02.裏道の案内料
翌日も、その翌日も、私は宿屋に通った。
薬師としては当然のことだ。高熱の患者を放置するわけにはいかない。一日に二回、朝と夕方に様子を見に行って、薬湯を取り替えて、容態を確認する。それだけ。
初日、少年の熱は下がらなかった。解熱の薬湯はある程度効いているはずなのに、熱の原因そのものが取り除けていない感じがする。当然だ。原因がわからないのだから、対症療法にしかならない。
あの魔力の渦が原因なのだと、たぶん、わかっている。
でもそれは「薬師」の領分の話ではない。
二日目の朝、宿屋に行くと、エルヴィンが廊下で壁に背を預けて座っていた。一晩中見ていたのか、目の下に隈ができている。
「あ、薬師。来てくれたか」
「容態はどうですか?」
「夜中に一回うなされてた。汗がすごくて着替えさせたけど、それ以外は大人しく寝てる」
「ありがとうございます。ちゃんと看てくださってるんですね」
エルヴィンは少しばつの悪そうな顔をした。
「仕事だからな。こいつが死んだら報酬がもらえねえ」
――嘘ではないのだろうけど、全部でもない。
この人、根は面倒見がいい。眠い目を擦りながらも、枕元に水差しを置いて、タオルを替えて、着替えまでさせている。報酬のためだけなら、もう少し手を抜いてもいいはずだ。
言わないけど。見えていても、言わない。
部屋に入って少年を診察した。熱はまだ高いが、昨日よりほんの少しだけ下がっている。薬湯を新しいものに取り替え、額の冷却布を交換した。
「……ん」
少年が目を開けた。昨日よりも少しだけ焦点が合っている。
「おはようございます。気分はどうですか?」
「少し……楽に、なった気がします」
「よかった。薬が効いてきたみたいですね。お水、飲めますか?」
「はい……あ、すみません。自分で」
水差しに手を伸ばそうとして、力が入らないのか腕が途中で落ちた。
「無理しないでください。はい、どうぞ」
水差しを傾けて、少しずつ飲ませた。すみません、と小さく繰り返す唇を見ながら、昨日と同じことを思った。この子は本当に、すぐ謝る。
「お名前、聞いてもいいですか?」
「……ルシェ、です」
「ルシェくん。私はリラです。昨日も言ったかもしれないけど、覚えてないかな」
「いえ、覚えています。リラさん」
覚えていたんだ。四十度の熱の中で。
「行き先は、どちらなんですか? エルヴィンさんに送ってもらっているんですよね」
「……東の方に。親戚のところに身を寄せることになっていて」
目が泳いだ。
嘘だ、と思った。少なくとも全部は本当じゃない。でも初対面の薬師に本当のことを話す義理はないし、話したくない事情があるのだろう。
「そうですか。でもまずは体を治さないとですね。もう少しこの街で休んだ方がいいと思いますよ」
「ご迷惑を――」
「お仕事ですから」
同じやり取りを繰り返していることに気づいて、少しだけおかしかった。
*
三日目。
少し驚いたことが起きた。ルシェの熱が一気に下がったのだ。
朝、宿屋に行くと、ルシェはベッドの上で体を起こしていた。まだ顔色は白いけれど、目にはちゃんと光が戻っている。
「おはようございます、リラさん。今日はだいぶ楽です」
「あら、ほんと。すごい回復力ですね」
額に手を当てた。微熱が残っている程度。昨日までの高熱が嘘のようだ。……普通の病気なら、こんな急激な回復はしない。やっぱりあの高熱の原因は、通常の感染症ではなかったのだろう。
体内の魔力の渦は――まだ感じる。でも、昨日までよりも安定しているような気がした。渦の回転が落ち着いている、とでもいうのだろうか。
気のせいかもしれない。気のせいということにしておく。
「もう一日か二日、安静にしていた方がいいと思います。急に動くと、ぶり返すことがありますから」
「はい。……あの、リラさん」
「なんですか?」
「薬湯、少し甘い味がしました。飲みやすかったです」
ああ。気づいたんだ。
昨日の二回目の薬湯から、ほんの少しだけ蜂蜜を混ぜた。苦い薬を顔をしかめながら飲んでいたのが見えたから。何も言わずに調合を変えただけなのに、この子は気づいた。そしてわざわざ、お礼を言おうとしてくれている。
「蜂蜜を少し入れたんです。味の好みがわからなかったので、甘すぎなかったかなって心配してたんですけど」
「いえ、ちょうどよかったです。ありがとうございます」
ルシェが微笑んだ。熱に浮かされていない、素面の笑顔を見るのは初めてだった。穏やかで、きれいな笑顔だった。
でも――なんだろう。目の奥が、笑っていない。
正確に言えば、目の奥に何かを閉じ込めている。感情を丁寧に畳んで仕舞い込むような、そういう笑顔。十六歳の男の子がする笑い方じゃない。もっと長い時間をかけて、感情を隠す練習をしてきた人の笑い方だ。
見えている。
言わない。
「じゃあ、夕方にまた来ますね」
「はい。お手数をおかけします」
部屋を出て、廊下でエルヴィンとすれ違った。彼は市場で食料を買い出してきたらしく、両手に紙袋を抱えている。
「熱、下がったみたいだな?」
「ええ。でももう少し様子を見た方がいいと思います」
「助かる。――なあ、薬師」
「リラです」
「リラ。あいつの薬代、いくらだ? 先に払っとく」
「お代は元気になってからで大丈夫ですよ」
「いや、金の話は先にしとかねえと落ち着かねえんだ」
傭兵気質なのだろう。報酬と支払いの話を後回しにしない。仕事に対する誠実さの表れだと思った。
「じゃあ、最後にまとめてお伝えしますね。そんなに高くないですから安心してください」
「安くても払うもんは払う」
ぶっきらぼうに言って、部屋に入っていった。ドアが閉まる直前に「おう、起きてたか。腹減ったろ、パン買ってきた」という声が聞こえた。
……ほら、面倒見がいい。
*
三日目の夕方、宿屋へ向かう道で小さな事件があった。
街の広場を通りかかった時、数人の男たちが荷馬車の周りで何かを話し込んでいた。旅商人の一行らしい。聞こえてきた会話が、足を止めさせた。
「――サヴェーラからの荷が遅れてる。街道の状態が悪いらしい」
「サヴェーラか。あそこはもう長いこと不作だろう。星の加護が弱くなったって話だ」
「星が弱った土地は厳しいよな。魔力がなけりゃ作物も育たねえし、冬を越せる家も建てらんねえ」
サヴェーラ。聞いたことのある地名だ。西方の小さな国。確か数年前から不作が続いて、国力が急速に衰えているという噂を聞いた。
星の加護が弱まった。つまり、あの地域の星の魔力が減退しているということ。
……南西の方角。この街からだと、ちょうどあの星域のあたりだ。夕方に空を見た時、「南東にやや揺らぎがある」と読んでしまったけれど、南西はどうだっただろう。読もうとしなかったから、わからない。
わからないし、わかったところで何もできない。
足早にその場を離れた。
宿屋でルシェの診察を済ませた後、裏口から出ると、空にはもう星が広がっていた。
見上げてしまった。三度目。
今日は少しだけ長く見てしまった。
南西の方角――サヴェーラの上空にあたる星域。確かに暗い。魔力が弱まっている。でもそれだけじゃない。もう少し広い範囲で、星の揺らぎに妙なパターンがあるような……。
「……だめだめ」
小さく声に出して、目を逸らした。見てどうする。わかってどうする。報告する先もないし、聞いてくれる人もいない。
でもね、と胸の奥の小さな声が言う。
見えたでしょう? 見えちゃったでしょう?
黙れ、と思った。黙って、薬屋に帰って、マリーおばさんのご飯を食べて、明日もいつも通り患者を診る。それでいい。
*
四日目の朝。
宿屋に向かう途中、街の入り口の方から馬蹄の音が聞こえた。三頭、いや四頭。この辺境の街にしては珍しい数の騎馬だ。
嫌な予感がした。
理由は説明できない。ただ、あのルシェという少年の周りには説明のつかないことが多すぎた。病気でもないのに高熱を出す体。体内の異常な魔力。旅の理由を明かさない事情。護衛の傭兵。
追われている人の構図に見える。そう思ったけれど、見えてしまっただけ。薬師には関係ない。
宿屋に着くと、エルヴィンが一階の食堂で朝食を取っていた。いつもと違って、剣を腰ではなく手の届くところに立てかけていた。
「おはようございます。ルシェくんの調子は?」
「あいつなら起きて着替えてた。もうほとんど普通だな。――おい、薬師。今朝、街に騎馬が入ったの知ってるか」
「音は聞こえました」
「四騎だ。装備がいい。ただの旅人じゃねえ」
エルヴィンの目が鋭くなっていた。傭兵の目だ。
「……関係ある話ですか?」
「わからん。わからんが、嫌な感じがする。午前中に発てるなら発ちたい」
「ルシェくんの体力的には……一日早いですけど、歩けないほどではないと思います」
「よし。あいつに伝えてくる」
エルヴィンが立ち上がった。剣を手に取る動作に淀みがない。さすが傭兵だ。こうと決めたら行動が早い。
私はその場に残って、自分に言い聞かせた。ルシェが回復したのなら、ここでお別れだ。薬代をもらって、「お大事に」と笑顔で送り出す。いつも通り。
二階に上がろうとした時、宿屋の正面扉が開いた。
四人の男が入ってきた。
全員が統一された暗い藍色の外套を着て、腰に揃いの長剣を佩いている。よく見ると外套の留め具に小さな紋章がある。――国の紋章だ。どこの国かまではわからないけれど、これは私兵ではなく正規の兵士の装備だ。
先頭の男は四十代半ばくらいで、顎髭を蓄えた厳しい顔つきをしていた。その目で食堂の中を素早く見回すと、受付の主人に声をかけた。
「この宿に銀髪の少年が泊まっていないか。十六くらいの、細身の」
私は階段の途中で足を止めた。聞こえてしまった。動くと気づかれる。
宿の主人が口ごもっている。答える前に、男の一人が主人の横を通り過ぎて宿帳を覗き込んだ。
「二階の三号室。二名で泊まっている」
「行くぞ」
四人が階段に向かってきた。私は階段を上がりきって廊下の角を曲がった。三号室のドアはすぐそこだ。ノックしようとした手が、内側から開いたドアとぶつかった。
エルヴィンだった。ルシェに出発を伝えに行ったのだろう、ルシェが荷物を持って後ろに立っていた。
「エルヴィンさん。下から四人、こっちに来ます。藍色の外套で紋章つき、正規兵です」
エルヴィンの表情が固まった。すぐにルシェを見た。ルシェの顔から血の気が引いていた。
「――まずい。窓から出る。リラ、悪いがここで」
「おい、そこの三人。止まれ」
廊下の角から、藍色の外套の男たちが現れた。先頭の顎髭の男がこちらを見据えている。
エルヴィンが私の前に出た。剣に手をかけている。
「何の用だ。穏やかじゃないな」
「我々はリヴェール王国近衛隊だ。そちらの少年を引き渡してもらいたい」
リヴェール王国。中堅の王国だ。外交力で存在感を保っている国。
……近衛隊?
近衛隊というのは王族の護衛を任務とする部隊だ。なぜ近衛隊が辺境の街まで来て、一人の少年を追いかけている?
「引き渡す? 何の権限で」
「逃亡した王族の保護は近衛隊の職務だ。――ルシェ殿下。お戻りください」
殿下。
ルシェが、王族。
振り返ると、ルシェは真っ白な顔で立っていた。さっきまで回復していたはずなのに、今にも倒れそうに見えた。でも倒れない。両足でしっかり床を踏んで、まっすぐ前を向いている。
「……帰れません」
ルシェの声は静かだった。震えてもいなかった。こういう時に声が震えないのは、勇気があるのではなく、もう覚悟を決めているからだ。
「姉上の手筈で動いています。勝手な行動ではありません」
「セレーネ殿下の独断は王の許可を得ていない。殿下、これ以上の逃亡は――」
「逃亡ではありません」
ルシェの声に、初めて感情が滲んだ。怒りではなかった。悲しみに近い何かだった。
「僕がいなくなることが、国にとって一番いいんです」
何のことかわからなかった。でも、胸の奥に何かが刺さった。十六歳の男の子が「自分がいなくなるのが一番いい」と本気で言っている。その声の温度で、これが芝居ではないことだけはわかった。
「問答は不要だ。確保しろ」
顎髭の男が指示を出した。二人の兵士が前に出る。エルヴィンが剣を抜いた。
「待ってくれ。俺はこのガキを送り届ける仕事を請けてる。金をもらって請けた仕事だ。引き渡すなら、契約の解除と違約金の話を先にしてもらわねえと」
「傭兵風情が。王命に逆らうか」
「王命なら文書を見せろ。口先だけの王命なんざ傭兵稼業じゃ通用しない」
エルヴィンの声に怯えはなかった。この人、場慣れしている。交渉ごとも、剣を抜いた後の空気にも。
でも四対一だ。しかも相手は近衛隊、正規の訓練を受けた兵士。エルヴィンがどれだけ腕が立っても、この狭い廊下で四人を相手にするのは無謀だ。
「あの」
声を出していた。
全員の目がこちらに向いた。
「あの、すみません。私はこの街の薬師で、この方の主治医です。正確に言うとただの旅の薬師ですけど」
「関係者でないなら退がれ」
「退がります。退がりますけど、一つだけ。この患者さんは三日前まで四十度近い高熱を出していました。今朝ようやく平熱に戻ったばかりです。すぐに長距離の移動をさせるのは、医学的に推奨できません」
嘘ではない。平熱に戻ったのは今朝だ。体力もまだ完全ではない。
「半日だけ待ってください。午後には出立できる程度まで回復を確認しますので」
我ながら何を言っているのだろうと思った。私はただの薬師だ。王族の問題に首を突っ込む理由がない。
でも。
ルシェの言葉が引っかかっていた。「僕がいなくなることが、国にとって一番いいんです」。あの声を聞いてしまったら、はいさようなら、は少し難しかった。
顎髭の男が私を見た。値踏みするような目つき。
「……名は」
「リラです。この街で薬屋をやっています。マリーさんのところの」
「殿下の容態は確認する。だが、半日以上は待てん」
「十分です。ありがとうございます」
頭を下げた。顎髭の男が部下に目配せして、二人が部屋の前に立った。見張りだ。残りの二人は一階に降りていった。
エルヴィンが剣を鞘に戻した。ちらりと私を見た目に、「何考えてんだ」と書いてあった。私も聞きたい。
ルシェの診察を改めて行った。近衛兵が一人、部屋の中に立ち会った。面倒だったけど、文句を言える立場ではない。
ルシェの体に触れた時、手が少しだけ震えた。王族の体に触れている、という緊張ではなかった。あの魔力の渦が、微かに震えている気がしたのだ。昨日まで安定していたのに。感情が動いたから?
考えない。薬師として診て、薬師として判断する。それだけ。
「やっぱりもう少し休んだ方がいいですね。急な移動は負担が大きいです」
「……すみません。巻き込んでしまって」
ルシェが小声で言った。近衛兵に聞こえないように。
「巻き込まれてないですよ。薬師として当然のことを言っただけです」
「でも、あなたは関係ないのに」
「関係ないから言えるんです。患者さんの体調を心配するのに、理由はいりません」
ルシェが私を見た。灰色の瞳が、少し揺れていた。
部屋を出ると、廊下でエルヴィンが待っていた。近衛兵の見張りの位置を確認してから、小声で話しかけてきた。
「おい、リラ。あんた何がしたい」
「何がって……」
「半日稼いだのはありがたいが、半日後にはどっちみちあいつは連れ戻される。それでいいのか」
「よくないんですか? あの人たちはルシェくんの国の兵士ですよね。国に帰るなら……」
「あのガキ、帰りたくないんだよ。帰れない理由がある。俺は詳しいことは聞いてないが、雇い主がやたら切羽詰まってた。『絶対に見つからないように東に送り届けろ。弟の命がかかっている』って」
弟の。
ルシェの姉がエルヴィンを雇ったのだ。セレーネ殿下。近衛兵が名前を口にしていた。
「命がかかっている、って……」
「だから俺も引き受けたんだ。報酬がよかったのもあるが、依頼人の目が本気だった。ああいう目をする人間の頼みは、断ると寝覚めが悪い」
エルヴィンが窓の外を見た。一瞬だけ、何か遠いものを思い出すような顔をした。
「……俺の故郷もな、どうにもならないことが降ってきて、逃げるしかなくて、でも逃げ先もなくて。あの時、誰か一人でも手を貸してくれたらって思ったことがある。だから、まあ……せめて俺くらいはな」
すぐにいつもの顔に戻った。
「まあ、そういう話だ。半日の猶予をもらったなら、使い道を考えようぜ。あんたは関係ないんだから、ここで別れてもいい。それが普通だ」
それが普通だ。
その通りだ。ルシェが王族で、国の事情があって、逃げている最中だとしても、私にはまったく関係がない。薬を出して、お代をもらって、「お大事に」と笑顔で見送る。いつも通り。
いつも通りでいいはずなのに。
「……一つだけ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「ルシェくんが『自分がいなくなるのが一番いい』って言っていたの、どういう意味だと思いますか」
エルヴィンが少し黙った。
「知らん。あいつの事情は本当に聞いてない。ただ――」
「ただ?」
「十六のガキがあんなこと言うのは、普通じゃねえよ」
同感だった。
*
午後になった。
私は薬屋に戻って、いくつかの薬を余分に調合していた。道中に必要になりそうな解熱剤、傷薬、鎮痛剤。……何のために?
自分に聞くまでもなかった。
マリーおばさんが奥から顔を出した。
「リラちゃん、ずいぶん薬を作ってるわね。どこかに行くの?」
「……少し、遠くに届ける薬があって」
「そう。気をつけてね」
マリーおばさんは何も聞かなかった。察しのいい人だ。多分、私がこの街を離れようとしていることにも気づいている。
「おばさん」
「なあに?」
「ここのこと、好きでした。おばさんのシチュー、すごくおいしかった」
「また来なさいよ。いつでも」
「……はい」
泣きそうになるのを堪えて、笑顔を返した。
荷物をまとめた。旅の薬師の持ち物は少ない。鞄一つに収まる程度の薬と道具と、着替えと、路銀と。
そして、荷物の一番奥に仕舞い込んであった、銀色の細い杖。
持っていこうかどうか、少しだけ迷った。これは星読みの杖だ。薬師には必要ない。
でも捨てたことは一度もない。六年間、どの街に行っても、荷物の奥に入れたまま持ち歩いていた。
……今さら置いていく理由もない。
杖を鞄の底に押し込んで、薬屋を出た。
宿屋に着いたのは約束の半日が過ぎる少し前だった。一階の食堂に、近衛兵が二人と顎髭の隊長が座っていた。残りの一人は二階の見張りだろう。
「時間だ。殿下をお連れする」
「はい。最後にもう一度だけ診察させてください。移動に耐えられる状態か確認します」
顎髭の男がうなずいた。私は二階に上がった。
三号室のドアをノックすると、エルヴィンが開けた。中にルシェがいる。身支度は整っていて、穏やかな顔をしていた。覚悟を決めた顔だ。
「エルヴィンさん」
「……なんだ」
「この宿屋の裏手に、厩がありますよね」
エルヴィンの目が変わった。
「宿の主人に聞いたら、街の東の外れに古い間道があるそうです。本街道には出ないので、あまり人が通らないって」
「……おい。あんた」
「私も追い出された側の人間なんです。一族ごと」
なぜそれを今言ったのか、自分でもよくわからなかった。ただ、自分がこれからすることの理由を、せめてエルヴィンには説明しておきたかった。「ただの薬師が首を突っ込む」のと、「追放された人間が追われている人間に共感する」のでは、意味が違う。
「……ルシェくんの事情は知りません。でも、十六歳の子が『自分がいなくなるのが一番いい』と思い込まされている状況は、正しくない。それだけはわかります」
「あの、リラさん」
ルシェが戸惑った声を出した。
「僕のために、そんな――」
「あなたのためじゃないです」
出かかった言葉を飲み込んで、少し考えて、言い直した。
「……ごめん。半分嘘。半分はあなたのためです。でも残り半分は、私が、ここで黙って見送ったら後悔するから。私のためです」
エルヴィンが深く息を吐いた。それから、にやりと笑った。
「わかった。間道、案内しろ。報酬の交渉は後だ」
「お代はお友達価格にしますよ」
「ただにしろ」
「それはお友達価格じゃなくて搾取です」
ルシェが、何か信じられないものを見るような目で私たちを見ていた。
階段を降りて、一階の食堂に向かった。近衛隊の面々に、最後の報告をしなくてはならない。
「診察の結果をお伝えします。やはり完全には回復しておらず、長距離の騎馬移動は推奨できません。当面は安静が必要です」
「結構。移動は我々の馬で行う。負担は最小限にする」
「……わかりました。では、患者さんの準備ができたら二階からお連れしますね。荷物のまとめに少しお時間をください」
「五分だ」
「十分いただけますか? 薬の服用指示をお連れの方に伝えなくてはいけないので」
顎髭の男が苛立たしそうにうなずいた。
二階に戻る。三号室には入らず、廊下を奥に進んで、突き当たりの窓を開けた。裏手の厩が見える。宿屋の主人に話をつけてある。嘘はつかなかった。「裏から出たい客がいる」とだけ言ったら、老いた主人は黙ってうなずいてくれた。近衛隊に押し入られたことを、快く思っていなかったのだろう。
窓から屋根を伝って降りる。高さはそれほどでもない。二階建ての宿屋の裏手は荷物置き場になっていて、木箱が積んである。足場にはなる。
三号室に戻った。エルヴィンが窓を確認して、ルシェに手を差し出した。
「行けるか」
「……はい」
「リラ、先に降りろ。下で受け止める」
「受け止める必要はないです。自分で降ります」
「いや、あんた鞄でかいだろ。バランス崩すぞ」
「……確かに」
窓枠に足をかけた時、裏口から空が見えた。昼の空だ。星は見えない。
でも不思議と、清々しかった。逃げ出すのに清々しいも何もないけれど、久しぶりに自分の意志で動いている気がした。見えているのに黙る、ではなく。見えたから、動く。
まだ何が見えたのかはっきりしないけど。
木箱の上に降り立って、エルヴィンが続いて降りて、最後にルシェが降りてきた。ルシェは身軽だった。やっぱり病弱じゃない。訓練を受けた人の身のこなしだ。
裏手の厩にはエルヴィンが街に着いた時に預けた馬が一頭。間道に馬は連れていけない。エルヴィンが馬の首を叩いた。
「……じゃあな。馬代はセレーネ殿下のツケにしてやろう」
エルヴィンがこちらを見た。で、どっちだ、という目。
「東の間道は街の外れを通って森に入ります。森を抜ければ隣の領地です。追手が本街道を見張っても、間道なら時間が稼げるはずです」
「よし。走るぞ」
走った。
街外れの畑を抜け、間道に入り、木立の間を進んだ。ルシェは黙ってついてきた。体力的にはまだ本調子ではないはずだが、足取りは確かだった。たまに振り返ると、私の方を不思議そうに見ていた。なぜこの人はついてきてくれるのだろう、という顔で。
猶予は十分。その間にどれだけ離れられるかが勝負だ。間道の存在を知らなければ、追手が正しい方角を掴むまでに時間がかかるはずだ。
森に入って、少し開けた場所で足を止めた。全員息が上がっている。
「ここまでくれば、少しは大丈夫だと思います。この先は……」
「リラさん」
ルシェが、息を整えながら私を見た。
「なぜですか」
「え?」
「なぜ、助けてくれるんですか。僕は……あなたにとっては、ただの患者のはずです」
嘘をつこうと思えばつけた。薬師として患者を守る義務があります、とか。追放された一族として追われる人の気持ちがわかります、とか。どちらも本当だけど、全部ではない。
「……正直に言うと、よくわかんないんです」
「え」
「ただの患者さんだと思ってたんですけど、あなたが『いなくなるのが一番いい』って言った時に、すごく嫌だなって思って。理屈じゃなくて、ここが」
胸のあたりを指した。
「薬師って、人を元気にする仕事でしょう。体を治して、『よかったね、元気になったね』って送り出すのが仕事なのに。治した人が『いなくなるのが一番いい』なんて言ったら、何のために治したのかわからなくなっちゃう」
ルシェが目を見開いた。
「だから……ええと、そういう感じです。すみません、うまく言えなくて」
恥ずかしくなって目を逸らした。もっと理路整然とした理由があればよかったのに。「追放された一族の誇りが」とか「星読みの使命が」とか。でも本当のところは、もっと単純で、もっと曖昧だった。
ルシェが、小さく息を吸った。
「……ありがとう、ございます」
今度の「ありがとうございます」は、初対面の時の礼儀正しいそれとは少し違った。声が少しだけ揺れていて、目が少しだけ潤んでいて。
感情を閉じ込め損ねている。初めて見た、この子の素顔に近い表情だった。
「さて、感動の場面に水を差して悪いが」
エルヴィンが荷物を背負い直しながら言った。
「ここからどこに行くかだ。俺の依頼は東の安全な場所へ送り届けること。あんたは何か当てがあるか、薬師――いや、元星読み?」
「薬師です。元でもなく星読みはやってません」
「はいはい。で、どうする」
三人で顔を見合わせた。
森の木漏れ日が、木立の間から差し込んでいた。鳥の声が聞こえる。穏やかな昼下がりだ。辺境の、何もない森の中。
私は六年ぶりに、自分の意志で、見えないふりをやめようとしていた。
何が見えているのかは、まだ自分でもよくわからない。でも、この少年の体の中で渦巻いている何かから、目を逸らさないでいようと思った。
「東に行きましょう。道中のことは、歩きながら考えます」
「ざっくりしてんな」
「旅の薬師は行き当たりばったりが基本です」
「それ自慢げに言うことか?」
ルシェが、小さく笑った。
ああ、この子が笑った。本当に笑った。
それだけで、ここに来た甲斐があったかもしれない、と少し思った。




