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9/13

赤縄さん

 大学二年の夏、俺たちは「赤縄さん」に行った。


 地元ではそれなりに有名な肝試しスポットだった。


 山の中腹にある小さな神社で、正式な名前はもう誰も知らない。地図アプリで見ても、神社の記号すら出てこない。けれど、地元の中高生なら一度は噂を聞く。


 赤い縄が、そこらじゅうに結ばれている神社。


 だから、赤縄さん。


 それだけだった。


 祟りがあるとか、首を吊った女が出るとか、昔そこで子どもが神隠しに遭ったとか、話はいくつもあった。けれど、どれも少しずつ内容が違っていた。


 俺はそういう話を、あまり信じていなかった。


 怖い話は好きだったが、本当に出るとは思っていない。心霊スポットも、結局は暗い場所で想像力が勝手に働くだけだと思っていた。


 行こうと言い出したのは、大輔だった。


「動画撮ったら伸びるんじゃね?」


 大輔は軽い男だった。何でもスマホで撮る。飯も、事故現場も、誰かの寝顔も、全部「ネタ」と言って撮る。


 集まったのは四人。


 俺。

 大輔。

 間宮。

 それから高校からの友人の梨沙。


 梨沙は乗り気ではなかったが、間宮に「一人だけビビるなよ」と言われて、しぶしぶ来た。


 夜十一時過ぎ、俺たちは大輔の車で山道を上った。


 街灯は途中でなくなった。


 車のライトだけが、細い道とガードレールを白く照らす。窓の外は真っ暗で、たまに木の枝が車体を擦った。


「ここ、ほんとに神社あんの?」


 梨沙が後部座席で言った。


「あるある。先輩が行ったって言ってた」


 大輔は片手でハンドルを握りながら笑った。


「鳥居の奥に赤い縄がバーってあるらしい」


「バーって何だよ」


 間宮が笑う。


 俺も笑った。


 その時までは、完全に遊びだった。


 車を停めたのは、舗装が途切れた少し先だった。


 そこからは徒歩になる。


 スマホのライトをつけ、獣道のような細い坂を上った。


 土は乾いていた。


 雨はしばらく降っていない。なのに、山道の途中から、空気が急に湿ったように感じた。


 草の匂いではない。


 古い蔵の中に入った時みたいな、閉じた匂い。


 しばらく歩くと、木の間に鳥居が見えた。


 赤く塗られていたのだろうが、今はほとんど色が剥げている。


 その鳥居に、赤い縄が結ばれていた。


 一本ではない。


 何十本も。


 細いもの、太いもの、古く黒ずんだもの、新しい血のように鮮やかなもの。

 それらが鳥居の柱にぐるぐると巻かれ、根元の方で何重にも結ばれている。


 梨沙が小さく言った。


「何これ」


 大輔はスマホを構えた。


「おお、雰囲気あるじゃん」


 鳥居をくぐった先に、石段があった。


 その両側の木にも、赤い縄が結ばれている。


 枝。

 幹。

 根元。

 倒れた石灯籠。

 壊れた手水鉢。


 赤い縄は、何かを飾るためではなく、動かないように縛りつけているように見えた。


 神社の拝殿は小さかった。


 板壁は黒く、屋根の一部が落ちかけている。正面の扉には、古い御札が何枚も貼られていた。御札の文字はほとんど読めない。


 ただ、貼り方が変だった。


 普通、御札は外から見えるように貼ると思う。


 でもその御札は、文字のある面が内側を向いているものが多かった。


 まるで、外から何かを入れないためではなく、中の何かに読ませるために貼られているみたいだった。


「やばいな」


 間宮が笑いながら言った。


 でも、その声は少し小さかった。


 大輔はずっと動画を撮っていた。


「はい、赤縄さん到着。これ、ガチでやばい場所っぽいです」


「やめろよ、そういう喋り方」


 梨沙が言った。


「ほんとに不謹慎だって」


「大丈夫だろ。誰も見てねえし」


 大輔は拝殿の前まで行った。


 扉には、太い赤縄が横に渡されていた。


 その縄が、御札の上からぐるぐる巻きにされている。


 触ったら駄目だと、俺は思った。


 理由はない。


 でも、見た瞬間にそう思った。


「大輔、そこはやめとけ」


「何で?」


「何となく」


「出た、何となく」


 大輔は笑った。


 そして、赤縄に指をかけた。


 梨沙が「やめなって」と言った。


 大輔はそれを聞かず、縄を軽く引っ張った。


 ぎし、と音がした。


 縄が鳴ったのではない。


 拝殿の奥で、木がきしんだような音だった。


 それだけで、周りの虫の声がすっと消えた。


 俺たちは全員、黙った。


 大輔だけが、引っ込みがつかなくなったように笑った。


「ちょっとだけ切って持って帰ろうぜ。証拠に」


「馬鹿か」


 俺は本気で止めた。


 けれど、大輔はポケットから小さな折りたたみナイフを出した。


「ほんの端っこだけだって」


 ナイフの刃が赤縄に当たった。


 縄は簡単には切れなかった。


 大輔は何度か刃を動かした。


 ぎり。


 ぎり。


 乾いた繊維ではなく、濡れた髪を切るような音がした。


 やがて、縄の一部がぷつんと切れた。


 その瞬間、拝殿の中で鈴が鳴った。


 ちりん。


 小さな音だった。


 でも、全員に聞こえた。


 賽銭箱も、鈴緒も、そこにはなかった。


 それでも確かに、中で鈴が鳴った。


 梨沙が泣きそうな声で言った。


「帰ろう」


 大輔も、もう笑っていなかった。


 切った赤縄の端を手に持ったまま、固まっている。


「捨てろよ、それ」


 間宮が言った。


「いや、ここに置いた方がまずくね?」


「じゃあ戻せよ」


「どうやって」


 結局、大輔は切れ端をポケットに入れた。


 それが一番駄目だと思った。


 でも、その時はもう、とにかく早く山を下りたかった。


 帰り道、誰も喋らなかった。


 車に戻っても、大輔は動画を確認しようとしなかった。


 その日はそのまま解散した。


 次の日の朝、大輔からグループに写真が送られてきた。


 赤い縄の切れ端だった。


 台所の流しに置かれている。


 大輔のメッセージ。


『これ、昨日より長くなってない?』


 最初は冗談だと思った。


 でも、写真を見て少し嫌になった。


 昨日、大輔が切ったのは十センチあるかないかだった。


 写真の縄は、少なくとも三十センチはある。


 それも、一本ではない。


 途中で二股に分かれていた。


 間宮がすぐ返した。


『引っ張ったら伸びただけだろ』


 大輔は、


『触ってない』


 と送ってきた。


 その日の夜、大輔から電話が来た。


 声が変だった。


『縄、捨てたんだけどさ』


「うん」


『戻ってる』


「どこに」


『靴の中』


 俺は返事に詰まった。


『朝、燃えるゴミに出した。なのに今、靴履こうとしたら中に入ってた』


「見間違いじゃないの」


『違う。長くなってる』


「どれくらい」


『俺の足首に巻けるくらい』


 その言い方が嫌だった。


 大輔は少し黙ってから言った。


『あと、変な匂いがする』


「どんな」


『土の中みたいな匂い』


 電話の向こうで、何かが床を擦る音がした。


 ずる。


 大輔が息を止めた。


『今、動いた』


「何が」


『縄』


 通話はそこで切れた。


 翌日、大輔は大学に来た。


 普通に見えた。


 ただ、右足首に包帯を巻いていた。


「どうしたんだよ」


 間宮が聞くと、大輔は笑った。


「靴擦れ」


 でも、包帯の隙間から赤い跡が見えた。


 縄で強く縛ったような跡だった。


 その日の昼、梨沙が俺にだけ言った。


「昨日、夢見た」


「どんな?」


「あの神社」


 梨沙は青い顔をしていた。


「拝殿の中にいた。外に出たいのに、扉が開かなくて。御札が全部こっち向いてるの」


 俺は何も言えなかった。


「で、扉の隙間から赤い縄が入ってきて、床を這ってた」


「ただの夢だろ」


「うん。そう思いたい」


 梨沙は自分の手首を見た。


「でも、朝起きたら、ここが痛かった」


 そこには赤い線があった。


 細い、縄の跡のような線。


 大輔とは違い、梨沙は縄に触っていない。


 俺も自分の手首を見た。


 何もなかった。


 その日の夜、俺はスマホの写真フォルダを見た。


 神社で撮った写真は少なかった。俺はほとんど撮っていない。


 ただ一枚だけ、鳥居の写真があった。


 その写真を見て、体が冷えた。


 鳥居に巻かれていた赤縄の中に、一本だけこちらへ伸びているものがある。


 写真を撮った時には気づかなかった。


 その赤縄は、鳥居から画面の手前へ伸びている。


 つまり、俺の方へ。


 そして写真の下の端で、切れていた。


 そこには何も写っていないはずなのに、見ていると分かった。


 その先は、俺の手元に続いている。


 俺は写真を削除した。


 すぐにゴミ箱からも消した。


 けれど、翌朝、スマホのロック画面がその写真になっていた。


 設定した覚えはない。


 画面の中の赤縄は、昨日より少し長くなっていた。


 大輔が大学に来なくなったのは、その二日後だった。


 風邪だと本人はメッセージで言った。


 だが、電話をしても出ない。


 夜になって、間宮と俺で大輔のアパートへ行った。


 ドアの前に立つと、中からテレビの音がしていた。


 チャイムを押しても返事はない。


 ドアノブを回すと、鍵は開いていた。


 部屋の中は暗かった。


 テレビだけがついている。


 大輔は床にいた。


 倒れていたわけではない。


 部屋の真ん中に座り込んで、右足首を両手で押さえていた。


 足首には赤い縄が巻きついていた。


 ただの縄ではなかった。


 床から生えていた。


 畳の隙間から、赤い縄が何本も出て、大輔の足首へ絡んでいる。

 切っても切っても出てくるのか、周りにはハサミやカッターが落ちていた。


 大輔は俺たちを見ると、泣きそうな顔で言った。


「取れない」


 間宮がすぐ近づこうとした。


 俺は止めた。


 理由はない。


 ただ、近づいたら駄目だと思った。


 大輔の足首の縄は、ゆっくり動いていた。


 締まるのではない。


 結び目が増えていた。


 一つ。


 また一つ。


 誰も触っていないのに、縄は自分で結び目を作っていく。


 大輔は震えながら言った。


「神社に返す。返すから」


 その時、部屋のテレビ画面が乱れた。


 砂嵐のような画面に、山の鳥居が映った。


 あの赤縄さんの鳥居。


 その前に、俺たち四人が立っている。


 夜の映像だった。


 大輔が撮った動画だとすぐ分かった。


 だが、映像の中の俺たちは、誰も動いていない。


 鳥居の前に立ったまま、こちらを見ている。


 その足元から、赤い縄が何本も伸びている。


 縄は画面の手前へ向かっていた。


 テレビのこちら側へ。


 大輔が叫んだ。


「消せ!」


 間宮がリモコンを探す。


 俺はテレビの画面から目が離せなかった。


 映像の中で、拝殿の扉が少し開いた。


 中は暗い。


 その暗い隙間から、白い手が出てきた。


 手は、赤縄を一本つかんだ。


 そして、ゆっくり引いた。


 現実の大輔の足が、少し引きずられた。


 畳の上を。


 ず。


 大輔は悲鳴を上げた。


 俺と間宮は、ようやく動けた。


 大輔の体を押さえ、縄を切ろうとした。


 ハサミを入れる。


 切れる。


 でも、切った先からまた結ばれる。


 そのたびに、大輔の足首の赤い跡が深くなっていく。


 最終的に、救急車を呼んだ。


 救急隊員が来た時には、縄は消えていた。


 畳の隙間にも何もない。


 大輔の足首には、何重にも縄で締めたような跡だけが残っていた。


 医者は自分で縛ったのではないかと言ったらしい。


 大輔はそれから入院した。


 足の怪我より、精神的に参っていた。


 俺たちは神社に戻ることにした。


 返せるものなら返すしかない。


 大輔が切った赤縄は、病院のベッドの下から見つかった。


 看護師が掃除の時に拾ったという。


 大輔はそれを見た瞬間、吐いた。


 赤縄は、もう一メートル以上あった。


 俺と間宮と梨沙で、それを持って赤縄さんへ行った。


 昼間に行った。


 夜は無理だった。


 山道は明るくても嫌な場所だった。


 鳥居に着くと、俺たちは立ち止まった。


 赤縄が増えていた。


 最初に来た時より、明らかに多い。


 鳥居にも、木にも、石灯籠にも、手水鉢にも、赤い縄が何重にも結ばれている。


 そして、その中に新しい縄が四本あった。


 色が新しい。


 まだ濡れているような赤。


 一本は太く、大輔の足首くらいの高さに結ばれていた。


 残り三本は、俺たちの目の高さに垂れている。


 その先に、小さな紙が結ばれていた。


 名前が書いてある。


 間宮。

 梨沙。

 俺の名前。


 誰が書いたのか分からない。


 でも、字は俺たち自身の字だった。


 梨沙が泣いた。


 間宮も何も言わなかった。


 俺たちは大輔の赤縄を拝殿の前に置いた。


 本当は結び直すべきだったのかもしれない。


 でも、どこに結べばいいか分からなかった。


 触るのも嫌だった。


 置くだけ置いて帰ろうとした。


 その時、拝殿の中で鈴が鳴った。


 ちりん。


 前に聞いた音と同じ。


 梨沙が小さく悲鳴を上げた。


 拝殿の扉は閉まっている。


 御札は内側を向いたまま。


 その御札の一枚が、音もなく剥がれた。


 ひらりと落ちる。


 扉の隙間から、中の暗闇が少しだけ見えた。


 そこに、赤い縄が束になっていた。


 何十本、何百本。


 暗闇の奥から、こちらへ伸びている。


 その中に、肌色のものが見えた。


 腕だった。


 人の腕。


 赤縄に何重にも巻かれて、奥へ引かれている。


 その腕が、ほんの少し動いた。


 俺たちは走って逃げた。


 それから、赤縄さんには行っていない。


 大輔は退院したが、大学には戻らなかった。


 地元の実家へ帰ったと聞いた。


 間宮とは疎遠になった。


 梨沙は、あの日から赤いものを身につけなくなった。


 俺も、赤い紐やコードを見るのが苦手になった。


 ただ、それだけならよかった。


 問題は、今も続いていることだ。


 最初は、靴紐だった。


 朝起きると、履いていないスニーカーの靴紐が、やたら固く結ばれている。


 次は、イヤホンのコード。


 引き出しに入れておいたはずなのに、机の上で複雑に絡まっていた。


 その次は、パーカーの紐。


 首元で、小さな結び目が三つできていた。


 どれも赤くない。


 なのに、ほどこうとすると、指先に赤い繊維がつく。


 洗っても落ちない。


 爪の間に、細い赤い糸が残る。


 昨日、風呂に入った時、排水口に赤い縄が絡まっていた。


 ほんの数センチ。


 でも、見覚えがあった。


 大輔が切った縄と同じ色。


 触らずにシャワーで流そうとしたが、流れなかった。


 水の中で、縄は少しだけ動いた。


 流れるのではなく、排水口の奥から出てこようとしていた。


 俺は風呂場を出た。


 その夜、夢を見た。


 赤縄さんの拝殿の中にいた。


 外から見た時より、ずっと広かった。


 暗い空間の中に、赤い縄が天井から何本も垂れている。


 その縄の先に、人の足首や手首が結ばれている。


 顔は見えない。


 みんな、暗闇の中で静かに揺れていた。


 その奥から、鈴の音がした。


 ちりん。


 目が覚めると、首が痛かった。


 鏡を見ると、喉の下に赤い線が一本あった。


 縄で軽く触れたような跡だった。


 今も、その跡は消えていない。


 最近、部屋の中で鈴の音がする。


 ちりん。


 とても小さい音。


 最初は隣の部屋かと思った。


 でも、音はいつも自分のすぐ近くでする。


 ポケットの中。

 枕元。

 風呂場。

 玄関。


 そして今、机の下から鳴った。


 ちりん。


 見たくない。


 でも、見なくても分かっている。


 赤い縄がある。


 さっきから足首に、少しだけ何かが触れている。


 冷たくはない。


 むしろ、人肌みたいに温かい。


 ゆっくりと、結び目ができていく感触がする。


 一つ。


 また一つ。


 ほどこうとすると、きっと余計に締まる。


 あの時、大輔がそうだった。


 だから俺は、今はまだ動かずにいる。


 ただ、鈴の音だけが近づいている。


 ちりん。


 ちりん。


 もう、神社は遠くない。


 赤縄は、最初から切れていなかったのだと思う。


 俺たちが持って帰ったのは、縄の端ではなく、向こうから伸びていたものの先だった。


 そして今も、ゆっくり手繰られている。

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