欠席の机
五年二組には、誰も座らない机があった。
教室の一番後ろ。
窓際でも、廊下側でもない。
掃除用具入れの横に、少しだけ離して置かれている古い机だった。
僕たちが使っている机は灰色の新しいものなのに、その机だけ木でできていた。天板は黒ずんでいて、角は丸く削れている。椅子も古く、座るところの板が少し反っていた。
誰の席でもない。
でも、教室にある。
みんな、その机のことを何となく知っていた。
席替えをしても、その机だけは動かさない。
掃除の時も、誰も触らない。
給食の時も、そこにおぼんは置かれない。
ただ、プリントを配る時だけ、少し変なことが起こる。
先生が三十二枚のプリントを持ってくる。
うちのクラスは三十一人。
普通なら一枚余るはずだった。
けれど、いつも余らない。
最後の一枚は、誰かが何も言わずに、あの古い机の上に置く。
置いた子は、あとで聞かれても覚えていない。
「え、俺置いた?」
「知らない。勝手に置いてあったんじゃない?」
そんなふうに終わる。
先生も何も言わない。
その机のことを、僕たちはふざけて「欠席の机」と呼んでいた。
誰が言い始めたのかは分からない。
でも、いつの間にかそう呼んでいた。
欠席の机。
ずっと休んでいる誰かの席。
僕はその言い方が、あまり好きではなかった。
欠席という言葉には、少しだけ冷たい感じがある。
朝の会で、先生が出席を取る。
「相沢さん」
「はい」
「石井くん」
「はい」
「上田さん」
「はい」
名前を呼ばれた人が返事をする。
呼ばれなかった人は、いないことになる。
その机は、毎日そこにあるのに、一度も名前を呼ばれなかった。
最初に気味が悪いと思ったのは、席替えの日だった。
くじを引いて、僕の席は一番後ろになった。
掃除用具入れの隣。
つまり、欠席の机のすぐ前だった。
「うわ、悠介そこかよ」
友達の真島が笑った。
「後ろ、欠席じゃん」
「やめろよ」
「夜になったら肩たたかれるぞ」
「うるさい」
僕は笑って返した。
でも、席についてすぐ、背中が少し落ち着かなくなった。
後ろには誰もいない。
それは分かっている。
なのに、授業中、背中のすぐ後ろに空気の重い場所がある気がした。
人が座っている感じではない。
でも、空っぽでもない。
休み時間になると、僕は何度も振り返った。
古い机は、いつも同じようにそこにあった。
机の中は空。
天板には何もない。
でも、昼休みのあとだけ、机の上に白い粉が少し残っていた。
チョークの粉だった。
五時間目の算数で、先生が黒板に分数を書いていた時のことだ。
後ろから、かり、と音がした。
鉛筆で紙に線を引くような、小さな音だった。
僕は振り返らなかった。
振り返ったら、みんなにからかわれると思ったからだ。
かり。
また音がした。
先生の声が遠くなる。
教室の中には、鉛筆の音なんていくらでもある。
誰かがノートを取っている。
誰かが消しゴムを使っている。
それだけのことだ。
でも、その音だけは、僕のすぐ後ろから聞こえた。
放課後、僕は机の中を見た。
空だった。
何もない。
けれど、奥の方に薄い黒い跡がついていた。
鉛筆で何度もこすったような跡。
よく見ると、字だった。
古くて、ほとんど消えていた。
僕は顔を近づけた。
読めたのは、たった三文字だけだった。
きょう
その下は、擦れて読めない。
僕は急に怖くなって、机から手を離した。
次の日から、欠席の机が少しずつ気になり始めた。
朝、教室に入ると、最初にその机を見る。
何も変わっていない日もある。
でも、時々、少しだけ違っている。
椅子がほんの少し引かれている。
机の上に、指でなぞったような跡がある。
机の下に、細かい砂が落ちている。
不思議なのは、その砂だった。
校庭の砂とは違う。
もっと白くて、さらさらしていて、海の砂みたいだった。
僕たちの学校は、海から遠い。
近くに川もない。
真島に見せると、彼は言った。
「運動場の砂じゃね?」
「違うと思う」
「じゃあ誰かの靴についてたんだろ」
「誰も座ってないのに?」
そう言うと、真島は少し黙った。
そして、欠席の机を見ないようにして言った。
「お前、あんまり気にすんなよ」
「何で?」
「去年の六年にも、同じこと言ってたやついたから」
「どうなったの?」
「知らね。卒業した」
「普通じゃん」
「でも、卒業式の日、その机だけ体育館の後ろに置いてあったって」
「何それ」
「知らねえよ。兄ちゃんが言ってた」
真島はそこで話をやめた。
それ以上聞いても、何も教えてくれなかった。
その週の金曜日。
僕は日直だった。
放課後、黒板を消して、戸締まりを確認して、教卓の上の連絡帳を職員室へ持っていく。
それが日直の仕事だった。
教室には、僕一人だけになった。
夕方の校舎は、昼間よりずっと静かだ。
廊下の向こうから、遠くの部活の声が聞こえる。
昇降口の方で、誰かが笑っている。
でも、教室の中はしんとしている。
黒板を消し終わった時、背中の後ろで、机がきしんだ。
ぎい。
古い椅子に、誰かが座り直したような音だった。
僕はゆっくり振り返った。
欠席の机があった。
いつも通り。
誰もいない。
でも、机の上に、見たことのないものが置かれていた。
連絡帳だった。
古い、青い表紙の連絡帳。
僕たちが使っているものより小さく、角が柔らかくなっている。表紙には、薄い鉛筆の字で名前が書かれていた。
榎本晴人。
知らない名前だった。
僕はそれを手に取った。
表紙は少し湿っていた。
濡れているのではない。
長い間、押し入れの奥にしまわれていたものみたいな、紙の湿り方だった。
開くと、一ページ目に日付があった。
平成九年四月十日。
僕が生まれるずっと前だ。
連絡欄には、きれいな大人の字でこう書かれていた。
『晴人は本日も登校を渋っております。朝になると腹痛を訴えますが、熱はありません。できるだけ学校へ行かせるようにします』
その下に、先生の赤いペンの返事がある。
『少しずつ慣れていきましょう。教室では落ち着いています』
次のページ。
『昨日も給食をほとんど残したようです。家では食べています』
『班で食べることにまだ慣れていないようです。様子を見ます』
さらに次。
『上履きが片方なくなりました。本人は学校に置いたと言っています』
『探しておきます』
その次。
『体操服が濡れた状態で戻りました。本人は何も言いません』
『水道で遊んだのかもしれません。注意します』
ページをめくるたび、少しずつ胸が重くなった。
晴人という子は、学校が苦手だったのだと思う。
でも、連絡帳の返事はいつも短い。
『様子を見ます』
『注意します』
『大丈夫です』
そういう言葉ばかりだった。
ある日を境に、母親の字が少し乱れ始めた。
『晴人が夜中に泣いていました。学校で何かありましたか』
『特に変わった様子はありません』
『登校前に吐きました。それでも行くと言って出ました』
『学校では普通でした』
僕はページをめくる手を止めた。
次のページだけ、鉛筆の字だった。
子どもの字。
『きょうも、ぼくはいませんでした』
僕は息を止めた。
次のページ。
『せんせいは、いましたと言いました』
その次。
『でも、ぼくのせきには、だれかのランドセルがありました』
また次。
『ぼくは、どこにすわればいいですか』
手が震えた。
教室の外から、廊下を歩く音が聞こえた。
誰かが近づいてくる。
でも、教室の前を通り過ぎることなく、足音は止まった。
引き戸の向こうに、人影はない。
僕は連絡帳を閉じようとした。
その時、最後のページが開いた。
そこには、母親の字で大きく書かれていた。
『晴人が帰ってきません。今日、学校には来ていますか』
その下に、先生の赤いペンで一言だけ。
『欠席です』
僕はそれ以上読めなかった。
連絡帳を閉じ、欠席の机に戻した。
その時、机の中から音がした。
かさ。
紙が動く音。
僕は見たくなかった。
でも、手が勝手に机の中へ入った。
奥に、何かがあった。
小さな上履きだった。
片方だけ。
白い布は黄ばんでいて、ゴムの部分は固くなっている。つま先に、薄く泥の跡がついていた。
名前のところには、かすかに字が残っていた。
えのもと。
僕は上履きを持ったまま動けなかった。
その時、教室の窓が少し暗くなった。
夕方の光が急に落ちたのだと思った。
でも、違った。
窓ガラスに、教室の中が映っていた。
僕の後ろ。
欠席の机。
その椅子に、男の子が座っていた。
白い半袖シャツ。
紺色の半ズボン。
少し古い形のランドセル。
顔は、はっきり見えなかった。
俯いているのではない。
窓ガラスに映っているのに、顔の部分だけが光を返していなかった。
ただ、手だけは見えた。
細い手。
机の上に置かれた連絡帳を、両手で押さえている。
僕は振り返らなかった。
振り返ったら、いなくなる気がした。
いや、いなくなるならいい。
振り返ってもそこにいたら、どうすればいいか分からなかった。
男の子は、何も言わなかった。
ただ、机の上の連絡帳に鉛筆を走らせていた。
かり。
かり。
かり。
その音だけが、教室の中に響いた。
しばらくして、廊下から先生の声がした。
「中野くん?」
担任の木村先生だった。
僕は慌てて振り返った。
欠席の机には、誰もいなかった。
連絡帳もない。
上履きだけが、僕の手の中に残っていた。
先生は教室に入ってきて、僕の手元を見た。
その顔が、はっきり変わった。
「それ、どこにあったの」
「机の中です」
僕が欠席の机を指さすと、先生はすぐにその机から目をそらした。
「それは、触らない方がいい」
「先生、知ってるんですか」
「職員室へ行こう」
「榎本晴人って誰ですか」
先生は答えなかった。
答えないまま、僕から上履きを取り上げようとした。
僕は手を引いた。
「この子、どこに行ったんですか」
先生の手が止まった。
廊下の向こうで、チャイムが鳴った。
六時のチャイムだった。
木村先生は、しばらく黙っていた。
それから小さな声で言った。
「昔、この教室で、いなくなった子がいるって聞いてる」
「死んだんですか」
「分からない」
「分からないって」
「本当に、分からないの」
先生は、欠席の机を見ないまま言った。
「朝はいた。昼にはいなかった。家にも帰っていなかった。校内も探した。警察も来た。でも見つからなかった」
「じゃあ、何で机があるんですか」
「最初は、ご家族が戻ってくるかもしれないからって、残していたらしい」
「それが、今も?」
「いつの間にか、誰も片づけなくなった」
先生の声は、少し震えていた。
「片づけようとすると、また何かが見つかるの。上履きとか、連絡帳とか、給食袋とか。捨てても戻る。だから、置いてある」
僕は手の中の上履きを見た。
「この子、まだ欠席なんですか」
先生は答えなかった。
ただ、黒板の方を見た。
黒板には、僕が消したはずの文字が残っていた。
うっすらと白いチョークの跡。
『本日の欠席』
その下に、何も書かれていない。
でも、そこに誰かの名前があったように見えた。
翌日から、僕は欠席の机を見ないようにした。
見ても何もできない。
そう思った。
でも、前よりも強く気配を感じるようになった。
授業中、後ろで鉛筆の音がする。
給食の時間、机の上に何もないのに、そこだけ少し給食の匂いがする。
掃除の時間、みんなが机を動かしても、欠席の机の周りだけ床に細い砂が落ちている。
ある日、真島が言った。
「なあ、最近さ」
「何」
「あの机、誰か座ってない?」
僕は真島を見た。
「見えたの?」
「いや、見えたわけじゃないけど」
真島は気まずそうに後ろを見た。
「なんか、授業中に後ろから息聞こえね?」
僕は何も言えなかった。
その日の帰り、僕は欠席の机の中に上履きを戻した。
本当は先生に渡すべきだったのかもしれない。
でも、職員室に持っていったら、どこかにしまわれて終わる気がした。
それが正しいのか、分からなかった。
机の中へ上履きを入れると、奥に連絡帳があった。
昨日消えたはずの青い連絡帳。
開くと、一番最後に新しい文字が増えていた。
子どもの字だった。
『きょうは、まえのせきの子が見つけた』
僕のことだと思った。
次の行。
『でも、まだ帰れません』
それだけだった。
その夜、僕は家に帰ってから母に聞いた。
「もし、学校に行ったまま帰ってこなかった子がいたら、どうなるの」
母は驚いた顔をした。
「何、急に」
「ただ聞いただけ」
「大変なことになるよ。みんなで探すし、警察にも言うし」
「見つからなかったら?」
母は少し困った顔をした。
「ずっと、探すんじゃない?」
「ずっと?」
「うん。親なら、きっとずっと探すよ」
僕はそれを聞いて、少しだけ安心した。
でも、すぐに嫌なことを思った。
晴人くんのお母さんは、まだ探しているのだろうか。
それとも、もう死んでしまったのだろうか。
もし死んでしまったなら、あの子は誰に見つけてもらえばいいのだろう。
それから数日後、学校で古い資料を整理することになった。
校舎の改修前に、使わないものを捨てるらしい。
先生たちが放課後、資料室から段ボールを運び出していた。
僕は図書委員の仕事で残っていて、たまたま資料室の前を通った。
開いた段ボールの中に、古い学級写真が見えた。
平成九年度。
五年二組。
僕は思わず手に取った。
そこには、今と同じ教室が写っていた。
今より少し古い黒板。
今より低い棚。
そして、一番後ろに、木の机。
集合写真なのに、子どもたちは全員立っている。
木の机だけが、ぽつんと写っていた。
椅子は少し引かれている。
机の上に、青い連絡帳が置かれていた。
写真の下には、生徒の名前が並んでいる。
榎本晴人の名前は、なかった。
でも、写真の裏に、小さな字が書かれていた。
『この日は欠席』
赤いペンだった。
誰の字か分からなかった。
その時、資料室の奥で物音がした。
棚の影に、男の子が立っていた。
白い半袖シャツ。
紺色の半ズボン。
古いランドセル。
僕は声を出せなかった。
男の子は、こちらを見ていない。
資料室の奥の棚を見ていた。
その棚には、古い出席簿や学級日誌が積まれている。
男の子は、右手を少しだけ上げた。
何かを指さしている。
僕はゆっくり棚に近づいた。
そこに、一冊の学級日誌があった。
五年二組。
平成九年度。
僕は震える手で開いた。
五月十三日。
そのページだけ、上半分が破られていた。
残っている下半分に、先生の字でこう書かれていた。
『榎本晴人、昼休みより所在不明。児童には通常通り下校指導』
通常通り。
その言葉が、ひどく冷たかった。
次のページ。
『榎本晴人、欠席扱いとする』
僕はしばらく動けなかった。
資料室の奥を見る。
男の子はいなかった。
その代わり、床に白い砂が落ちていた。
それは、あの机の下にいつも落ちている砂と同じだった。
校庭の砂ではない。
海の砂みたいな、白い細かい砂。
僕はそれを指で触った。
冷たかった。
翌日、僕は木村先生に学級日誌を見せた。
先生は何も言わずに読んだ。
そして、長い間黙っていた。
「先生」
「うん」
「晴人くんは、欠席じゃないですよね」
先生はページを閉じた。
目が少し赤かった。
「そうだね」
「学校にいたんですよね」
「うん」
「じゃあ、欠席って書いたらだめですよね」
先生はうなずいた。
その日の放課後、木村先生は黒板に小さく書いた。
『榎本晴人 在校中所在不明』
ただそれだけだった。
クラスのみんなは、何のことか分からずざわついた。
先生は説明しなかった。
でも、その文字を書いた瞬間、教室の空気が少しだけ変わった。
欠席の机の椅子が、ぎい、と鳴った。
誰も触っていなかった。
それからしばらく、机の上にプリントが置かれることはなくなった。
給食の匂いもしなくなった。
鉛筆の音も聞こえない。
でも、机はそのままだった。
片づけることはできなかった。
そこにあることが、少しだけ違う意味になった気がした。
幽霊がいなくなったわけではない。
ただ、欠席ではなくなった。
そう思った。
卒業式の日。
僕たちは体育館で卒業証書を受け取った。
式が終わったあと、教室へ戻って最後のホームルームをした。
木村先生は泣きながら、僕たち一人一人に言葉をくれた。
最後に、先生は教室の後ろを見た。
欠席の机は、まだそこにあった。
先生は少しだけ頭を下げた。
僕も振り返った。
古い机の上には、青い連絡帳が置かれていた。
僕は誰にも気づかれないように近づき、開いた。
最後のページに、子どもの字で一行だけ増えていた。
『きょうは、いました』
それだけだった。
僕は連絡帳を閉じた。
そのあと、欠席の机を見たのは、それが最後だった。
中学に上がる春、校舎の改修工事が始まった。
古い机や棚は処分され、教室は新しくなったらしい。
欠席の机がどうなったのか、僕は知らない。
でも、今でもたまに思い出す。
誰かがいなくなった時、欠席にして終わらせること。
いなかったことにすること。
それが一番怖いのだと、僕はあの机に教えられた気がする。
大人になってから、一度だけ母校へ行った。
選挙の投票所になっていて、久しぶりに校舎へ入った。
教室は全部新しくなっていた。
床も壁もきれいで、机も椅子も軽いものに変わっていた。
でも、五年二組だった教室の前を通った時、足が止まった。
中には誰もいなかった。
黒板も消されている。
机は整然と並んでいる。
ただ、一番後ろの掃除用具入れの横だけ、少し空いていた。
机一つ分。
そこだけ、何も置かれていない。
床に、白い砂が少しだけ落ちていた。
僕はしゃがんで、それを見た。
海の砂みたいに細かい砂。
その中に、短い鉛筆が一本混じっていた。
赤い塗装が剥げた、古い鉛筆。
名前を書くところには、かすれた字が残っていた。
えのもと。
僕はそれを拾わなかった。
持って帰ってはいけない気がしたからだ。
投票を済ませて帰ろうとした時、背後で、かり、と音がした。
鉛筆で紙に線を引くような、小さな音。
僕は振り返った。
教室の中には、誰もいなかった。
でも、一番後ろの空いた場所に、夕方の光が細く差していた。
そこに、机があるような影だけが落ちていた。
そして、その影の上に、青い連絡帳が一冊、置かれているように見えた。
まばたきすると、もう何もなかった。
ただ、黒板の下のチョーク受けに、白い粉で小さく文字が残っていた。
欠席ではありません。
その文字を見て、僕はしばらく動けなかった。
怖いというより、寒かった。
あの子は、まだそこにいる。
でも、もう欠席ではない。
いなくなったことにされたまま、ずっと教室にいる。
その方が、よほど怖かった。




