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4/13

迎え水

 祖母の家は、いつ行っても濡れていた。


 雨が降っているわけではない。

 それでも玄関の土間は黒く湿り、廊下の板は足裏に吸いつき、(たたみ)は夏でもひんやりしていた。


 山と田んぼに挟まれた、小さな集落だった。


 駅から一日に数本しかないバスに乗り、終点で降りて、さらに細い坂道を二十分ほど歩く。道の両側には用水路があり、水はいつも濁っていた。流れているのに、どこか(よど)んでいる。そんな水だった。


 祖母が死んだのは、梅雨の終わりだった。


 葬式は母だけが行った。

 私は仕事を理由に行かなかった。


 正直、行きたくなかった。


 祖母は優しい人だったと思う。子どもの頃は、夏休みになるとよく預けられた。縁側でスイカを食べ、夜は蚊帳(かや)の中で寝た。台所にはいつも味噌汁の匂いがして、仏間(ぶつま)には線香の煙が細く立っていた。


 けれど、私はあの家が嫌いだった。


 夜になると、どこからか水の音がする。


 ぽた。


 ぽた。


 天井でも、床下でも、井戸(いど)でもない。

 家の中のどこかで、誰かが濡れた指を垂らしているような音。


 その音が怖くて、私はいつも祖母の布団にもぐり込んだ。


 祖母は私の頭を撫でながら、決まってこう言った。


「聞こえても、返事をしたらいかんよ」


 水の音に返事なんてするはずがない。


 そう思っていた。


 母から電話が来たのは、祖母の四十九日が近い頃だった。


「琴音、悪いんだけど、おばあちゃんの家に行ってきてくれない?」


「何で私が」


「片づけしなきゃいけないの。家を売るか、壊すか決める前に、大事なものだけ取ってきたいから」


「お母さんが行けばいいじゃん」


 電話の向こうで、母は黙った。


 その沈黙が嫌だった。


「……私は、あの家には泊まれない」


「何それ」


「日帰りでいいから。仏壇の引き出しに、古い通帳と印鑑があるはずなの。あと、位牌(いはい)の下に封筒があるって」


「仏壇?」


「うん」


 母の声が、少し低くなった。


「琴音。仏壇の前に、水が置いてあると思う」


「水?」


「白い湯呑(ゆのみ)


「それが何?」


「触らなくていい。減ってても足さなくていい。濁ってても捨てなくていい」


 私は眉をひそめた。


「何で?」


「いいから。水だけは触らないで」


 母はそこで言葉を切った。


 そして、ほとんど(ささや)くように付け足した。


「もし水面に誰か映っても、見なかったことにして」


 私は笑った。


「怖がらせないでよ」


「怖がらせてるんじゃないの」


 母は言った。


「私、あの家で一度、あんたの顔を見たの」


「何言ってるの」


「まだ、あんたが生まれる前に」


 電話はそこで切れた。


 翌日、私は祖母の家へ向かった。


 空はずっと曇っていた。雨は降っていないのに、空気が重く、肌に薄い膜が貼りつくようだった。


 バスを降りると、田んぼの匂いがした。


 青い稲。

 濡れた土。

 用水路に溜まった藻。

 そして、どこかで腐った花のような匂い。


 祖母の家は、集落の一番奥にあった。


 黒い瓦屋根。古い木の門。(こけ)の生えた石段。

 誰も住んでいないはずなのに、玄関の前だけきれいに掃かれていた。


 鍵は、母に言われた通り、植木鉢の下にあった。


 玄関を開けると、冷たい空気が出てきた。


 人のいない家の匂いではなかった。


 線香の匂いがした。


「……誰かいるの?」


 声を出してから、しまったと思った。


 返事はない。


 けれど、家の奥で、ぽた、と水の音がした。


 私は靴を脱ぎ、廊下へ上がった。


 板が湿っている。


 歩くたび、足裏にぬるい冷たさが残った。


 台所を覗く。

 誰もいない。


 居間を見る。

 古い座布団が積まれているだけ。


 (ふすま)の向こうが、仏間だった。


 私はしばらくその前で立ち止まった。


 子どもの頃、この襖を一人で開けるのが嫌だった。


 仏間は、昼間でも薄暗い。


 祖父や曽祖父の遺影が並び、黒い仏壇の金具が鈍く光っている。線香の灰はいつも湿っていて、花瓶の菊はなぜかすぐに腐った。


 私は息を吸い、襖を開けた。


 仏間は、昔のままだった。


 畳の青臭さ。線香の煙。低い天井。

 そして、仏壇の前に置かれた白い湯呑。


 水が入っていた。


 透明ではなかった。


 ほんの少しだけ、黄色く濁っている。

 水面には、薄い油の膜のようなものが張っていた。


 私は近づかなかった。


 母の言葉を思い出したからだ。


 水だけは触らないで。


 私は仏壇の引き出しを開けた。


 通帳。印鑑。古い封筒。

 言われたものはすぐ見つかった。


 それで帰ればよかった。


 帰ればよかったのに。


 封筒の裏に、筆で小さく文字が書かれていた。


 ――迎え(むかえみず)のこと。


 私は封筒を開けた。


 中には、古い和紙が三枚入っていた。


 文字は祖母のものだった。


『迎え水は、盆の火では戻れぬ者のために置くこと』


『水が澄んでいる間は、こちらを見るだけ』


『水が濁ったら、向こうが近い』


 私は思わず、湯呑を見た。


 濁っている。


 喉が、ゆっくり冷えた。


 続きには、こう書かれていた。


『水面に顔を映してはならない』


『名を呼ばれても、返事をしてはならない』


『水を替えた者が、次の水番となる』


 水番。


 意味が分からなかった。


 でも、嫌な言葉だった。


 私は和紙を封筒に戻し、バッグへ入れた。


 その時、背後で声がした。


「水、替えに来たんかい」


 私は悲鳴を上げそうになった。


 振り返ると、縁側に老婆が立っていた。


 隣家の宮田さんだった。


 昔からこの集落に住んでいる人で、祖母と仲が良かった。小柄で、白髪を後ろで結び、黒い割烹着を着ている。


 開けた覚えのない雨戸の隙間から、いつの間にか入ってきたらしい。


「宮田さん……びっくりした」


「琴音ちゃんか」


 老婆は私を見て、目を細めた。


「大きくなったねえ」


「お久しぶりです」


「あんたが来るとは思わんかった」


「母に頼まれて」


「そうかい」


 宮田さんは仏壇の湯呑を見た。


 その顔が、わずかに曇った。


「水、見たかい」


「……はい」


「映ったかい」


「何がですか」


「顔」


 私は首を振った。


「見てません」


「なら、まだ間に合う」


 宮田さんは畳に上がろうとせず、縁側の敷居の向こうに立ったままだった。


「日が暮れる前に帰りなさい」


「まだ三時ですよ」


「山の三時は早い。雨の日は、もっと早い」


「雨、降ってませんけど」


 私がそう言った瞬間、屋根の上で音がした。


 ぽつ。


 ぽつ。


 雨だった。


 さっきまで降っていなかったのに。


 宮田さんは、濡れた庭を見ずに言った。


「この家の雨は、空から降るとは限らん」


 意味が分からなかった。


 宮田さんは私の方へ一歩近づいた。


「いいかい、琴音ちゃん。仏壇の水が増えても、減っても、触ったらいかん。夜になって、誰かが帰ってきても、戸を開けたらいかん」


「誰かって」


「帰る家を間違えたものだよ」


 老婆の声は乾いていた。


「このあたりは昔、川でよく子どもが死んだ。田んぼの用水に落ちる。橋から流される。井戸に落ちる。水で死んだものは、火の道を通れん。だから水を見て戻ってくる」


「戻ってくるって、どこに」


「自分の家だと思ったところに」


 宮田さんは仏壇を見た。


「この家は、昔から水が強い。呼びやすいんよ」


「じゃあ、あの水は何なんですか」


「戸口だよ」


 私は湯呑を見た。


 小さな白い湯呑。


 水面が、わずかに揺れていた。


「湯呑なのに?」


「水に大きい小さいはない。映れば、そこが戸になる」


 宮田さんは私に背を向けた。


「帰りなさい。通帳も印鑑も持ったなら、もう用はない」


「宮田さんは入らないんですか」


 老婆は振り返らなかった。


「私はもう、あの畳には上がれん」


 そのまま、庭の方へ出ていった。


 気づくと雨は本降りになっていた。


 私は急いで荷物をまとめた。


 帰ろう。


 そう思った。


 玄関まで行き、靴を履く。

 ドアを開ける。


 外は白く煙るほどの雨だった。


 石段の下の道に、水が流れていた。


 用水路が溢れたのだろうか。細い道全体が、浅い川のようになっている。


 私は傘を開き、外へ出た。


 門を抜け、坂を下りようとした。


 けれど、十歩も行かないうちに足が止まった。


 道が、なかった。


 山から流れてきた濁流が、坂道を横切っていた。水は茶色く泡立ち、竹の葉や折れた枝を巻き込んでいる。


 渡れる深さではない。


 私はスマホを取り出した。


 圏外だった。


「嘘でしょ」


 仕方なく家へ戻った。


 宮田さんの家に行こうにも、そちらへ続く道も水に沈んでいる。


 雨はどんどん強くなった。


 屋根を叩く音。

 (とい)から溢れる音。

 用水路が唸る音。


 家全体が、水の中に沈んでいくみたいだった。


 私は居間で待つことにした。


 日が暮れるまでに雨が弱まれば帰れる。そう思った。


 でも、山の夕方は早かった。


 四時半を過ぎる頃には、家の中が薄暗くなった。


 廊下の奥、仏間だけが妙に暗い。


 私は電気をつけようとした。


 点かなかった。


 ブレーカーを見ても落ちていない。

 停電かもしれない。


 スマホのライトをつける。


 白い光が廊下を照らした。


 床が濡れていた。


 仏間の方から、細い水の筋が伸びている。


 私はライトを向けた。


 襖の下から、水が染み出していた。


 ぽた。


 ぽた。


 水の音。


 私は動けなかった。


 襖の向こうには、仏壇がある。


 湯呑がある。


 小さな湯呑一杯の水から、こんなに流れるはずがない。


 私は後ずさった。


 その時、仏間の中から声がした。


「琴音」


 祖母の声だった。


 懐かしい声。


 少し鼻にかかった、ゆっくりした声。


「琴音、水が濁っとるよ」


 私は口を押さえた。


 返事をしてはいけない。


 子どもの頃、祖母に言われた。


 聞こえても、返事をしたらいかんよ。


「琴音」


 声は優しかった。


「水、替えておくれ」


 私は首を振った。


 声は続いた。


「おばあちゃん、喉が渇いたよ」


 涙が出そうになった。


 祖母の葬式に行かなかった。


 最後の顔を見なかった。


 電話にも、あまり出なかった。


 忙しいから。

 疲れているから。

 また今度でいいから。


 そうやって、私は祖母を後回しにした。


「琴音」


 襖の向こうで、何かが畳を擦った。


「おばあちゃんに、水をちょうだい」


 私は耳を塞いだ。


 雨の音が強くなる。


 水が、廊下をこちらへ近づいてくる。


 足元が冷たい。


 見ると、裸足のつま先が水に濡れていた。


 仏間から流れてきた水が、私の足首に触れている。


 ぬるかった。


 冷たいのではない。


 人肌より少し低い、嫌なぬるさ。


 私は台所へ逃げた。


 蛇口をひねる。


 水は出なかった。


 停電だけではなく、断水もしているのだろうか。


 しかし、背後では水音がする。


 ぽた。


 ぽた。


 ぽた。


 振り返ると、流し台の排水口から水が逆流していた。


 黒い水だった。


 細い髪の毛のようなものが、排水口からゆっくり出てくる。


 私は悲鳴を飲み込み、台所を飛び出した。


 玄関へ走る。


 外へ出ようとした。


 ドアが開かない。


 鍵は開いている。

 力いっぱい引いても、びくともしない。


 ドアの向こうで、水が流れている音がした。


 まるで玄関のすぐ外が、深い川になっているみたいだった。


 その時、スマホが鳴った。


 母からだった。


 圏外だったはずなのに、着信している。


 私は震える指で通話を押した。


「お母さん!」


『琴音、まだ家にいるの?』


「雨で帰れない。道が水で」


 電話の向こうで、母が息を呑んだ。


『仏壇の水、見た?』


「見た。でも触ってない」


『水面に顔は?』


「見てない」


『本当に?』


 私は答えようとして、止まった。


 最初に仏壇の引き出しを開けた時。

 和紙を読んだ時。


 私は湯呑を見た。


 水面を、見た。


 その時、何か映っていなかったか。


 白い天井。黒い仏壇。私の手。


 そして。


 私の肩の後ろに、濡れた髪の女が立っていなかったか。


「……少しだけ」


 母が電話の向こうで泣きそうな声を出した。


『琴音、よく聞いて。今からでも間に合うかもしれない。水を替えちゃ駄目。名前を呼ばれても返事しちゃ駄目。仏壇の扉が開いても、中を覗いちゃ駄目』


「何がいるの」


『分からない』


「おばあちゃんじゃないの?」


 母は黙った。


 そして、はっきり言った。


『おばあちゃんは、あの家から出たかった人よ』


 電話が切れた。


 同時に、仏間の方で、ぎい、と音がした。


 仏壇の扉が開く音だった。


 私は台所の柱にもたれたまま、息を殺した。


 見てはいけない。


 覗いてはいけない。


 だが、家の中の水音が止まった。


 雨の音も消えた。


 完全な静寂。


 その中で、仏間から小さな声がした。


「ただいま」


 子どもの声だった。


 祖母ではない。


 男の子とも女の子ともつかない、濡れた声。


「ただいま」


 もう一つ、別の声。


「ただいま」


 また一つ。


「ただいま」


「ただいま」


「ただいま」


 声が増えていく。


 仏間の中に、何人もいる。


 畳を踏む音がする。


 濡れた足で、ゆっくり歩く音。


 ぴちゃ。


 ぴちゃ。


 ぴちゃ。


 私は台所の隅で膝を抱えた。


 見ない。

 返事しない。

 水を替えない。


 それだけを繰り返した。


 しかし、声の中に祖母が混じった。


「琴音」


 私は歯を食いしばった。


「琴音、そこにいるんかい」


 返事をしない。


「寒いねえ」


 返事をしない。


「みんな、帰ってきてしもうた」


 返事をしない。


「琴音、お願いがあるんよ」


 返事をしない。


 祖母の声が、すぐ近くでした。


「おばあちゃんの代わりに、水を見てておくれ」


 耳元だった。


 私は反射的に振り向いた。


 そこには誰もいなかった。


 けれど、台所の窓ガラスに、私の背後が映っていた。


 濡れた人影が、びっしりと立っていた。


 大人。

 子ども。

 老人。

 赤ん坊を抱いた女。

 顔のない学生服。


 みんな水を滴らせている。


 そして、一番前に祖母がいた。


 祖母は、死んだ時の顔ではなかった。


 子どもの頃に見た、優しい祖母の顔だった。


 でも、その目だけが真っ黒だった。


 私は叫んだ。


 その瞬間、廊下の水が一斉に動いた。


 足首をつかまれる。


 水なのに、指の形をしていた。


 冷たい手が、何本も、何本も、私の足に絡みつく。


 私は柱にしがみついた。


 畳の上から、声が聞こえる。


「水を」


「水を」


「水を」


「水を替えて」


 私は首を振った。


「嫌!」


 声を出してしまった。


 家の中のすべての音が止まった。


 しまった。


 そう思った時には、もう遅かった。


 仏間から、祖母の声がした。


「返事、したね」


 台所の床が抜けた。


 落ちたのではない。


 床が水になった。


 私は黒い水の中へ沈んだ。


 息ができない。


 手を伸ばしても、何もつかめない。


 目を開けると、暗い水の底に仏壇があった。


 畳も、遺影も、位牌も、水の中に沈んでいる。


 湯呑だけが、逆さまに浮かんでいた。


 その中から、無数の顔がこちらを覗いている。


 みんな、帰る家を探している顔だった。


 その中に、祖母がいた。


 祖母は私を見て、少し悲しそうに笑った。


 口が動く。


 ごめんね。


 次の瞬間、私の喉に水が流れ込んだ。


 朝。


 目を覚ますと、私は仏間に座っていた。


 雨は上がっていた。


 障子の向こうから、白い朝の光が差している。


 畳は乾いていた。


 廊下にも水はない。


 仏壇の前には、白い湯呑が置かれている。


 水は澄んでいた。


 私はしばらく、それを見つめていた。


 見てはいけないのに、目が離せなかった。


 水面に、私の顔が映っている。


 でも、少し違った。


 髪が濡れている。

 肌が青白い。

 目の奥が、黒く沈んでいる。


 そして、私の後ろに祖母はいなかった。


 祖母の遺影も、仏壇の中から消えていた。


 代わりに、見覚えのない小さな位牌が一つ増えていた。


 そこには、私の名前が書かれていた。


 佐伯琴音。


 私は立ち上がろうとした。


 足が動かない。


 畳に膝をついたまま、体がそこから離れなかった。


 喉が渇いている。


 ひどく渇いている。


 でも、水を飲んではいけない。


 そう思うのに、手が勝手に湯呑へ伸びる。


 その時、玄関の方で声がした。


「琴音?」


 母の声だった。


 私は叫ぼうとした。


 来ないで。


 仏間に入らないで。


 水を見ないで。


 けれど、私の口から出たのは、ぽた、という水音だけだった。


 母の足音が、廊下を近づいてくる。


 祖母の家は、いつ行っても濡れている。


 雨が降っていなくても、土間は黒く湿り、廊下の板は足裏に吸いつき、畳は夏でもひんやりしている。


 それは、この家が古いからではない。


 誰かがずっと、水を見ているからだ。


 襖の向こうで、母が息を呑んだ。


「琴音……?」


 私は仏壇の前で、白い湯呑を両手で包んだ。


 水面に、母の顔が映る。


 やめて。


 見ないで。


 そう思った。


 でも、喉の奥から出た声は、私のものではなかった。


「おかえり」

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