敷きっぱなし
その部屋で最初に気になったのは、押し入れの匂いだった。
築四十年の木造アパートだった。
駅から遠い代わりに家賃が安い。風呂とトイレは別。六畳の和室に、小さな台所。壁は少し黄ばんでいたが、畳は張り替えたばかりで青い匂いがした。
不動産屋は「古いですけど、きれいに使われてますよ」と言った。
たしかに、部屋は空だった。
前の住人の荷物らしいものはない。
カーテンもない。
照明もない。
ただ、押し入れだけが妙に重い匂いを残していた。
畳でも、湿気でもない。
人が長く寝ていた布団の匂い。
布団を干さずに何日も敷きっぱなしにした時の、体温が抜けきらないような匂いだった。
「押し入れ、少し匂いますね」
俺が言うと、不動産屋は襖を開けて中を見た。
「木が古いからですかね。清掃は入ってますよ」
そう言って、すぐ閉めた。
俺はそれ以上、何も言わなかった。
その頃は仕事を辞めたばかりで、金がなかった。文句を言える立場でもない。
敷金礼金なし。初期費用も安い。
それだけで十分だった。
引っ越しの日、荷物は段ボール五箱と布団一組だけだった。
ベッドを置く金も場所もなかったので、実家から持ってきた敷布団を畳に敷いて寝ることにした。
夜、コンビニ弁当を食べ、風呂に入り、布団を敷いた。
部屋は静かだった。
隣の生活音はほとんど聞こえない。上の階もない。外を走る車の音だけが、たまに低く響いた。
眠りにつく前、押し入れの方から、かすかに音がした。
ず。
布がこすれるような音。
俺は目を開けた。
暗い部屋の中で、押し入れの襖が白く浮いている。
閉めたはずだった。
少しだけ、開いていた。
幅にして、指二本分くらい。
引っ越しの時に閉め方が甘かったのだろうと思い、俺は起き上がって襖を閉めた。
中から、あの匂いがした。
古い布団の匂い。
その時は、それだけだった。
翌朝、目が覚めると、布団が少しずれていた。
寝返りを打っただけだと思った。
でも、布団は俺の体ごと、押し入れの方へ三十センチほど動いていた。
枕も、掛け布団も、敷布団も、そのままの形でずれている。
まるで、誰かが布団の端を持って、そっと引っ張ったようだった。
畳の上には、布団を引きずった跡が細く残っていた。
少し気持ち悪かったが、引っ越し初日で疲れていたのだろうと思った。
その日は役所へ行き、住所変更を済ませ、スーパーで米と味噌と安い鍋を買った。
帰ってきた時、部屋に入ってすぐ違和感があった。
押し入れの襖が開いていた。
朝、確かに閉めた。
鍵があるわけではないので、風で開いたのかもしれない。
そう思って近づいた。
中には、何もないはずだった。
でも、上段に布団があった。
古い掛け布団だった。
茶色っぽい花柄のカバーがかけられていて、きっちり四つ折りにされている。
俺のものではない。
俺はしばらくそれを見ていた。
前の住人の残置物だろうか。
不動産屋は部屋は空だと言っていた。清掃も入ったと言っていた。初日に押し入れを確認した時も、そんなものはなかったはずだ。
それでも、布団はそこにあった。
触りたくなかった。
けれどそのままにしておく方が嫌で、俺はゴミ袋を二枚重ねて手にはめ、その布団を引っ張り出した。
重かった。
掛け布団にしては妙に重い。
中に湿気を含んでいるような、ぐったりした重さだった。
床に下ろすと、ふわっと匂いが立った。
老人の寝室のような匂い。
汗。
防虫剤。
古い髪。
それから、ほんの少しだけ甘い線香の匂い。
布団の端に、白い布のタグが縫いつけられていた。
そこに、黒い糸で名前が書いてあった。
上田。
知らない名前だった。
俺はすぐに不動産屋へ電話した。
「押し入れに布団が残ってるんですけど」
『布団ですか?』
「はい。古いやつです。入居の時にはなかったと思うんですけど」
『そんなはずはないんですが……前の清掃記録では残置物なしになってますね』
「捨てていいですか」
『もちろんです。すみません、お手数ですが粗大ごみで……』
そこまで聞いて、俺は電話を切りたくなった。
自分で処分しろということらしい。
仕方なく、布団を部屋の隅に置いた。
粗大ごみの回収日は一週間後だった。
その夜、俺は古い布団からできるだけ離れて、自分の布団を敷いた。
押し入れの襖は、ガムテープで止めた。
古い布団は、ゴミ袋に包んで紐で縛った。
これで大丈夫だと思った。
午前三時頃、目が覚めた。
部屋が暗い。
何か音がする。
すう。
すう。
寝息だった。
俺の寝息ではない。
すう。
すう。
部屋の隅。
ゴミ袋に包んだ古い布団の方から聞こえた。
俺は布団の中で目だけを動かした。
暗くてよく見えない。
それでも、黒い袋の輪郭が少し動いているのが分かった。
膨らんで、しぼむ。
膨らんで、しぼむ。
まるで、中で誰かが息をしているみたいだった。
俺は朝まで動けなかった。
明るくなってから見ると、ゴミ袋は破れていなかった。
縛った紐もそのまま。
中の布団も、ただの古い布団に見えた。
寝息なんて聞こえない。
それでも俺はすぐにその布団を外へ出した。
アパートの裏にあるごみ置き場ではなく、いったん玄関の外に出した。
部屋の中に置いておきたくなかった。
その日は仕事の面接があった。
夕方に帰ってくると、玄関前に置いたはずの布団がなかった。
誰かが持っていったのかと思った。
粗大ごみのシールも貼っていない。そんなものを持っていく人間がいるのかとも思ったが、なくなったならそれでいい。
そう思いながら部屋に入った。
押し入れの襖が開いていた。
ガムテープは剥がれて、畳の上に落ちている。
上段に、古い布団が入っていた。
きっちり四つ折りにされて。
タグの名前も見えた。
上田。
俺はその場でしばらく立っていた。
怖いというより、頭が追いつかなかった。
玄関の外に出した。
消えた。
そして押し入れに戻っている。
考えても仕方がなかった。
俺はその日から、押し入れを開けないことにした。
襖もテープで止めなかった。
布団がそこにあるなら、そこにあればいい。
触らなければいい。
そう思った。
何日かは、それで何も起こらなかった。
ただ、部屋の匂いが少しずつ強くなった。
寝起きの布団のような匂いが、押し入れから部屋へ染み出してくる。
換気扇を回しても消えない。
窓を開けても、夜になると戻る。
俺の布団にも、その匂いが移った。
枕カバーを洗っても、掛け布団を干しても、眠る時にはどこかから古い髪の匂いがした。
ある朝、布団を畳もうとして、手が止まった。
俺の敷布団の横に、もう一人分のくぼみがあった。
畳の上ではない。
俺の布団の中。
ちょうど、誰かが俺の隣で横向きに寝ていたような形に、掛け布団が沈んでいた。
俺は一人で寝ていた。
そのはずだった。
くぼみに手を置くと、温かかった。
人肌より少し低いくらいの温度。
寝起きの布団の温かさ。
そこだけ、確かに誰かがいた後だった。
俺はその日、布団を捨てた。
実家から持ってきた自分の布団だ。
粗大ごみに出す余裕なんてなかったから、ハサミで切って、何枚ものごみ袋に分けた。
中綿を切る時、何度か吐きそうになった。
布団の中から、長い白髪が何本も出てきた。
俺の布団なのに。
実家から持ってきて、まだ一週間も経っていない布団なのに。
俺はその夜、床に寝た。
寝袋を買う金もなかったので、服を着込んで畳に横になった。
寒かった。
でも、布団よりはましだと思った。
深夜、押し入れの方から音がした。
ず。
ず。
何かを引きずる音。
目を開けると、押し入れの襖がゆっくり開いていた。
中から、古い布団が出てきていた。
誰かが押しているわけではない。
四つ折りにされた布団が、畳の上を少しずつ滑ってくる。
ず。
ず。
音は小さいのに、部屋全体に響いた。
俺は起き上がれなかった。
体が動かない。
金縛りというより、寝起きの体が自分のものではないみたいだった。
古い布団は、俺の足元まで来ると、そこで止まった。
ゆっくり開いた。
一枚。
二枚。
三枚。
布団が、畳の上に広がっていく。
その中央に、人の形のくぼみがあった。
最初から、誰かが寝ていたように。
くぼみの中には誰もいない。
でも、そこだけ布団が沈んでいる。
それを見ているうちに、俺は気づいた。
くぼみの頭の位置が、こちらを向いている。
顔のある場所が、俺を見ている。
目なんてない。
鼻も口もない。
ただ布団が沈んでいるだけだ。
それでも、そのくぼみは俺を見ていた。
朝になると、古い布団は押し入れに戻っていた。
きっちり四つ折りにされて。
俺はその日のうちに、不動産屋へ行った。
部屋を出たいと言った。
担当者は困った顔をした。
「まだ入居して十日ですよね」
「事情があって」
「違約金がかかりますけど」
「払います」
「何か不具合でも?」
俺は迷った。
布団が戻る。
押し入れから出てくる。
人のくぼみがある。
そんなことを言っても仕方がない。
代わりに、俺は聞いた。
「あの部屋、前の住人はどうしたんですか」
担当者はすぐに答えなかった。
パソコンの画面を見て、何かを確認するふりをした。
「普通に退去されてますね」
「普通に?」
「はい」
「上田さんって人ですか」
担当者の顔が、ほんの少し変わった。
「どこでその名前を?」
「押し入れに、名前のついた布団がありました」
担当者はしばらく黙っていた。
それから、声を落とした。
「上田さんは、前の前の入居者です」
「前の前?」
「はい」
「じゃあ、前の入居者は?」
「短期で退去されています」
「どうして」
「そこまでは」
「布団のこと、知ってるんですか」
担当者は答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
俺はその日の夜、部屋に戻らなかった。
カプセルホテルに泊まった。
翌朝、アパートへ荷物を取りに行くと、部屋の中は静かだった。
押し入れは閉まっている。
段ボール五箱だけを急いでまとめた。
最後に、押し入れを見た。
開けたくなかった。
でも、開けずに出るのも嫌だった。
俺は襖に手をかけた。
ゆっくり開ける。
上段に古い布団があった。
四つ折りではなかった。
敷かれていた。
押し入れの狭い上段に、無理やり人が寝られるように広げてあった。
その上に、誰かが寝ていた。
はっきり見えたわけではない。
顔も、手も、足も見えない。
ただ、布団の上に人の重みがあった。
胸のあたりが、ゆっくり上下している。
すう。
すう。
寝息がした。
俺は声を出さなかった。
襖を閉めようとした。
その時、布団の中から白い髪が一本、畳の縁へ垂れた。
それだけだった。
俺は襖を閉め、荷物を持って部屋を出た。
そのアパートには二度と戻らなかった。
違約金も払った。
敷金は返ってこなかった。
それでもよかった。
今は別の部屋に住んでいる。
フローリングのワンルームで、押し入れはない。
クローゼットだけだ。
ベッドも買った。
布団では寝ていない。
あれから一年近く、何も起きていなかった。
だから、もう大丈夫だと思っていた。
先週、実家から段ボールが届いた。
母が冬物の服を送ってくれたのだ。
開けると、セーターや上着の下に、見覚えのない布が入っていた。
茶色っぽい花柄の布。
古い掛け布団のカバーと同じ柄だった。
俺はすぐに段ボールを閉じた。
母に電話をした。
「段ボールに変な布入れた?」
『布?』
「花柄の古いやつ」
『入れてないよ。服だけ』
「本当に?」
『何それ、気持ち悪いね。捨てなさいよ』
捨てようと思った。
でも、段ボールをもう一度開けた時、花柄の布はなかった。
代わりに、セーターの上に白い髪が一本落ちていた。
長い髪だった。
俺はそれをティッシュに包んで捨てた。
その夜から、ベッドで眠ると、朝方だけ布団の端が少し沈むようになった。
誰かが腰をかけるほどではない。
誰かが寝るほどでもない。
ほんの少し。
人が指先で布団を押したくらいの沈み方。
でも、そこは必ず温かい。
今朝、目が覚めると、ベッドの横の床に、細い跡があった。
布団を引きずったような跡。
フローリングの上に、薄い埃が一本、まっすぐ伸びていた。
その先は、クローゼットの前で止まっている。
俺の部屋には押し入れはない。
クローゼットの中にも、布団なんて入っていない。
そう分かっている。
でも、今はまだ開けられない。
扉の隙間から、あの匂いがする。
長く敷きっぱなしにした布団の匂い。
人が寝ていた場所だけが、いつまでも冷めない匂い。
さっきから、中で何かが寝返りを打っている。
ず。
ず。
布がこすれる音がする。




