迎え水
祖母の家は、いつ行っても濡れていた。
雨が降っているわけではない。
それでも玄関の土間は黒く湿り、廊下の板は足裏に吸いつき、畳は夏でもひんやりしていた。
山と田んぼに挟まれた、小さな集落だった。
駅から一日に数本しかないバスに乗り、終点で降りて、さらに細い坂道を二十分ほど歩く。道の両側には用水路があり、水はいつも濁っていた。流れているのに、どこか淀んでいる。そんな水だった。
祖母が死んだのは、梅雨の終わりだった。
葬式は母だけが行った。
私は仕事を理由に行かなかった。
正直、行きたくなかった。
祖母は優しい人だったと思う。子どもの頃は、夏休みになるとよく預けられた。縁側でスイカを食べ、夜は蚊帳の中で寝た。台所にはいつも味噌汁の匂いがして、仏間には線香の煙が細く立っていた。
けれど、私はあの家が嫌いだった。
夜になると、どこからか水の音がする。
ぽた。
ぽた。
天井でも、床下でも、井戸でもない。
家の中のどこかで、誰かが濡れた指を垂らしているような音。
その音が怖くて、私はいつも祖母の布団にもぐり込んだ。
祖母は私の頭を撫でながら、決まってこう言った。
「聞こえても、返事をしたらいかんよ」
水の音に返事なんてするはずがない。
そう思っていた。
母から電話が来たのは、祖母の四十九日が近い頃だった。
「琴音、悪いんだけど、おばあちゃんの家に行ってきてくれない?」
「何で私が」
「片づけしなきゃいけないの。家を売るか、壊すか決める前に、大事なものだけ取ってきたいから」
「お母さんが行けばいいじゃん」
電話の向こうで、母は黙った。
その沈黙が嫌だった。
「……私は、あの家には泊まれない」
「何それ」
「日帰りでいいから。仏壇の引き出しに、古い通帳と印鑑があるはずなの。あと、位牌の下に封筒があるって」
「仏壇?」
「うん」
母の声が、少し低くなった。
「琴音。仏壇の前に、水が置いてあると思う」
「水?」
「白い湯呑」
「それが何?」
「触らなくていい。減ってても足さなくていい。濁ってても捨てなくていい」
私は眉をひそめた。
「何で?」
「いいから。水だけは触らないで」
母はそこで言葉を切った。
そして、ほとんど囁くように付け足した。
「もし水面に誰か映っても、見なかったことにして」
私は笑った。
「怖がらせないでよ」
「怖がらせてるんじゃないの」
母は言った。
「私、あの家で一度、あんたの顔を見たの」
「何言ってるの」
「まだ、あんたが生まれる前に」
電話はそこで切れた。
翌日、私は祖母の家へ向かった。
空はずっと曇っていた。雨は降っていないのに、空気が重く、肌に薄い膜が貼りつくようだった。
バスを降りると、田んぼの匂いがした。
青い稲。
濡れた土。
用水路に溜まった藻。
そして、どこかで腐った花のような匂い。
祖母の家は、集落の一番奥にあった。
黒い瓦屋根。古い木の門。苔の生えた石段。
誰も住んでいないはずなのに、玄関の前だけきれいに掃かれていた。
鍵は、母に言われた通り、植木鉢の下にあった。
玄関を開けると、冷たい空気が出てきた。
人のいない家の匂いではなかった。
線香の匂いがした。
「……誰かいるの?」
声を出してから、しまったと思った。
返事はない。
けれど、家の奥で、ぽた、と水の音がした。
私は靴を脱ぎ、廊下へ上がった。
板が湿っている。
歩くたび、足裏にぬるい冷たさが残った。
台所を覗く。
誰もいない。
居間を見る。
古い座布団が積まれているだけ。
襖の向こうが、仏間だった。
私はしばらくその前で立ち止まった。
子どもの頃、この襖を一人で開けるのが嫌だった。
仏間は、昼間でも薄暗い。
祖父や曽祖父の遺影が並び、黒い仏壇の金具が鈍く光っている。線香の灰はいつも湿っていて、花瓶の菊はなぜかすぐに腐った。
私は息を吸い、襖を開けた。
仏間は、昔のままだった。
畳の青臭さ。線香の煙。低い天井。
そして、仏壇の前に置かれた白い湯呑。
水が入っていた。
透明ではなかった。
ほんの少しだけ、黄色く濁っている。
水面には、薄い油の膜のようなものが張っていた。
私は近づかなかった。
母の言葉を思い出したからだ。
水だけは触らないで。
私は仏壇の引き出しを開けた。
通帳。印鑑。古い封筒。
言われたものはすぐ見つかった。
それで帰ればよかった。
帰ればよかったのに。
封筒の裏に、筆で小さく文字が書かれていた。
――迎え水のこと。
私は封筒を開けた。
中には、古い和紙が三枚入っていた。
文字は祖母のものだった。
『迎え水は、盆の火では戻れぬ者のために置くこと』
『水が澄んでいる間は、こちらを見るだけ』
『水が濁ったら、向こうが近い』
私は思わず、湯呑を見た。
濁っている。
喉が、ゆっくり冷えた。
続きには、こう書かれていた。
『水面に顔を映してはならない』
『名を呼ばれても、返事をしてはならない』
『水を替えた者が、次の水番となる』
水番。
意味が分からなかった。
でも、嫌な言葉だった。
私は和紙を封筒に戻し、バッグへ入れた。
その時、背後で声がした。
「水、替えに来たんかい」
私は悲鳴を上げそうになった。
振り返ると、縁側に老婆が立っていた。
隣家の宮田さんだった。
昔からこの集落に住んでいる人で、祖母と仲が良かった。小柄で、白髪を後ろで結び、黒い割烹着を着ている。
開けた覚えのない雨戸の隙間から、いつの間にか入ってきたらしい。
「宮田さん……びっくりした」
「琴音ちゃんか」
老婆は私を見て、目を細めた。
「大きくなったねえ」
「お久しぶりです」
「あんたが来るとは思わんかった」
「母に頼まれて」
「そうかい」
宮田さんは仏壇の湯呑を見た。
その顔が、わずかに曇った。
「水、見たかい」
「……はい」
「映ったかい」
「何がですか」
「顔」
私は首を振った。
「見てません」
「なら、まだ間に合う」
宮田さんは畳に上がろうとせず、縁側の敷居の向こうに立ったままだった。
「日が暮れる前に帰りなさい」
「まだ三時ですよ」
「山の三時は早い。雨の日は、もっと早い」
「雨、降ってませんけど」
私がそう言った瞬間、屋根の上で音がした。
ぽつ。
ぽつ。
雨だった。
さっきまで降っていなかったのに。
宮田さんは、濡れた庭を見ずに言った。
「この家の雨は、空から降るとは限らん」
意味が分からなかった。
宮田さんは私の方へ一歩近づいた。
「いいかい、琴音ちゃん。仏壇の水が増えても、減っても、触ったらいかん。夜になって、誰かが帰ってきても、戸を開けたらいかん」
「誰かって」
「帰る家を間違えたものだよ」
老婆の声は乾いていた。
「このあたりは昔、川でよく子どもが死んだ。田んぼの用水に落ちる。橋から流される。井戸に落ちる。水で死んだものは、火の道を通れん。だから水を見て戻ってくる」
「戻ってくるって、どこに」
「自分の家だと思ったところに」
宮田さんは仏壇を見た。
「この家は、昔から水が強い。呼びやすいんよ」
「じゃあ、あの水は何なんですか」
「戸口だよ」
私は湯呑を見た。
小さな白い湯呑。
水面が、わずかに揺れていた。
「湯呑なのに?」
「水に大きい小さいはない。映れば、そこが戸になる」
宮田さんは私に背を向けた。
「帰りなさい。通帳も印鑑も持ったなら、もう用はない」
「宮田さんは入らないんですか」
老婆は振り返らなかった。
「私はもう、あの畳には上がれん」
そのまま、庭の方へ出ていった。
気づくと雨は本降りになっていた。
私は急いで荷物をまとめた。
帰ろう。
そう思った。
玄関まで行き、靴を履く。
ドアを開ける。
外は白く煙るほどの雨だった。
石段の下の道に、水が流れていた。
用水路が溢れたのだろうか。細い道全体が、浅い川のようになっている。
私は傘を開き、外へ出た。
門を抜け、坂を下りようとした。
けれど、十歩も行かないうちに足が止まった。
道が、なかった。
山から流れてきた濁流が、坂道を横切っていた。水は茶色く泡立ち、竹の葉や折れた枝を巻き込んでいる。
渡れる深さではない。
私はスマホを取り出した。
圏外だった。
「嘘でしょ」
仕方なく家へ戻った。
宮田さんの家に行こうにも、そちらへ続く道も水に沈んでいる。
雨はどんどん強くなった。
屋根を叩く音。
樋から溢れる音。
用水路が唸る音。
家全体が、水の中に沈んでいくみたいだった。
私は居間で待つことにした。
日が暮れるまでに雨が弱まれば帰れる。そう思った。
でも、山の夕方は早かった。
四時半を過ぎる頃には、家の中が薄暗くなった。
廊下の奥、仏間だけが妙に暗い。
私は電気をつけようとした。
点かなかった。
ブレーカーを見ても落ちていない。
停電かもしれない。
スマホのライトをつける。
白い光が廊下を照らした。
床が濡れていた。
仏間の方から、細い水の筋が伸びている。
私はライトを向けた。
襖の下から、水が染み出していた。
ぽた。
ぽた。
水の音。
私は動けなかった。
襖の向こうには、仏壇がある。
湯呑がある。
小さな湯呑一杯の水から、こんなに流れるはずがない。
私は後ずさった。
その時、仏間の中から声がした。
「琴音」
祖母の声だった。
懐かしい声。
少し鼻にかかった、ゆっくりした声。
「琴音、水が濁っとるよ」
私は口を押さえた。
返事をしてはいけない。
子どもの頃、祖母に言われた。
聞こえても、返事をしたらいかんよ。
「琴音」
声は優しかった。
「水、替えておくれ」
私は首を振った。
声は続いた。
「おばあちゃん、喉が渇いたよ」
涙が出そうになった。
祖母の葬式に行かなかった。
最後の顔を見なかった。
電話にも、あまり出なかった。
忙しいから。
疲れているから。
また今度でいいから。
そうやって、私は祖母を後回しにした。
「琴音」
襖の向こうで、何かが畳を擦った。
「おばあちゃんに、水をちょうだい」
私は耳を塞いだ。
雨の音が強くなる。
水が、廊下をこちらへ近づいてくる。
足元が冷たい。
見ると、裸足のつま先が水に濡れていた。
仏間から流れてきた水が、私の足首に触れている。
ぬるかった。
冷たいのではない。
人肌より少し低い、嫌なぬるさ。
私は台所へ逃げた。
蛇口をひねる。
水は出なかった。
停電だけではなく、断水もしているのだろうか。
しかし、背後では水音がする。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
振り返ると、流し台の排水口から水が逆流していた。
黒い水だった。
細い髪の毛のようなものが、排水口からゆっくり出てくる。
私は悲鳴を飲み込み、台所を飛び出した。
玄関へ走る。
外へ出ようとした。
ドアが開かない。
鍵は開いている。
力いっぱい引いても、びくともしない。
ドアの向こうで、水が流れている音がした。
まるで玄関のすぐ外が、深い川になっているみたいだった。
その時、スマホが鳴った。
母からだった。
圏外だったはずなのに、着信している。
私は震える指で通話を押した。
「お母さん!」
『琴音、まだ家にいるの?』
「雨で帰れない。道が水で」
電話の向こうで、母が息を呑んだ。
『仏壇の水、見た?』
「見た。でも触ってない」
『水面に顔は?』
「見てない」
『本当に?』
私は答えようとして、止まった。
最初に仏壇の引き出しを開けた時。
和紙を読んだ時。
私は湯呑を見た。
水面を、見た。
その時、何か映っていなかったか。
白い天井。黒い仏壇。私の手。
そして。
私の肩の後ろに、濡れた髪の女が立っていなかったか。
「……少しだけ」
母が電話の向こうで泣きそうな声を出した。
『琴音、よく聞いて。今からでも間に合うかもしれない。水を替えちゃ駄目。名前を呼ばれても返事しちゃ駄目。仏壇の扉が開いても、中を覗いちゃ駄目』
「何がいるの」
『分からない』
「おばあちゃんじゃないの?」
母は黙った。
そして、はっきり言った。
『おばあちゃんは、あの家から出たかった人よ』
電話が切れた。
同時に、仏間の方で、ぎい、と音がした。
仏壇の扉が開く音だった。
私は台所の柱にもたれたまま、息を殺した。
見てはいけない。
覗いてはいけない。
だが、家の中の水音が止まった。
雨の音も消えた。
完全な静寂。
その中で、仏間から小さな声がした。
「ただいま」
子どもの声だった。
祖母ではない。
男の子とも女の子ともつかない、濡れた声。
「ただいま」
もう一つ、別の声。
「ただいま」
また一つ。
「ただいま」
「ただいま」
「ただいま」
声が増えていく。
仏間の中に、何人もいる。
畳を踏む音がする。
濡れた足で、ゆっくり歩く音。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
私は台所の隅で膝を抱えた。
見ない。
返事しない。
水を替えない。
それだけを繰り返した。
しかし、声の中に祖母が混じった。
「琴音」
私は歯を食いしばった。
「琴音、そこにいるんかい」
返事をしない。
「寒いねえ」
返事をしない。
「みんな、帰ってきてしもうた」
返事をしない。
「琴音、お願いがあるんよ」
返事をしない。
祖母の声が、すぐ近くでした。
「おばあちゃんの代わりに、水を見てておくれ」
耳元だった。
私は反射的に振り向いた。
そこには誰もいなかった。
けれど、台所の窓ガラスに、私の背後が映っていた。
濡れた人影が、びっしりと立っていた。
大人。
子ども。
老人。
赤ん坊を抱いた女。
顔のない学生服。
みんな水を滴らせている。
そして、一番前に祖母がいた。
祖母は、死んだ時の顔ではなかった。
子どもの頃に見た、優しい祖母の顔だった。
でも、その目だけが真っ黒だった。
私は叫んだ。
その瞬間、廊下の水が一斉に動いた。
足首をつかまれる。
水なのに、指の形をしていた。
冷たい手が、何本も、何本も、私の足に絡みつく。
私は柱にしがみついた。
畳の上から、声が聞こえる。
「水を」
「水を」
「水を」
「水を替えて」
私は首を振った。
「嫌!」
声を出してしまった。
家の中のすべての音が止まった。
しまった。
そう思った時には、もう遅かった。
仏間から、祖母の声がした。
「返事、したね」
台所の床が抜けた。
落ちたのではない。
床が水になった。
私は黒い水の中へ沈んだ。
息ができない。
手を伸ばしても、何もつかめない。
目を開けると、暗い水の底に仏壇があった。
畳も、遺影も、位牌も、水の中に沈んでいる。
湯呑だけが、逆さまに浮かんでいた。
その中から、無数の顔がこちらを覗いている。
みんな、帰る家を探している顔だった。
その中に、祖母がいた。
祖母は私を見て、少し悲しそうに笑った。
口が動く。
ごめんね。
次の瞬間、私の喉に水が流れ込んだ。
朝。
目を覚ますと、私は仏間に座っていた。
雨は上がっていた。
障子の向こうから、白い朝の光が差している。
畳は乾いていた。
廊下にも水はない。
仏壇の前には、白い湯呑が置かれている。
水は澄んでいた。
私はしばらく、それを見つめていた。
見てはいけないのに、目が離せなかった。
水面に、私の顔が映っている。
でも、少し違った。
髪が濡れている。
肌が青白い。
目の奥が、黒く沈んでいる。
そして、私の後ろに祖母はいなかった。
祖母の遺影も、仏壇の中から消えていた。
代わりに、見覚えのない小さな位牌が一つ増えていた。
そこには、私の名前が書かれていた。
佐伯琴音。
私は立ち上がろうとした。
足が動かない。
畳に膝をついたまま、体がそこから離れなかった。
喉が渇いている。
ひどく渇いている。
でも、水を飲んではいけない。
そう思うのに、手が勝手に湯呑へ伸びる。
その時、玄関の方で声がした。
「琴音?」
母の声だった。
私は叫ぼうとした。
来ないで。
仏間に入らないで。
水を見ないで。
けれど、私の口から出たのは、ぽた、という水音だけだった。
母の足音が、廊下を近づいてくる。
祖母の家は、いつ行っても濡れている。
雨が降っていなくても、土間は黒く湿り、廊下の板は足裏に吸いつき、畳は夏でもひんやりしている。
それは、この家が古いからではない。
誰かがずっと、水を見ているからだ。
襖の向こうで、母が息を呑んだ。
「琴音……?」
私は仏壇の前で、白い湯呑を両手で包んだ。
水面に、母の顔が映る。
やめて。
見ないで。
そう思った。
でも、喉の奥から出た声は、私のものではなかった。
「おかえり」




