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軒下の子

 その村では、梅雨が明ける前に、子どもを干す。


 もちろん、本物の子どもではない。


 (わら)で編んだ、小さな人形だ。


 手足は短く、胴は細い。顔はない。首のあたりに赤い糸がひと巻きされていて、どの家もそれを軒下(のきした)に吊るしている。


 雨を吸って重くなった藁人形が、古い家々の軒先でずらりと揺れている光景は、初めて見る者にはかなり不気味だった。


 けれど、村の人たちはそれを不気味だとは思っていないらしい。


 玄関の前に吊るす。

 井戸のそばに吊るす。

 納屋(なや)の軒下に吊るす。

 使われなくなった牛小屋の前にも吊るす。


 まるで洗濯物でも干すように。


 私はその光景を見て、思わずカメラを下ろした。


「これ、全部ですか?」


 案内役の老婆は、振り返らずに言った。


「全部じゃないよ」


 老婆の名前は、加代さんといった。


 この村で生まれ、この村で嫁ぎ、この村で夫を看取った人だという。腰は曲がっているが、足取りは妙に速い。雨でぬかるんだ道を、杖も使わず歩いていく。


「山の方にもある。橋の下にもある。昔は田んぼの(あぜ)にも吊るした」


「何のために?」


 私が聞くと、加代さんはようやく足を止めた。


 曇った目で、私を見た。


「連れていかれんように」


「誰がですか?」


「家のもんが」


 それだけ言って、また歩き出した。


 私は地域雑誌の取材で、この村に来ていた。


 特集のテーマは「消えゆく山里の祭り」。


 編集部から送られてきた資料には、この村の行事について、こう書かれていた。


 ――濡石(ぬれいし)集落。

 ――毎年、梅雨明け前の七日間、各家が藁人形を軒下に吊るす。

 ――最終日の夜、人形を集めて山の(ほこら)へ納める。

 ――通称「軒下干し」。


 資料には、かわいらしい民俗行事のように書かれていた。


 小さな藁人形を家の軒下に吊るし、雨や(やく)を吸わせ、家内安全を願う。


 そういう説明だった。


 だが、実際に来てみると、そんな穏やかなものには見えなかった。


 村は湿っていた。


 山から落ちてくる霧が家々の屋根にまとわりつき、道端の石には(こけ)がびっしり生えている。用水路の水は黒く、田んぼの稲は風もないのにざわざわ揺れていた。


 どの家も古かった。


 黒ずんだ板壁。歪んだ格子戸。低い軒。

 その下に、藁の子どもたちが吊るされている。


 顔のない人形が、こちらを見ている気がした。


「写真、撮ってもいいですか?」


 私が聞くと、加代さんは少し考えてから言った。


「顔を作らんように撮りなさい」


「顔?」


「あれには顔がない。それでいい」


「分かりました」


「あと、数えたらいかん」


 私はシャッターを切ろうとしていた手を止めた。


「数えるって、人形を?」


「そう」


「どうしてですか?」


「足りないと分かるから」


 意味が分からなかった。


 けれど、加代さんの声があまりにも真面目だったので、私はそれ以上聞けなかった。


 村の中を歩いていると、家の中から何度も視線を感じた。


 障子の隙間。

 雨戸の裏。

 台所の小窓。


 誰かがこちらを見ている。


 けれど、人が出てくることはほとんどなかった。


 たまに老婆や老人とすれ違っても、みな私ではなく、私の背後を見る。


 何度か振り返ったが、そこには濡れた道と、揺れる藁人形があるだけだった。


 昼過ぎ、私は村で唯一の民宿に案内された。


 民宿といっても、古い農家の一部を客間にしているだけだった。玄関を入ると、土間の匂いがした。湿った薪、古い味噌、乾ききらない雑巾のような匂い。


 宿の女将は、加代さんの妹だという。


 名前はトメさん。


 加代さんより少し丸い顔をしていたが、目元はよく似ていた。


「一泊だけだったね」


「はい。明日の朝、帰ります」


「なら、今夜だけ気をつけなさい」


 私は苦笑した。


「何にですか?」


 トメさんは、私の顔ではなく、玄関の外を見た。


「軒下の子に」


 民宿の軒下にも、藁人形が三体吊るされていた。


 他の家のものより少し古い。藁の色は黒ずみ、赤い糸も色あせている。雨が降っているわけではないのに、ぽた、ぽた、と足先から水が滴っていた。


「あれも行事の人形ですか?」


「そう」


「三体あるんですね」


 そう言った瞬間、トメさんの顔色が変わった。


 加代さんも、私を見た。


「数えたのかい」


「いや、見えたので……」


「数えたらいかんと言ったでしょう」


「すみません」


 私は慌てて謝った。


 トメさんは玄関の戸を閉めた。


「まあ、まだ外の子だからいい」


「外の子?」


「家の中に入れなきゃいい」


 そう言って、トメさんは奥へ行った。


 客間は二階だった。


 六畳の和室。低い天井。古い箪笥(たんす)。窓の外には、民宿の裏庭と、その先に竹林が見えた。


 雨は降っていない。


 なのに、窓ガラスには細かい水滴がついていた。


 荷物を置き、私は取材ノートを開いた。


 軒下干し。

 藁人形。

 数えてはいけない。

 顔を作ってはいけない。

 外の子。

 家の中に入れなければいい。


 書けば書くほど、まともな観光記事にはならない気がした。


 夕方、集落の集会所で、数人の老人から話を聞いた。


 軒下干しの由来を尋ねると、皆、少しずつ違うことを言った。


「昔、流行り病があってな。子どもがよう死んだんだ」


「違う。山崩れで埋まった子らのためだ」


「川だよ。梅雨時の川で、何人も流された」


「口減らしの話なんぞ、今さら外の人にすることじゃない」


 最後にそう言った老人だけが、すぐ黙らされた。


 口減らし。


 その言葉を聞いた瞬間、集会所の空気が重くなった。


 加代さんが湯呑を置いた。


「昔話だよ」


「でも、この行事と関係があるんですか?」


「ない」


 加代さんは、強く言った。


「今は、ただの厄払いだ」


 私はそれ以上聞けなかった。


 取材が終わる頃、外はもう薄暗かった。


 山に囲まれているせいで、夕方が早い。


 集会所を出ると、村の家々の軒下に吊るされた藁人形が、さっきより近く見えた。


 風はない。


 それでも人形は揺れている。


 ぎい。


 ぎい。


 縄が(きし)む音が、あちこちから聞こえた。


 私は民宿へ戻る途中、道端で小さな藁人形を見つけた。


 それは、どの家の軒下にも吊るされていなかった。


 用水路のそばの泥の上に、落ちていた。


 他の人形より小さい。


 子どもというより、赤ん坊に近い形だった。

 手足は短く、胴体は丸い。赤い糸が首に巻かれている。


 泥で汚れ、藁がほどけかけていた。


 見てはいけないと思った。


 でも、目が離せなかった。


 顔はない。


 ないはずなのに。


 泥のついた藁の隙間が、泣いている口のように見えた。


 私は、思わず言ってしまった。


「……かわいそう」


 その瞬間、村の音が消えた。


 虫の声も、用水路の水音も、どこかの家から聞こえていたテレビの音も、すべて止まった。


 私は息を呑んだ。


 背後で、加代さんの声がした。


「言ったね」


 振り返ると、加代さんが立っていた。


 いつからいたのか分からない。


 その後ろには、数人の村人がいた。みな黙って、私と泥の上の藁人形を見ている。


「ごめんなさい。つい」


 加代さんは、ゆっくり首を振った。


「謝る相手は、こっちじゃない」


 村人たちの視線が、藁人形へ向いた。


「拾ってあげなさい」


 私は戸惑った。


「私が?」


「あんたが、かわいそうと言った」


「でも、触っていいんですか?」


「もう、あんたの子になった」


 背筋が冷えた。


「何ですか、それ」


「今夜だけでいい。軒下に吊るして、夜明けまで見ないこと」


「見ない?」


「名前をつけない。抱かない。家の中に入れない。子守唄が聞こえても、返事をしない」


 加代さんは、泥の上の藁人形を指さした。


「それができれば、明日の朝、山へ返せる」


 村人の一人が、長い火箸のような道具を差し出した。


 私はそれで藁人形をつかみ上げた。


 軽いはずだった。


 藁の塊なのだから。


 でも、妙に重かった。


 濡れた布団を持ち上げる時のような、腕に絡みつく重さ。


 民宿に戻ると、トメさんが何も聞かずに軒先へ案内した。


 私の客間の真下。


 そこに、古い釘が一本打ってあった。


「ここに吊るしなさい」


 私は言われた通り、藁人形の赤い糸を釘にかけた。


 人形は、軒下でぐったり揺れた。


 ぽた。


 足先から、泥水が落ちた。


 トメさんが低い声で言った。


「今夜は、窓を開けないこと」


「はい」


「名前を聞かれても、知らないと言いなさい」


「名前を聞かれるんですか?」


「名がないから、欲しがる」


 トメさんは私の顔をじっと見た。


「一番いかんのは、かわいそうと思うこと」


「もう言ってしまいました」


「口に出したら親になる。心で思ったら、家になる」


 意味が分からない。


 でも、分かりたくなかった。


 夕食は、ほとんど喉を通らなかった。


 山菜の煮物。味噌汁。焼いた川魚。

 どれも湿った匂いがして、口に入れるたびに藁の味がする気がした。


 夜九時。


 私は部屋に戻った。


 窓の外は真っ暗だった。


 竹林が風もないのに揺れている。


 客間の真下には、あの藁人形が吊られているはずだ。


 私は窓に背を向け、布団に座った。


 スマホは圏外。


 時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。


 十時を過ぎた頃、軒下で音がした。


 ぎい。


 ぎい。


 縄が揺れる音。


 風ではない。


 窓を閉めていても分かる。

 外の空気は、まったく動いていない。


 ぎい。


 ぎい。


 私は布団の中で丸くなった。


 見ない。


 窓を開けない。


 返事をしない。


 ぎい。


 ぎい。


 やがて、その音に混じって、別の音が聞こえた。


 小さな足音。


 ぺた。


 ぺた。


 軒下を、誰かが裸足で歩いている。


 ここは二階だ。


 窓の外には足場なんてない。


 それでも音は、窓のすぐ下から聞こえていた。


 ぺた。


 ぺた。


 そして、子どもの声がした。


「おかあ」


 私は口を押さえた。


 声は、窓の外から聞こえていた。


「おかあ」


 小さく、濡れた声。


「さむい」


 私は目を閉じた。


 これは、私に向かって言っているのではない。


 そう思い込もうとした。


「おかあ」


 声が近づく。


「ここ、さむい」


 私は返事をしなかった。


 窓の外で、何かが板壁を引っかいた。


 かり。


 かり。


 小さな爪の音。


「いれて」


 返事をしてはいけない。


「いれて」


 窓を開けてはいけない。


「いれて」


 声が、泣きそうになる。


「かわいそうって、言ったのに」


 私は息を止めた。


 それから、子守唄が聞こえた。


 ねんねんころりよ。


 おころりよ。


 誰の声か分からない。


 古い女の声が、何人も重なっているようだった。

 優しいのに、どこか恨んでいる。


 ねんねんころりよ。


 おころりよ。


 坊やはよい子だ。


 売られておいき。


 私は目を開けた。


 今、歌詞が違った。


 売られておいき。


 そんな歌詞ではない。


 子守唄は、窓の外で続いている。


 ねんねんころりよ。


 おころりよ。


 口が減るなら。


 山へおいき。


 私は耳を塞いだ。


 けれど、声は頭の中に直接入ってくる。


 山へおいき。


 水へおいき。


 土へおいき。


 家には戻るな。


 家には戻るな。


 家には戻るな。


 その時、窓ガラスに、こつん、と何かが当たった。


 私は見ないようにした。


 こつん。


 こつん。


 こつん。


 小さな額を、何度もガラスにぶつけているような音。


「おかあ」


 声が、今度ははっきり私の名前を呼んだ。


「由衣」


 私は凍りついた。


 私は、真壁由衣という。


 村の人には名刺を渡している。だから名前を知られていてもおかしくはない。


 そう思おうとした。


 しかし、窓の外の声は続けた。


「由衣、おかあ」


 私は違うと言いたかった。


 私はあなたの母親じゃない。


 でも、声に出せば返事になる。


 私は両手で口を押さえたまま、朝まで耐えるしかなかった。


 夜中の一時。


 部屋の襖が、少し開いた。


 廊下の闇が、細く入ってくる。


 私は布団の上で体を固くした。


 閉めたはずだった。


 確かに閉めた。


 襖の隙間から、トメさんの声がした。


「由衣さん」


 私は答えなかった。


「開けちゃ駄目よ」


 トメさんの声は、廊下からではなく、窓の外から聞こえているようにも思えた。


「どっちも開けちゃ駄目」


 どっちも。


 窓と襖。


 私は襖を見つめた。


 隙間の暗闇の奥に、小さな白い手が見えた。


 子どもの手だった。


 指先が、畳の上を這っている。


 部屋の中へ入ろうとしている。


 私は悲鳴を飲み込んだ。


 その手は、ひどく細かった。

 爪の間に泥が詰まっている。

 皮膚はふやけ、ところどころ藁の繊維が刺さっている。


 手が、私の方へ伸びた。


「おかあ」


 声は襖の向こうから。


「そっち、あったかい?」


 私は動けなかった。


 外に吊るしたはずの藁人形が、どうして襖の向こうにいるのか。


 いや。


 外にいるのは藁人形で、襖の向こうにいるのは別のものなのか。


 その時、廊下の奥から加代さんの声がした。


「戻りなさい」


 白い手が止まった。


 加代さんの足音が、ゆっくり近づいてくる。


「まだ、その人は家じゃない」


 白い手が、畳を掻いた。


「おかあって言った」


「言っただけだ」


「かわいそうって言った」


「それも言っただけだ」


「名前、呼んだ」


「名は、もらってない」


 白い手が、すっと引っ込んだ。


 襖が閉まる。


 私はしばらく息もできなかった。


 廊下の向こうで、加代さんが言った。


「朝まで、口を開けるな」


 それきり、足音は消えた。


 朝になった時、私は布団の上で座ったまま気を失っていた。


 障子の向こうが白く明るい。


 鳥の声が聞こえる。


 虫の声も、水の音も戻っている。


 私はふらつきながら立ち上がった。


 窓に近づく。


 開けてはいけないと言われた。


 でも、朝なら大丈夫だと思った。


 窓ガラス越しに、下を見る。


 軒下の藁人形は、吊るされたままだった。


 ただ、昨日より少し大きくなっている気がした。


 赤ん坊ほどだったものが、三歳くらいの子どもの大きさになっている。


 手足も、昨日より長い。


 そして、顔のあたりに、黒い凹みが二つできていた。


 目のようだった。


 私は後ずさった。


 朝食の席で、トメさんは何も言わなかった。


 味噌汁を置き、漬物を置き、焼き魚を置く。


 私は箸を持てなかった。


「加代さんは?」


 私が聞くと、トメさんは台所の方を見た。


「山へ行った」


「あの人形を返しに?」


「まだ返せない」


「朝になったら返せるって」


「名を呼ばれたんだろう」


 私は黙った。


 トメさんは、私の顔を見てため息をついた。


「返事は?」


「してません」


「名前は?」


「つけてません」


「かわいそうとは?」


 私は答えられなかった。


 トメさんは、私の沈黙で察したようだった。


「思ったね」


「……見たら、そう思うじゃないですか」


「だから、見るなと言うんだよ」


 トメさんは、味噌汁の湯気を見つめた。


「見たものをかわいそうと思える人間は、連れていかれる。ここでは昔からそう」


「どこへ?」


「親の代わりに、軒下へ」


 私は箸を置いた。


「もう帰ります」


「道は?」


「バス停まで歩きます」


「歩ければね」


 外を見ると、昨夜は降っていなかったはずなのに、道が泥でぬかるんでいた。


 山の方から霧が下りてきている。


 私は荷物をまとめ、民宿を出ようとした。


 軒下の藁人形の前を通る時、できるだけ見ないようにした。


 でも、聞こえた。


 小さな声。


「おかあ、どこいくの」


 私は走った。


 村の道を下り、バス停へ向かう。


 だが、いくら歩いてもバス停に着かなかった。


 同じ家の前に出る。


 同じ石仏の横を通る。


 同じ用水路の角を曲がる。


 そしてまた、民宿の前に戻ってくる。


 軒下で、藁人形が揺れている。


 ぎい。


 ぎい。


「おかえり」


 小さな声がした。


 私は逃げるのをやめた。


 民宿の前で膝をついた。


 村の人たちが、いつの間にか周りに集まっていた。


 誰も驚いていない。


 加代さんもいた。


 手には、古い木箱を持っている。


「どうすればいいんですか」


 私の声はかすれていた。


 加代さんは木箱を開けた。


 中には、赤い糸の束と、小さな鈴が入っていた。


「今夜、子守をしてもらう」


「子守?」


「夜明けまで、あの子を膝に置いて、歌を聞かせる」


「家の中に入れたら駄目って」


「もう外の子じゃない」


 加代さんは、私の目を見た。


「昨夜、あんたの名前を呼んだ。今朝、あんたが心でかわいそうと思った。なら、半分は中の子だ」


「半分?」


「今夜、抱いてしまえば、完全にあんたの子になる」


「抱かなかったら?」


 村人たちが、少しだけ顔を伏せた。


 加代さんは静かに言った。


「軒下に吊るされる」


 私は言葉を失った。


 その夜、私は集落の奥にある小さな堂へ連れていかれた。


 子守堂と呼ばれているらしい。


 山に入る手前、竹林の中にある古い木造の堂だった。戸は歪み、屋根は苔むし、入口には腐りかけた注連縄(しめなわ)がかかっている。


 中は狭かった。


 畳二枚ほどの板間。

 奥には、小さな地蔵が並んでいる。


 どの地蔵も、顔が削られていた。


 中央に座布団が一枚敷かれていた。


 私はそこに座らされた。


 加代さんが、軒下から外した藁人形を持ってくる。


 人形は、もう赤ん坊ではなかった。


 私の腕に収まるくらいの、幼い子どもの大きさになっている。藁の手足はしんなり垂れ、赤い糸は首だけでなく、腹にも、手首にも巻かれていた。


 顔には、黒い凹みが二つ。


 その下に、細い裂け目があった。


 口のようだった。


 加代さんは、人形を私の前に置いた。


「抱くなと言いましたよね」


 私が言うと、加代さんは首を振った。


「自分から抱いたらいかん。向こうが膝に来たら、落としたらいかん」


「同じじゃないですか」


「同じじゃない」


 加代さんは、赤い糸の束を私の手首に結んだ。


 もう片方の端は、藁人形の首に結ばれている。


「これ、外してください」


「夜明けまで切れなければ、返せる」


「切れたら?」


「親子になる」


 私は泣きそうになった。


 外では、村人たちが堂を囲んでいる。


 誰も助けてくれない。


 加代さんは、最後に小さな鈴を私の前に置いた。


「眠くなったら鳴らしなさい」


「鳴らしたらどうなるんですか?」


「村の者が歌を止める」


「歌?」


 加代さんは答えず、堂の戸を閉めた。


 外から(かんぬき)をかける音がした。


 私は藁人形と二人きりになった。


 夜が深くなる。


 堂の中は暗い。


 蝋燭(ろうそく)一本だけが揺れている。


 外から、村人たちの声が聞こえ始めた。


 子守唄だった。


 ねんねんころりよ。


 おころりよ。


 坊やはよい子だ。


 ねんねしな。


 最初は普通の歌だった。


 けれど、何度も繰り返されるうちに、少しずつ音程がずれていく。


 ねんねんころりよ。


 おころりよ。


 帰る家など。


 ありゃしない。


 私は耳を塞ぎたかった。


 でも、手首の赤い糸が藁人形につながっている。少し動くだけで、藁がざわ、と音を立てた。


 人形が、動いた。


 ほんの少し。


 膝の方へ、にじり寄る。


 私は息を止めた。


 人形は、また動いた。


 ずる。


 ずる。


 藁の胴が板間を擦る。


 外の歌は続いている。


 親が捨てたら。


 山の子だ。


 山が返せば。


 軒の子だ。


 人形が私の膝に触れた。


 冷たく湿っている。


 藁なのに、肌のような柔らかさがあった。


 私は震えながら、鈴に手を伸ばした。


 その時、人形の顔の裂け目が動いた。


「おかあ」


 私は鈴を鳴らせなかった。


「おかあ、ねむい」


 声は、昨夜より近かった。


 人形が私の膝に乗る。


 重い。


 本物の子どもくらいの重さ。


 私は落とすまいとして、反射的に両腕で支えてしまった。


 抱いた。


 そう思った瞬間、外の歌が止まった。


 堂の中が静まり返る。


 私の腕の中で、藁人形が笑った。


「つかまえた」


 赤い糸が、手首に食い込んだ。


 私は叫んだ。


 糸は生き物のように動き、私の手首から腕へ、肩へ、首へ巻きついていく。


 藁人形の体から、泥の匂いがした。


 乳の腐った匂い。

 濡れた布団の匂い。

 古い産着(うぶぎ)の匂い。


 人形の黒い目が、私を見上げる。


「なまえ、ちょうだい」


 私は首を振った。


「なまえ」


 言ってはいけない。


「なまえ」


 名前をつけてはいけない。


「なまえ」


 外で、加代さんの声がした。


「言うな!」


 私は歯を食いしばった。


 人形の口が、ゆっくり開く。


 中から、細い指が出てきた。


 一本。

 二本。

 三本。


 口の中に、別の子どもの手がある。


 その手が私の頬に触れた。


 冷たい。


「おかあ」


 人形の声が、幼くなる。


「わたし、だれ?」


 かわいそう。


 そう思ってしまった。


 その瞬間、人形の口が笑った。


 私の心を読んだのだ。


 赤い糸が、喉に絡む。


 息ができない。


 私は必死に鈴をつかみ、鳴らした。


 ちりん。


 外で村人たちが一斉に歌い出す。


 ねんねんころりよ。


 おころりよ。


 抱いた子捨てるな。


 名を呼ぶな。


 抱いた子捨てるな。


 名を呼ぶな。


 私は藁人形を膝から落とそうとした。


 でも、腕が動かない。


 人形の重さが増していく。


 赤ん坊から、幼児へ。


 幼児から、小学生くらいへ。


 膝の上に乗りきらないほど大きくなっていく。


 藁の手が、私の首に回った。


 抱きついている。


 甘えるように。


 絞め殺すように。


「なまえ」


 私は声を出さなかった。


「なまえ」


 涙が出る。


「なまえ」


 口の中に、血の味が広がる。


 その時、堂の奥の地蔵が、一斉にこちらを向いた。


 顔の削られた地蔵たち。


 目も口もない石の顔が、なぜか私を見ていた。


 その足元に、小さな藁人形が山ほど積まれていることに、私は初めて気づいた。


 どれも赤い糸を巻かれている。


 顔はない。


 けれど、一体一体に髪の毛が結びつけられていた。


 長い黒髪。

 白髪。

 子どもの柔らかい髪。


 その中に、昨日取材で会った老人たちの顔が見えた気がした。


 いや、顔ではない。


 藁の隙間に、目があった。


 たくさんの目が、私を見ている。


 ここで子守をした人たちだ。


 朝まで耐えられなかった人たち。


 かわいそうと思ってしまった人たち。


 名前を与えてしまった人たち。


 私は、ようやく分かった。


 この行事は、子どもを慰めるためのものではない。


 村が捨てたものに、毎年、誰かを差し出すためのものだ。


 かわいそうと言える人間を、親の代わりにするためのものだ。


 私の膝の上の藁人形が、耳元で囁いた。


「おかあ、わたしのなまえ」


 私は目を閉じた。


 名前を言ってはいけない。


 でも、言わなければ殺される。


 喉に巻きついた糸が締まる。


 息が止まる。


 視界が暗くなる。


 その時、外から加代さんの声がした。


「由衣!」


 思わず、私は目を開けた。


 加代さんが、堂の戸の隙間から叫んでいた。


「その子を見捨てなさい!」


 私は藁人形を見下ろした。


 黒い目。

 裂けた口。

 泥で汚れた藁の頬。


 それはもう、怪物に見えなかった。


 寒くて、寂しくて、名前もなく、家の軒下に吊るされ続けた子どもに見えた。


 私は思った。


 かわいそう。


 その瞬間、赤い糸が切れた。


 ぷつん。


 乾いた音だった。


 外の村人たちの歌が止まった。


 加代さんが叫んだ。


「言ったか!」


 私は声を出していない。


 でも、もう遅かった。


 藁人形が、私の胸に顔を埋めた。


「きこえた」


 次の瞬間、堂の中が真っ暗になった。


 目が覚めると、朝だった。


 私は民宿の客間にいた。


 布団の中で寝ていた。


 窓の外には、明るい竹林が見える。


 鳥が鳴いている。


 スマホを見ると、圏外ではなくなっていた。


 時刻は午前七時十二分。


 夢だったのかと思った。


 だが、手首には赤い糸の跡が残っていた。


 首にも、細い(あざ)がある。


 私は部屋を飛び出し、一階へ降りた。


 トメさんはいなかった。


 加代さんもいない。


 民宿の中は静まり返っている。


 玄関へ向かう途中、土間に小さな靴が置かれているのを見つけた。


 泥だらけの、子どもの草履だった。


 昨夜まで、そんなものはなかった。


 外に出ると、村の軒下に吊るされていた藁人形が、すべてなくなっていた。


 民宿の軒下も空だった。


 ただ、私の客間の真下にだけ、赤い糸が一本垂れていた。


 その先には何もない。


 私はそのまま村を出た。


 今度は迷わなかった。


 バス停にも着いた。


 始発のバスに乗り、駅へ向かった。


 運転手に話しかけられることもなく、村の人に止められることもなかった。


 ただ、バスが村を離れる時、窓の外に加代さんが立っているのが見えた。


 加代さんは、私に向かって深く頭を下げていた。


 感謝ではない。


 謝罪でもない。


 あれは、見送りだった。


 私は東京に戻った。


 記事は書かなかった。


 編集部には、体調不良で取材を中断したと伝えた。


 カメラのデータも確認しなかった。


 いや、一度だけ確認した。


 村で撮った藁人形の写真。


 どの写真にも、吊るされた人形の横に、小さな子どもが写っていた。


 裸足で、泥だらけで、こちらを見ている。


 顔はぼやけているのに、なぜか笑っているのだけは分かった。


 私はその日のうちに、データを消した。


 それからしばらく、何も起きなかった。


 仕事にも戻った。


 街は乾いていた。


 アスファルト。コンビニの光。電車の音。

 あの村の湿った匂いは、少しずつ遠ざかっていった。


 けれど、梅雨が明ける前の夜。


 私の部屋のベランダで、音がした。


 ぎい。


 ぎい。


 風で物干し竿が揺れているのだと思った。


 私はカーテンを開けた。


 ベランダの軒下に、藁人形が吊るされていた。


 小さな藁人形。


 首には、赤い糸。


 顔はない。


 けれど、藁の隙間が笑っているように見えた。


 私は窓を開けなかった。


 通報もしなかった。


 ただ、カーテンを閉め、部屋の真ん中で座り込んだ。


 その夜から、毎晩聞こえる。


 ぎい。


 ぎい。


 軒下で揺れる音。


 ぺた。


 ぺた。


 裸足でベランダを歩く音。


 そして、子どもの声。


「おかあ」


 私は返事をしない。


 窓も開けない。


 名前もつけない。


 でも、朝になるたび、ベランダの藁人形は少しずつ大きくなっている。


 赤ん坊ほどだったものが、今はもう、三歳くらいの大きさになった。


 昨夜、初めて人形が歌った。


 ねんねんころりよ。


 おころりよ。


 坊やはよい子だ。


 ねんねしな。


 歌は、途中で止まった。


 そして、窓の向こうで小さな声がした。


「由衣」


 私は口を押さえた。


「おかあ」


 窓ガラスに、濡れた小さな手形がついた。


「わたし、まだ名前がないの」


 私は返事をしなかった。


 でも、胸の奥で、また思ってしまった。


 かわいそう。


 その瞬間、ベランダの向こうで、藁人形が嬉しそうに揺れた。


 ぎい。


 ぎい。


 赤い糸の先が、窓の隙間から、少しだけ部屋の中へ入ってきていた。

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