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01.旅の薬師

 星を読むのをやめてから、もう六年になる。


 やめた、というのは少し語弊があるかもしれない。一族が追放されたのはもう三十年も前のことだけれど、母は辺境でも星を読んでいた。私に教えながら。その母が死んで、私が星読みである理由はなくなった。だから自然にやめた。自然にやめたのだから、未練なんてない。


 ……ない、と思う。たぶん。


「すみません、お薬をいただけますか?」


「あ、はい。少々お待ちくださいね」


 カウンターの向こうに座った女性に笑顔を返して、棚から薬瓶を取り出した。辺境の小さな街の、小さな薬屋。借り物の店だけれど、旅の薬師として一つの街に数ヶ月ずつ滞在する生活にはちょうどいい。


「風邪薬をお求めでしたよね。こちら、一日三回、食後に飲んでください。苦いので、蜂蜜に溶かすと飲みやすいですよ」


「ありがとうございます、先生」


 先生、と呼ばれるたびにくすぐったい気持ちになる。私はそんな大層なものではない。旅先で薬草の知識を覚えて、少しずつ調合を学んで、気づけば薬師になっていた。星読みの一族は星だけでなく、薬草や鉱物の知識も扱っていたから、下地はあったのだと思う。それだけの話。


 女性が薬瓶を受け取って帰っていく。小さな鈴のついたドアが閉まる音を聞きながら、私はため息をついた。


 ……あの人、風邪じゃない。


 顔色と目の充血の具合からして、寝不足と泣き疲れ。おそらく家庭で何かあったのだろう。でも「風邪薬をください」と言われたから、風邪薬を出した。求められたものを出す。それ以上のことはしない。余計なことを言えば余計な心配をかけるし、余計な関わりが生まれる。


 関わりが悪いとは言わない。ただ、私は旅の薬師で、数ヶ月したらこの街を離れる。中途半端な関わりは、中途半端な優しさは、期待を裏切る。


 だから、見えていても言わない。


 それが、一番みんなのためになる。


「――リラちゃん、もうお客さん終わり?」


 店の奥から、大家のマリーおばさんが顔を出した。このお店はマリーおばさんの持ち物で、私は間借りさせてもらっている身だ。


「ええ、今日はあの方が最後かなと思います」


「じゃあ夕飯一緒に食べましょ。今日はシチューよ」


「わあ、うれしいです。ありがとうございます」


 嘘ではない。マリーおばさんのシチューは本当においしい。ただ、毎回のように夕飯に誘ってくれるのは、一人で食べている私を心配してくれているからだろう。気づいていないふりをして、ありがたく甘えておく。


 夕飯までの間に、少し調合の仕込みを済ませた。薬草の葉を乳鉢ですり潰しながら、ぼんやりと窓の外を見る。夕焼けが辺境の丘を赤く染めていた。もうすぐ日が落ちる。日が落ちれば星が出る。


 ――見ない。


 見ないと決めている。


 星を見ると読んでしまう。読めば、わかってしまう。あの星は少し揺らいでいるとか、あの星域の魔力バランスが崩れかけているとか。わかっても何もできない。追放された一族の人間がどこかに報告したところで、誰も聞いてくれない。聞いてくれないどころか、また面倒なことになる。


 だから、見ない。


 ……見ない。


 乳鉢を置いて、手を洗って、エプロンを外した。少し外の空気を吸おうと裏口から出た。


 丘の上の空が、赤から紺に変わっていく時間だった。一番星が見えた。


 見上げてしまった。


 明るい。安定している。この地域の星は健やかだ。農業も順調だろう。南東の方角にやや揺らぎがあるけれど、あれは季節的な変動の範囲内で――


「……っ」


 目を逸らした。


 地面を見る。足元の草を見る。自分の靴を見る。


 はいはい、何も見てません。星なんか読んでません。ただ夕涼みに出ただけです。


 胸の奥で、小さな痛みが疼いた。六年間、何度繰り返しても慣れない痛み。


 ――好きだったのだ。星を読むのが。


 世界の秘密を覗き見るような感覚。星の光の一つ一つに意味があって、それが読み取れた時のあの清冽な喜び。子どもの頃、祖母の膝の上で初めて星を読んだ時、世界がきらきらして見えた。


 でもその技術が一族を滅ぼした。正確なことを正確に言ったら、追い出された。


 だったら正確なことなんか、言わないほうがいい。見えていても黙っているほうがいい。


「リラちゃーん、シチューできたわよー」


「はーい、今行きます」


 笑顔を貼りつけて、中に入った。


 マリーおばさんのシチューは、今日もおいしかった。


 *


 異変が起きたのは、翌日の昼下がりだった。


 店の前の通りが少しざわついているな、と思った矢先に、ドアが勢いよく開いた。


「おい、薬師はいるか!」


 入ってきたのは体格のいい若い男で、茶色い革鎧を着ていた。腰に剣を佩いている。傭兵か冒険者だろう。態度は粗く、表情も焦っている。


「はい、私が薬師です。どうかしましたか?」


「連れが倒れた。高熱で起き上がれない。診てくれ」


「わかりました。往診道具を持っていきますので、場所を教えてください」


 道具鞄を手早くまとめて、男の後について街外れの宿屋に向かった。


 男は歩きながら、ぶっきらぼうに説明してくれた。名前をエルヴィンといい、傭兵をしている。連れの少年を安全な場所まで送る護衛の仕事を請けたが、途中で少年が倒れた、と。


「旅の途中で倒れたんですか? いつ頃から症状が?」


「昨日の夜からだ。急に熱が出て、今朝にはもう歩けなくなってた」


「食事は摂れていますか?」


「水は飲んでる。飯は無理だな」


 宿屋の二階、薄暗い一室。簡素なベッドの上に、少年が横たわっていた。


 ――若い。私より年下だ。たぶん十五、六くらい。


 銀灰色の髪が汗で額に張りついている。顔色は蒼白で、呼吸が浅い。一見すると重い風邪に見えた。


 でも。


「失礼しますね」


 額に手を当てた。熱い。四十度近くあるかもしれない。脈を取り、目を確認し、喉の奥を診て、胸の音を聞いた。


 ……おかしい。


 熱は高い。でも、炎症の兆候がない。喉は赤くないし、肺の音もきれいだ。これだけの高熱を出す原因が、体のどこにも見当たらない。


 そして――もう一つ、見えてしまった。


 この子の体の中に、不自然な魔力の流れがある。


 普通の人間の体にも微量の魔力は宿っている。星の光を浴びて暮らしていれば自然に蓄積されるものだ。でもこの少年の魔力の流れ方は、量が異常に多いだけでなく、流れ方そのものが普通じゃない。まるで体の中に小さな渦があるような。


 私は薬師だ。星読みではない。だから今見えたものは、気のせい。気のせいということにして、症状に対処する。それでいい。


「解熱の薬湯を作りますね。あと、水分はこまめに。この子、もともと体が弱い方ですか?」


「さあな。雇い主が詳しいことは言わなかったんだ。『病弱だから無理をさせるな』とだけ言われた」


 病弱。……本当に?


 この子の体は、よく見ると華奢に見えて筋肉のつき方がしっかりしている。手のひらには剣だこがある。体を動かす訓練を受けた人の体だ。病弱な人の体ではない。


 見えている。でも言わない。


 解熱の薬湯を調合して、エルヴィンに飲ませ方を指示した。「一時間おきに少量ずつ」「汗をかいたら着替えを」「意識が混濁したらすぐ呼んでください」。いつも通りの、丁寧な仕事。


「……ぅ」


 ベッドの上で、少年が小さく声を上げた。うっすらと目を開けている。熱に浮かされた瞳は、深い灰色をしていた。


「あ、目が覚めましたか? 大丈夫ですよ、お熱が高いだけです。お薬を作りましたので飲んでくださいね」


「あなたは……」


「この街の薬師です。リラといいます。エルヴィンさんに呼ばれて来ました」


 少年は私をしばらく見つめてから、力なく微笑んだ。


「すみません、ご迷惑をおかけして」


 ――ああ、この子。初対面の、熱で朦朧としている状態で、最初に出てくる言葉が謝罪なんだ。


「迷惑じゃないですよ。薬師ですから、これがお仕事です」


「そう、ですか……ありがとう、ございます」


 また目を閉じた。眠りに落ちたらしい。


 私は静かに部屋を出た。廊下で一度だけ振り返って、閉じたドアを見た。


 あの子の体の中の、異常な魔力の渦。


 あれは何なのだろう。


 ……いや、考えない。私は薬師だ。星読みじゃない。見えていても、私の領分じゃない。薬を出して、熱が下がるのを確認して、元気になったら「お大事に」と笑顔で送り出す。それで終わり。


 いつも通り。


 いつも通りでいい。


 宿屋を出ると、もう日が暮れかけていた。西の空にはまだ茜色が残っていたけれど、東の空にはもう星が瞬き始めている。


 見上げそうになって、慌てて目を地面に落とした。


 ……今日で二回目。最近ちょっと多い。


 早足で薬屋に戻った。星なんか見ていない。何も読んでいない。私はただの旅の薬師で、今日の仕事は終わった。


 荷物の奥に仕舞い込んだ、銀色の細い杖のことは、考えない。

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