10.星読み
星盟会議の大広間は、静かだった。
静かで、冷たくて、そしてとても明るかった。ガラスのドーム天井から降り注ぐ星の光が、大理石の床に青白い模様を描いている。こんなにきれいな夜なのに、この場にいる誰もが空を見ていなかった。
みんな、下を向いている。
正確には、広間の中央に立たされた一人の少年を見ていた。
ルシェは手枷をかけられたまま、まっすぐ前を向いていた。顔色は白いけれど、表情は穏やかだった。いつもの彼だ。感情を丁寧に畳んで、誰にも迷惑をかけない顔をしている。
――ああ、またその顔。
私は傍聴席の隅で、自分の手のひらに爪を食い込ませていた。
「以上の論証により、当該個体は『終星の厄災』に該当すると結論づけます」
ナディアさんの声が、広間に淡々と響いた。彼女は分厚い報告書を閉じて、各国代表の席を見回した。その目に迷いはない。迷いがないのは、彼女が不誠実だからではなく、本当に自分の結論を信じているからだ。
それが一番、厄介なのだけれど。
「リヴェール王国には弁明の機会を与えます」
議長の声に、セレーネ様が立ち上がった。背筋はまっすぐで、声は冷静で、完璧な王族の佇まいだった。この人はこの十年、ずっとこうやって立ってきたのだろう。弟のために、一人で。
「弟は十六年間、一度たりともこの力を自らの意志で行使したことはありません。我が国は封印と管理の体制を維持しており――」
「管理下にあったはずの存在が、国外で力を行使した事実があるではないか」
別の国の代表が遮った。ナディアさんの報告書に記載されていたのだ。旅の途中で起きた魔獣戦の痕跡――あの時の星の揺れを、彼女は観測データから特定していた。
セレーネ様の目がほんの一瞬だけ揺れた。
「各国の安全保障に関わる案件である以上、一国の事情で猶予を認めるわけにはいかない」
「同意する。処分の決議に移ることを提案します」
声が重なる。セレーネ様が何か言おうとして、しかし言葉が続かなかった。政治の力には限界がある。十年かけて積み上げたものが、この一夜で崩されていく。
「――姉上」
ルシェの声が聞こえた。静かで、澄んでいて、何かを決めた人の声だった。
ルシェの目が、一瞬だけこちらを向いた。傍聴席の私を見て、すぐに姉に戻した。
――ああ。この子、気づいてる。
私が何をしようとしているか。壁越しに聞いていたのだから当然だ。禁忌の星読み。失敗すれば死ぬ。この子は、私がそれをやる前に自分で幕を引こうとしている。
「もう、十分です」
十分。
十分って、何が。
あなた、私を止めるために言ってるんでしょう。自分が消えれば、私が命を賭けなくて済むと。それがあなたなりの優しさなんでしょう。
ふざけないで。
あなたはまだ、自分のために怒ったことすらないのに。自分のために泣いたことすらないのに。自分が何を好きかも、何が嫌いかも、全部後回しにして「ご迷惑をおかけしません」と笑ってきただけなのに。
それで十分だなんて、誰が決めたの。
「――あなたが、決めることじゃないでしょう」
声が出ていた。
自分でも驚いた。立ち上がっていた。傍聴席の柵に手をかけて、広間の全員がこちらを見ていて、私の心臓はうるさいくらいに鳴っていて、でも声は止まらなかった。
「傍聴人は発言を許可されていません。着席しなさい」
議長の声。当然だ。私は追放された一族の人間で、この場での発言権なんてない。
でも。
「星盟条約第十七条、補則三項」
私ではない声が響いた。セレーネ様の隣に控えていた文官――フィリクスさんが、震える手で古い書類を広げていた。
「『星に関わる危機に際し、星読みの血を引く者は、その出自を問わず、警告を発する義務と権利を有する』。ステラリス家は追放処分により宮廷星読みの地位を剥奪されましたが、星読みの血統そのものは消滅していません。この条項に基づき、発言の権利を主張します」
フィリクスさんの声は震えていたけれど、言葉は正確だった。昨夜、一晩かけてこの条項を見つけてくれた人。
議場がざわめいた。各国代表が互いに目を見合わせている。
「……古い条項だ。有効性に疑義がある」
「しかし明文で廃止されてはおらぬ」
「聞くだけ聞いてもよいのでは。どうせ没落一族の末裔が何を言おうと――」
どうせ。
三十年前も、そう言われたのだろうか。私の祖父母も、「どうせ」と片づけられて、それで終わったのだろうか。
「……発言を許可します。ただし簡潔に」
議長が苦い顔で頷いた。
私は傍聴席を出て、広間の中央に歩いた。足が震えていた。嘘はつかない。震えていたし、怖かった。でも、もっと怖いことがあった。ここで黙って、あの子が「十分です」と笑って消えていくのを見ること。そしてまた、見えていたのに何も言わなかった自分と一生暮らすこと。
そっちのほうが、ずっと怖い。
ルシェの隣に立った。彼は驚いていなかった。わかっていたのだ、こうなることが。その顔は穏やかな仮面でも諦めた顔でもなく、怯えていた。私が何をしようとしているか知っているから。
「リラさん、やめて」
「ごめんね。やめない」
「お願い、です……」
「先に言いたいことがあるの」
私は各国代表の席に向き直った。深呼吸をひとつ。
「ナディアさんの論証は、おおむね正確です」
ざわめきが一瞬止まった。ナディアさん自身が、少し意外そうな顔をした。私が真っ向から否定すると思っていたのかもしれない。
「彼の体は星の魔力を吸収します。それは事実です。でも、吸収した後に何が起きているかを、誰も確認していません」
「確認の必要はないと考えます」ナディアさんが立ち上がった。「吸収された魔力は消失する。それが過去の記録と一致しています」
「いいえ。一致していないんです」
私は旅の間に集めた観測記録を広げた。各地の星の状態を、日付と場所とともに書き記したもの。薬師として旅をしながら、ただの癖で、ただ空が好きで、記録していたもの。
「これは各地の星の安定度の記録です。ルシェく……この方が滞在した地域では、確かに一時的に星の光が弱まっています。でも、その後の記録を見てください。同じ地域の星が、通過前よりも安定しているんです。すべての地域で」
ナディアさんが記録を受け取り、目を通す。彼女の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「……偶然の可能性を排除できません」
「そうですね。状況証拠にすぎません」
私はそれを認めた。ここで強弁しても意味がない。
「だから、直接確認させてください」
「直接確認? どのような方法で」
「禁忌の星読みです」
広間が凍った。
星盟会議の代表たちだけではない。セレーネ様も、フィリクスさんも、ナディアさんも。全員が黙った。禁忌の星読みの名前を知っている人は少ない。でも「禁忌」という言葉の重さは、誰にでもわかる。
「星そのものではなく、星の魔力が宿った存在を直接読む技術です。彼の中で星の魔力がどう流れているか――吸収して消えているのか、それとも別のことが起きているのか。この目で読みます」
「そのような技術が現存するのか」
「ステラリス家の文献に残っています」
嘘ではない。オルグレンさんから受け取った文献に、確かに記述はある。ただし――。
「術者への危険は」
「……魔力の奔流を直接浴びることになります。制御に失敗すれば、命に関わります」
正直に言った。嘘をついても仕方がない。
「リラさん」
ルシェの声がした。手枷の鎖が鳴った。こちらに身を乗り出している。
「やめてください。お願いです。僕が処分を受ければ済む話です。あなたが死ぬ必要なんてない」
まだ言っている。まだ、自分が消えれば全部解決すると。
「あなたのためじゃないよ」
自分でも驚くくらい、自然に出た言葉だった。
ルシェが目を見開いた。
「私が読みたいの。……ずっと、ずっと星を読みたかったの」
空を見上げて、目を逸らして。星が見えるのに、見ていないふりをして。一族が追い出されたから、もう読んじゃいけないんだと思い込んで。
でも本当は、ずっと読みたかった。
「見えているのに黙るのは、もうやめる。だからこれは、私が私のためにやることです。――結果としてあなたが助かるなら、それは、おまけです」
ルシェは何か言おうとして、唇が震えて、何も言えなかった。その顔を見て、少しだけ笑ってしまった。ああ、この子は今、感情を殺し損ねている。
「証人として、一つ申し上げてもよろしいでしょうか」
予想外の方向から声が上がった。
エルヴィンだった。
傍聴席の後方、壁に背を預けていた彼が、腕を組んだまま前に出てきた。いつもの軽い調子ではなかった。
「俺はヴァレンティアの元兵士です。故郷の星が弱って、国が傾いて、俺は傭兵に落ちた。星を喰う存在がいると聞いた時――正直に言えば、殺したいと思いました」
広間が静まった。エルヴィンは各国代表を見回した。
「でも最近、故郷に帰ったんです。空を見ました。星が戻っていた。前よりも明るく、安定して光っていた。あの王子が城を出て旅をしてから――故郷の星が、俺がガキの頃に見たのと同じくらいきれいに戻っていた」
彼の声が少しだけ揺れた。
「俺はあいつを憎みたかった。今だって、全部許したわけじゃない。でも、見たものを嘘だとは言えない。俺の故郷の星は、あいつが旅に出てから戻った。これは事実です」
静寂が広がった。
ナディアさんが何か考え込んでいる。各国代表たちが互いに視線を交わしている。エルヴィンの証言は強い。敵意を持っていた人間が、それでも認めた事実だから。
でも、これだけでは足りない。それはわかっていた。
「……状況証拠と証言だけでは、処分決議を覆す根拠にはなりません」
議長が重い声で言った。
「禁忌の星読みとやらを行うのであれば、それは自己責任で、かつ会議の監視下で行うことを条件とします。結果が論証を覆さなければ、処分は予定通り執行します。よろしいですね」
「はい」
迷わなかった。……嘘。少し迷った。でも、迷ったまま頷いた。怖くない人間はいない。怖いまま決断できるかどうかだ。――セレーネ様の言葉が、ふと頭をよぎった。
外套の内側から、星読みの杖を取り出した。
母の形見。銀色の細い杖で、先端に小さな星石がはめ込まれている。六年間、荷物の奥に隠していた。昨夜、初めて自分の手に取り戻した。
杖が、星明かりに応えるようにかすかに光った。
ルシェの前に立った。彼の目が揺れていた。自分の処刑ではなく、私の行きつく先を怖がっているんだとわかった。ずっとそうだった。この子はずっと、自分ではなく私の心配をしていた。
「……失敗したら、死ぬんでしょう」
「大丈夫。たぶん」
「たぶん、って」
「やったことないから、正確なことは言えなくて。ごめんね、頼りなくて」
ルシェが泣きそうな顔をした。泣きそうな顔ができるようになったんだな、と思った。旅の最初は、こんな顔できなかった。
「リラさん。僕は――」
「うん」
「僕は、あなたに会えてよかったです」
それは遺言のつもりだったのかもしれない。自分が処刑される前に、最後に伝えたいこと。でも私は遺言にするつもりはなかった。
「私もだよ。――だから、終わったらまた話そう」
杖を構えた。
文献の記述を思い出す。星の魔力の流れに意識を同調させる。対象の内部を流れる魔力を、星読みの技術で「読む」。星を読むのと同じ。ただし、星は遠くにあって静かだけれど、人の中の魔力は近くて荒々しい。制御を間違えれば、魔力の奔流に飲まれて焼かれる。
目を閉じて、開いた。
星読みの目で世界を見る。
杖を通じて、ルシェの中の魔力に触れた。
瞬間、光が爆発した。
比喩ではなかった。ルシェの体内に蓄積されていた星の魔力が、私の星読みに呼応して一気に反応した。光の奔流が私の体を通り抜け、ドームのガラスを透過して夜空に放射された。
痛い。
全身を光が貫いている。骨の一本一本が共振して、視界が白く染まって、これが失敗なのか成功なのか判断がつかない。
でも、目は閉じなかった。
光の奔流の中に、色があった。白一色ではなかった。青と金と銀が混ざり合って、渦を巻いて、流れて、その流れの一つ一つに星の記憶が刻まれていた。
この光を知っている。
子どもの頃、祖母の膝の上で初めて星を読んだ夜。「ほら、リラ。あの星の光の中に、声が聞こえるでしょう」。聞こえた。確かに聞こえた。星が歌うように揺らいで、世界がきらきらと意味に満ちていた。あの時の感覚が、六年分の封を破って、体の芯から溢れ出してきた。
ああ、これだ。この感覚を、ずっと。
――ずっと、恋しかったのだ。
涙が出た。痛いのか嬉しいのかわからない涙だった。きっと両方だった。
光はまだ体を灼いている。指先の感覚が消えて、足の感覚が消えて、体が光に溶けていくような錯覚がある。失敗したら死ぬ、とはこういうことだ。このまま流れに飲まれたら、私という形が保てなくなる。
でも――見える。
ルシェの中の魔力の流れが、見える。
星の魔力が彼に吸い込まれていく。それは事実だった。ナディアさんの言う通りだ。でもその先がある。吸い込まれた魔力は、彼の中でゆっくりと回転している。乱れた波形が整えられ、不安定な揺らぎが取り除かれ、きれいな光になって――還っている。体の外に、空に、星に、還っている。
浄化だ。
壊れかけた星の光を受け止めて、直して、返している。この子はずっと、それをしていた。自分でも知らないまま、星を喰らっているのだと怯えながら、本当は星を治していた。
ドームの天井を通して、夜空に光が放射されていく。
広間の全員が見上げていた。ルシェから放たれた光が星に還り、暗かった星域が一つ、また一つと明るさを取り戻していく。
そしてその星域は――三十年前、私の一族が「壊れかけている」と警告した場所だった。
「……まさか」
ナディアさんの呟きが聞こえた。
「ステラリス家の予言は……星は本当に壊れかけていた? そしてこの少年の体質は、それを……」
ナディアさんが自分の報告書に目を落とし、それから夜空を見上げ、またルシェを見た。報告書を握る手が白くなっていた。自分が正しいと信じてきた結論が、目の前で崩れていく。それでも彼女は目を逸らさなかった。
「……私の仮説は、不完全でした」
静かな声だった。悔しそうで、でも誠実だった。この人はこういう人なのだ。だから怖かったし、だから信じられる。
「発言を、許可していただけますか」
別の声がした。老いた、しかしはっきりとした声。
傍聴席の端に座っていた老女が立ち上がった。オルグレン。かつて宮廷星読みとして、私の一族の追放に加担した人。
「三十年前、ステラリス家は星の異変を報告しました。報告は正確でした。私はそれを知りながら、握り潰す側に回りました」
広間がざわめいた。
「星は壊れかけていたのです。あの一族は正しかった。そして今夜、この娘が証明したとおり――星には自己修復の機構がある。この少年はその機構の一部だということです。厄災ではない」
オルグレンの声は震えていたけれど、最後まで途切れなかった。三十年間黙っていた人の、三十年分の告白だった。
光が収まっていく。
私の体から力が抜けた。膝が折れる。杖を支えにしようとしたけれど、杖ごと崩れ落ちた。
「リラさんっ」
手枷をかけられたままのルシェが駆け寄る音が聞こえた。……ああ、手枷してるのに走れるんだ。器用だな。
冷たい床に倒れ込んで、でも不思議と痛くなかった。全身が痺れていて、感覚が遠い。
目を開けた。
何も見えなかった。
暗い、のではなかった。光を感じない。星の魔力の奔流を直接浴びた目が、焼かれたのだと理解した。
「リラさん、リラさん。目を開けて。……開いてる? ねえ、僕が見えますか」
ルシェの声が近い。いつもの穏やかな声ではなく、必死な声。感情を隠せていない。隠す余裕がないのだろう。
「……見えないかも」
「え」
「目が、ちょっと。……星の魔力を浴びすぎたみたい。たぶん一時的なものだと思うけど」
たぶん。確信はない。でもルシェをこれ以上怖がらせたくなかった。
「すみません、すみません、僕のせいで」
「あなたのせいじゃないよ。私が読みたくて読んだの。自己責任」
「でも」
「でもじゃないの」
手探りでルシェの声のする方に手を伸ばした。手枷の冷たい金属に指が触れて、その内側にあるルシェの手に触れた。冷たかった。震えていた。
「ねえ、ルシェくん」
「はい」
「空、見てくれる?」
少しの間があった。
「……星が、きれいです」
「あなたに言われても、あんまり信用できないかも」
「え」
「星を喰べちゃう人が星をきれいって言うの、ちょっとおかしいでしょう」
「喰べてません。浄化です。……さっき、リラさんが証明してくれたばかりじゃないですか」
少しだけ拗ねたような声だった。こんな声を出せるようになったんだ。
「あ、そっか。そうだった」
笑ってしまった。目は見えないのに、涙が出た。不思議。
「……本当にきれい?」
「はい。あなたに見せたいくらい、きれいです」
「じゃあ、目が治ったら見せてね」
「――はい。必ず」
ルシェの手が、私の手を握り返した。さっきより少しだけ温かかった。
見えないけれど、わかる。たぶん今、この子は泣いている。感情を殺さないまま、初めてちゃんと泣いている。
ドームの向こうの空では、きっと星が光っている。壊れかけていた星が、あの子が治した光で、三十年ぶりに正しく輝いている。
私にはまだ見えない。
でもいい。見えるようになったら、一番に空を見上げよう。今度は、目を逸らさずに。




