軒下の子
その村では、梅雨が明ける前に、子どもを干す。
もちろん、本物の子どもではない。
藁で編んだ、小さな人形だ。
手足は短く、胴は細い。顔はない。首のあたりに赤い糸がひと巻きされていて、どの家もそれを軒下に吊るしている。
雨を吸って重くなった藁人形が、古い家々の軒先でずらりと揺れている光景は、初めて見る者にはかなり不気味だった。
けれど、村の人たちはそれを不気味だとは思っていないらしい。
玄関の前に吊るす。
井戸のそばに吊るす。
納屋の軒下に吊るす。
使われなくなった牛小屋の前にも吊るす。
まるで洗濯物でも干すように。
私はその光景を見て、思わずカメラを下ろした。
「これ、全部ですか?」
案内役の老婆は、振り返らずに言った。
「全部じゃないよ」
老婆の名前は、加代さんといった。
この村で生まれ、この村で嫁ぎ、この村で夫を看取った人だという。腰は曲がっているが、足取りは妙に速い。雨でぬかるんだ道を、杖も使わず歩いていく。
「山の方にもある。橋の下にもある。昔は田んぼの畦にも吊るした」
「何のために?」
私が聞くと、加代さんはようやく足を止めた。
曇った目で、私を見た。
「連れていかれんように」
「誰がですか?」
「家のもんが」
それだけ言って、また歩き出した。
私は地域雑誌の取材で、この村に来ていた。
特集のテーマは「消えゆく山里の祭り」。
編集部から送られてきた資料には、この村の行事について、こう書かれていた。
――濡石集落。
――毎年、梅雨明け前の七日間、各家が藁人形を軒下に吊るす。
――最終日の夜、人形を集めて山の祠へ納める。
――通称「軒下干し」。
資料には、かわいらしい民俗行事のように書かれていた。
小さな藁人形を家の軒下に吊るし、雨や厄を吸わせ、家内安全を願う。
そういう説明だった。
だが、実際に来てみると、そんな穏やかなものには見えなかった。
村は湿っていた。
山から落ちてくる霧が家々の屋根にまとわりつき、道端の石には苔がびっしり生えている。用水路の水は黒く、田んぼの稲は風もないのにざわざわ揺れていた。
どの家も古かった。
黒ずんだ板壁。歪んだ格子戸。低い軒。
その下に、藁の子どもたちが吊るされている。
顔のない人形が、こちらを見ている気がした。
「写真、撮ってもいいですか?」
私が聞くと、加代さんは少し考えてから言った。
「顔を作らんように撮りなさい」
「顔?」
「あれには顔がない。それでいい」
「分かりました」
「あと、数えたらいかん」
私はシャッターを切ろうとしていた手を止めた。
「数えるって、人形を?」
「そう」
「どうしてですか?」
「足りないと分かるから」
意味が分からなかった。
けれど、加代さんの声があまりにも真面目だったので、私はそれ以上聞けなかった。
村の中を歩いていると、家の中から何度も視線を感じた。
障子の隙間。
雨戸の裏。
台所の小窓。
誰かがこちらを見ている。
けれど、人が出てくることはほとんどなかった。
たまに老婆や老人とすれ違っても、みな私ではなく、私の背後を見る。
何度か振り返ったが、そこには濡れた道と、揺れる藁人形があるだけだった。
昼過ぎ、私は村で唯一の民宿に案内された。
民宿といっても、古い農家の一部を客間にしているだけだった。玄関を入ると、土間の匂いがした。湿った薪、古い味噌、乾ききらない雑巾のような匂い。
宿の女将は、加代さんの妹だという。
名前はトメさん。
加代さんより少し丸い顔をしていたが、目元はよく似ていた。
「一泊だけだったね」
「はい。明日の朝、帰ります」
「なら、今夜だけ気をつけなさい」
私は苦笑した。
「何にですか?」
トメさんは、私の顔ではなく、玄関の外を見た。
「軒下の子に」
民宿の軒下にも、藁人形が三体吊るされていた。
他の家のものより少し古い。藁の色は黒ずみ、赤い糸も色あせている。雨が降っているわけではないのに、ぽた、ぽた、と足先から水が滴っていた。
「あれも行事の人形ですか?」
「そう」
「三体あるんですね」
そう言った瞬間、トメさんの顔色が変わった。
加代さんも、私を見た。
「数えたのかい」
「いや、見えたので……」
「数えたらいかんと言ったでしょう」
「すみません」
私は慌てて謝った。
トメさんは玄関の戸を閉めた。
「まあ、まだ外の子だからいい」
「外の子?」
「家の中に入れなきゃいい」
そう言って、トメさんは奥へ行った。
客間は二階だった。
六畳の和室。低い天井。古い箪笥。窓の外には、民宿の裏庭と、その先に竹林が見えた。
雨は降っていない。
なのに、窓ガラスには細かい水滴がついていた。
荷物を置き、私は取材ノートを開いた。
軒下干し。
藁人形。
数えてはいけない。
顔を作ってはいけない。
外の子。
家の中に入れなければいい。
書けば書くほど、まともな観光記事にはならない気がした。
夕方、集落の集会所で、数人の老人から話を聞いた。
軒下干しの由来を尋ねると、皆、少しずつ違うことを言った。
「昔、流行り病があってな。子どもがよう死んだんだ」
「違う。山崩れで埋まった子らのためだ」
「川だよ。梅雨時の川で、何人も流された」
「口減らしの話なんぞ、今さら外の人にすることじゃない」
最後にそう言った老人だけが、すぐ黙らされた。
口減らし。
その言葉を聞いた瞬間、集会所の空気が重くなった。
加代さんが湯呑を置いた。
「昔話だよ」
「でも、この行事と関係があるんですか?」
「ない」
加代さんは、強く言った。
「今は、ただの厄払いだ」
私はそれ以上聞けなかった。
取材が終わる頃、外はもう薄暗かった。
山に囲まれているせいで、夕方が早い。
集会所を出ると、村の家々の軒下に吊るされた藁人形が、さっきより近く見えた。
風はない。
それでも人形は揺れている。
ぎい。
ぎい。
縄が軋む音が、あちこちから聞こえた。
私は民宿へ戻る途中、道端で小さな藁人形を見つけた。
それは、どの家の軒下にも吊るされていなかった。
用水路のそばの泥の上に、落ちていた。
他の人形より小さい。
子どもというより、赤ん坊に近い形だった。
手足は短く、胴体は丸い。赤い糸が首に巻かれている。
泥で汚れ、藁がほどけかけていた。
見てはいけないと思った。
でも、目が離せなかった。
顔はない。
ないはずなのに。
泥のついた藁の隙間が、泣いている口のように見えた。
私は、思わず言ってしまった。
「……かわいそう」
その瞬間、村の音が消えた。
虫の声も、用水路の水音も、どこかの家から聞こえていたテレビの音も、すべて止まった。
私は息を呑んだ。
背後で、加代さんの声がした。
「言ったね」
振り返ると、加代さんが立っていた。
いつからいたのか分からない。
その後ろには、数人の村人がいた。みな黙って、私と泥の上の藁人形を見ている。
「ごめんなさい。つい」
加代さんは、ゆっくり首を振った。
「謝る相手は、こっちじゃない」
村人たちの視線が、藁人形へ向いた。
「拾ってあげなさい」
私は戸惑った。
「私が?」
「あんたが、かわいそうと言った」
「でも、触っていいんですか?」
「もう、あんたの子になった」
背筋が冷えた。
「何ですか、それ」
「今夜だけでいい。軒下に吊るして、夜明けまで見ないこと」
「見ない?」
「名前をつけない。抱かない。家の中に入れない。子守唄が聞こえても、返事をしない」
加代さんは、泥の上の藁人形を指さした。
「それができれば、明日の朝、山へ返せる」
村人の一人が、長い火箸のような道具を差し出した。
私はそれで藁人形をつかみ上げた。
軽いはずだった。
藁の塊なのだから。
でも、妙に重かった。
濡れた布団を持ち上げる時のような、腕に絡みつく重さ。
民宿に戻ると、トメさんが何も聞かずに軒先へ案内した。
私の客間の真下。
そこに、古い釘が一本打ってあった。
「ここに吊るしなさい」
私は言われた通り、藁人形の赤い糸を釘にかけた。
人形は、軒下でぐったり揺れた。
ぽた。
足先から、泥水が落ちた。
トメさんが低い声で言った。
「今夜は、窓を開けないこと」
「はい」
「名前を聞かれても、知らないと言いなさい」
「名前を聞かれるんですか?」
「名がないから、欲しがる」
トメさんは私の顔をじっと見た。
「一番いかんのは、かわいそうと思うこと」
「もう言ってしまいました」
「口に出したら親になる。心で思ったら、家になる」
意味が分からない。
でも、分かりたくなかった。
夕食は、ほとんど喉を通らなかった。
山菜の煮物。味噌汁。焼いた川魚。
どれも湿った匂いがして、口に入れるたびに藁の味がする気がした。
夜九時。
私は部屋に戻った。
窓の外は真っ暗だった。
竹林が風もないのに揺れている。
客間の真下には、あの藁人形が吊られているはずだ。
私は窓に背を向け、布団に座った。
スマホは圏外。
時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。
十時を過ぎた頃、軒下で音がした。
ぎい。
ぎい。
縄が揺れる音。
風ではない。
窓を閉めていても分かる。
外の空気は、まったく動いていない。
ぎい。
ぎい。
私は布団の中で丸くなった。
見ない。
窓を開けない。
返事をしない。
ぎい。
ぎい。
やがて、その音に混じって、別の音が聞こえた。
小さな足音。
ぺた。
ぺた。
軒下を、誰かが裸足で歩いている。
ここは二階だ。
窓の外には足場なんてない。
それでも音は、窓のすぐ下から聞こえていた。
ぺた。
ぺた。
そして、子どもの声がした。
「おかあ」
私は口を押さえた。
声は、窓の外から聞こえていた。
「おかあ」
小さく、濡れた声。
「さむい」
私は目を閉じた。
これは、私に向かって言っているのではない。
そう思い込もうとした。
「おかあ」
声が近づく。
「ここ、さむい」
私は返事をしなかった。
窓の外で、何かが板壁を引っかいた。
かり。
かり。
小さな爪の音。
「いれて」
返事をしてはいけない。
「いれて」
窓を開けてはいけない。
「いれて」
声が、泣きそうになる。
「かわいそうって、言ったのに」
私は息を止めた。
それから、子守唄が聞こえた。
ねんねんころりよ。
おころりよ。
誰の声か分からない。
古い女の声が、何人も重なっているようだった。
優しいのに、どこか恨んでいる。
ねんねんころりよ。
おころりよ。
坊やはよい子だ。
売られておいき。
私は目を開けた。
今、歌詞が違った。
売られておいき。
そんな歌詞ではない。
子守唄は、窓の外で続いている。
ねんねんころりよ。
おころりよ。
口が減るなら。
山へおいき。
私は耳を塞いだ。
けれど、声は頭の中に直接入ってくる。
山へおいき。
水へおいき。
土へおいき。
家には戻るな。
家には戻るな。
家には戻るな。
その時、窓ガラスに、こつん、と何かが当たった。
私は見ないようにした。
こつん。
こつん。
こつん。
小さな額を、何度もガラスにぶつけているような音。
「おかあ」
声が、今度ははっきり私の名前を呼んだ。
「由衣」
私は凍りついた。
私は、真壁由衣という。
村の人には名刺を渡している。だから名前を知られていてもおかしくはない。
そう思おうとした。
しかし、窓の外の声は続けた。
「由衣、おかあ」
私は違うと言いたかった。
私はあなたの母親じゃない。
でも、声に出せば返事になる。
私は両手で口を押さえたまま、朝まで耐えるしかなかった。
夜中の一時。
部屋の襖が、少し開いた。
廊下の闇が、細く入ってくる。
私は布団の上で体を固くした。
閉めたはずだった。
確かに閉めた。
襖の隙間から、トメさんの声がした。
「由衣さん」
私は答えなかった。
「開けちゃ駄目よ」
トメさんの声は、廊下からではなく、窓の外から聞こえているようにも思えた。
「どっちも開けちゃ駄目」
どっちも。
窓と襖。
私は襖を見つめた。
隙間の暗闇の奥に、小さな白い手が見えた。
子どもの手だった。
指先が、畳の上を這っている。
部屋の中へ入ろうとしている。
私は悲鳴を飲み込んだ。
その手は、ひどく細かった。
爪の間に泥が詰まっている。
皮膚はふやけ、ところどころ藁の繊維が刺さっている。
手が、私の方へ伸びた。
「おかあ」
声は襖の向こうから。
「そっち、あったかい?」
私は動けなかった。
外に吊るしたはずの藁人形が、どうして襖の向こうにいるのか。
いや。
外にいるのは藁人形で、襖の向こうにいるのは別のものなのか。
その時、廊下の奥から加代さんの声がした。
「戻りなさい」
白い手が止まった。
加代さんの足音が、ゆっくり近づいてくる。
「まだ、その人は家じゃない」
白い手が、畳を掻いた。
「おかあって言った」
「言っただけだ」
「かわいそうって言った」
「それも言っただけだ」
「名前、呼んだ」
「名は、もらってない」
白い手が、すっと引っ込んだ。
襖が閉まる。
私はしばらく息もできなかった。
廊下の向こうで、加代さんが言った。
「朝まで、口を開けるな」
それきり、足音は消えた。
朝になった時、私は布団の上で座ったまま気を失っていた。
障子の向こうが白く明るい。
鳥の声が聞こえる。
虫の声も、水の音も戻っている。
私はふらつきながら立ち上がった。
窓に近づく。
開けてはいけないと言われた。
でも、朝なら大丈夫だと思った。
窓ガラス越しに、下を見る。
軒下の藁人形は、吊るされたままだった。
ただ、昨日より少し大きくなっている気がした。
赤ん坊ほどだったものが、三歳くらいの子どもの大きさになっている。
手足も、昨日より長い。
そして、顔のあたりに、黒い凹みが二つできていた。
目のようだった。
私は後ずさった。
朝食の席で、トメさんは何も言わなかった。
味噌汁を置き、漬物を置き、焼き魚を置く。
私は箸を持てなかった。
「加代さんは?」
私が聞くと、トメさんは台所の方を見た。
「山へ行った」
「あの人形を返しに?」
「まだ返せない」
「朝になったら返せるって」
「名を呼ばれたんだろう」
私は黙った。
トメさんは、私の顔を見てため息をついた。
「返事は?」
「してません」
「名前は?」
「つけてません」
「かわいそうとは?」
私は答えられなかった。
トメさんは、私の沈黙で察したようだった。
「思ったね」
「……見たら、そう思うじゃないですか」
「だから、見るなと言うんだよ」
トメさんは、味噌汁の湯気を見つめた。
「見たものをかわいそうと思える人間は、連れていかれる。ここでは昔からそう」
「どこへ?」
「親の代わりに、軒下へ」
私は箸を置いた。
「もう帰ります」
「道は?」
「バス停まで歩きます」
「歩ければね」
外を見ると、昨夜は降っていなかったはずなのに、道が泥でぬかるんでいた。
山の方から霧が下りてきている。
私は荷物をまとめ、民宿を出ようとした。
軒下の藁人形の前を通る時、できるだけ見ないようにした。
でも、聞こえた。
小さな声。
「おかあ、どこいくの」
私は走った。
村の道を下り、バス停へ向かう。
だが、いくら歩いてもバス停に着かなかった。
同じ家の前に出る。
同じ石仏の横を通る。
同じ用水路の角を曲がる。
そしてまた、民宿の前に戻ってくる。
軒下で、藁人形が揺れている。
ぎい。
ぎい。
「おかえり」
小さな声がした。
私は逃げるのをやめた。
民宿の前で膝をついた。
村の人たちが、いつの間にか周りに集まっていた。
誰も驚いていない。
加代さんもいた。
手には、古い木箱を持っている。
「どうすればいいんですか」
私の声はかすれていた。
加代さんは木箱を開けた。
中には、赤い糸の束と、小さな鈴が入っていた。
「今夜、子守をしてもらう」
「子守?」
「夜明けまで、あの子を膝に置いて、歌を聞かせる」
「家の中に入れたら駄目って」
「もう外の子じゃない」
加代さんは、私の目を見た。
「昨夜、あんたの名前を呼んだ。今朝、あんたが心でかわいそうと思った。なら、半分は中の子だ」
「半分?」
「今夜、抱いてしまえば、完全にあんたの子になる」
「抱かなかったら?」
村人たちが、少しだけ顔を伏せた。
加代さんは静かに言った。
「軒下に吊るされる」
私は言葉を失った。
その夜、私は集落の奥にある小さな堂へ連れていかれた。
子守堂と呼ばれているらしい。
山に入る手前、竹林の中にある古い木造の堂だった。戸は歪み、屋根は苔むし、入口には腐りかけた注連縄がかかっている。
中は狭かった。
畳二枚ほどの板間。
奥には、小さな地蔵が並んでいる。
どの地蔵も、顔が削られていた。
中央に座布団が一枚敷かれていた。
私はそこに座らされた。
加代さんが、軒下から外した藁人形を持ってくる。
人形は、もう赤ん坊ではなかった。
私の腕に収まるくらいの、幼い子どもの大きさになっている。藁の手足はしんなり垂れ、赤い糸は首だけでなく、腹にも、手首にも巻かれていた。
顔には、黒い凹みが二つ。
その下に、細い裂け目があった。
口のようだった。
加代さんは、人形を私の前に置いた。
「抱くなと言いましたよね」
私が言うと、加代さんは首を振った。
「自分から抱いたらいかん。向こうが膝に来たら、落としたらいかん」
「同じじゃないですか」
「同じじゃない」
加代さんは、赤い糸の束を私の手首に結んだ。
もう片方の端は、藁人形の首に結ばれている。
「これ、外してください」
「夜明けまで切れなければ、返せる」
「切れたら?」
「親子になる」
私は泣きそうになった。
外では、村人たちが堂を囲んでいる。
誰も助けてくれない。
加代さんは、最後に小さな鈴を私の前に置いた。
「眠くなったら鳴らしなさい」
「鳴らしたらどうなるんですか?」
「村の者が歌を止める」
「歌?」
加代さんは答えず、堂の戸を閉めた。
外から閂をかける音がした。
私は藁人形と二人きりになった。
夜が深くなる。
堂の中は暗い。
蝋燭一本だけが揺れている。
外から、村人たちの声が聞こえ始めた。
子守唄だった。
ねんねんころりよ。
おころりよ。
坊やはよい子だ。
ねんねしな。
最初は普通の歌だった。
けれど、何度も繰り返されるうちに、少しずつ音程がずれていく。
ねんねんころりよ。
おころりよ。
帰る家など。
ありゃしない。
私は耳を塞ぎたかった。
でも、手首の赤い糸が藁人形につながっている。少し動くだけで、藁がざわ、と音を立てた。
人形が、動いた。
ほんの少し。
膝の方へ、にじり寄る。
私は息を止めた。
人形は、また動いた。
ずる。
ずる。
藁の胴が板間を擦る。
外の歌は続いている。
親が捨てたら。
山の子だ。
山が返せば。
軒の子だ。
人形が私の膝に触れた。
冷たく湿っている。
藁なのに、肌のような柔らかさがあった。
私は震えながら、鈴に手を伸ばした。
その時、人形の顔の裂け目が動いた。
「おかあ」
私は鈴を鳴らせなかった。
「おかあ、ねむい」
声は、昨夜より近かった。
人形が私の膝に乗る。
重い。
本物の子どもくらいの重さ。
私は落とすまいとして、反射的に両腕で支えてしまった。
抱いた。
そう思った瞬間、外の歌が止まった。
堂の中が静まり返る。
私の腕の中で、藁人形が笑った。
「つかまえた」
赤い糸が、手首に食い込んだ。
私は叫んだ。
糸は生き物のように動き、私の手首から腕へ、肩へ、首へ巻きついていく。
藁人形の体から、泥の匂いがした。
乳の腐った匂い。
濡れた布団の匂い。
古い産着の匂い。
人形の黒い目が、私を見上げる。
「なまえ、ちょうだい」
私は首を振った。
「なまえ」
言ってはいけない。
「なまえ」
名前をつけてはいけない。
「なまえ」
外で、加代さんの声がした。
「言うな!」
私は歯を食いしばった。
人形の口が、ゆっくり開く。
中から、細い指が出てきた。
一本。
二本。
三本。
口の中に、別の子どもの手がある。
その手が私の頬に触れた。
冷たい。
「おかあ」
人形の声が、幼くなる。
「わたし、だれ?」
かわいそう。
そう思ってしまった。
その瞬間、人形の口が笑った。
私の心を読んだのだ。
赤い糸が、喉に絡む。
息ができない。
私は必死に鈴をつかみ、鳴らした。
ちりん。
外で村人たちが一斉に歌い出す。
ねんねんころりよ。
おころりよ。
抱いた子捨てるな。
名を呼ぶな。
抱いた子捨てるな。
名を呼ぶな。
私は藁人形を膝から落とそうとした。
でも、腕が動かない。
人形の重さが増していく。
赤ん坊から、幼児へ。
幼児から、小学生くらいへ。
膝の上に乗りきらないほど大きくなっていく。
藁の手が、私の首に回った。
抱きついている。
甘えるように。
絞め殺すように。
「なまえ」
私は声を出さなかった。
「なまえ」
涙が出る。
「なまえ」
口の中に、血の味が広がる。
その時、堂の奥の地蔵が、一斉にこちらを向いた。
顔の削られた地蔵たち。
目も口もない石の顔が、なぜか私を見ていた。
その足元に、小さな藁人形が山ほど積まれていることに、私は初めて気づいた。
どれも赤い糸を巻かれている。
顔はない。
けれど、一体一体に髪の毛が結びつけられていた。
長い黒髪。
白髪。
子どもの柔らかい髪。
その中に、昨日取材で会った老人たちの顔が見えた気がした。
いや、顔ではない。
藁の隙間に、目があった。
たくさんの目が、私を見ている。
ここで子守をした人たちだ。
朝まで耐えられなかった人たち。
かわいそうと思ってしまった人たち。
名前を与えてしまった人たち。
私は、ようやく分かった。
この行事は、子どもを慰めるためのものではない。
村が捨てたものに、毎年、誰かを差し出すためのものだ。
かわいそうと言える人間を、親の代わりにするためのものだ。
私の膝の上の藁人形が、耳元で囁いた。
「おかあ、わたしのなまえ」
私は目を閉じた。
名前を言ってはいけない。
でも、言わなければ殺される。
喉に巻きついた糸が締まる。
息が止まる。
視界が暗くなる。
その時、外から加代さんの声がした。
「由衣!」
思わず、私は目を開けた。
加代さんが、堂の戸の隙間から叫んでいた。
「その子を見捨てなさい!」
私は藁人形を見下ろした。
黒い目。
裂けた口。
泥で汚れた藁の頬。
それはもう、怪物に見えなかった。
寒くて、寂しくて、名前もなく、家の軒下に吊るされ続けた子どもに見えた。
私は思った。
かわいそう。
その瞬間、赤い糸が切れた。
ぷつん。
乾いた音だった。
外の村人たちの歌が止まった。
加代さんが叫んだ。
「言ったか!」
私は声を出していない。
でも、もう遅かった。
藁人形が、私の胸に顔を埋めた。
「きこえた」
次の瞬間、堂の中が真っ暗になった。
目が覚めると、朝だった。
私は民宿の客間にいた。
布団の中で寝ていた。
窓の外には、明るい竹林が見える。
鳥が鳴いている。
スマホを見ると、圏外ではなくなっていた。
時刻は午前七時十二分。
夢だったのかと思った。
だが、手首には赤い糸の跡が残っていた。
首にも、細い痣がある。
私は部屋を飛び出し、一階へ降りた。
トメさんはいなかった。
加代さんもいない。
民宿の中は静まり返っている。
玄関へ向かう途中、土間に小さな靴が置かれているのを見つけた。
泥だらけの、子どもの草履だった。
昨夜まで、そんなものはなかった。
外に出ると、村の軒下に吊るされていた藁人形が、すべてなくなっていた。
民宿の軒下も空だった。
ただ、私の客間の真下にだけ、赤い糸が一本垂れていた。
その先には何もない。
私はそのまま村を出た。
今度は迷わなかった。
バス停にも着いた。
始発のバスに乗り、駅へ向かった。
運転手に話しかけられることもなく、村の人に止められることもなかった。
ただ、バスが村を離れる時、窓の外に加代さんが立っているのが見えた。
加代さんは、私に向かって深く頭を下げていた。
感謝ではない。
謝罪でもない。
あれは、見送りだった。
私は東京に戻った。
記事は書かなかった。
編集部には、体調不良で取材を中断したと伝えた。
カメラのデータも確認しなかった。
いや、一度だけ確認した。
村で撮った藁人形の写真。
どの写真にも、吊るされた人形の横に、小さな子どもが写っていた。
裸足で、泥だらけで、こちらを見ている。
顔はぼやけているのに、なぜか笑っているのだけは分かった。
私はその日のうちに、データを消した。
それからしばらく、何も起きなかった。
仕事にも戻った。
街は乾いていた。
アスファルト。コンビニの光。電車の音。
あの村の湿った匂いは、少しずつ遠ざかっていった。
けれど、梅雨が明ける前の夜。
私の部屋のベランダで、音がした。
ぎい。
ぎい。
風で物干し竿が揺れているのだと思った。
私はカーテンを開けた。
ベランダの軒下に、藁人形が吊るされていた。
小さな藁人形。
首には、赤い糸。
顔はない。
けれど、藁の隙間が笑っているように見えた。
私は窓を開けなかった。
通報もしなかった。
ただ、カーテンを閉め、部屋の真ん中で座り込んだ。
その夜から、毎晩聞こえる。
ぎい。
ぎい。
軒下で揺れる音。
ぺた。
ぺた。
裸足でベランダを歩く音。
そして、子どもの声。
「おかあ」
私は返事をしない。
窓も開けない。
名前もつけない。
でも、朝になるたび、ベランダの藁人形は少しずつ大きくなっている。
赤ん坊ほどだったものが、今はもう、三歳くらいの大きさになった。
昨夜、初めて人形が歌った。
ねんねんころりよ。
おころりよ。
坊やはよい子だ。
ねんねしな。
歌は、途中で止まった。
そして、窓の向こうで小さな声がした。
「由衣」
私は口を押さえた。
「おかあ」
窓ガラスに、濡れた小さな手形がついた。
「わたし、まだ名前がないの」
私は返事をしなかった。
でも、胸の奥で、また思ってしまった。
かわいそう。
その瞬間、ベランダの向こうで、藁人形が嬉しそうに揺れた。
ぎい。
ぎい。
赤い糸の先が、窓の隙間から、少しだけ部屋の中へ入ってきていた。




