06.傭兵の選択
旅が五週間目に差しかかった頃、エルヴィンがおかしくなった。
おかしくなった、という言い方は正確じゃないかもしれない。でも他の言い方が見つからない。
きっかけは、些細なことだった。
宿場町を通った時、街道沿いの掲示板に各地の情報が貼り出されていた。交易品の価格表、旅商人への警告、近隣の治安情報。その中に一枚、小さな報告書があった。
「サヴェーラ王国からの避難民に関する通達。星の魔力減退により農地が荒廃し、周辺国への流民が増加しています。各自治体は……」
エルヴィンがそれを読んでいた。何度も、何度も読み返していた。
私はそっとしておいた。エルヴィンの故郷はサヴェーラではないが、同じように星の衰退で傾いた小国の出身だということは知っていた。彼にとって他人事ではない情報だろう。
でも、そっとしておくだけでは駄目だったのだ。
*
その夜の野営。
私が薬草の仕分けをしていて、ルシェが焚き火の番をしていた。エルヴィンは「少し歩いてくる」と言って森に入っていった。
戻ってきたのは、一時間ほど後だった。
いつもより荒い歩き方。酔っているのかと思ったけれど、酒は持っていない。
エルヴィンは焚き火の前に来て、まっすぐルシェを見た。
その目が、今まで見たことのない色をしていた。
「ルシェ」
「はい」
「お前の体質は、星の魔力を吸い込むんだったな」
「……はい」
「どのくらいの範囲に影響がある。近くだけか。それとも、遠くの星にも」
「正確にはわかりません。でも、感情が強く動いた時は、かなり広い範囲に影響が出ると聞いています」
「かなり広い範囲」
エルヴィンの声が、低くなった。
「お前が生まれた時に星が一つ消えた。お前が五歳の時に、感情で星が揺れた。それから十一年、城に閉じ込められていた。その間にも、お前の体質は星の魔力を吸い続けていたのか」
「僕は、できるだけ感情を抑えて……」
「聞いてるのはそこじゃない」
エルヴィンの声が鋭くなった。ルシェが体を強張らせた。
「お前の体質が星の魔力を吸うのが事実なら。お前が城にいた十一年の間に、どこかの星が弱った可能性はあるのか。ないのか」
「……あると、思います」
「俺の故郷はヴァレンティアっていう小国だ。お前のリヴェール王国の南西にある。十年前から星の加護が弱まって、畑が枯れて、井戸が涸れて、人が減って。俺はもう帰る場所がねえんだ」
沈黙が落ちた。
焚き火がぱちぱちと音を立てている。木の実が弾ける小さな音。森の夜の虫の声。それだけが聞こえていた。
「ヴァレンティアの星が弱まったのが、お前のせいかどうかはわからない。わからないが――可能性がある。お前がそう言った」
「はい」
「じゃあお前は」
エルヴィンの手が剣の柄にかかった。
「俺の故郷を殺したかもしれない人間ってことだ」
ルシェは動かなかった。
逃げなかった。剣の柄に手をかけたエルヴィンの前で、まっすぐ立ったまま、目を逸らさなかった。
「はい」
それだけ答えた。
否定しなかった。可能性があると言った以上、否定する根拠がないから。この子は嘘をつかない。自分に不利なことでも、事実を事実として受け止める。
でもそれは、事実を受け止めているのではなく、自分を罰する材料にしているのだ。「僕のせいかもしれない。だから罰されて当然だ」。そう思っている。
「エルヴィンさん」
私は立ち上がっていた。
「悪いがリラ、黙っていてくれ」
「黙りません」
自分の声が思ったより強くて、少し驚いた。
「エルヴィンさん、あなたの怒りは正しいです。故郷を失った人の怒りに、不当なものなんてない。でも、一つだけ事実を確認させてください」
「何だ」
「ルシェくんの体質がヴァレンティアの星を弱めたという証拠は、ない。可能性があるだけです」
「可能性で十分だろう。星を吸う体質の人間がいて、同じ時期に近くの星が弱まった。これを偶然だと言うのか」
「偶然かもしれないし、偶然じゃないかもしれない。でも今わかっていることだけで言えば、断定はできない。断定できないことで人を裁くのは、正しくない」
「正しくない? じゃあ俺の故郷が死んだのは何なんだ。誰のせいでもないなら、どこにぶつけりゃいいんだ」
エルヴィンの目が赤かった。怒りだけじゃない。悲しみと、やり場のなさと、もしかしたら自分自身への腹立たしさも。こんな形で怒りたかったわけじゃないのだ、きっと。
「わかりません。ぶつける先がないかもしれない。でも、目の前にいる子に全部背負わせるのは違うと思います」
「リラさん」
ルシェの声がした。静かで、落ち着いた声。
「いいんです。エルヴィンさんの言う通りかもしれない。僕の体質が、ヴァレンティアの星を――」
「ルシェくん」
「はい」
「あなたも黙って」
二人とも黙った。
焚き火の音だけが残った。
「……二人とも、少しおかしい」
深呼吸して、言葉を選んだ。
「エルヴィンさんは、証拠もなしに人を裁こうとしている。ルシェくんは、裁かれることに慣れすぎている。どっちも正しくない」
エルヴィンが歯を食いしばった。ルシェが目を伏せた。
「今夜は寝ましょう。頭が熱い時に結論を出しても、ろくなことにならない。明日、冷えた頭でもう一度話しましょう」
エルヴィンは何も言わずに、焚き火に背を向けて自分の寝袋に潜り込んだ。寝たふりだろうけれど、そのまま気づかないふりをした。
ルシェは焚き火の前に座ったまま、動かなかった。
「……リラさん」
「うん」
「僕は、本当に悪くないんでしょうか」
「わからない。わからないけど、悪いと決まったわけでもない。わからないうちは、自分を責めるのは早いよ」
「でも、可能性が……」
「可能性で自分を殺したら、確実なものが何もなくなっちゃう。あなたが生きていること。セレーネ様があなたを守ろうとしていること。今日、あの村で子どもを助けたこと。それは全部確実なことでしょう」
ルシェが少し黙って、それから頷いた。
「……可能性の話をするなら、もう一つだけ」
調合ノートを取り出した。魔獣戦の夜に書き留めたページを開く。
「あの魔獣戦の後、星域が暗くなったのは話したよね。でもあの夜、もう一度確認したら——戻ってたの。暗くなっていたはずの星域が、元の明るさに。それどころか、前の日より少しだけ安定してた」
「……戻っていた? 僕が吸収したのに?」
「うん。意味があるかどうかはわからない。でも、あなたの体質が本当にただ吸収するだけなら、戻るはずがない。何か別のことが起きている可能性は、ある」
ルシェは何も言わなかった。受け止めきれない顔だった。希望を持つことに、この子はまだ慣れていない。
「……寝ます。おやすみなさい、リラさん」
「おやすみなさい」
ルシェが横になった後、私は一人で焚き火の番をした。
空を見上げた。
今夜は長く見た。三分、五分、十分。
星は穏やかだった。ルシェの感情が揺れたはずなのに。エルヴィンに責められて、傷ついたはずなのに。それでも星は大きく揺れなかった。
この子は本当に、感情を殺すのが上手なのだ。上手すぎるのだ。
それが悲しくて、でも今はそのおかげで星が揺れずに済んでいるのも事実で、何を感じればいいのかわからなかった。
*
翌朝。
エルヴィンの寝袋は空だった。
荷物の一部が消えていた。彼の私物と、水筒と、剣。金貨が数枚、焚き火の跡に置いてあった。薬代の分だろう。
「……行っちゃったんですね」
ルシェが静かに言った。
「エルヴィンさんの気持ちはわかります。僕の近くにいるのは、辛かったと思うので」
「追いかける?」
「いいえ。追いかけても、何も変わらない」
それはそうかもしれない。エルヴィンは自分の中で答えを出さなければならない。他人が引き留めて出る答えではない。
でも。
「金貨を置いていったところを見ると、完全に見捨てたわけじゃないと思いますよ」
「そう、でしょうか」
「義理を果たしてから去る人は、縁が切れてないんです。……たぶん」
たぶん、しか言えなかった。確信はない。
二人きりの旅が始まった。
エルヴィンがいなくなると、旅は一気に静かになった。軽口の相手がいない。戦闘になった時の盾がいない。不安は大きくなった。
でも不思議なことに、ルシェは少し変わった。
エルヴィンの言葉が刺さったのだと思う。自分の体質が誰かの故郷を壊したかもしれないという可能性。それは「自分がいなくなるのが一番いい」という従来の自己認識を強化するはずだったのに、ルシェの反応は違った。
「リラさん、僕の体質について、もっと調べたいんです」
エルヴィンが去った翌々日、ルシェが言った。
「調べる?」
「はい。僕の体が星の魔力を吸収した時に何が起きているのか。本当に喰らっているだけなのか。それとも、何か別のことが起きているのか」
「……何か思い当たることがあるの?」
「リラさんがあの夜言っていたこと。暗くなったはずの星域が、翌朝には戻っていた、と。あれがずっと気になっていて」
あの夜、受け止めきれない顔をしていたのに。ちゃんと覚えていたのだ。
「もし僕の体質が本当にただ星を喰らうだけなら、エルヴィンさんの言う通り、僕はいない方がいい。でもそうじゃないかもしれないなら……知りたい。知った上で、どうするか考えたい」
「いなくなるのが一番いい」ではなく、「知った上で考えたい」。
小さな変化だけれど、大きな一歩だ。
「じゃあ、一つ心当たりがあります」
「何ですか」
「私の一族の文献。追放された時に持ち出せた分は母が保管していたんですけど、一部は欠けたままなんです。欠けた部分を補える人が、一人だけいます」
「誰ですか」
「オルグレンという人。元宮廷星読みで、私の一族が追放された時の関係者です」
ルシェが私の顔をじっと見た。
「会いたくない人、ですか」
見抜かれた。
「……正直、あまり」
「無理にとは言いません」
「ううん。会うべきだと思ってる。会いたくないけど、会うべき。その区別はつきます」
ルシェが少し笑った。
「リラさんって、時々すごく強いですよね」
「強くないですよ。嫌なことを嫌だと言えるだけ」
「それが強いんだと思います」
褒められたのか慰められたのかわからなかったけれど、少しだけ背筋が伸びた。
オルグレンの隠居先は、ここから東に数日の距離だった。




