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降車ボタン

 最終バスに乗った時、運転手は私の顔を見て、少しだけ首をかしげた。


「……乗りますか」


 変な聞き方だった。


 バス停に立っていたのは私一人で、雨は強く、時刻は午前零時を過ぎていた。乗る以外に何があるのかと思ったが、私は疲れていたので、何も言い返さなかった。


「乗ります」


 そう言って、濡れた傘をたたみながらステップを上がった。


 車内は古い匂いがした。


 湿った座席。冷えた鉄。長年染みついた人の汗と、雨の日の学生服みたいな匂い。


 私は交通系カードを読み取り機にかざした。


 ピッ、という音は鳴らなかった。


 画面には、赤い文字でこう表示された。


『整理券をお取りください』


 今どき珍しいと思いながら、私は横の機械から整理券を引き抜いた。


 番号はなかった。


 ただ、白い紙に黒い文字でこう印字されていた。


『降りる場所を、忘れないでください』


 私は眉をひそめた。


 広告か何かだろうか。


 顔を上げると、運転手がバックミラー越しに私を見ていた。


「お客さん」


「はい?」


「降りる停留所は、決まっていますか」


「桜坂三丁目です」


 私は少し強めに答えた。


 家の最寄りのバス停だ。毎日使っているわけではないが、駅からなら何度か乗ったことがある。


 運転手は、まだ私を見ていた。


「本当に、そこでいいんですね」


「……はい」


「途中で変えない方がいいですよ」


 そう言うと、運転手は前を向いた。


 ドアが閉まる。


 ぶうん、と古いエンジン音が鳴り、バスは雨の中をゆっくり走り出した。


 車内には、私のほかに五人の乗客がいた。


 一番前の優先席に、黒い礼服の老婆。


 真ん中あたりに、作業着姿の男。


 後ろの席に、制服を着た女子高生。


 窓際に、小さな花束を抱えた若い女性。


 そして最後列に、(うつむ)いたまま動かないスーツ姿の男。


 みんな黙っていた。


 誰もスマホを見ていない。


 誰も外を見ていない。


 ただ、前を向いて座っている。


 バスの窓を、雨粒が斜めに流れていく。外の街灯はぼやけ、道路標識も店の看板も、(にじ)んで読めない。


 いつもの道のはずだった。


 でも、何かが違った。


 バスは駅前のロータリーを出て、商店街の方へ向かうはずだった。なのに、窓の外に見えるのは、見たことのない細い道だった。


 古い民家の塀。


 閉まった酒屋。


 赤く錆びたカーブミラー。


 こんな道は知らない。


 私はすぐに降車ボタンの位置を確認した。


 窓の横、手の届くところにある。

 赤い丸いボタン。


 でも、そこに小さなシールが貼られていた。


『行き先を思い出してから押してください』


 嫌な感じがした。


 車内放送が流れた。


『次は、戻り橋。戻り橋です』


 そんな停留所はない。


 私は顔を上げた。


 前方の電光掲示板にも、確かに「次は 戻り橋」と出ている。


 作業着姿の男が、ゆっくり顔を上げた。


 大きな手が震えている。


 男は何かをこらえるように唇を噛み、窓の外を見た。


 外には、橋があった。


 小さな川にかかる、古いコンクリートの橋。


 雨で濡れた欄干(らんかん)の横に、黄色いヘルメットをかぶった子どもが立っていた。


 男が息を()んだ。


「……健太」


 その声は、ひどくかすれていた。


 子どもは、橋の上で男を見ている。


 バスが停留所に近づく。


 男の手が、降車ボタンへ伸びた。


 ピンポーン。


 軽い音が鳴った。


『次、停まります』


 運転手がバックミラーを見た。


「そこでいいんですね」


 男は何度もうなずいた。


「降ろしてくれ。頼む。あの子が、あそこにいる」


 バスが停まった。


 ドアが開く。


 外から、雨の音が一気に入ってきた。


 男はふらつきながら立ち上がり、料金箱の前へ向かった。


 その時、私は見た。


 男が料金箱に入れたのは、小銭ではなかった。


 小さな靴だった。


 泥だらけの、子どもの運動靴。


 料金箱の中へ落ちた瞬間、靴は水に沈むみたいに消えた。


 男はバスを降りた。


 橋の上の子どもが笑った。


 男は泣きながら、子どもへ駆け寄る。


 ドアが閉まった。


 バスが走り出す。


 私は慌てて後ろを振り返った。


 橋はもうなかった。


 窓の外には、ただ真っ暗な雨の道路だけが続いていた。


 私は喉が乾いて、唾を飲み込んだ。


 車内の誰も、今のことに驚いていない。


 老婆も、女子高生も、花束の女性も、スーツの男も、前を向いたままだ。


「今の……何ですか」


 私は思わず声を出した。


 誰も答えない。


 運転手だけが、バックミラー越しに私を見た。


「お客さんは、桜坂三丁目でいいんですよね」


「はい」


「なら、それ以外の停留所では降りないでください」


「どういう意味ですか」


「呼ばれても、押さないでください」


 呼ばれても。


 私はその言葉の意味を聞き返そうとした。


 その前に、車内放送が流れた。


『次は、白い病室前。白い病室前です』


 若い女性が、花束を抱えたまま顔を上げた。


 窓の外が急に明るくなった。


 夜の道だったはずなのに、そこだけ昼間の病院みたいな白い光に包まれている。


 バス停の前には、大きな病院の入口があった。


 自動ドアの向こうに、車椅子の老人がいる。


 老人はガラス越しに、若い女性を見ていた。


 女性の手が震えた。


「お父さん」


 花束が、膝の上で潰れた。


 私は止めようとした。


 なぜか、止めなければいけないと思った。


「押さない方がいいです」


 女性は私を見た。


 その目は、真っ赤だった。


「今日、行けなかったの」


「え?」


「仕事があるからって。明日行くからって。そう言って、行かなかった」


 女性の唇が震える。


「あの日、お父さん、ずっと待ってたの」


 ピンポーン。


 降車ボタンが押された。


『次、停まります』


 バスがゆっくり停車する。


 女性は立ち上がり、料金箱へ向かった。


 その手には、花束がある。


 料金箱に花束を入れると、白い菊の花びらが黒く変わりながら落ちていった。


 ドアが開く。


 女性は病院へ向かって走った。


 ガラスの向こうの老人が、ゆっくり手を上げる。


 ドアが閉まる直前、私は見てしまった。


 病院の自動ドアに映っていた女性の背中には、細長い点滴の管が何本も絡みついていた。


 バスは走り出した。


 白い病院は消えた。


 車内には、老婆と女子高生とスーツの男、そして私だけが残った。


 私は座席の手すりを握りしめた。


 手が汗で濡れている。


 これは普通のバスじゃない。


 そんなことは、もう分かっていた。


 問題は、なぜ私が乗っているのかだった。


 私は死んでいない。


 橋で誰かを失ったこともない。病院で誰かを待たせたこともない。


 私はただ、仕事帰りにバスへ乗っただけだ。


 ただ帰りたかっただけだ。


 桜坂三丁目。


 自分の降りる場所を、頭の中で何度も繰り返した。


 桜坂三丁目。

 桜坂三丁目。

 桜坂三丁目。


 忘れてはいけない。


 運転席の上にある路線図を見た。


 そこには、見たことのない停留所名が並んでいた。


 戻り橋。


 白い病室前。


 声を捨てた踏切。


 押し入れ坂。


 最後の電話口。


 名前のない実家。


 終点、忘れ物預かり所。


 桜坂三丁目は、どこにもなかった。


 私は立ち上がった。


「すみません」


 運転手は答えない。


「このバス、桜坂三丁目に行きますよね?」


 運転手は前を向いたまま言った。


「お客さんが、そこを覚えていれば」


「覚えています」


「なら大丈夫です」


「路線図にないんですけど」


「忘れた人には、表示されません」


 意味が分からなかった。


 でも、その言葉を聞いた瞬間、不安が胸の奥に広がった。


 桜坂三丁目。


 私はもう一度、頭の中でつぶやいた。


 桜坂三丁目。


 自宅の最寄り。

 坂の途中にコンビニがある。小さな弁当屋がある。夜になると自動販売機の明かりだけが目立つ。


 そうだ。


 覚えている。


 私は覚えている。


 なのに、そのバス停の形が思い出せなかった。


 ベンチはあっただろうか。


 屋根はあっただろうか。


 時刻表は右側だったか、左側だったか。


 急に、頭の中の景色がぼやけた。


 雨の音が強くなる。


 車内放送が流れた。


『次は、最後の電話口。最後の電話口です』


 スーツ姿の男が、ぴくりと動いた。


 男はずっと俯いていた。

 顔色が悪い。髪は濡れていないのに、額に汗が浮いている。


 窓の外に、公衆電話が見えた。


 今どき珍しい、緑色の公衆電話。

 その向こうに、古い団地がある。


 電話ボックスの中で、受話器が揺れていた。


 鳴っている。


 外は雨なのに、その音だけが車内にまで聞こえた。


 ジリリリリリリ。


 ジリリリリリリ。


 男は耳をふさいだ。


「違う」


 小さくつぶやく。


「俺は知らなかった。知らなかったんだ」


 ジリリリリリリ。


 男は目を閉じた。


 膝の上の手が、激しく震えている。


 私は何も言えなかった。


 男の前の降車ボタンが、赤く光った。


 誰も押していない。


 でも、ボタンは内側から血がにじむみたいに、ぼうっと光っている。


 男は泣きながら首を振った。


「出たくない」


 ジリリリリリリ。


「出たら、聞こえる」


 ジリリリリリリ。


「まだ息があるって、聞こえる」


 その言葉で、私は背筋が冷えた。


 男は事故の通報を無視したのだろうか。


 いや、もっと悪い何かかもしれない。


 赤いボタンの光が強くなる。


 男は耐えていた。


 しかし次の瞬間、公衆電話の受話器がひとりで持ち上がった。


 車内に、か細い女の声が流れ込んできた。


『助けて』


 男が叫んだ。


 そして、降車ボタンを叩いた。


 ピンポーン。


『次、停まります』


 バスが止まる。


 男は料金箱へ向かった。


 彼が料金箱に入れたのは、割れたスマホだった。


 画面には、何十件もの不在着信が表示されている。


 男が降りると、公衆電話の扉が開いた。


 中から、濡れた手が一本伸びた。


 男は腰を抜かしたように動けなくなった。


 その手が、男のネクタイをつかむ。


 ドアが閉まった。


 バスが走り出す。


 男の悲鳴は、雨の中に置いていかれた。


 残ったのは、老婆と女子高生と私だけだった。


 車内はさらに暗くなっていた。


 天井の蛍光灯が一本、じじっと点滅する。


 私は自分の整理券を見た。


『降りる場所を、忘れないでください』


 文字が少し薄くなっている気がした。


 私は胸が苦しくなった。


 桜坂三丁目。


 桜坂三丁目。


 桜坂三丁目。


 そう唱えていると、女子高生がこちらを見た。


 初めて目が合った。


 彼女はまだ十六、七歳くらいに見えた。濡れてもいないのに、制服の袖だけが水を吸ったように重く垂れている。


「お姉さん」


 声は小さかった。


「降りるところ、覚えてる?」


「覚えてる」


「本当に?」


「桜坂三丁目」


「それ、どんな場所?」


 私は答えようとした。


 でも、言葉が詰まった。


 どんな場所?


 坂がある。

 コンビニがある。

 弁当屋がある。


 それだけだ。


 自分の家が近いはずなのに、そこから部屋までの道順がはっきりしない。


 右に曲がる。

 いや、左だったかもしれない。


 階段があった気もする。

 なかった気もする。


 女子高生は、悲しそうに笑った。


「思い出せなくなってる」


「違う」


「このバス、乗ってるうちに忘れるよ。自分がどこに帰るつもりだったのか」


「あなたは?」


「私は、もう忘れた」


 女子高生は窓の外を見た。


「だから、ずっと乗ってる」


 私は息を呑んだ。


「ずっとって、どれくらい?」


 彼女は考えるように首をかしげた。


「制服がまだ夏服だったから、たぶん夏」


「今は冬だよ」


「じゃあ、ずいぶん乗ってるね」


 冗談のように言ったが、その顔は笑っていなかった。


 車内放送が流れる。


『次は、声を捨てた踏切。声を捨てた踏切です』


 女子高生の肩が震えた。


 窓の外に踏切が見えた。


 遮断機が下りている。

 赤い警報灯が、雨の中で交互に光っている。


 踏切の向こうに、女子高生と同じ制服の少女が立っていた。


 口元を両手で押さえている。


 何かを言いたそうにしている。

 でも、声が出ない。


 女子高生は、ゆっくり立ち上がった。


「私、あの子のこと、止めなかった」


 彼女は言った。


「いじめられてるの、知ってたのに。助けてって言われたのに、何も言わなかった」


 私は何も言えなかった。


「だから、声がなくなったのはあの子じゃなくて、私の方だったらよかったのに」


 女子高生は、降車ボタンに手を伸ばした。


 私は思わずその手首をつかんだ。


「駄目」


「どうして?」


「降りたら、戻れないかもしれない」


 彼女は私を見た。


 その目は、もう疲れきっていた。


「乗ってても、戻れないよ」


 ピンポーン。


 彼女はボタンを押した。


 バスが停まる。


 女子高生は料金箱の前に立った。


 彼女が入れたのは、赤いリボンだった。


 制服の胸元についていたものだ。


 料金箱の中へリボンが落ちると、彼女の口がすっと消えた。


 鼻から下が、なめらかな皮膚だけになる。


 それでも彼女は、私に向かって小さく頭を下げた。


 ドアが開く。


 彼女は踏切へ歩いていった。


 踏切の向こうの少女が、両手を下ろす。


 口を開ける。


 音は聞こえなかった。


 ドアが閉まり、バスは走り出した。


 私は震えていた。


 残った乗客は、老婆と私だけ。


 老婆は優先席で、ずっと前を向いている。


 膝の上に、古い風呂敷包みを抱えていた。


 しわだらけの手が、その包みを大事そうになでている。


 私はもう、桜坂三丁目のことだけを考えようとした。


 しかし頭の中で、言葉が崩れ始めていた。


 桜坂三丁目。


 桜坂。


 三丁目。


 さくら。


 何だっけ。


 私は唇を噛んだ。


 血の味がした。


 駄目だ。


 忘れたら終わる。


 私はスマホを取り出した。


 地図アプリを開けばいい。住所を見ればいい。自宅の登録があるはずだ。


 だが、画面は真っ黒だった。


 電源ボタンを押しても反応しない。


 充電はあったはずなのに。


 車内放送が流れる。


『次は、名前のない実家。名前のない実家です』


 老婆が、ゆっくり顔を上げた。


 窓の外に、古い平屋が見えた。


 瓦屋根。低い門。庭の柿の木。


 縁側に、小さな男の子が座っている。


 男の子は裸足で、手に積み木を持っていた。


 老婆の顔が歪んだ。


「たかし」


 声は、ひどく弱かった。


 老婆は風呂敷包みを抱え直した。


「ごめんねえ。ばあちゃん、迎えに行けなくてねえ」


 私は何となく分かった。


 この人も、降りるのだ。


 老婆の手が、降車ボタンへ伸びる。


 その時。


 老婆がこちらを見た。


「お嬢さん」


「はい」


「帰る場所は、声に出して言っておきなさい」


「桜坂三丁目です」


 私はすぐに言った。


 でも、その言葉はひどく頼りなかった。


 老婆は首を振った。


「停留所の名前だけじゃ駄目よ」


「え?」


「そこへ帰って、何をするの」


 私は答えられなかった。


 帰って、何をする?


 シャワーを浴びる。寝る。明日も仕事に行く。


 それだけ。


 それだけなのに、それが急に遠く感じた。


 老婆は悲しそうに笑った。


「帰る場所っていうのはね、場所の名前じゃないのよ」


 ピンポーン。


 老婆がボタンを押した。


 バスが停まる。


 老婆は料金箱へ向かった。


 風呂敷包みをほどく。


 中には、小さな青い長靴が入っていた。


 片方だけ。


 老婆はそれを料金箱へ入れた。


 ドアが開く。


 縁側の男の子が立ち上がる。


 老婆はゆっくりバスを降りた。


 その背中が雨に溶けるように薄くなっていく。


 ドアが閉まった。


 バスはまた走り出す。


 乗客は、私一人になった。


 車内が、さらに広く感じた。


 座席が左右に並び、吊り革が揺れ、窓には雨の線が走っている。


 たった一人。


 私だけ。


 運転手がバックミラー越しに言った。


「お客さん」


「はい」


「まだ、覚えていますか」


 私は口を開いた。


 桜坂三丁目。


 言おうとした。


 でも、声が出なかった。


 さくらざか。


 さくら。


 ざか。


 三丁目。


 その言葉が、自分のものではないみたいに遠い。


「覚えています」


 私は嘘をついた。


 運転手は何も言わなかった。


 代わりに、前方の電光掲示板が変わった。


『次は、あなたの降りる場所。あなたの降りる場所です』


 窓の外が明るくなった。


 雨がやんでいる。


 バスは、見覚えのある坂道を走っていた。


 街灯。コンビニ。弁当屋。

 そうだ。


 ここだ。


 桜坂三丁目。


 私は立ち上がりかけた。


 その時、窓の外に人影が見えた。


 バス停の横に、女が立っている。


 傘も差さず、濡れたまま、こちらを見ていた。


 私だった。


 仕事帰りの服。

 肩からずり落ちかけたバッグ。

 片手には濡れた傘。


 バスを待っている。


 私は凍りついた。


 窓の外の私は、スマホを見ていた。


 時刻はきっと、午前零時過ぎ。


 そして、まもなくこのバスが来る。


 運転手が言った。


「押しますか」


 私の手は、降車ボタンの前にあった。


 押せば降りられる。


 桜坂三丁目に。


 自分が帰るはずだった場所に。


 でも、窓の外には、これからこのバスに乗る私がいる。


 もし私が降りたら、あの私はどうなるのか。


 いや。


 そもそも、今ここにいる私は誰なのか。


 整理券を見る。


 文字はほとんど消えていた。


 残っているのは、一行だけ。


『降りる場所を、忘れた方は、そのまま終点までご乗車ください』


 車内放送が流れた。


『降車ボタンを押してください。降車ボタンを押してください』


 私は耳をふさいだ。


 外の私が、顔を上げた。


 バスの窓越しに、目が合った。


 彼女は驚いた顔をした。


 そして、口を動かした。


 何を言ったのか、雨のせいで聞こえない。


 でも、分かった。


 彼女はこう言っていた。


 乗らないで。


 私の指が、赤いボタンに触れた。


 押せばいい。


 ここで降りれば、元に戻れるかもしれない。


 外の私は、必死に首を振っている。


 運転手の声が低くなった。


「お客さん。降りるなら、今です」


 私は震えながら言った。


「ここは……私の降りる場所ですか」


 運転手は答えなかった。


 その沈黙で、私は理解した。


 ここは、私の帰る場所ではない。


 私がこのバスに乗る場所だ。


 降りてはいけない。


 私はボタンから手を離した。


 バスは停まらなかった。


 窓の外の私は、後ろへ流れていく。


 バス停に立つ私は、絶望した顔でこちらを見ていた。


 そして次の瞬間、もう一台の同じバスが、反対側から静かに現れた。


 外の私は、そのバスに乗った。


 私は見ていた。


 過去の私が、濡れた傘をたたみながらステップを上がるのを。


 運転手が、あの時と同じように首をかしげるのを。


「……乗りますか」


 ドアが閉まる。


 もう一台のバスは雨の中へ消えていった。


 私の乗ったバスは、さらに暗い道へ進んだ。


 前方の掲示板が変わる。


『終点、忘れ物預かり所。忘れ物預かり所です』


 運転手が言った。


「お客さん、終点です」


 私は座席に座り直した。


「降りないと駄目ですか」


「終点ですので」


「降りたら、どうなりますか」


「忘れたものを、預けていただきます」


「何を忘れたんですか」


 運転手はバックミラー越しに私を見た。


「帰る理由です」


 バスが停まった。


 ドアが開く。


 外には、巨大な建物があった。


 倉庫のようにも、駅の忘れ物センターのようにも見える。窓はなく、入口だけが明るい。


 中には棚がいくつも並んでいた。


 靴。花束。割れたスマホ。赤いリボン。青い長靴。


 さっきの乗客たちが料金箱へ入れたものが、すべて棚に置かれている。


 その奥には、数え切れないほどの整理券が吊るされていた。


 どれも白く、文字が消えかけている。


 私は立ち上がれなかった。


 運転手は言った。


「お客さんの番です」


「私は何を預ければいいんですか」


「もう、ほとんど預かっています」


 私は自分の手を見た。


 名前を思い出そうとした。


 思い出せない。


 職場の場所。

 部屋の間取り。

 家族の顔。

 友達の声。


 全部、遠い。


 私は誰だった?


 なぜ帰ろうとしていた?


 桜坂三丁目に、何があった?


 涙が出た。


 泣いている理由も、もう分からなかった。


 ただ、悲しかった。


 その時、ポケットの中で何かが震えた。


 スマホだった。


 電源が入っている。


 画面に、一件の通知が表示されていた。


『母:今日は遅いの? ご飯あたためて待ってるね』


 私は息を止めた。


 ご飯。


 あたためて。


 待ってる。


 その言葉だけで、消えかけていた何かが胸の奥から戻ってきた。


 そうだ。


 今日は実家に帰る予定だった。


 転職が決まって、久しぶりに母に報告しに行くはずだった。


 桜坂三丁目じゃない。


 私は、桜坂三丁目で降りる予定なんかじゃなかった。


 駅から実家行きのバスに乗るはずだった。


 実家の最寄りは――


「青葉台団地前」


 声が出た。


 はっきりと。


「私の降りる場所は、青葉台団地前です」


 運転手の顔が、初めて歪んだ。


 車内の蛍光灯が激しく点滅する。


 開いていたドアが、ゆっくり閉まり始めた。


「お客さん」


 運転手の声が低くなる。


「途中で変えない方がいいと言いましたよ」


「違う。最初から間違えてた」


「桜坂三丁目とおっしゃいました」


「それは、前に住んでた場所」


 私は思い出していた。


 半年前まで住んでいた部屋。

 別れた恋人と暮らしていた場所。

 もう帰る理由のない場所。


 疲れて、ぼんやりして、私は昔の帰り道を口にした。


 帰る場所を間違えたのだ。


 だからこのバスに乗ってしまった。


 私は降車ボタンを押した。


 ピンポーン。


『次、停まります』


 車内放送が、初めて普通の声に聞こえた。


 運転手が舌打ちした。


 バスが急発進する。


 私は手すりにつかまった。


 窓の外で、忘れ物預かり所が遠ざかっていく。棚に並んだ品物たちが、一斉に揺れた。


 靴が落ちる。

 花束が黒く散る。

 赤いリボンが蛇みたいに床を這う。


 奥の暗闇から、さっき降りたはずの乗客たちがこちらを見ていた。


 作業着の男。

 花束の女性。

 スーツの男。

 口のない女子高生。

 老婆。


 みんな、私を見ていた。


 羨ましそうに。


 憎そうに。


 バスは暗い道を走った。


 次の停留所名が表示される。


『青葉台団地前』


 私は泣きそうになった。


 今度こそ、見覚えのある道だった。


 団地の前の小さなロータリー。

 雨よけの屋根があるバス停。

 近くの自動販売機。

 向かいにある古いパン屋。


 間違いない。


 私はここで降りる。


 バスが停まった。


 ドアが開く。


 外には、母が立っていた。


 傘を差して、スーパーの袋を持っている。


 私を迎えに来てくれたのだ。


 母はほっとした顔で笑った。


「遅かったね」


 私は立ち上がった。


 料金箱の前に立つ。


 でも、何を入れればいいのか分からない。


 運転手が言った。


「運賃をお願いします」


「お金じゃないんですよね」


「この便では、帰るために一つ預かります」


「何を?」


「乗っていたことを」


 私は母を見た。


 母はバスの外で待っている。


 早く降りなければ、またドアが閉まる。


 私は整理券を握りしめた。


 白い紙には、もう文字が戻っていた。


『降りる場所を、忘れないでください』


 私はそれを料金箱へ入れた。


 紙は音もなく沈んだ。


 その瞬間、車内のことが頭から抜け落ちていった。


 戻り橋。

 白い病室前。

 最後の電話口。

 声を捨てた踏切。

 忘れ物預かり所。


 全部、夢のように薄くなる。


 私は慌てて外へ飛び降りた。


 ドアが閉まる。


 バスは雨の中を走り去った。


 母が私に駆け寄ってきた。


「どうしたの、顔真っ青よ」


「……変なバスに乗った気がする」


「変なバス?」


「覚えてない。でも、怖かった」


 母は困ったように笑った。


「疲れてるのよ。帰ろう。ご飯、温めてあるから」


 その言葉を聞いて、私は泣いた。


 帰る場所がある。


 それだけのことが、こんなにありがたいと思ったのは初めてだった。


 それから数日、私はバスに乗らなかった。


 駅から実家へ行く時も、タクシーを使った。


 降車ボタンを見るだけで、胸が苦しくなる。


 あの夜のことは、ほとんど思い出せない。


 でも、ひとつだけ覚えている。


 降りる場所を間違えてはいけない。


 帰る理由を忘れてはいけない。


 忘れた人は、きっとまだ乗っている。


 そう思っていた。


 一週間後。


 私は会社帰りに駅前を歩いていた。


 雨は降っていない。

 終電前で、人も多い。


 バスロータリーの電光掲示板には、いつもの行き先が並んでいた。


 青葉台団地前。

 市民病院。

 桜坂三丁目。


 私は足を止めた。


 桜坂三丁目行きのバスが、ちょうど到着していた。


 古い車体。

 くすんだ緑色のライン。


 あの夜のバスとは違う。


 違うはずだった。


 でも、窓際に女子高生が座っていた。


 夏服の制服。

 口元のない顔。


 彼女は私を見ていた。


 そして、膝の上にある降車ボタンを、ゆっくり指さした。


 車内放送が、ロータリーに漏れてくる。


『次は、あなたの降りる場所。あなたの降りる場所です』


 バスの前方には、運転手がいた。


 帽子を深くかぶり、顔は見えない。


 けれど、バックミラー越しに笑っているのが分かった。


 その時、私のスマホが鳴った。


 母からのメッセージだった。


『今日も遅いの? ご飯あたためて待ってるね』


 私は画面を握りしめた。


 乗ってはいけない。


 そう思った。


 なのに、バスのドアが開いた。


 運転手が、こちらを見て言った。


「乗りますか」


 私は一歩、後ずさった。


 すると、車内の乗客たちが一斉にこちらを向いた。


 知らない人たち。


 でも、どの顔にも見覚えがある気がした。


 みんな、どこかへ帰る途中の顔をしていた。


 疲れて、濡れて、ぼんやりして。


 自分の降りる場所を、まだ覚えているつもりの顔。


 私は叫びたかった。


 乗るな。


 行き先を間違えるな。


 降車ボタンを押すな。


 でも、声が出なかった。


 あの夜の運賃として、私は乗っていたことを預けた。


 だから、伝えることができない。


 バスのドアが閉まる。


 車体がゆっくり動き出す。


 その瞬間、窓際の女子高生が、指で窓の曇りに文字を書いた。


 ――まだ、空席があります。


 バスは夜の道へ消えていった。


 私はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。


 そして気づいた。


 ロータリーの時刻表に、いつの間にか見覚えのない便が増えていた。


 午前零時十三分発。


 行き先は空白。


 備考欄には、小さな文字でこう書かれていた。


 ――降りる場所を忘れた方専用。

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