03.三十秒の星
旅が始まって一週間が経った。
間道を抜けて隣の領地に入り、そこからさらに東へ。大きな街は避けて、村や小さな宿場町を転々としながら進んだ。近衛隊がすぐに追ってくるかと思ったけれど、今のところ姿は見えない。エルヴィンが言うには、間道を使ったことで初動の追跡をかわせたのだろうとのこと。ただし「安心はするな」とも。
三人の旅は、思ったよりも賑やかだった。
ルシェは歩きながらほとんど喋らない。聞けば答えるけれど、自分から話を振ることは滅多にない。たまに周囲の景色を見ている時だけ、少しだけ表情が和らぐ。城から出たことがほとんどなかったのかもしれない。
エルヴィンは逆にずっと喋っている。主に愚痴と自慢話。過去に受けた傭兵仕事の武勇伝は三割くらい盛ってある気がするけれど、聞いている分には楽しい。ルシェが困ったように微笑みながら聞いているのも、なんだかいい光景だ。
「――で、そのヤマネコがでけえのなんの。俺の腰くらいまであった」
「それは大きいですね……」
「目が合ったら動くなってのが鉄則なんだが、依頼人のじいさんが叫びやがってよ」
「あはは」
ルシェが小さく笑う。笑い方がまだぎこちないけれど、少しずつ自然になってきている。
私はというと、道中は薬師らしく過ごしていた。立ち寄った村で体調の悪い人がいれば診て、山道で薬草を見つければ摘んで、夜は焚き火の傍で調合をする。旅の薬師の日常。
ただ一つだけ、旅の薬師にはないはずの習慣がじわじわと戻りかけていた。
夜、焚き火の番をしている時に、空を見てしまう。
旅に出てからは、屋内で目を逸らしていた時よりも誘惑が強い。なにしろ頭上を遮るものがない。見上げれば、空いっぱいに星が広がっている。
四日目の夜。火の番をしていたら、つい見上げてしまった。いつもならすぐに目を逸らすのに、この日は少しだけ長く見てしまった。
星は――美しかった。
辺境を離れて東に進むにつれ、星の表情が変わっていく。地域ごとに星の魔力の密度が違うから、空の色合いが微妙に違う。ここは北東の星域の影響が強くて、白っぽい光が多い。農業よりも鍛冶や工芸に向いた魔力配分だ。
「あ」
慌てて目を逸らした。地面。焚き火。エルヴィンの寝袋。ルシェの寝顔。
……寝顔。
ルシェは焚き火の向かい側で眠っていた。起きている時の穏やかな仮面が外れて、年相応の寝顔だった。眉間の力が抜けていて、少しだけ口が開いていて。寝ている時の方がずっと子どもらしい。
――この子の体の中の魔力の渦は、まだ気になっていた。
薬師として毎日体調を確認しているから、触れるたびに感じてしまう。高熱はもう出ていない。でもあの渦は消えていなくて、ただ安定しているだけだ。安定している限りは問題ないのだろうけれど。
問題がないなら、気にしなくていい。
気にしなくていいのに、気になる。
この一週間で、一つだけ気づいたことがある。ルシェの体内の魔力の渦は、彼の感情に反応しているらしい。
三日目に、山道で足を滑らせたエルヴィンを慌ててルシェが支えた時。エルヴィンが笑いながら「お、サンキュ」と言って、ルシェが少し嬉しそうな顔をした瞬間――渦がほんの少しだけ、大きくなった。
ほんの一瞬のことだ。気のせいかもしれない。
でも気のせいじゃなかったら、怖い。この子が感情を動かすたびに、体の中で何かが起きているということだから。
……見えている。でも、まだ何が起きているのかはわからない。
わからないことを、中途半端に口にするのは無責任だ。だから黙っている。黙っているのは正しい。
正しい、はずなのだけれど。
焚き火に薪を足して、顔を上げた拍子に、また星が目に入った。
今度は目を逸らさなかった。
五秒。十秒。……三十秒。
北の星域が少し揺れている。季節的なものだろうか。いや、この時期にこの揺れ方は少し珍しい。もう少し南の方を見れば、さっき気になったサヴェーラ方面の星域も――
「リラさん」
声をかけられて、体が跳ねた。
ルシェが目を開けていた。焚き火の明かりに照らされた灰色の瞳がこちらを見ている。
「ご、ごめんなさい。起こしちゃいましたか」
「いえ、目が覚めただけです。……星を見ていたんですか?」
「え。いえ、別に。ただぼーっとしてただけです」
「そうですか。……きれいですよね、空」
ルシェが少しだけ体を起こして、空を見上げた。焚き火の煙が細く上っていく先に、無数の星が光っている。
「僕、ずっと部屋の中にいたので。こうやって外で星を見るのは久しぶりです」
「ずっと部屋に?」
「城の中のことは、あまり……」
言いかけてやめた。唇を引き結んで、穏やかな笑顔を作り直す。話を逸らす時の癖だ。もう何度も見た。
聞かない。踏み込まない。見えていても、言わない。
「ルシェくん、まだ寝た方がいいですよ。体力が戻りきってないでしょう」
「はい。……リラさんも、あまり夜更かししないでくださいね」
「薬師は夜更かしに慣れてますから」
「それは慣れていいことなんでしょうか」
「……ごもっとも」
ルシェが少しだけ笑って、また横になった。
私は空から目を逸らして、焚き火を見つめた。
――三十秒。さっき、三十秒も空を見てしまった。今までで一番長い。
*
一週間目の午後。
小さな宿場町に着いた時、エルヴィンが顔を曇らせた。
「リラ。あの看板、読めるか」
広場の掲示板に紙が貼ってあった。近づいて読むと、告知文だった。
「『近隣の住民へ通達。リヴェール王国より、行方不明の王族の捜索依頼が発出されている。銀灰色の髪の少年、十六歳前後。目撃情報は最寄りの駐屯地まで』」
手配書だ。
ルシェが布で髪を覆い隠した。エルヴィンが舌打ちした。
「本気で追ってきてやがる。手配書まで出すか」
「ルシェくん、ここは通り過ぎた方がいいですね。町の中には入らないで」
「はい。すみません」
「謝らないの。あなたが悪いわけじゃないでしょう」
ルシェが少し驚いた顔をした。謝らないで、と言われ慣れていない顔だ。
町を避けて迂回した。道中、エルヴィンが難しい顔で考え込んでいた。
「手配書が出てるってことは、近衛隊だけじゃなく一般の兵にも情報が回ってる。このまま東に行くのはまずいかもしれん」
「どうするんですか」
「ルートを変える。しばらく北に上がって、人の少ない山間部を通る。遠回りになるが」
「山間部……薬草が多いところですね」
「こんな時に仕事の話すんのか」
「薬師ですから」
軽口を叩いたけれど、内心は少し重かった。手配書が出ているということは、リヴェール王国はルシェの確保を本気で進めているということだ。なぜそこまでして連れ戻したいのか。
「弟の命がかかっている」とセレーネが言ったという話を思い出す。連れ戻されたら、命に関わるのか。
でもそれなら、連れ戻す側が「命を狙っている」ということになる。自分の国の王族を?
わからないことが多すぎる。聞きたいことも多い。でもルシェは話そうとしない。聞けば答えるかもしれないけれど、答えたくないことを聞くのは――。
「ルシェくん」
「はい」
「あなたの事情、聞いていいですか?」
直接聞いてしまった。
迷って、迷って、でも聞いた。見えているのに黙っている方が不誠実だと思ったからだ。ルシェの体内の異常な魔力。国が本気で追ってくる理由。いなくなるのが一番いいと言ったあの言葉。点と点がつながりそうで、つながらない。
ルシェは少し黙って、それからエルヴィンを見て、最後に私を見た。
「……怖がらないでいてくれますか」
「怖いかどうかは、聞いてから決めます」
嘘は言わない。怖がらないと約束することは、できない。でも聞く前に逃げることもしない。
ルシェが小さく頷いた。
「今夜、話します」




