裏写り
文化祭の準備で、俺たちは心霊写真を撮りに行った。
もちろん、本物を撮るつもりなんてなかった。
うちのクラスはお化け屋敷をやることになっていた。暗幕を張って、段ボールで迷路を作って、何人かが白い布をかぶって驚かす。よくあるやつだ。
ただ、入口が寂しいという話になった。
「心霊写真でも貼れば雰囲気出るんじゃね?」
そう言ったのは、同じクラスの伊吹だった。
伊吹は怖い話が好きだった。
でも、怖がるのも好きだった。
怪談動画を見ては次の日に話して、肝試しに行こうと言って、いざ現地に着くと一番最初に帰りたがるタイプだった。
「加工で作ればいいじゃん」
森田が言った。
「スマホ加工はバレるだろ」
「じゃあどうすんの」
伊吹は、鞄から古いフィルムカメラを出した。
黒いコンパクトカメラだった。
父親のものを借りてきたらしい。
「本物っぽくするならフィルムだろ」
写真部の小野寺だけが、少し嫌そうな顔をした。
「フィルムで変なことするの、やめた方がいいよ」
「何で?」
「現像する時、面倒だから」
「そこ?」
みんな笑った。
でも、小野寺だけは笑わなかった。
「旧御影写真館って知ってる?」
その名前が出た瞬間、近くにいた何人かがこっちを見た。
旧御影写真館。
学校から自転車で十五分くらいの、古い商店街の奥にある写真館だった。
もう何年も前に潰れている。
シャッターは半分壊れ、看板には「御影写真館」の文字がかすれて残っている。昔は七五三や成人式の写真を撮る店だったらしいが、今は完全な廃墟だった。
地元の中高生の間では、わりと有名な肝試しスポットだった。
夜に中を覗くと、撮影用の背景布の前に人が立っている。
暗室に入ると、現像液の匂いがする。
店の奥に、客のものではない遺影が何十枚も残っている。
噂はいくつもあった。
ただ、俺は一度も行ったことがなかった。
「そこで撮れば、それっぽいの撮れるってこと?」
伊吹が言うと、小野寺は首を横に振った。
「あそこ、写真部の先輩が昔行ったらしいんだよ」
「心霊写真撮れた?」
「撮れたっていうか……表じゃなくて、裏に写ったって」
裏。
その言葉だけ、妙に耳に残った。
「写真の裏?」
「うん。プリントした写真の表は普通なのに、裏側にだけ別の景色が浮かんでたって」
「印刷ミスじゃね?」
「普通、裏に画像なんか出ないよ」
小野寺は小さく言った。
「写真部では、それを“裏写し様”って呼んでた」
伊吹はにやっと笑った。
「いいじゃん。それ使おうぜ」
「やめた方がいい」
「出た。そういうの一番ワクワクするやつ」
「本当にやめた方がいいって」
小野寺は珍しく真剣だった。
けれど、俺たちはその真剣さを、怖がらせるための演出だと思った。
結局その日の放課後、俺たちは旧御影写真館へ行くことになった。
行ったのは四人。
俺。
伊吹。
森田。
小野寺。
時間は夕方五時半を過ぎていた。
商店街はほとんど店が閉まっていた。シャッターの並ぶ細い通りを奥へ進むと、空気が少し冷える。まだ明るいはずなのに、そこだけ日が入らない。
旧御影写真館は、商店街の突き当たり近くにあった。
ガラス戸は内側から黒い紙で塞がれている。
看板の「御影」の文字だけが、妙に新しく見えた。
裏口は開いていた。
というより、ドアが枠ごと歪んで、隙間ができていた。
伊吹が最初に入った。
俺たちも後に続いた。
中は思ったより荒れていなかった。
受付カウンター。
色あせたソファ。
壁に貼られた古い料金表。
七五三、証明写真、家族写真。
床には埃が積もっている。
でも、誰かが歩いた跡があった。
最近ついたような足跡ではない。
何度も何度も同じ場所を歩いて、埃だけが薄くなったような跡だった。
「誰か来てんのかな」
森田が言った。
「肝試しの奴らだろ」
伊吹はそう言って、カメラの電源を入れた。
フラッシュが一瞬光る。
待合室を何枚か撮った。
それから奥の撮影室へ進んだ。
撮影室には、まだ背景布が残っていた。
灰色の布。
椅子はなく、床の真ん中に三脚だけが倒れていた。
壁際には、照明用の傘が破れたまま立っている。
俺はその時、変な匂いに気づいた。
古い埃の匂いの中に、薬品のような匂いが混ざっていた。
小野寺も気づいたらしい。
「現像液の匂いがする」
「まだ残ってんの?」
「そんなはずない」
小野寺は奥の扉を見た。
赤い小さな札に、かすれた文字で「暗室」と書いてある。
その扉だけ、やけにきれいだった。
伊吹が扉を開けようとした。
小野寺が止めた。
「やめとけって」
「何でそこまで嫌がるんだよ」
「暗室は本当にやめた方がいい」
「先輩が言ってたから?」
小野寺は答えなかった。
伊吹は少し強めに扉を引いた。
ぎい、と音がして開いた。
中は真っ暗だった。
窓はない。
スマホのライトを向けると、細長い部屋の奥に、古い流し台と棚が見えた。棚には茶色い瓶が何本も並んでいる。床には黒い液体の染みが広がっていた。
壁には、写真を吊るすための細い紐が残っていた。
その紐に、一枚だけ写真が吊るされていた。
逆さまに。
洗濯ばさみのような小さなクリップで挟まれている。
表は真っ黒だった。
ただの黒い写真。
伊吹がそれを外そうとした。
小野寺が低い声で言った。
「触るな」
いつもの小野寺ではなかった。
声が、本当に怒っていた。
伊吹は少し驚いた顔をして手を引っ込めた。
「分かったよ」
俺たちは暗室を出た。
その時、背中の方で、何かが揺れる音がした。
かさ。
吊るされた写真が、勝手に動いたような音だった。
撮影は、結局すぐ終わった。
待合室、撮影室、古い料金表、壊れた照明、暗室の扉。
伊吹は面白がって何枚も撮った。
最後に、小野寺が言った。
「もう帰ろう」
「まだフィルム残ってる」
「残していい」
「もったいないだろ」
伊吹はカメラの残数を見た。
「あと一枚」
その瞬間、暗室の方から音がした。
かり。
何かを引っかくような音。
俺たちは全員、そちらを見た。
暗室の扉は閉まっている。
かり。
また音がする。
小野寺が小さく言った。
「最後の一枚だけは撮るな」
「何で」
「裏写しになる」
伊吹は笑った。
「それが欲しいんだろ」
そして、カメラを暗室の扉に向けた。
その時、扉の下の隙間から、赤い光が漏れた。
暗室の中に、電気なんて通っていないはずだった。
それなのに、現像用の赤いランプみたいな光が、床を細く照らした。
伊吹はシャッターを押した。
カシャ。
音がやけに乾いていた。
その直後、暗室の中から、誰かが息を吸う音がした。
すう。
俺たちは走って外へ出た。
写真を現像したのは、小野寺だった。
翌週、学校で封筒を渡された。
「一応、焼いた」
小野寺の顔色は悪かった。
「何か写ってた?」
伊吹が聞くと、小野寺は首を横に振った。
「表には」
その言い方で、俺たちは黙った。
写真は十二枚あった。
待合室。
撮影室。
料金表。
壊れた照明。
暗室の扉。
どれも普通だった。
暗い、古い、いかにも心霊写真っぽい雰囲気はある。
けれど、人影のようなものは写っていない。
最後の一枚だけ、真っ黒だった。
暗室の扉を撮ったはずの写真。
表には何も写っていない。
黒いだけ。
伊吹は少し残念そうにした。
「何だよ、失敗じゃん」
小野寺は黙って、写真を裏返した。
裏には、白い印画紙の面があるはずだった。
でも、そこには景色が写っていた。
俺たち四人の後ろ姿。
撮影室に立つ俺たちの背中が、暗室の中から見た角度で写っていた。
つまり、あの扉の向こうから撮った写真だった。
俺たちは誰も喋らなかった。
写真の中の俺たちは、全員、暗室の扉を見ている。
その背後。
灰色の背景布の前に、もう一人いた。
女だった。
白いブラウスに、黒いスカート。
顔は下を向いていて見えない。
髪は肩より少し長く、古い証明写真の中の人みたいに、妙にきちんとしている。
その女は、俺たちのすぐ後ろに立っていた。
表には写っていない。
裏にだけ写っている。
小野寺が言った。
「これ、持って帰らない方がいい」
「じゃあどうすんの」
「写真館に戻す」
伊吹は嫌そうな顔をした。
「また行くのかよ」
「行くしかない」
森田は首を振った。
「俺は行かない」
結局、その日は誰も写真を持ち帰りたがらなかった。
でも、学校に置いておくのも嫌だった。
最後に伊吹が言った。
「じゃあ俺が預かる。文化祭に使えるかもしれないし」
小野寺は止めた。
伊吹は聞かなかった。
その夜、伊吹からグループ通話が来た。
声が震えていた。
『写真、裏が変わってる』
俺はスマホを握り直した。
「どう変わってる?」
『女が近い』
伊吹の後ろで、紙をめくる音がした。
『昼は俺たちの後ろにいたよな』
「ああ」
『今、俺の後ろにいる』
「写真の中で?」
『うん。俺の部屋が写ってる』
水原ではなく小野寺が、低く言った。
『だから言っただろ。戻せって』
伊吹は何か言おうとした。
その時、通話越しに音がした。
カシャ。
カメラのシャッター音だった。
使い捨てカメラでも、スマホでもない。
あの古いフィルムカメラの音。
伊吹が黙った。
『今、俺の部屋で鳴った』
誰も返事ができなかった。
カシャ。
もう一度。
伊吹の息が荒くなる。
『押し入れの中から音がする』
「見るな」
俺は思わず言った。
なぜそう言ったのか分からない。
でも、そう言わなければいけない気がした。
伊吹は小さく笑った。
『無理だろ。こんなの』
通話はそこで切れた。
翌日、伊吹は学校に来た。
だが、明らかに様子がおかしかった。
目の下が黒く、制服の襟が乱れている。
俺たちが写真のことを聞いても、彼は「なくした」とだけ言った。
「なくした?」
「朝起きたら、なかった」
小野寺が聞いた。
「裏は?」
伊吹は答えなかった。
ただ、自分の首の後ろを何度も触っていた。
その日の放課後、伊吹の下駄箱から封筒が見つかった。
中に写真が一枚入っていた。
表は真っ黒。
裏には、教室が写っていた。
放課後の教室。
誰もいない教室の真ん中に、伊吹が立っている。
後ろから撮られている。
伊吹の首のすぐ後ろに、白いブラウスの女がいた。
顔は見えない。
ただ、女の右手が伊吹の首筋に触れている。
指が一本ずつ、首の後ろに添えられていた。
その写真を見た時、伊吹は吐いた。
結局、俺たちは旧御影写真館へ戻ることにした。
写真を返すためだった。
行ったのは三人。
伊吹は熱があると言って来なかった。
俺と森田と小野寺だけで、夕方の商店街へ向かった。
旧御影写真館の前に着いた時、シャッターは完全に下りていた。
前に入った裏口も閉まっている。
いや、閉まっているというより、内側から板で打ちつけられていた。
この前は開いていたはずなのに。
小野寺が封筒を持って立ち尽くした。
「戻せない」
その時、店のガラス戸の黒い紙の隙間に、何かが貼られているのが見えた。
写真だった。
古い写真が、内側から一枚だけ貼られている。
表ではない。
裏側がこちらを向いていた。
そこに、俺たち三人が写っていた。
旧御影写真館の前に立つ俺たち。
今、この瞬間の俺たちの後ろ姿。
そして、そのすぐ後ろに、白いブラウスの女が立っていた。
俺は反射的に振り返った。
誰もいなかった。
でも、足元に古いフィルムケースが落ちていた。
黒い筒。
中に、紙切れが入っている。
小野寺が拾って開いた。
そこには、古い写真館の伝票の裏に、細い字でこう書かれていた。
裏になったものは、表に戻りたがる。
それだけだった。
その夜から、俺の写真にも女が写るようになった。
スマホで撮った写真には写らない。
証明写真にも写らない。
だが、何かの紙の裏に写る。
レシートの裏。
ノートの裏表紙。
プリントの裏。
封筒の内側。
気づくと、そこに薄く景色が浮かんでいる。
いつも俺の背中が写っている。
駅のホーム。
コンビニの前。
自分の部屋。
学校の廊下。
そして、女は少しずつ近づいてくる。
最初は遠く。
次は同じ景色の中。
その次は、手が届く距離。
顔はまだ見えない。
いつも下を向いている。
でも、最近は分かる。
見えないのではない。
見せていないだけだ。
伊吹は文化祭の前に学校を辞めた。
理由は体調不良ということになっている。
森田は写真を見ることをやめた。
小野寺は写真部を辞めた。
俺だけが、まだ時々見る。
見たくて見ているわけじゃない。
向こうから出てくる。
昨日、郵便受けに封筒が入っていた。
差出人なし。
中には一枚の印画紙。
表は真っ黒だった。
裏を見た。
俺の部屋が写っていた。
この文章を書いている俺の背中。
そのすぐ後ろに、白いブラウスの女がいた。
今までで一番近い。
女の両手は、俺の肩に置かれていた。
顔は、俺の耳元にある。
まだ見えない。
でも、写真の隅に、かすれた字が浮かんでいた。
次は表。
今、机の上にその写真がある。
表は真っ黒だ。
見ないようにしている。
でも、さっきから黒い面の中に、少しずつ何かが浮かんできている。
俺の部屋。
俺の背中。
そして、こちらを向こうとしている女の顔。
まだ完全には見えていない。
ただ、ひとつだけ分かる。
今度は、裏じゃない。




