なら「店長」と呼ばれても拒絶していた蓮だったが、今はその響きに、僅かな心地よさすら感じていた。
「はい、二人ともお疲れ様! 私が握った塩むすびと、隣の佐藤さんがくれたコロッケ!」
アマネが皿を置くと、リョウは目を輝かせて不格好な塩むすびを手に取った。
「いただきます! ……んんっ、美味しい! 塩が偏ってるけど、それが逆に手作りっぽくて最高だね!」
かつて「ノイズ」を嫌悪していた無菌室の王子が、泥臭いコロッケと塩むすびを頬張りながら、心から幸せそうに笑っている。
蓮は、リョウの前にコーヒーを置き、自分もコロッケを一口かじった。
「……ああ。泥臭くて、騒がしくて、どうしようもなく不格好だ。……だが、最高の『味』だ」
蓮は静かに自分の舌を噛みしめる。もう、砂の味はしない。口の中に広がるのは、イモの甘みと、確かな命の温度だった。
そして、約束の日の午後。
タクシーが店の前に止まり、小さくなった背中の老婦人がゆっくりと降りてきた。ポラリスの本当の主、トメさんだ。
「……あらあら、まあ。なんだか、店がピカピカじゃないの」
トメさんは目を細めて、生まれ変わったポラリスを見渡した。
蓮はコックコートの襟を正し、極度の緊張から顔を強張らせながら、トメさんの前に立った。
「……おかえりなさい。トメさん」
「久我くん。……こんな小さなお店の灯を、消さないでいてくれて、ありがとうね」
蓮は深く一礼すると、厨房へ戻り、今日この瞬間のために用意した究極の一皿をトメさんの前に置いた。
三人で作った、あの『黄金のハンバーグ』。けれど今日の一皿は、コンペの時よりもさらに熱く、優しい香りを放っている。
「……いただきます」
トメさんはゆっくりとナイフを入れ、一口を運んだ。
一口。また一口。
三人は息を呑んでその様子を見守る。アマネは祈るように手を握りしめていた。
「……おばあちゃん、どう……かな?」
アマネの問いに、トメさんはふっくらとした笑みを浮かべ、目尻に浮かんだ涙をそっと指で拭った。
「……お粗末。……な、味ね」
それは、かつて源さんが蓮に投げつけた、最悪の蔑称。
けれど、トメさんの口から漏れたその言葉は、どんな最高級の賛辞よりも温かく響いた。
「三ツ星を獲った天才シェフが、こんな場末の定食屋のハンバーグに、ムキになって全力を注いで……本当にお粗末で、バカみたいで……愛おしい味ね」
トメさんは、空になった皿を見つめ、蓮に微笑みかけた。
「――不器用で、意地っ張りで、けれど誰かを温めたい。……久我くん。あなた、ポラリスの『隠し味』を見つけてくれたのね」
蓮は深く、深く頭を下げた。
視界が、不意に滲んだ。
(……師匠。俺は、ようやくあなたの言っていた『土地の忘れ物』を……自分の、帰る場所を見つけることができました)
夜。商店街の街灯が点り、再開発計画が白紙になった商店街は、いつもの穏やかな賑わいを取り戻していた。
地主としての圧倒的な権力を誇示するでもなく、相変わらず隅の席で日本酒を煽っていた源さんが、厨房の蓮にボソリと言った。
「……坊主。……来月から家賃、一割上げるぞ。……こんだけ繁盛させちまったんだ、当然だろ」
「……勝手にしろ、クソ爺」
リョウは、エプロンを外しながら蓮に言った。
「僕はね、蓮。ナインで培ったノウハウを活かして、この商店街の『活性化コンサルタント』を始めることにしたよ」
「コンサルだと?」
「そう。君の料理を、世界中の人が『笑顔』で食べられるように、僕がこの街のシステムを整える。……もちろん、蓮には僕の計算通りに動いてもらうけどね」
「ふん。お前の理屈に付き合うつもりはない。……だが、まあ、悪くない」
蓮とリョウは、かつて恵比寿でそうしたように、軽く拳を突き合わせた。
そして。
閉店後のポラリスで、蓮とアマネは並んで、窓の外の夜空を見上げていた。
「蓮さん。……味覚が戻ったなら、もう『翻訳機』の私は必要ない?」
アマネが、少しだけ不安そうに、足元を見つめながら尋ねた。
蓮は、窓ガラスに映る自分の顔――かつての「冷徹な帝王」ではない、どこか憑き物が落ちたような、穏やかな料理人の顔を見つめ、それからアマネに向き直った。
「……バカか。お前のあの『意味不明なポエム』がなければ、俺は一生、孤独な砂を噛んでいただろう」
「ええっ!? 意味不明ってひどい! 私の表現は極彩色だって言ってるでしょ!」
「……うるさいマイクだ」
蓮は不器用な手つきで、怒るアマネの頭をポン、と優しく叩いた。
「……アマネ。……明日、市場へ行くぞ。……最高に『太陽が爆発したような色』のジャガイモを探しにな」
その言葉の意味を理解し、アマネの顔がパッと明るく華やぐ。蓮は、これからも彼女の言葉(色彩)を隣で聞き続けると約束してくれたのだ。
「――うんっ! 任せて!」
アマネは満面の笑みを浮かべ、蓮の顔を覗き込んだ。
「ふふっ。今の蓮さんの顔、すっごく良い色してる!」
「……どんな色だ」
「んーとね。『雪解けの朝に、一番最初に咲いた、不器用だけど温かい花の色』!」
二人の頭上。札幌の透き通った夜空には、決して揺らぐことのない『北極星』が、優しく二人を照らしていた。
このキッチンに、魔法はない。
ただ、誰かを想う「熱」と、それを伝える「言葉」があるだけだ。
それは、世界で一番温かい、二人の隠し味。
【完】




