赤縄さん
大学二年の夏、俺たちは「赤縄さん」に行った。
地元ではそれなりに有名な肝試しスポットだった。
山の中腹にある小さな神社で、正式な名前はもう誰も知らない。地図アプリで見ても、神社の記号すら出てこない。けれど、地元の中高生なら一度は噂を聞く。
赤い縄が、そこらじゅうに結ばれている神社。
だから、赤縄さん。
それだけだった。
祟りがあるとか、首を吊った女が出るとか、昔そこで子どもが神隠しに遭ったとか、話はいくつもあった。けれど、どれも少しずつ内容が違っていた。
俺はそういう話を、あまり信じていなかった。
怖い話は好きだったが、本当に出るとは思っていない。心霊スポットも、結局は暗い場所で想像力が勝手に働くだけだと思っていた。
行こうと言い出したのは、大輔だった。
「動画撮ったら伸びるんじゃね?」
大輔は軽い男だった。何でもスマホで撮る。飯も、事故現場も、誰かの寝顔も、全部「ネタ」と言って撮る。
集まったのは四人。
俺。
大輔。
間宮。
それから高校からの友人の梨沙。
梨沙は乗り気ではなかったが、間宮に「一人だけビビるなよ」と言われて、しぶしぶ来た。
夜十一時過ぎ、俺たちは大輔の車で山道を上った。
街灯は途中でなくなった。
車のライトだけが、細い道とガードレールを白く照らす。窓の外は真っ暗で、たまに木の枝が車体を擦った。
「ここ、ほんとに神社あんの?」
梨沙が後部座席で言った。
「あるある。先輩が行ったって言ってた」
大輔は片手でハンドルを握りながら笑った。
「鳥居の奥に赤い縄がバーってあるらしい」
「バーって何だよ」
間宮が笑う。
俺も笑った。
その時までは、完全に遊びだった。
車を停めたのは、舗装が途切れた少し先だった。
そこからは徒歩になる。
スマホのライトをつけ、獣道のような細い坂を上った。
土は乾いていた。
雨はしばらく降っていない。なのに、山道の途中から、空気が急に湿ったように感じた。
草の匂いではない。
古い蔵の中に入った時みたいな、閉じた匂い。
しばらく歩くと、木の間に鳥居が見えた。
赤く塗られていたのだろうが、今はほとんど色が剥げている。
その鳥居に、赤い縄が結ばれていた。
一本ではない。
何十本も。
細いもの、太いもの、古く黒ずんだもの、新しい血のように鮮やかなもの。
それらが鳥居の柱にぐるぐると巻かれ、根元の方で何重にも結ばれている。
梨沙が小さく言った。
「何これ」
大輔はスマホを構えた。
「おお、雰囲気あるじゃん」
鳥居をくぐった先に、石段があった。
その両側の木にも、赤い縄が結ばれている。
枝。
幹。
根元。
倒れた石灯籠。
壊れた手水鉢。
赤い縄は、何かを飾るためではなく、動かないように縛りつけているように見えた。
神社の拝殿は小さかった。
板壁は黒く、屋根の一部が落ちかけている。正面の扉には、古い御札が何枚も貼られていた。御札の文字はほとんど読めない。
ただ、貼り方が変だった。
普通、御札は外から見えるように貼ると思う。
でもその御札は、文字のある面が内側を向いているものが多かった。
まるで、外から何かを入れないためではなく、中の何かに読ませるために貼られているみたいだった。
「やばいな」
間宮が笑いながら言った。
でも、その声は少し小さかった。
大輔はずっと動画を撮っていた。
「はい、赤縄さん到着。これ、ガチでやばい場所っぽいです」
「やめろよ、そういう喋り方」
梨沙が言った。
「ほんとに不謹慎だって」
「大丈夫だろ。誰も見てねえし」
大輔は拝殿の前まで行った。
扉には、太い赤縄が横に渡されていた。
その縄が、御札の上からぐるぐる巻きにされている。
触ったら駄目だと、俺は思った。
理由はない。
でも、見た瞬間にそう思った。
「大輔、そこはやめとけ」
「何で?」
「何となく」
「出た、何となく」
大輔は笑った。
そして、赤縄に指をかけた。
梨沙が「やめなって」と言った。
大輔はそれを聞かず、縄を軽く引っ張った。
ぎし、と音がした。
縄が鳴ったのではない。
拝殿の奥で、木がきしんだような音だった。
それだけで、周りの虫の声がすっと消えた。
俺たちは全員、黙った。
大輔だけが、引っ込みがつかなくなったように笑った。
「ちょっとだけ切って持って帰ろうぜ。証拠に」
「馬鹿か」
俺は本気で止めた。
けれど、大輔はポケットから小さな折りたたみナイフを出した。
「ほんの端っこだけだって」
ナイフの刃が赤縄に当たった。
縄は簡単には切れなかった。
大輔は何度か刃を動かした。
ぎり。
ぎり。
乾いた繊維ではなく、濡れた髪を切るような音がした。
やがて、縄の一部がぷつんと切れた。
その瞬間、拝殿の中で鈴が鳴った。
ちりん。
小さな音だった。
でも、全員に聞こえた。
賽銭箱も、鈴緒も、そこにはなかった。
それでも確かに、中で鈴が鳴った。
梨沙が泣きそうな声で言った。
「帰ろう」
大輔も、もう笑っていなかった。
切った赤縄の端を手に持ったまま、固まっている。
「捨てろよ、それ」
間宮が言った。
「いや、ここに置いた方がまずくね?」
「じゃあ戻せよ」
「どうやって」
結局、大輔は切れ端をポケットに入れた。
それが一番駄目だと思った。
でも、その時はもう、とにかく早く山を下りたかった。
帰り道、誰も喋らなかった。
車に戻っても、大輔は動画を確認しようとしなかった。
その日はそのまま解散した。
次の日の朝、大輔からグループに写真が送られてきた。
赤い縄の切れ端だった。
台所の流しに置かれている。
大輔のメッセージ。
『これ、昨日より長くなってない?』
最初は冗談だと思った。
でも、写真を見て少し嫌になった。
昨日、大輔が切ったのは十センチあるかないかだった。
写真の縄は、少なくとも三十センチはある。
それも、一本ではない。
途中で二股に分かれていた。
間宮がすぐ返した。
『引っ張ったら伸びただけだろ』
大輔は、
『触ってない』
と送ってきた。
その日の夜、大輔から電話が来た。
声が変だった。
『縄、捨てたんだけどさ』
「うん」
『戻ってる』
「どこに」
『靴の中』
俺は返事に詰まった。
『朝、燃えるゴミに出した。なのに今、靴履こうとしたら中に入ってた』
「見間違いじゃないの」
『違う。長くなってる』
「どれくらい」
『俺の足首に巻けるくらい』
その言い方が嫌だった。
大輔は少し黙ってから言った。
『あと、変な匂いがする』
「どんな」
『土の中みたいな匂い』
電話の向こうで、何かが床を擦る音がした。
ずる。
大輔が息を止めた。
『今、動いた』
「何が」
『縄』
通話はそこで切れた。
翌日、大輔は大学に来た。
普通に見えた。
ただ、右足首に包帯を巻いていた。
「どうしたんだよ」
間宮が聞くと、大輔は笑った。
「靴擦れ」
でも、包帯の隙間から赤い跡が見えた。
縄で強く縛ったような跡だった。
その日の昼、梨沙が俺にだけ言った。
「昨日、夢見た」
「どんな?」
「あの神社」
梨沙は青い顔をしていた。
「拝殿の中にいた。外に出たいのに、扉が開かなくて。御札が全部こっち向いてるの」
俺は何も言えなかった。
「で、扉の隙間から赤い縄が入ってきて、床を這ってた」
「ただの夢だろ」
「うん。そう思いたい」
梨沙は自分の手首を見た。
「でも、朝起きたら、ここが痛かった」
そこには赤い線があった。
細い、縄の跡のような線。
大輔とは違い、梨沙は縄に触っていない。
俺も自分の手首を見た。
何もなかった。
その日の夜、俺はスマホの写真フォルダを見た。
神社で撮った写真は少なかった。俺はほとんど撮っていない。
ただ一枚だけ、鳥居の写真があった。
その写真を見て、体が冷えた。
鳥居に巻かれていた赤縄の中に、一本だけこちらへ伸びているものがある。
写真を撮った時には気づかなかった。
その赤縄は、鳥居から画面の手前へ伸びている。
つまり、俺の方へ。
そして写真の下の端で、切れていた。
そこには何も写っていないはずなのに、見ていると分かった。
その先は、俺の手元に続いている。
俺は写真を削除した。
すぐにゴミ箱からも消した。
けれど、翌朝、スマホのロック画面がその写真になっていた。
設定した覚えはない。
画面の中の赤縄は、昨日より少し長くなっていた。
大輔が大学に来なくなったのは、その二日後だった。
風邪だと本人はメッセージで言った。
だが、電話をしても出ない。
夜になって、間宮と俺で大輔のアパートへ行った。
ドアの前に立つと、中からテレビの音がしていた。
チャイムを押しても返事はない。
ドアノブを回すと、鍵は開いていた。
部屋の中は暗かった。
テレビだけがついている。
大輔は床にいた。
倒れていたわけではない。
部屋の真ん中に座り込んで、右足首を両手で押さえていた。
足首には赤い縄が巻きついていた。
ただの縄ではなかった。
床から生えていた。
畳の隙間から、赤い縄が何本も出て、大輔の足首へ絡んでいる。
切っても切っても出てくるのか、周りにはハサミやカッターが落ちていた。
大輔は俺たちを見ると、泣きそうな顔で言った。
「取れない」
間宮がすぐ近づこうとした。
俺は止めた。
理由はない。
ただ、近づいたら駄目だと思った。
大輔の足首の縄は、ゆっくり動いていた。
締まるのではない。
結び目が増えていた。
一つ。
また一つ。
誰も触っていないのに、縄は自分で結び目を作っていく。
大輔は震えながら言った。
「神社に返す。返すから」
その時、部屋のテレビ画面が乱れた。
砂嵐のような画面に、山の鳥居が映った。
あの赤縄さんの鳥居。
その前に、俺たち四人が立っている。
夜の映像だった。
大輔が撮った動画だとすぐ分かった。
だが、映像の中の俺たちは、誰も動いていない。
鳥居の前に立ったまま、こちらを見ている。
その足元から、赤い縄が何本も伸びている。
縄は画面の手前へ向かっていた。
テレビのこちら側へ。
大輔が叫んだ。
「消せ!」
間宮がリモコンを探す。
俺はテレビの画面から目が離せなかった。
映像の中で、拝殿の扉が少し開いた。
中は暗い。
その暗い隙間から、白い手が出てきた。
手は、赤縄を一本つかんだ。
そして、ゆっくり引いた。
現実の大輔の足が、少し引きずられた。
畳の上を。
ず。
大輔は悲鳴を上げた。
俺と間宮は、ようやく動けた。
大輔の体を押さえ、縄を切ろうとした。
ハサミを入れる。
切れる。
でも、切った先からまた結ばれる。
そのたびに、大輔の足首の赤い跡が深くなっていく。
最終的に、救急車を呼んだ。
救急隊員が来た時には、縄は消えていた。
畳の隙間にも何もない。
大輔の足首には、何重にも縄で締めたような跡だけが残っていた。
医者は自分で縛ったのではないかと言ったらしい。
大輔はそれから入院した。
足の怪我より、精神的に参っていた。
俺たちは神社に戻ることにした。
返せるものなら返すしかない。
大輔が切った赤縄は、病院のベッドの下から見つかった。
看護師が掃除の時に拾ったという。
大輔はそれを見た瞬間、吐いた。
赤縄は、もう一メートル以上あった。
俺と間宮と梨沙で、それを持って赤縄さんへ行った。
昼間に行った。
夜は無理だった。
山道は明るくても嫌な場所だった。
鳥居に着くと、俺たちは立ち止まった。
赤縄が増えていた。
最初に来た時より、明らかに多い。
鳥居にも、木にも、石灯籠にも、手水鉢にも、赤い縄が何重にも結ばれている。
そして、その中に新しい縄が四本あった。
色が新しい。
まだ濡れているような赤。
一本は太く、大輔の足首くらいの高さに結ばれていた。
残り三本は、俺たちの目の高さに垂れている。
その先に、小さな紙が結ばれていた。
名前が書いてある。
間宮。
梨沙。
俺の名前。
誰が書いたのか分からない。
でも、字は俺たち自身の字だった。
梨沙が泣いた。
間宮も何も言わなかった。
俺たちは大輔の赤縄を拝殿の前に置いた。
本当は結び直すべきだったのかもしれない。
でも、どこに結べばいいか分からなかった。
触るのも嫌だった。
置くだけ置いて帰ろうとした。
その時、拝殿の中で鈴が鳴った。
ちりん。
前に聞いた音と同じ。
梨沙が小さく悲鳴を上げた。
拝殿の扉は閉まっている。
御札は内側を向いたまま。
その御札の一枚が、音もなく剥がれた。
ひらりと落ちる。
扉の隙間から、中の暗闇が少しだけ見えた。
そこに、赤い縄が束になっていた。
何十本、何百本。
暗闇の奥から、こちらへ伸びている。
その中に、肌色のものが見えた。
腕だった。
人の腕。
赤縄に何重にも巻かれて、奥へ引かれている。
その腕が、ほんの少し動いた。
俺たちは走って逃げた。
それから、赤縄さんには行っていない。
大輔は退院したが、大学には戻らなかった。
地元の実家へ帰ったと聞いた。
間宮とは疎遠になった。
梨沙は、あの日から赤いものを身につけなくなった。
俺も、赤い紐やコードを見るのが苦手になった。
ただ、それだけならよかった。
問題は、今も続いていることだ。
最初は、靴紐だった。
朝起きると、履いていないスニーカーの靴紐が、やたら固く結ばれている。
次は、イヤホンのコード。
引き出しに入れておいたはずなのに、机の上で複雑に絡まっていた。
その次は、パーカーの紐。
首元で、小さな結び目が三つできていた。
どれも赤くない。
なのに、ほどこうとすると、指先に赤い繊維がつく。
洗っても落ちない。
爪の間に、細い赤い糸が残る。
昨日、風呂に入った時、排水口に赤い縄が絡まっていた。
ほんの数センチ。
でも、見覚えがあった。
大輔が切った縄と同じ色。
触らずにシャワーで流そうとしたが、流れなかった。
水の中で、縄は少しだけ動いた。
流れるのではなく、排水口の奥から出てこようとしていた。
俺は風呂場を出た。
その夜、夢を見た。
赤縄さんの拝殿の中にいた。
外から見た時より、ずっと広かった。
暗い空間の中に、赤い縄が天井から何本も垂れている。
その縄の先に、人の足首や手首が結ばれている。
顔は見えない。
みんな、暗闇の中で静かに揺れていた。
その奥から、鈴の音がした。
ちりん。
目が覚めると、首が痛かった。
鏡を見ると、喉の下に赤い線が一本あった。
縄で軽く触れたような跡だった。
今も、その跡は消えていない。
最近、部屋の中で鈴の音がする。
ちりん。
とても小さい音。
最初は隣の部屋かと思った。
でも、音はいつも自分のすぐ近くでする。
ポケットの中。
枕元。
風呂場。
玄関。
そして今、机の下から鳴った。
ちりん。
見たくない。
でも、見なくても分かっている。
赤い縄がある。
さっきから足首に、少しだけ何かが触れている。
冷たくはない。
むしろ、人肌みたいに温かい。
ゆっくりと、結び目ができていく感触がする。
一つ。
また一つ。
ほどこうとすると、きっと余計に締まる。
あの時、大輔がそうだった。
だから俺は、今はまだ動かずにいる。
ただ、鈴の音だけが近づいている。
ちりん。
ちりん。
もう、神社は遠くない。
赤縄は、最初から切れていなかったのだと思う。
俺たちが持って帰ったのは、縄の端ではなく、向こうから伸びていたものの先だった。
そして今も、ゆっくり手繰られている。




