表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/13

敷きっぱなし

 その部屋で最初に気になったのは、押し入れの匂いだった。


 築四十年の木造アパートだった。


 駅から遠い代わりに家賃が安い。風呂とトイレは別。六畳の和室に、小さな台所。壁は少し黄ばんでいたが、畳は張り替えたばかりで青い匂いがした。


 不動産屋は「古いですけど、きれいに使われてますよ」と言った。


 たしかに、部屋は空だった。


 前の住人の荷物らしいものはない。

 カーテンもない。

 照明もない。

 ただ、押し入れだけが妙に重い匂いを残していた。


 畳でも、湿気でもない。


 人が長く寝ていた布団の匂い。


 布団を干さずに何日も敷きっぱなしにした時の、体温が抜けきらないような匂いだった。


「押し入れ、少し匂いますね」


 俺が言うと、不動産屋は襖を開けて中を見た。


「木が古いからですかね。清掃は入ってますよ」


 そう言って、すぐ閉めた。


 俺はそれ以上、何も言わなかった。


 その頃は仕事を辞めたばかりで、金がなかった。文句を言える立場でもない。

 敷金礼金なし。初期費用も安い。

 それだけで十分だった。


 引っ越しの日、荷物は段ボール五箱と布団一組だけだった。


 ベッドを置く金も場所もなかったので、実家から持ってきた敷布団を畳に敷いて寝ることにした。


 夜、コンビニ弁当を食べ、風呂に入り、布団を敷いた。


 部屋は静かだった。


 隣の生活音はほとんど聞こえない。上の階もない。外を走る車の音だけが、たまに低く響いた。


 眠りにつく前、押し入れの方から、かすかに音がした。


 ず。


 布がこすれるような音。


 俺は目を開けた。


 暗い部屋の中で、押し入れの襖が白く浮いている。


 閉めたはずだった。


 少しだけ、開いていた。


 幅にして、指二本分くらい。


 引っ越しの時に閉め方が甘かったのだろうと思い、俺は起き上がって襖を閉めた。


 中から、あの匂いがした。


 古い布団の匂い。


 その時は、それだけだった。


 翌朝、目が覚めると、布団が少しずれていた。


 寝返りを打っただけだと思った。


 でも、布団は俺の体ごと、押し入れの方へ三十センチほど動いていた。


 枕も、掛け布団も、敷布団も、そのままの形でずれている。


 まるで、誰かが布団の端を持って、そっと引っ張ったようだった。


 畳の上には、布団を引きずった跡が細く残っていた。


 少し気持ち悪かったが、引っ越し初日で疲れていたのだろうと思った。


 その日は役所へ行き、住所変更を済ませ、スーパーで米と味噌と安い鍋を買った。


 帰ってきた時、部屋に入ってすぐ違和感があった。


 押し入れの襖が開いていた。


 朝、確かに閉めた。


 鍵があるわけではないので、風で開いたのかもしれない。


 そう思って近づいた。


 中には、何もないはずだった。


 でも、上段に布団があった。


 古い掛け布団だった。


 茶色っぽい花柄のカバーがかけられていて、きっちり四つ折りにされている。

 俺のものではない。


 俺はしばらくそれを見ていた。


 前の住人の残置物だろうか。


 不動産屋は部屋は空だと言っていた。清掃も入ったと言っていた。初日に押し入れを確認した時も、そんなものはなかったはずだ。


 それでも、布団はそこにあった。


 触りたくなかった。


 けれどそのままにしておく方が嫌で、俺はゴミ袋を二枚重ねて手にはめ、その布団を引っ張り出した。


 重かった。


 掛け布団にしては妙に重い。


 中に湿気を含んでいるような、ぐったりした重さだった。


 床に下ろすと、ふわっと匂いが立った。


 老人の寝室のような匂い。


 汗。

 防虫剤。

 古い髪。

 それから、ほんの少しだけ甘い線香の匂い。


 布団の端に、白い布のタグが縫いつけられていた。


 そこに、黒い糸で名前が書いてあった。


 上田。


 知らない名前だった。


 俺はすぐに不動産屋へ電話した。


「押し入れに布団が残ってるんですけど」


『布団ですか?』


「はい。古いやつです。入居の時にはなかったと思うんですけど」


『そんなはずはないんですが……前の清掃記録では残置物なしになってますね』


「捨てていいですか」


『もちろんです。すみません、お手数ですが粗大ごみで……』


 そこまで聞いて、俺は電話を切りたくなった。


 自分で処分しろということらしい。


 仕方なく、布団を部屋の隅に置いた。


 粗大ごみの回収日は一週間後だった。


 その夜、俺は古い布団からできるだけ離れて、自分の布団を敷いた。


 押し入れの襖は、ガムテープで止めた。


 古い布団は、ゴミ袋に包んで紐で縛った。


 これで大丈夫だと思った。


 午前三時頃、目が覚めた。


 部屋が暗い。


 何か音がする。


 すう。


 すう。


 寝息だった。


 俺の寝息ではない。


 すう。


 すう。


 部屋の隅。


 ゴミ袋に包んだ古い布団の方から聞こえた。


 俺は布団の中で目だけを動かした。


 暗くてよく見えない。


 それでも、黒い袋の輪郭が少し動いているのが分かった。


 膨らんで、しぼむ。


 膨らんで、しぼむ。


 まるで、中で誰かが息をしているみたいだった。


 俺は朝まで動けなかった。


 明るくなってから見ると、ゴミ袋は破れていなかった。


 縛った紐もそのまま。


 中の布団も、ただの古い布団に見えた。


 寝息なんて聞こえない。


 それでも俺はすぐにその布団を外へ出した。


 アパートの裏にあるごみ置き場ではなく、いったん玄関の外に出した。

 部屋の中に置いておきたくなかった。


 その日は仕事の面接があった。


 夕方に帰ってくると、玄関前に置いたはずの布団がなかった。


 誰かが持っていったのかと思った。


 粗大ごみのシールも貼っていない。そんなものを持っていく人間がいるのかとも思ったが、なくなったならそれでいい。


 そう思いながら部屋に入った。


 押し入れの襖が開いていた。


 ガムテープは剥がれて、畳の上に落ちている。


 上段に、古い布団が入っていた。


 きっちり四つ折りにされて。


 タグの名前も見えた。


 上田。


 俺はその場でしばらく立っていた。


 怖いというより、頭が追いつかなかった。


 玄関の外に出した。

 消えた。

 そして押し入れに戻っている。


 考えても仕方がなかった。


 俺はその日から、押し入れを開けないことにした。


 襖もテープで止めなかった。


 布団がそこにあるなら、そこにあればいい。


 触らなければいい。


 そう思った。


 何日かは、それで何も起こらなかった。


 ただ、部屋の匂いが少しずつ強くなった。


 寝起きの布団のような匂いが、押し入れから部屋へ染み出してくる。


 換気扇を回しても消えない。


 窓を開けても、夜になると戻る。


 俺の布団にも、その匂いが移った。


 枕カバーを洗っても、掛け布団を干しても、眠る時にはどこかから古い髪の匂いがした。


 ある朝、布団を畳もうとして、手が止まった。


 俺の敷布団の横に、もう一人分のくぼみがあった。


 畳の上ではない。


 俺の布団の中。


 ちょうど、誰かが俺の隣で横向きに寝ていたような形に、掛け布団が沈んでいた。


 俺は一人で寝ていた。


 そのはずだった。


 くぼみに手を置くと、温かかった。


 人肌より少し低いくらいの温度。


 寝起きの布団の温かさ。


 そこだけ、確かに誰かがいた後だった。


 俺はその日、布団を捨てた。


 実家から持ってきた自分の布団だ。


 粗大ごみに出す余裕なんてなかったから、ハサミで切って、何枚ものごみ袋に分けた。


 中綿を切る時、何度か吐きそうになった。


 布団の中から、長い白髪が何本も出てきた。


 俺の布団なのに。


 実家から持ってきて、まだ一週間も経っていない布団なのに。


 俺はその夜、床に寝た。


 寝袋を買う金もなかったので、服を着込んで畳に横になった。


 寒かった。


 でも、布団よりはましだと思った。


 深夜、押し入れの方から音がした。


 ず。


 ず。


 何かを引きずる音。


 目を開けると、押し入れの襖がゆっくり開いていた。


 中から、古い布団が出てきていた。


 誰かが押しているわけではない。


 四つ折りにされた布団が、畳の上を少しずつ滑ってくる。


 ず。


 ず。


 音は小さいのに、部屋全体に響いた。


 俺は起き上がれなかった。


 体が動かない。


 金縛りというより、寝起きの体が自分のものではないみたいだった。


 古い布団は、俺の足元まで来ると、そこで止まった。


 ゆっくり開いた。


 一枚。

 二枚。

 三枚。


 布団が、畳の上に広がっていく。


 その中央に、人の形のくぼみがあった。


 最初から、誰かが寝ていたように。


 くぼみの中には誰もいない。


 でも、そこだけ布団が沈んでいる。


 それを見ているうちに、俺は気づいた。


 くぼみの頭の位置が、こちらを向いている。


 顔のある場所が、俺を見ている。


 目なんてない。


 鼻も口もない。


 ただ布団が沈んでいるだけだ。


 それでも、そのくぼみは俺を見ていた。


 朝になると、古い布団は押し入れに戻っていた。


 きっちり四つ折りにされて。


 俺はその日のうちに、不動産屋へ行った。


 部屋を出たいと言った。


 担当者は困った顔をした。


「まだ入居して十日ですよね」


「事情があって」


「違約金がかかりますけど」


「払います」


「何か不具合でも?」


 俺は迷った。


 布団が戻る。

 押し入れから出てくる。

 人のくぼみがある。


 そんなことを言っても仕方がない。


 代わりに、俺は聞いた。


「あの部屋、前の住人はどうしたんですか」


 担当者はすぐに答えなかった。


 パソコンの画面を見て、何かを確認するふりをした。


「普通に退去されてますね」


「普通に?」


「はい」


「上田さんって人ですか」


 担当者の顔が、ほんの少し変わった。


「どこでその名前を?」


「押し入れに、名前のついた布団がありました」


 担当者はしばらく黙っていた。


 それから、声を落とした。


「上田さんは、前の前の入居者です」


「前の前?」


「はい」


「じゃあ、前の入居者は?」


「短期で退去されています」


「どうして」


「そこまでは」


「布団のこと、知ってるんですか」


 担当者は答えなかった。


 その沈黙だけで十分だった。


 俺はその日の夜、部屋に戻らなかった。


 カプセルホテルに泊まった。


 翌朝、アパートへ荷物を取りに行くと、部屋の中は静かだった。


 押し入れは閉まっている。


 段ボール五箱だけを急いでまとめた。


 最後に、押し入れを見た。


 開けたくなかった。


 でも、開けずに出るのも嫌だった。


 俺は襖に手をかけた。


 ゆっくり開ける。


 上段に古い布団があった。


 四つ折りではなかった。


 敷かれていた。


 押し入れの狭い上段に、無理やり人が寝られるように広げてあった。


 その上に、誰かが寝ていた。


 はっきり見えたわけではない。


 顔も、手も、足も見えない。


 ただ、布団の上に人の重みがあった。


 胸のあたりが、ゆっくり上下している。


 すう。


 すう。


 寝息がした。


 俺は声を出さなかった。


 襖を閉めようとした。


 その時、布団の中から白い髪が一本、畳の縁へ垂れた。


 それだけだった。


 俺は襖を閉め、荷物を持って部屋を出た。


 そのアパートには二度と戻らなかった。


 違約金も払った。


 敷金は返ってこなかった。


 それでもよかった。


 今は別の部屋に住んでいる。


 フローリングのワンルームで、押し入れはない。


 クローゼットだけだ。


 ベッドも買った。


 布団では寝ていない。


 あれから一年近く、何も起きていなかった。


 だから、もう大丈夫だと思っていた。


 先週、実家から段ボールが届いた。


 母が冬物の服を送ってくれたのだ。


 開けると、セーターや上着の下に、見覚えのない布が入っていた。


 茶色っぽい花柄の布。


 古い掛け布団のカバーと同じ柄だった。


 俺はすぐに段ボールを閉じた。


 母に電話をした。


「段ボールに変な布入れた?」


『布?』


「花柄の古いやつ」


『入れてないよ。服だけ』


「本当に?」


『何それ、気持ち悪いね。捨てなさいよ』


 捨てようと思った。


 でも、段ボールをもう一度開けた時、花柄の布はなかった。


 代わりに、セーターの上に白い髪が一本落ちていた。


 長い髪だった。


 俺はそれをティッシュに包んで捨てた。


 その夜から、ベッドで眠ると、朝方だけ布団の端が少し沈むようになった。


 誰かが腰をかけるほどではない。


 誰かが寝るほどでもない。


 ほんの少し。


 人が指先で布団を押したくらいの沈み方。


 でも、そこは必ず温かい。


 今朝、目が覚めると、ベッドの横の床に、細い跡があった。


 布団を引きずったような跡。


 フローリングの上に、薄い埃が一本、まっすぐ伸びていた。


 その先は、クローゼットの前で止まっている。


 俺の部屋には押し入れはない。


 クローゼットの中にも、布団なんて入っていない。


 そう分かっている。


 でも、今はまだ開けられない。


 扉の隙間から、あの匂いがする。


 長く敷きっぱなしにした布団の匂い。


 人が寝ていた場所だけが、いつまでも冷めない匂い。


 さっきから、中で何かが寝返りを打っている。


 ず。


 ず。


 布がこすれる音がする。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ