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04.星を喰らう王子

 山間部に入って、人気のない渓流沿いに野営を張った。


 焚き火を囲んで、三人。エルヴィンは薪を削りながら、黙って聞く姿勢でいた。知らなかった話を聞くのは彼も同じはずだ。ルシェを送り届ける仕事を請けたが、事情の詳細は聞いていないと言っていた。


 ルシェは焚き火の光を見つめていた。話し始めるまでに少し時間がかかった。


「僕が生まれた夜、王都の空から星が一つ消えました」


 静かな声だった。感情を排した、報告のような声。何度も自分の中で繰り返してきた言葉なのだろう。


「最初は誰も、僕との関連に気づきませんでした。星の消失は稀にあることです。自然現象として処理されました。でも、僕が五歳の時に――」


 ルシェが一度言葉を切った。


「城の庭で遊んでいて、転んで膝を擦りむきました。痛くて、泣きました。それだけのことです。でも僕が泣いた時、庭から見える空で、星が揺れました。侍従が見ていたんです。報告が上がって、調査が始まって」


「感情を動かすと星に影響が出る、と」


「はい。僕が強い感情を抱くと、周囲の星の魔力を吸い込んでしまうんです。怒り、悲しみ、恐怖……そういう時に、引力のように。五歳から十歳までの間に、何度か検証が行われました。わざと怖がらせたり、怒らせたりして」


 検証。五歳の子どもを、わざと怖がらせたり怒らせたりして。


 吐き気がした。顔には出さなかったと思う。


「その結果、僕の体質は『終星の厄災』に該当すると判断されました。数百年に一度現れるとされる、星の魔力を喰らう体質です。過去の記録では、この体質を持つ者はすべて処分されています」


「……処分」


「殺された、ということです」


 ルシェが淡々と言った。淡々と言えてしまうことが、一番恐ろしかった。


「でも、僕は王族でした。第三王子とはいえ、王の血を引く人間を処分するのは政治的に難しい。だから、代わりに封じ込められました。城の奥の一室に。表向きは『病弱な王子』として」


「それで。病弱って言われてたんですね」


「はい。十一年間、ほとんど外に出ていません。感情を動かすと星に影響が出るので、できるだけ何も感じないように生きてきました」


 何も感じないように。


 十一年間。


 あの穏やかな笑顔の意味がようやくわかった。あれは性格じゃない。感情を殺す訓練の成果だ。怒らない、泣かない、強く喜ばない。そうしないと、星が消えるから。


「エルヴィンさんには、ここまでの話は伝えてありませんでした。姉が傭兵を雇う時に、詳しい事情は伏せると言っていたので」


「ああ。初耳だ」


 エルヴィンの声は低かった。薪を削る手が止まっている。


「姉……セレーネ姉上が、逃がしてくれたんです。最近になって、王宮の中で僕を『処分』すべきだという声が大きくなってきて。姉上がそれを察知して、僕が殺される前に逃がそうと」


「セレーネ殿下が独断で」


「はい。王の許可は得ていません。だから近衛隊が追ってきている。姉上は今ごろ、王宮で追及を受けているかもしれません」


 ルシェの声が、少しだけ震えた。初めてだった。自分のことを話している時は平坦だったのに、姉の話になると感情が漏れる。


「姉上にだけは、ずっと……普通に接してもらっていたので。部屋に来て、本を読んでくれたり、勉強を教えてくれたり。僕が人間でいられたのは、姉上がいたからです」


 焚き火がぱちぱちと音を立てた。


 私は黙っていた。何を言えばいいかわからなかった。「大変だったね」とか「かわいそう」とか、そういう言葉は嘘になる。大変だったね、なんて簡単に言えるようなことじゃない。


 エルヴィンも黙っていた。薪を削るナイフを鞘に戻して、腕を組んでいた。


「……それで」


 しばらくの沈黙の後、エルヴィンが口を開いた。


「お前の体質は、治るのか」


「わかりません。研究したくても、僕のような存在は過去にすべて殺されているので、データがない。姉上が密かに調べてくれていたようですが、有力な手がかりは見つかっていないと」


「じゃあ東に行って、それからどうするつもりなんだ。一生隠れて暮らすのか」


「……はい。それが一番迷惑をかけない方法です」


 また。「迷惑をかけない」「いなくなるのが一番いい」。この子はずっと同じことを言っている。自分が存在するだけで害になると、本気で信じている。


 十一年間、そう教え込まれてきたのだ。


「迷惑をかけない方法が一番いい方法とは限らないでしょう」


 口を開いていた。


 ルシェが私を見た。


「あなたがいなくなれば確かに星の魔力は安定するかもしれない。でも、セレーネ様はどうなりますか。あなたを逃がすために自分の立場を危険にさらした人が、あなたがいなくなった世界で幸せでいられると思いますか」


「それは……」


「私はあなたの体質のことはわかりません。星を喰らうということが、どういう仕組みなのかも。でも一つだけわかるのは、あなたの周りには、あなたがいなくなったら困る人がいるっていうこと」


 言ってから、少し後悔した。踏み込みすぎたかもしれない。


 でも、黙っていられなかった。


 ルシェは怒らなかった。怒る代わりに、困ったように目を伏せた。


「……そう言ってもらえるのは、嬉しいです。でも」


「でも?」


「僕のせいで星が消えたら、その下で暮らす人たちが苦しむんです。サヴェーラのように。僕一人が我慢すれば済む話なら、それが正しいと思います」


 サヴェーラ。


 星の魔力が減退して、作物が育たなくなって、国が傾いている小国。旅商人たちが話していた。


 ルシェがサヴェーラの名前を出したということは、あの国の星の衰退が自分のせいだと思っているのだ。


 本当にそうなのだろうか。


 ――見えている情報を整理しよう。ルシェの体は星の魔力を吸収する。感情が動くと吸収が強まる。それは事実として、ルシェが王城に閉じ込められている間に、遠く離れたサヴェーラの星が衰退したのは別の原因ではないのか。城に閉じ込められた状態で感情を殺して暮らしている少年の体質が、何百キロも離れた星に影響を及ぼせるものなのか。


 わからない。わからないから、言えない。


 反論するにも根拠がない。だから今は、黙るしかない。


 でも、覚えておこう。この違和感は、覚えておく。


「ルシェくん」


「はい」


「あなたの話を聞いて、怖いかどうか聞かれたよね。正直に言います」


 ルシェが身構えた。穏やかな顔の下で、拒絶される覚悟を固めているのが見えた。


「怖くないです。でも、悲しい」


「……え」


「五歳の子がわざと怖がらされて、十一年間閉じ込められて、感情を消す練習をさせられた。それが悲しい。あなたの体質が怖いんじゃなくて、あなたがそういう目に遭ったことが、悲しい」


 ルシェの表情が崩れかけた。


 穏やかな仮面がぐらぐらと揺れて、その下から何かが覗きそうになった。でもぎりぎりのところで踏みとどまった。感情を出すと星が揺れるから。反射的に、自分を抑え込んだのだ。


 焚き火の光が届かないところ、空の端に星が見えた。


 揺れていなかった。たぶん、ルシェが抑え込んだから。


「……ありがとうございます」


 ルシェが絞り出すように言った。


「リラさんに、そう言ってもらえて。嬉しい、です」


 嬉しいと言いながら、嬉しさを抑え込んでいる。この子はいつもそうだ。感情を持つことを、自分に許していない。


 許していいのに。もっと怒っていいし、泣いていいし、笑っていいのに。


 でもそれは私が言えることじゃない。「感情を出しても大丈夫だよ」と無責任に言えるほど、私はこの子の体質を理解していない。本当に感情を出したら星が消えるのだとしたら、「大丈夫」なんて言えない。


 だから、代わりに。


「今日は少し冷えますね。温かいものを作りましょうか。薬湯じゃないですよ、普通のお茶」


「……はい。いただきます」


「俺にもくれ」


「エルヴィンさんにはお代をいただきます」


「おい」


 ルシェが、小さく笑った。


 今日は踏みとどまらなかった。仮面を直す前に、笑ってしまった。小さな笑い。でも本物の笑い。


 空を見上げた。


 星は、揺れていなかった。


 *


 それから、旅の空気が少し変わった。


 ルシェが、ほんの少しだけ話すようになったのだ。


 城で読んだ本の話。姉が持ってきてくれた世界地図の話。窓から見える中庭の花の名前を全部覚えた話。小さな話ばかりだけれど、全部、十一年間の閉じ込められた生活の中から掬い上げた、ルシェの宝物みたいな記憶だった。


「姉上がね、毎月一冊、新しい本を持ってきてくれたんです。冒険譚が多かったな。英雄が旅をして、世界を救う話」


「好きだったんですか、冒険の話」


「好きでした。自分では絶対にできないことだから、余計に」


「今、やってるじゃないですか。冒険」


「これは冒険というより、逃亡では……」


「同じですよ。知らない道を歩いて、知らない景色を見て、知らない人と出会う。立派な冒険です」


 ルシェが少し考えて、「そうかもしれません」と笑った。


 エルヴィンも、ルシェの事情を知ってから態度が変わった。表面上はいつもと同じ軽口だけど、ルシェへの接し方が少し丁寧になった。荷物の重い方を持ったり、休憩を多めに取ったり。本人は気づいていないかもしれないが。


 ただ、一つだけ気になることがあった。


 ルシェがサヴェーラの話をした夜から、エルヴィンの目が時々暗くなる。サヴェーラ。星の魔力が減退した国。エルヴィンの故郷はサヴェーラではないけれど、同じように星の衰退で傾いた小国の出身だ。


 ルシェの体質が星の魔力を吸収するものだという話を、エルヴィンはどう受け止めたのだろう。表面上は何も言わない。でも時々、ルシェの背中を見つめる目が鋭い。


 見えている。でも、今は言わない方がいい。エルヴィンは自分の中で消化している最中だ。外から口を出すべきじゃない。


 たぶん。


 *


 旅が二週間を超えた頃、最初の大きな事件が起きた。


 山道を歩いていた時、森の奥から獣の咆哮が聞こえた。普通の獣ではない。空気が震えるような、魔力を帯びた声。


「魔獣だ」


 エルヴィンが剣を抜いた。


「ルシェ、リラ、下がれ。大型だ。たぶんグラオルフ……魔狼の亜種だな」


 木々の間から、巨大な影が現れた。灰色の毛並み、赤い目。狼の姿をしているが、普通の狼の三倍はある。口の端から青白い光が漏れている。魔力を蓄えた獣――魔獣だ。


 エルヴィンが前に出た。剣を構える姿に迷いがなかった。この人、魔獣の相手をした経験もあるのだ。


 魔獣が跳んだ。エルヴィンが剣を振るう。刃が魔獣の前脚をかすめたが、浅い。毛皮が硬い。


「ちっ、きついな」


 魔獣が体を翻して二度目の突進。エルヴィンが横に躱すが、木の根に足を取られた。体勢が崩れる。


 魔獣の口が開いた。青白い光が凝縮する。魔力攻撃だ。


「エルヴィンさん!」


 叫んだ。でも私には戦う手段がない。薬師の鞄を投げつけたところで魔獣は止まらない。


 光が放たれた瞬間、私の前に影が立った。


 ルシェだった。


 両手を広げて私とエルヴィンの前に立ち、魔獣の魔力攻撃を正面から受けた。


 受けた、のではなかった。


 吸い込んだ。


 青白い魔力の光がルシェの体に流れ込み、まるで水が砂に染み込むように消えていった。光が消えた後、ルシェの体が一瞬だけ青白く光った。


 魔獣がたたらを踏んだ。自分の攻撃が消滅したことに混乱している。その隙を突いて、ルシェが動いた。


 速かった。


 病弱な王子の動きではなかった。腰に帯びていなかった――いつの間に持っていたのだろう、荷物の中にあった短剣を抜いて、魔獣の懐に踏み込んだ。一撃。正確に首筋を捉えた刃が、硬い毛皮の下の急所を貫いた。


 魔獣が倒れた。


 静寂が戻った。


 エルヴィンが体勢を立て直しながら、呆然とルシェを見ていた。私も同じ顔をしていたと思う。


 ルシェの手が震えていた。短剣を握る手。血がついている。魔獣の返り血だ。


「……すみません」


 最初に出た言葉がそれだった。


「力を使ってしまいました。星に影響が……」


 空を見上げた。反射的に。


 ――星が揺れていた。


 近くの星域の光が、わずかに弱まっている。ルシェが魔獣の魔力を吸収した影響だ。周囲の星の魔力まで一緒に引き込んだらしい。


 見えた。完全に見えた。今度は気のせいなんかじゃない。


 揺れは数秒で収まった。暗くなった光はそのままだ。


「リラさん?」


 ルシェは不安そうな目で私を見て、それから空を見上げた。


「星は……大丈夫でしょうか。影響が出ていないか、心配で」


 嘘をついても仕方がない。この子には、見えたものを伝えるべきだ。


「少し揺れました。収まりましたけど、この辺りの星域が少し暗くなってます」


「暗く……やっぱり、僕が吸収して」


「まだわからないことの方が多いです。今夜、もう少しちゃんと確認します」


「リラさんは……星が、読めるんですか?」


 しまった、と思った。


 ルシェの灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。


 嘘をつくこともできた。「なんとなく空の色でわかる」くらいに誤魔化すこともできた。でも、さっきこの子は自分の秘密を話してくれた。怖がらないでいてくれますかと言いながら、全部話してくれた。


「……読めます。星の状態を見て、読むことができます。昔はそれを仕事にしていた一族の出身なので」


「星読み……」


「元、ですけどね。今は薬師です」


「でも、読める」


「読めます。読みたくないけど、読めちゃう」


 エルヴィンが近づいてきた。魔獣の死骸を確認しながら、こちらの会話を聞いていたらしい。


「追い出された一族ってのは、星読みか」


「ええ。まあ」


「で、星が暗くなったのはまずいのか」


「正直、わかりません」


 それ以上は誰も聞かなかった。でも、一つだけ確かなことがあった。


 ルシェは私とエルヴィンを守るために、リスクを承知で力を使った。十一年間隠し続けてきた力を、私たちのために使った。


「ルシェくん」


「はい」


「ありがとう。助けてくれて」


 ルシェが目を丸くした。


「……助けたことにお礼を言われるのは、初めてです」


「え、そう?」


「はい。いつも、力を使ったことを怒られていたので」


 胸が痛んだ。こんなに当たり前のことが、この子にとっては初めてなのだ。


「あんたの剣は良い腕してたぜ、ルシェ」


 エルヴィンも言った。


「魔獣の急所を一撃で仕留めるのは、訓練なしじゃ無理だ。城で鍛えてたのか」


「……姉上が、剣術の師範を手配してくれていました。いつか必要になる時が来るかもしれないからと」


 セレーネ様。ルシェの姉は弟のために、本当にあらゆる手を打っていたのだ。政治的な庇護だけでなく、万が一の時に自分の身を守れるように剣まで教えさせていた。


「いい姉貴だな」


「はい。僕には、もったいないくらい」


「もったいないことないと思いますけど」


「そう、でしょうか」


「そうです。もったいないって言ったら、セレーネ様がかわいそうでしょう。そんなつもりで弟を守ってきたわけじゃないと思いますよ」


 ルシェがまた、あの困ったような顔をした。嬉しいことを言われた時に、素直に受け取れなくて困っている顔。


 でも今日は、仮面を直す前に「ありがとうございます」と言えていた。小さな進歩だ。


 *


 その夜、野営の準備をしている間に、私は一人で空を見上げた。


 今度は意識的に。目を逸らさずに。


 ルシェが力を使った場所から少し離れた場所で、星の状態を確認した。あの時暗くなった星域。数時間経っても暗いままのはずだ。吸い取られた魔力は消える。それが定説なのだから。


 ――暗くなかった。


 元の明るさに戻っている。それどころか、昨日よりも少しだけ安定しているようにすら見える。


 ……戻った?


 吸収された魔力が消えたなら、星は暗いままのはずだ。なのに、もう戻っている。


 吸収して、消えるのではなく。吸収した何かが、戻ったとしたら。


 いや、そんなことは文献にも記録にもない。「終星の厄災」は星を喰らう存在であって、浄化する存在ではない。すべての記録がそう言っている。


 でも、すべての「終星の厄災」は記録を残す前に殺されてきたのだとルシェは言った。誰も、吸収の「その先」を確認したことがないのだ。


 ……仮説にもならない。今は、ただの違和感。


 でも。覚えておこう。


 私は調合ノートの端に、今日の日付と場所と、星域の安定度を書き留めた。薬師としてのメモに紛れ込ませる形で。ただの癖。ただの習慣。


 ノートを鞄に戻した時、指先が硬いものに触れた。銀色の杖。すぐに手を引いた。


 ――星読みをしているわけではない。


 ただ、見えたものを記録しているだけだ。

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