05.揺れない星
旅が三週間目に入った頃、セレーネ様からの密使が来た。
山間部の小さな村に立ち寄った時、宿屋の主人から「手紙を預かっている」と渡された。宛名はエルヴィンの偽名だったが、中身はルシェ宛だった。
ルシェが手紙を読む表情が、見ていて辛かった。
「姉上は無事です。王宮で追及を受けたけれど、『弟が自分の意志で出奔した。私は止められなかった』と主張しているそうです」
「嘘だけど、通ったのか」
「姉上は嘘をつくのが上手ですから」
ルシェがほんの少しだけ苦笑した。
「それと……姉上の知人の文官が、王宮の動きを調べてくれているそうです。フィリクスという人で、姉上の信頼が厚い方だと」
「情報網があるんですね、セレーネ様は」
「十年かけて築いたものだと、姉上は言っていました」
十年。ルシェの体質が発覚してから、ずっと。セレーネ様はそれだけの時間をかけて、弟を守るための準備をしてきたのだ。
手紙にはもう一つ、重要なことが書いてあった。
「僕たちの情報が、リヴェール国外にも漏れ始めているそうです。特に、星の消失を研究しているある学者が、僕の存在に関心を持っているらしくて」
「学者?」
「ナディアという人だそうです。アステリア連合国の宮廷学者で、星の魔力の減衰を専門に研究している。姉上の書き方だと、かなり優秀な人みたいです」
「味方になりそう?」
「わかりません。学者だから、事実に基づいて判断する人だと思いますが……事実が僕を『厄災』だと示しているなら、味方にはならないでしょう」
ルシェの声は落ち着いていた。自分が「事実に基づけば排除される側」だという認識が、もう前提になっている。
反論したかった。でもまだ根拠がなかった。
*
三週間目のある日、旅の中で一つの転機があった。
山間部を抜けて、やや開けた地域に出た。麦畑が広がる農村地帯。星の魔力が安定している豊かな土地だ。
村に立ち寄った時、ちょっとした事件があった。
村の子どもが井戸に落ちたのだ。
騒ぎを聞いて駆けつけた時、村の大人たちが井戸の周りに集まっていた。井戸は古くて深い。縄を下ろしたが、子どもが怖がって掴まらないらしい。
「俺が降りる」
エルヴィンが名乗り出た。でも井戸の口が狭くて、エルヴィンの体格では入れなかった。
「僕が行きます」
ルシェが前に出た。
「ルシェくん、でも……」
「大丈夫です。これくらいなら」
縄を体に巻きつけて、するすると井戸に降りていった。訓練を受けた人の動きだ。数分後、泣きじゃくる子どもを抱えて上がってきた。子どもに怪我はなかった。
村の人たちが安堵して、ルシェにお礼を言った。ルシェは少し戸惑いながら、「大したことはしていません」と首を振っていた。
でも、子どもの母親がルシェの手を取って「ありがとう、ありがとう」と泣いた時、ルシェの表情が揺れた。
嬉しかったのだ。人の役に立てたことが。
その瞬間、私は空を見ていた。
星が――揺れなかった。
感情が動いたのに、星が揺れなかった。
いや、正確には。ほんの一瞬だけ揺れて、すぐに戻った。魔獣戦の時は、戻るまで数時間かかった。今回はほとんど一瞬だ。規模が小さいからか。
そして。
これは本当に気のせいかもしれない。でも。
ルシェが井戸に降りている間、井戸の周辺――というよりこの村一帯の星の光が、ほんの少しだけ明るくなった気がした。
気がした、程度の話だ。確信はない。
でも、ノートには書いておこう。日付、場所、状況、星域の安定度。薬師のメモに紛れ込ませて。
……こういうのを、星読みの癖、と言うんだろうな。
*
村で一泊させてもらったお礼に、翌朝は村の人たちの診察をした。旅の薬師としての通常業務。体調不良の人に薬を出して、怪我の手当てをして、子どもたちに「手を洗ってね」と教える。
ルシェが手伝いを申し出てくれた。薬草を刻んだり、包帯を巻いたり。手先が器用で、教えればすぐにできるようになった。
「ルシェくん、上手ですね。こういうの、やったことあるんですか」
「いえ、初めてです。でも、人の役に立つのは……嬉しいです」
十一年間、閉じ込められて、「お前は害だ」と言われ続けた子が、人の役に立てることに喜んでいる。
その姿を見ていたら、胸の奥が温かくなった。
同時に、少しだけ怖くもあった。この子が嬉しそうにすればするほど、感情が動く。感情が動けば、体質が反応する。今のところ影響は小さいけれど、もっと大きな感情が動いた時に何が起きるか、誰にもわからない。
見えている。怖さも、温かさも、全部見えている。
でも今は、温かい方を大事にしたいと思った。
*
四週間目。
それまで穏やかだった旅の空気が、少しだけ変わった。
きっかけは、ある街を通りかかった時に聞いた噂話だった。
「――星盟会議の臨時招集があるかもしれないって話だ」
「まさか。あれは十年に一度あるかないかのやつだろ」
「それが、どこかの国で星に関する重大案件が出たらしい。詳しくは知らんが」
星盟会議。星の魔力に関わる重大事を各国代表が協議する最高機関。
ルシェの顔が強張った。
その夜、三人で話し合った。
「星盟会議が動くとしたら、僕のことが各国に知られたということかもしれません」
「まだ確定じゃないだろう」
「でも、ナディアという学者が僕の存在に関心を持っているとセレーネ姉上が書いていました。もし彼女が各国に報告を上げたなら……」
「だとしても、今すぐどうこうはならねえよ。会議の招集にも時間がかかる」
「エルヴィンさんの言う通りです。今はまだ情報が少なすぎます。焦っても仕方ない」
冷静な声で言った。内心は冷静ではなかったけれど。
星盟会議が開かれれば、ルシェの存在は各国の議題に上る。「終星の厄災」として。その時、この子を守れるものは何だろう。
セレーネ様の政治力。エルヴィンの剣。私の薬。どれも、国家間の決議を覆す力にはならない。
――星読みの知識なら?
何がわかるというのだろう。ルシェの体内の魔力の渦。星の揺れが戻ること。村の上空が少し明るくなったこと。全部ぼんやりした違和感でしかない。仮説にすらなっていない。
でも、データは増えている。旅の中で、さりげなく、でも確実に。
その夜、私は少しだけ長く空を見た。
一分。二分。三分。
目を逸らさなかった。
読んでいた。読みたくて、読んでいた。旅に出てから、少しずつ、空を見上げる時間が長くなっている。目を逸らすまでの時間が伸びている。そのことに、もう気づいていた。
怖かったのだろうか。星を読むことが。
いや、怖かったのは星を読むことじゃない。読んで、何かがわかって、それを口にして、また追い出されることが怖かったのだ。六年前に捨てたはずの恐怖。
でも今は。
読んだことを伝える相手がいる。怖がらないでいてくれますかと聞いてきた男の子がいる。伝えたら、きっと、聞いてくれる。
そう思ったら、少しだけ楽になった。
星は、きれいだった。




