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07.三十年の沈黙

 オルグレンの隠居先は、湖のほとりの小さな家だった。


 元宮廷星読みがここにいることを知っていたのは、母の日記のおかげだ。追放された後も、母はオルグレンの消息を追い続けていた。恨みからではなく、「いつか真実が必要になる時のために」と書いてあった。母は、自分が生きているうちにその日が来ないことをわかっていたのだと思う。


 湖畔に着いたのは午後だった。小さな菜園と、洗濯物が干してある質素な家。元宮廷星読みの暮らしにしては地味すぎる。


 ドアをノックした。


「……はい」


 扉を開けたのは、痩せた老女だった。白髪を後ろで束ねて、皺の深い顔に知性的な目。その目が私を見た瞬間、凍りついた。


「あなた……」


「リラです。ステラリスの」


 オルグレンの顔から血の気が引いた。三十年前に追放に加担した一族の末裔が、玄関先に立っている。その意味を即座に理解した顔だった。


「……中へ。立ち話は」


「お邪魔します」


 ルシェと一緒に中に入った。ルシェはフードを深く被っていて、素顔は見えないようにしてあった。


 小さな居間。壁一面に書棚があり、古い文献がぎっしり詰まっている。星読みの研究資料だ。宮廷を退いた後も、研究は続けていたらしい。


 お茶を出してくれた。手が震えていた。


「あなたが来ることは、いつか覚悟していました」


「覚悟」


「ステラリス家の誰かが、いつか真実を求めに来ると。来るべきだと思っていました。……来なければいいとも、思っていましたが」


「正直な方ですね」


「今さら嘘をついても仕方がないでしょう」


 オルグレンはお茶の湯気の向こうで、疲れた目をしていた。


「何が聞きたいのですか」


「二つあります。一つ目は、一族の追放の真相。母から聞いた話では、一族は星の異変を正確に報告しただけだった。追放の理由は誤読ではなく、正しすぎたこと。本当ですか」


「……本当です」


 オルグレンが目を伏せた。


「あなたの祖父母は、ある星域の魔力が不安定になっていることを報告しました。正確に、データに基づいて。しかしその報告は、星の魔力が永遠であるという前提で成り立っている国家政策を根底から覆すものでした」


「星は永遠じゃない」


「ええ。星にも寿命がある。老いた星の魔力は不安定になり、やがて衰退する。あなたの祖父母はそれを発見した最初の星読みでした。でも、当時の宮廷はそれを認められなかった」


「認めたら?」


「国中が混乱する。星の魔力は農業、軍事、医療、すべての基盤です。それが永遠でないと知れたら、人々は恐慌を起こす。……少なくとも、当時の権力者たちはそう判断しました」


「そしてあなたは、その判断に従った」


 オルグレンが長い沈黙の後に頷いた。


「私は当時、宮廷星読みの中で二番目の地位にいました。ステラリス家の報告を検証する立場でした。検証した結果……報告は正しかった。でも私は、上に『報告は不正確であり、民衆を混乱させる妄言である』と進言しました」


「なぜ」


「怖かったのです」


 単純な言葉だった。


「正しいことを言えば、ステラリス家と同じ運命を辿る。追放されて、地位を失って、すべてを奪われる。私にはそうなる勇気がなかった」


 私は黙ってお茶を飲んだ。


 怒りはあった。この人が黙ったから、祖父母は追放された。母は辺境で苦しい生活を送り、私は星読みの技術を封印して薬師になった。この人が一言、「報告は正しい」と言ってくれていたら。


 でも。


 「怖かった」という気持ちは、わかってしまう。


 だって私も、同じだったから。


 見えていることを口にするのが怖くて、六年間黙ってきた。正しいことを言っても罰されるという学習が染みついて、見えないふりをしてきた。オルグレンと私は、根っこのところで同じだ。


「責めに来たのではないんです」


「では何のために」


「知識が必要です。一族の文献は一部しか残っていません。欠けた部分を補える人はあなたしかいない」


「どの部分ですか」


「禁忌の星読みについて」


 オルグレンの顔が、一瞬だけ硬くなった。


「……なぜ、禁忌の星読みを」


「星そのものではなく、星の魔力が宿った存在を直接読む技術です。その手順と、術者へのリスクと、成功条件を知りたい」


「何のために使うつもりですか」


 私はルシェを見た。ルシェが小さく頷いて、フードを外した。


 オルグレンが息を呑んだ。


「その銀灰色の髪は……」


「リヴェール王国第三王子、ルシェです。この方は、星を喰らう体質を持っています」


「終星の……厄災」


「はい。でも、私は疑問を持っています。本当にただ喰らっているだけなのか。吸収した魔力がその後どうなっているのか。過去の記録では確認されていないことが、起きている可能性がある」


 観測ノートを取り出した。旅の間に書き溜めたデータ。日付、場所、星域の安定度。ルシェが力を使った前後の変化。


 オルグレンがノートに目を通した。老眼鏡をかけて、一ページ一ページ丁寧に読んだ。


「……これは」


「気づきましたか」


「ルシェ殿下が魔力を吸収した後の星域で、安定度が上がっている。このデータが正確なら……」


「まだ仮説にもなりません。データが少なすぎる。だからこそ、禁忌の星読みで直接確認したいんです」


 オルグレンが長い沈黙の後、立ち上がった。書棚から古い革張りの本を一冊取り出した。


「これは、宮廷を去る時に持ち出した文献です。ステラリス家の研究を検証する過程で、私が書き写したもの。禁忌の星読みの手順が含まれています」


 本を受け取った。手が震えた。母が持っていた文献の、欠損部分を埋めるピース。


「ただし、リラさん。一つだけ警告しておきます」


「はい」


「禁忌の星読みは、星読みの技術の中で最も危険なものです。星の魔力の奔流を術者の体に通すことで対象を読むため、制御を誤れば魔力に焼かれて死にます。成功の保証はなく、過去に試みた記録も極めて少ない」


「わかっています」


「わかっていて、やるのですか」


「今すぐやるとは言っていません。でも、いつか必要になるかもしれない。その時のために、知識は持っておきたいんです」


 オルグレンが私の目をじっと見た。


「……あなたは、お祖母様に似ていますね」


「祖母に?」


「データを見て、仮説を立てて、確認する方法を探す。その順序が、エレナ・ステラリスのやり方とそっくりです」


 祖母の名前を、この人の口から聞くとは思わなかった。


「もう一つ、聞いてもいいですか」


「何ですか」


「祖母の報告。星の寿命が尽きかけているという予測。あれは今も正しいと思いますか」


 オルグレンが窓の外を見た。湖の向こうに、午後の空が広がっている。


「三十年前よりも、状況は悪くなっています。私が隠居してからも観測は続けてきました。複数の星域で魔力の減衰が進んでいる。特にここ十年は加速している」


「十年」


「ええ。ルシェ殿下の体質が発覚した時期と重なりますが……相関関係は因果関係ではない。それは、あなたの方がよくわかっているでしょう」


 わかっている。でも、この一致は無視できない。


「もし。もしルシェ殿下の体質が、星の魔力を吸収して消滅させるのではなく、別のことをしているのだとしたら。たとえば、不安定な魔力を取り込んで安定させて返す、のだとしたら」


「それは……浄化、ということですか」


「仮説です。仮説にもなっていない、ただの違和感です」


「しかし、もしそうだとすれば」


 オルグレンの目が光った。学者としての好奇心が、三十年間の罪悪感を一瞬だけ押しのけた。


「終星の厄災は厄災ではなく、星の免疫機構ということになる。壊れかけた星を修復するための、自然の安全装置」


「はい。その仮説を証明するには、禁忌の星読みでルシェくんの体内の魔力の流れを直接観測するしかない。……と思うんです。他に方法があれば教えてほしいですけど」


「他に方法は、ありません」


 オルグレンが静かに言った。


「リラさん。禁忌の星読みを行うなら、私にできることがあれば申し出ます。これは贖罪ではない、と言いたいところですが……その気持ちがないとは言えませんね」


「贖罪じゃなくていいです。学者として協力してください。その方が頼りになります」


 オルグレンが少しだけ笑った。初めて見た笑顔だった。


 *


 オルグレンの家に二日滞在して、文献を読み込んだ。


 禁忌の星読みの手順は、想像以上に複雑だった。術者が星読みの杖を媒介にして、対象の体内の魔力の流れに自分の意識を同調させる。星を読むのと同じ原理だが、星は遠くて安全なのに対し、人の中の魔力は近くて荒い。


 成功すれば、対象の体内の魔力の流れが術者の目を通して可視化される。失敗すれば、魔力の奔流に焼かれる。


「こんな危険なこと、誰がやるんだろう」


 文献を閉じながら言った。本気でそう思った。


 でも、心の隅で、もう一つの声が聞こえていた。


 ――やるかもしれない。やらなきゃいけない時が来るかもしれない。


 その声には、まだ蓋をしておいた。


 *


 オルグレンの家を発つ朝、予想外の来客があった。


 湖畔の道から、馬に乗った女性が近づいてきた。三十歳くらい。知的な顔立ちに、厳しい目。馬から降りると、鞄から分厚い書類束を取り出した。


 オルグレンが窓から見て、顔色を変えた。


「ナディアです」


「え?」


「アステリア連合国の宮廷学者。星の消失を研究している人です。……なぜ、ここに」


 ナディアがオルグレンの家に向かってきた。ドアをノックする音がした。


「オルグレン先生。お久しぶりです。突然の訪問をお許しください」


 オルグレンが目配せした。ルシェは奥の部屋に隠れた。私はそのまま居間に残った。星読みの末裔だとバレても、ルシェの存在がバレるよりはましだ。


 ナディアが入ってきた。私を一瞥して、すぐにオルグレンに向き直った。


「先生にお聞きしたいことがあります。三十年前のステラリス家の報告について」


 心臓が跳ねた。


「星の魔力の減衰を追っていく中で、三十年前のステラリス家の研究に行き当たりました。あの一族の報告は、本当に誤読だったのでしょうか」


 オルグレンが少し間を置いて答えた。


「……何を根拠に疑問を持ちましたか」


「私自身の観測データです。ステラリス家が異変を報告した星域と、私が現在減衰を確認している星域が、かなりの程度重なっています。三十年前の報告が正しかったのではないかと」


 ナディアは賢い。データから逆算して、三十年前の真実にたどり着きかけている。


「そしてもう一つ」


 ナディアが書類から一枚の紙を取り出した。


「リヴェール王国の第三王子に関する情報を入手しました。星を喰らう体質を持つ人物がいるという。もしこれが事実なら、終星の厄災に該当します。先生は何かご存知ですか」


 空気が張り詰めた。


「私は隠居の身です。各国の情勢には疎い」


「では、こちらの方は」


 ナディアの目が私に向いた。鋭い目。観察して、分析して、結論を出す目だ。


「旅の薬師です。先生に薬草の相談に来ただけです」


「そうですか」


 ナディアは私を見つめた。数秒。それから視線を外した。


 信じていないのがわかった。信じていないが、今は追及しないと判断した、そういうことだ。この人は慎重だ。確証なしには動かない。


「先生。星盟会議の臨時招集が決定しました。リヴェール王国の案件が議題に上がります。先生にも出席をお願いするかもしれません」


「私は退いた身です」


「星読みの専門家として、意見を求められる可能性があります。ご検討ください」


 ナディアは書類を一部置いて、出ていった。馬の蹄の音が遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。


「……見つかりましたね」


 奥の部屋からルシェが出てきた。顔が青い。


「まだ見つかっていません。ナディアさんは私がステラリス家の人間だと気づいたかもしれないけれど、あなたがここにいることは知らない」


「でも、星盟会議が動いている」


「ええ」


 時間がない。


 漠然と感じていた「いつか」が、急に現実味を帯びてきた。星盟会議が開かれれば、ルシェの存在は各国の議題に上る。処分が議論される。


 それまでに、何かしなければ。何を?


 証拠を集める。ルシェの体質が「厄災」ではないという証拠を。


 でも禁忌の星読み以外に証明する方法がない。そして禁忌の星読みは命懸けだ。


「リラさん」


 ルシェが私を見ていた。


「無理をしないでください」


「してないよ」


「してます。顔に出てます」


「……出てた?」


「はい。リラさんは、思っているよりずっと顔に出ます」


 恥ずかしかった。見えていないふりが得意だと思っていたのに、この子には見えているらしい。


「行きましょう。星盟会議がいつ開かれるかわからない。それまでに、できることをしましょう」


「何をするんですか?」


「旅を続けます。各地の星の状態を記録しながら。あなたが通った場所の星がどうなっているか、もっとデータが必要です」


「データを集めるのは……リラさんが星を読むということですか」


「そうなりますね」


 ルシェが私を見た。


「読んで、いいんですか? リラさんは、星を読むのをやめたと言っていたのに」


「やめた、と思ってたんですけどね」


 空を見上げた。昼の空。星は見えない。でも夜になれば見える。見上げれば読める。読めば、何かがわかるかもしれない。


「やめたんじゃなくて、怖くてやめてただけだったみたいです。でも今は、怖くないことの方が怖い」


「怖くないことが怖い?」


「見えているのに黙っていて、後で取り返しがつかなくなること。それが一番怖い」


 ルシェが少し笑った。


「リラさん、時々すごく格好いいこと言いますよね」


「やめてください、恥ずかしい」


 オルグレンに別れを告げて、湖畔を発った。


 老女は玄関先で見送ってくれた。


「リラさん。もし星盟会議の場に、私が役に立てることがあれば……呼んでください」


「……考えておきます」


「いいえ。考えないで、呼んでください。三十年間、私は黙っていた。最後の機会を、私に、どうか」


 三十年間黙っていた人が、もう黙りたくないと言っている。その心の変化を思うと、胸に響いた。


「わかりました。その時が来たら、お願いします」


 オルグレンが頷いた。


 背を向けて歩き出した。ルシェが隣を歩いていた。


「リラさん、大丈夫ですか」


「え?」


「泣いてます」


「……嘘」


 頬に手を当てた。濡れていた。


 なんで泣いているのかわからなかった。祖父母のことを思ったのか、母のことを思ったのか、オルグレンの後悔に共感したのか。全部かもしれない。


「大丈夫です。ちょっと、いろいろ来ちゃっただけ」


「いろいろ来ちゃった時は、泣いた方がいいです」


「ルシェくんも泣いていいんですよ」


「僕は……」


「星が揺れる?」


「はい」


「揺れたっていいのに」


「……それは、まだ怖いです」


「そっか。じゃあ、怖くなくなるまで、私が代わりに泣いておきますね」


「何ですか、それ」


 ルシェが笑った。笑いながら、少しだけ目が潤んでいた。泣きはしなかった。でも、笑えたのは大きな進歩だ。


 空は澄んでいた。夜まであと数時間。今夜は存分に空を見よう。目を逸らさずに。


 星読みの杖は、まだ荷物の奥にある。でも、もう少ししたら取り出すことになるかもしれない。


 その覚悟が、少しずつ固まっていくのを感じていた。

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