11.エピローグ
目が見えるようになったのは、三週間後だった。
最初は光の明暗がわかる程度だった。それが少しずつ輪郭になり、色になり、ある朝目を覚ました時に、天井の木目が見えた。
「……見える」
体を起こした。小さな部屋。質素なベッドと、窓辺に置かれた花瓶。見慣れない部屋だったけれど、匂いには覚えがあった。薬草の匂い。誰かが毎日、枕元で薬を調合してくれていたのだ。
ドアが開いた。
「リラさん、おはようございます。今日の薬湯を……」
ルシェが盆を持って入ってきた。私を見て、固まった。
「目が」
「見える。ちゃんと見えるよ」
ルシェの顔が見えた。三週間ぶりに見るルシェの顔。
泣いていた。
いや、今泣き始めたのではない。もともと目の下に隈があって、少し痩せていて、三週間分の心労が顔に出ていた。でも今、決壊するように涙が溢れていた。手に持った盆がかたかた震えている。
「泣かないでよ。薬湯こぼれちゃう」
「こぼれません」
こぼれた。
「ほら」
「……すみません」
「謝らないの」
「はい」
ルシェが盆をテーブルに置いて、袖で目を拭いた。拭いても拭いても止まらないらしい。手枷はもう外されていた。会議の後、処分の決議は取り下げられたのだと、見えない間に聞いていた。
「あ、あの、皆さんに伝えないと。セレーネ姉上と、エルヴィンさんと、オルグレン先生にも」
「オルグレンさん、まだいるの?」
「はい。リラさんが目を覚ますまでは帰らないと言って。エルヴィンさんもです。あの人、ずっと廊下で寝てました」
「廊下で? 部屋あるでしょう」
「あるんですけど、『部屋より廊下の方が何かあった時にすぐ動ける』って。傭兵の習性だそうです」
……そういうところだよ、あの人は。
「セレーネ様は」
「王都との連絡で忙しくしていますが、毎日様子を見に来てくれています。昨日は、リラさんの容態が安定していると聞いて、少しだけ笑っていました」
「セレーネ様が笑うところ、想像つかない」
「僕もあまり見たことがないので。……たぶん、嬉しかったんだと思います」
窓の外から、鳥の声が聞こえた。朝だ。光が差し込んでいる。
「ねえ、ルシェくん」
「はい」
「窓、開けてくれる?」
ルシェが窓を開けた。朝の冷たい空気が頬を撫でた。空が見えた。
明け方の空。星はもう薄れかけていて、東の端が白み始めている。最後の数個の星が、消えかかりながらまだ光っていた。
星読みの目で見た。
三週間ぶりの星。
――安定していた。
あの夜、ルシェの体から還された光が届いた星域。三十年間壊れかけていた場所。今も完全に修復されたわけではないけれど、崩壊は止まっていた。ゆっくりと、少しずつ、回復に向かっている。
涙が出た。今度は私の番だった。
「リラさん?」
「見えた。星が見えた。ちゃんと読めた」
声が震えた。自分の声じゃないみたいだった。
「きれい。……すごくきれい」
「本当ですか」
「うん。あなたが言ってた通り。本当にきれい」
ルシェが窓辺に来て、隣に立った。二人で空を見上げた。明けていく空。消えていく星。でも消えるのは朝が来るからで、夜になればまた光る。
「リラさん」
「うん」
「僕、一つ見つけました」
「何を?」
「好きなこと。リラさんが前に、好きなことを探しましょうって言ってくれたでしょう。生きていれば探せるって」
「うん、言った」
「見つかったかもしれません」
「何?」
ルシェが少し黙った。それから、照れくさそうに言った。
「薬湯を作ること」
「え」
「リラさんが寝ている間、ずっと作り方を教わっていたんです。この部屋に来てくれていた薬師の先生に。最初は全然上手くいかなくて、苦すぎたり薄すぎたりしたんですけど、昨日やっと、先生に『及第点です』って言ってもらえて」
思わず笑ってしまった。
「三週間ずっと、薬湯の練習してたの?」
「はい。リラさんが目を覚ました時に、最初に飲むのは僕が作った薬湯がいいなと思って」
テーブルの上の盆を見た。さっきこぼしてしまった薬湯。湯呑みに少しだけ残っている。
「……飲んでいい?」
「こぼれた分は少ないので、大丈夫だと思います。味は保証できませんが」
湯呑みを手に取った。温かかった。一口飲んだ。
苦い。でも後味に、ほんの少しだけ甘みがある。
「蜂蜜、入れたでしょう」
「リラさんがいつも患者さんに出す時、蜂蜜を入れていたので」
覚えていたのか。旅の最初、宿屋で寝込んでいた時の薬湯。苦くて顔をしかめていたルシェに、何も言わず蜂蜜を足したこと。
「おいしい」
「本当ですか」
「本当。及第点」
「先生と同じこと言いますね」
「薬師はみんな及第点が好きなんです」
ルシェが笑った。
目が見えるようになって、初めて見るルシェの笑顔だった。旅の間に少しずつ変わっていった笑い方。穏やかな仮面ではなく、感情がそのまま顔に出ている笑い方。目が潤んでいて、少し鼻が赤くて、格好よくはないけれど、本物の笑顔だった。
星は揺れなかった。
ルシェが笑っても、泣いても、星は揺れなかった。
*
午後になって、全員が集まった。
セレーネ様が来た時、ルシェが「姉上、リラさんの目が見えるようになりました」と報告した声が少し上ずっていた。セレーネ様は「そう」とだけ言って、私の顔をじっと見て、それから小さく息をついた。
「よかった」
セレーネ様にまで心配をかけていたと思うと、ちょっと恐れ多い気がした。
エルヴィンは廊下から入ってくるなり、「おう、見えるようになったか。よかったな」と言って、窓辺の椅子にどかっと座った。三週間廊下で寝ていた人間の台詞とは思えない軽さだった。
「エルヴィンさん、廊下で寝てたって聞きましたよ」
「傭兵は寝場所を選ばねえんだよ」
「部屋もらってたでしょう」
「もらってたけど、ベッドが柔らかすぎて寝れなかった」
嘘だ。でも、言わない。言わないけど、ありがとう、とは思う。
オルグレンは杖をついてゆっくり入ってきた。私の顔を見て、長いことまばたきもせずに見つめていた。
「お祖母様と同じ目をしていますね。星を読む人の目です」
「……ありがとうございます」
オルグレンが頷いた。目の縁が赤かった。
*
その日の夕方、セレーネ様が今後のことを話してくれた。
星盟会議での決議は取り下げられ、ルシェの処分は撤回された。ただし「終星の厄災」の研究は続けるべきだという合意が各国間で成立し、ルシェの体質の本格的な調査が行われることになった。
「ナディアさんが調査の主任を務めることになりました。彼女から、リラさんにも協力の要請が来ています」
「ナディアさんから?」
「あの夜以来、彼女は自分の仮説を根本から見直しています。あなたの観測データと禁忌の星読みの結果を踏まえて、浄化仮説の検証を進めたいと。星読みの技術を持つ人間の協力が不可欠だそうです」
「私に、星読みとして」
「ええ。ステラリス家の名誉回復も、星盟会議で正式に議題に上がっています。あなたの祖父母の報告が正しかったことは、オルグレンの証言とあなたの星読みで証明されましたから」
名誉回復。三十年間、一族にかけられていた汚名が晴れる。
嬉しいはずだった。嬉しいのだけれど、それよりも先に思ったのは、母のことだった。生きている間に聞かせてあげたかった。あなたたちは正しかったんだよ、と。
「それと、もう一つ」
セレーネ様がルシェを見た。
「ルシェ。あなたの処遇について、王宮と交渉しました。城に戻る義務はありません。あなたの体質が星の修復機構である可能性がある以上、閉じ込めておくことは星にとってもよくない。各地を巡って浄化を行う方が、むしろ理にかなっている」
「各地を……巡る」
「旅を続けなさい、ということです。今度は逃げるためではなく」
ルシェが姉を見た。それからエルヴィンを見て、オルグレンを見て、最後に私を見た。
「リラさん」
「うん」
「僕、旅を続けていいそうです」
「聞いてた。隣にいたからね」
「あの……一緒に、来てくれますか」
聞かれるまでもないことだった。でも、聞いてくれたのが嬉しかった。
「薬師は旅が仕事ですから。行き先が決まっていないのも、いつも通りです」
「星読みとしては?」
「……星読みとしても。今度はちゃんと、読んだことを報告しながら」
「僕が聞きます」
「うん。知ってる」
エルヴィンが立ち上がった。
「俺も行くぞ。護衛の契約はまだ切れてねえからな」
「あ、そういえばエルヴィンさん。間道を案内した分のお代、まだもらってないんですけど」
「まだ言ってんのか。ただでいいだろ」
「お友達価格にはしますけど、ただは搾取です」
「あの頃から一歩も譲らねえな、あんた」
ルシェが笑った。セレーネ様が、ほんの少しだけ口の端を上げた。
*
出発の前夜。
会議場の中庭に出た。一人で空を見上げたかった。
夜空は晴れていた。満天の星。ガラスドームの向こうに広がる、果てしない星の海。
星読みの目で見た。目を逸らさずに。
壊れかけていた星域は、まだ完全には治っていない。でも崩壊は止まっている。時間はかかるだろうけれど、ルシェがいれば、少しずつ回復していく。
他にも不安定な星域がある。世界中に。祖父母が警告した問題は、まだ終わっていない。
でも今は、一人じゃない。
「リラさん」
振り返ると、ルシェが立っていた。
「眠れなくて」
「私も」
ルシェが隣に来て、一緒に空を見上げた。
「……きれいですね」
「うん」
「今度は、信用してくれますか? 僕が言っても」
「ふふ。そうだね。浄化する人が星をきれいって言うのは、むしろ信頼できるかも」
「よかった」
しばらく二人で黙って空を見ていた。虫の声と、遠くの水の音と、星の光だけの時間。
「リラさん」
「うん」
「旅が楽しみです」
ルシェの声は穏やかだった。でも旅の最初の頃の、感情を畳んだ穏やかさとは違った。楽しみだと言って、本当に楽しみにしている声だった。
「私も」
明日から、また旅が始まる。今度は逃げるためでも、隠れるためでもなく。星を読んで、薬を作って、壊れかけた空を少しずつ治していく旅。
空を見上げた。もう目を逸らす必要はない。
星は、きれいだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これにて本作は完結です。
もし楽しんでいただけましたら、評価をいただけると嬉しいです。
次回作でも、またお会いできましたら幸いです。




