降車ボタン
最終バスに乗った時、運転手は私の顔を見て、少しだけ首をかしげた。
「……乗りますか」
変な聞き方だった。
バス停に立っていたのは私一人で、雨は強く、時刻は午前零時を過ぎていた。乗る以外に何があるのかと思ったが、私は疲れていたので、何も言い返さなかった。
「乗ります」
そう言って、濡れた傘をたたみながらステップを上がった。
車内は古い匂いがした。
湿った座席。冷えた鉄。長年染みついた人の汗と、雨の日の学生服みたいな匂い。
私は交通系カードを読み取り機にかざした。
ピッ、という音は鳴らなかった。
画面には、赤い文字でこう表示された。
『整理券をお取りください』
今どき珍しいと思いながら、私は横の機械から整理券を引き抜いた。
番号はなかった。
ただ、白い紙に黒い文字でこう印字されていた。
『降りる場所を、忘れないでください』
私は眉をひそめた。
広告か何かだろうか。
顔を上げると、運転手がバックミラー越しに私を見ていた。
「お客さん」
「はい?」
「降りる停留所は、決まっていますか」
「桜坂三丁目です」
私は少し強めに答えた。
家の最寄りのバス停だ。毎日使っているわけではないが、駅からなら何度か乗ったことがある。
運転手は、まだ私を見ていた。
「本当に、そこでいいんですね」
「……はい」
「途中で変えない方がいいですよ」
そう言うと、運転手は前を向いた。
ドアが閉まる。
ぶうん、と古いエンジン音が鳴り、バスは雨の中をゆっくり走り出した。
車内には、私のほかに五人の乗客がいた。
一番前の優先席に、黒い礼服の老婆。
真ん中あたりに、作業着姿の男。
後ろの席に、制服を着た女子高生。
窓際に、小さな花束を抱えた若い女性。
そして最後列に、俯いたまま動かないスーツ姿の男。
みんな黙っていた。
誰もスマホを見ていない。
誰も外を見ていない。
ただ、前を向いて座っている。
バスの窓を、雨粒が斜めに流れていく。外の街灯はぼやけ、道路標識も店の看板も、滲んで読めない。
いつもの道のはずだった。
でも、何かが違った。
バスは駅前のロータリーを出て、商店街の方へ向かうはずだった。なのに、窓の外に見えるのは、見たことのない細い道だった。
古い民家の塀。
閉まった酒屋。
赤く錆びたカーブミラー。
こんな道は知らない。
私はすぐに降車ボタンの位置を確認した。
窓の横、手の届くところにある。
赤い丸いボタン。
でも、そこに小さなシールが貼られていた。
『行き先を思い出してから押してください』
嫌な感じがした。
車内放送が流れた。
『次は、戻り橋。戻り橋です』
そんな停留所はない。
私は顔を上げた。
前方の電光掲示板にも、確かに「次は 戻り橋」と出ている。
作業着姿の男が、ゆっくり顔を上げた。
大きな手が震えている。
男は何かをこらえるように唇を噛み、窓の外を見た。
外には、橋があった。
小さな川にかかる、古いコンクリートの橋。
雨で濡れた欄干の横に、黄色いヘルメットをかぶった子どもが立っていた。
男が息を呑んだ。
「……健太」
その声は、ひどくかすれていた。
子どもは、橋の上で男を見ている。
バスが停留所に近づく。
男の手が、降車ボタンへ伸びた。
ピンポーン。
軽い音が鳴った。
『次、停まります』
運転手がバックミラーを見た。
「そこでいいんですね」
男は何度もうなずいた。
「降ろしてくれ。頼む。あの子が、あそこにいる」
バスが停まった。
ドアが開く。
外から、雨の音が一気に入ってきた。
男はふらつきながら立ち上がり、料金箱の前へ向かった。
その時、私は見た。
男が料金箱に入れたのは、小銭ではなかった。
小さな靴だった。
泥だらけの、子どもの運動靴。
料金箱の中へ落ちた瞬間、靴は水に沈むみたいに消えた。
男はバスを降りた。
橋の上の子どもが笑った。
男は泣きながら、子どもへ駆け寄る。
ドアが閉まった。
バスが走り出す。
私は慌てて後ろを振り返った。
橋はもうなかった。
窓の外には、ただ真っ暗な雨の道路だけが続いていた。
私は喉が乾いて、唾を飲み込んだ。
車内の誰も、今のことに驚いていない。
老婆も、女子高生も、花束の女性も、スーツの男も、前を向いたままだ。
「今の……何ですか」
私は思わず声を出した。
誰も答えない。
運転手だけが、バックミラー越しに私を見た。
「お客さんは、桜坂三丁目でいいんですよね」
「はい」
「なら、それ以外の停留所では降りないでください」
「どういう意味ですか」
「呼ばれても、押さないでください」
呼ばれても。
私はその言葉の意味を聞き返そうとした。
その前に、車内放送が流れた。
『次は、白い病室前。白い病室前です』
若い女性が、花束を抱えたまま顔を上げた。
窓の外が急に明るくなった。
夜の道だったはずなのに、そこだけ昼間の病院みたいな白い光に包まれている。
バス停の前には、大きな病院の入口があった。
自動ドアの向こうに、車椅子の老人がいる。
老人はガラス越しに、若い女性を見ていた。
女性の手が震えた。
「お父さん」
花束が、膝の上で潰れた。
私は止めようとした。
なぜか、止めなければいけないと思った。
「押さない方がいいです」
女性は私を見た。
その目は、真っ赤だった。
「今日、行けなかったの」
「え?」
「仕事があるからって。明日行くからって。そう言って、行かなかった」
女性の唇が震える。
「あの日、お父さん、ずっと待ってたの」
ピンポーン。
降車ボタンが押された。
『次、停まります』
バスがゆっくり停車する。
女性は立ち上がり、料金箱へ向かった。
その手には、花束がある。
料金箱に花束を入れると、白い菊の花びらが黒く変わりながら落ちていった。
ドアが開く。
女性は病院へ向かって走った。
ガラスの向こうの老人が、ゆっくり手を上げる。
ドアが閉まる直前、私は見てしまった。
病院の自動ドアに映っていた女性の背中には、細長い点滴の管が何本も絡みついていた。
バスは走り出した。
白い病院は消えた。
車内には、老婆と女子高生とスーツの男、そして私だけが残った。
私は座席の手すりを握りしめた。
手が汗で濡れている。
これは普通のバスじゃない。
そんなことは、もう分かっていた。
問題は、なぜ私が乗っているのかだった。
私は死んでいない。
橋で誰かを失ったこともない。病院で誰かを待たせたこともない。
私はただ、仕事帰りにバスへ乗っただけだ。
ただ帰りたかっただけだ。
桜坂三丁目。
自分の降りる場所を、頭の中で何度も繰り返した。
桜坂三丁目。
桜坂三丁目。
桜坂三丁目。
忘れてはいけない。
運転席の上にある路線図を見た。
そこには、見たことのない停留所名が並んでいた。
戻り橋。
白い病室前。
声を捨てた踏切。
押し入れ坂。
最後の電話口。
名前のない実家。
終点、忘れ物預かり所。
桜坂三丁目は、どこにもなかった。
私は立ち上がった。
「すみません」
運転手は答えない。
「このバス、桜坂三丁目に行きますよね?」
運転手は前を向いたまま言った。
「お客さんが、そこを覚えていれば」
「覚えています」
「なら大丈夫です」
「路線図にないんですけど」
「忘れた人には、表示されません」
意味が分からなかった。
でも、その言葉を聞いた瞬間、不安が胸の奥に広がった。
桜坂三丁目。
私はもう一度、頭の中でつぶやいた。
桜坂三丁目。
自宅の最寄り。
坂の途中にコンビニがある。小さな弁当屋がある。夜になると自動販売機の明かりだけが目立つ。
そうだ。
覚えている。
私は覚えている。
なのに、そのバス停の形が思い出せなかった。
ベンチはあっただろうか。
屋根はあっただろうか。
時刻表は右側だったか、左側だったか。
急に、頭の中の景色がぼやけた。
雨の音が強くなる。
車内放送が流れた。
『次は、最後の電話口。最後の電話口です』
スーツ姿の男が、ぴくりと動いた。
男はずっと俯いていた。
顔色が悪い。髪は濡れていないのに、額に汗が浮いている。
窓の外に、公衆電話が見えた。
今どき珍しい、緑色の公衆電話。
その向こうに、古い団地がある。
電話ボックスの中で、受話器が揺れていた。
鳴っている。
外は雨なのに、その音だけが車内にまで聞こえた。
ジリリリリリリ。
ジリリリリリリ。
男は耳をふさいだ。
「違う」
小さくつぶやく。
「俺は知らなかった。知らなかったんだ」
ジリリリリリリ。
男は目を閉じた。
膝の上の手が、激しく震えている。
私は何も言えなかった。
男の前の降車ボタンが、赤く光った。
誰も押していない。
でも、ボタンは内側から血がにじむみたいに、ぼうっと光っている。
男は泣きながら首を振った。
「出たくない」
ジリリリリリリ。
「出たら、聞こえる」
ジリリリリリリ。
「まだ息があるって、聞こえる」
その言葉で、私は背筋が冷えた。
男は事故の通報を無視したのだろうか。
いや、もっと悪い何かかもしれない。
赤いボタンの光が強くなる。
男は耐えていた。
しかし次の瞬間、公衆電話の受話器がひとりで持ち上がった。
車内に、か細い女の声が流れ込んできた。
『助けて』
男が叫んだ。
そして、降車ボタンを叩いた。
ピンポーン。
『次、停まります』
バスが止まる。
男は料金箱へ向かった。
彼が料金箱に入れたのは、割れたスマホだった。
画面には、何十件もの不在着信が表示されている。
男が降りると、公衆電話の扉が開いた。
中から、濡れた手が一本伸びた。
男は腰を抜かしたように動けなくなった。
その手が、男のネクタイをつかむ。
ドアが閉まった。
バスが走り出す。
男の悲鳴は、雨の中に置いていかれた。
残ったのは、老婆と女子高生と私だけだった。
車内はさらに暗くなっていた。
天井の蛍光灯が一本、じじっと点滅する。
私は自分の整理券を見た。
『降りる場所を、忘れないでください』
文字が少し薄くなっている気がした。
私は胸が苦しくなった。
桜坂三丁目。
桜坂三丁目。
桜坂三丁目。
そう唱えていると、女子高生がこちらを見た。
初めて目が合った。
彼女はまだ十六、七歳くらいに見えた。濡れてもいないのに、制服の袖だけが水を吸ったように重く垂れている。
「お姉さん」
声は小さかった。
「降りるところ、覚えてる?」
「覚えてる」
「本当に?」
「桜坂三丁目」
「それ、どんな場所?」
私は答えようとした。
でも、言葉が詰まった。
どんな場所?
坂がある。
コンビニがある。
弁当屋がある。
それだけだ。
自分の家が近いはずなのに、そこから部屋までの道順がはっきりしない。
右に曲がる。
いや、左だったかもしれない。
階段があった気もする。
なかった気もする。
女子高生は、悲しそうに笑った。
「思い出せなくなってる」
「違う」
「このバス、乗ってるうちに忘れるよ。自分がどこに帰るつもりだったのか」
「あなたは?」
「私は、もう忘れた」
女子高生は窓の外を見た。
「だから、ずっと乗ってる」
私は息を呑んだ。
「ずっとって、どれくらい?」
彼女は考えるように首をかしげた。
「制服がまだ夏服だったから、たぶん夏」
「今は冬だよ」
「じゃあ、ずいぶん乗ってるね」
冗談のように言ったが、その顔は笑っていなかった。
車内放送が流れる。
『次は、声を捨てた踏切。声を捨てた踏切です』
女子高生の肩が震えた。
窓の外に踏切が見えた。
遮断機が下りている。
赤い警報灯が、雨の中で交互に光っている。
踏切の向こうに、女子高生と同じ制服の少女が立っていた。
口元を両手で押さえている。
何かを言いたそうにしている。
でも、声が出ない。
女子高生は、ゆっくり立ち上がった。
「私、あの子のこと、止めなかった」
彼女は言った。
「いじめられてるの、知ってたのに。助けてって言われたのに、何も言わなかった」
私は何も言えなかった。
「だから、声がなくなったのはあの子じゃなくて、私の方だったらよかったのに」
女子高生は、降車ボタンに手を伸ばした。
私は思わずその手首をつかんだ。
「駄目」
「どうして?」
「降りたら、戻れないかもしれない」
彼女は私を見た。
その目は、もう疲れきっていた。
「乗ってても、戻れないよ」
ピンポーン。
彼女はボタンを押した。
バスが停まる。
女子高生は料金箱の前に立った。
彼女が入れたのは、赤いリボンだった。
制服の胸元についていたものだ。
料金箱の中へリボンが落ちると、彼女の口がすっと消えた。
鼻から下が、なめらかな皮膚だけになる。
それでも彼女は、私に向かって小さく頭を下げた。
ドアが開く。
彼女は踏切へ歩いていった。
踏切の向こうの少女が、両手を下ろす。
口を開ける。
音は聞こえなかった。
ドアが閉まり、バスは走り出した。
私は震えていた。
残った乗客は、老婆と私だけ。
老婆は優先席で、ずっと前を向いている。
膝の上に、古い風呂敷包みを抱えていた。
しわだらけの手が、その包みを大事そうになでている。
私はもう、桜坂三丁目のことだけを考えようとした。
しかし頭の中で、言葉が崩れ始めていた。
桜坂三丁目。
桜坂。
三丁目。
さくら。
何だっけ。
私は唇を噛んだ。
血の味がした。
駄目だ。
忘れたら終わる。
私はスマホを取り出した。
地図アプリを開けばいい。住所を見ればいい。自宅の登録があるはずだ。
だが、画面は真っ黒だった。
電源ボタンを押しても反応しない。
充電はあったはずなのに。
車内放送が流れる。
『次は、名前のない実家。名前のない実家です』
老婆が、ゆっくり顔を上げた。
窓の外に、古い平屋が見えた。
瓦屋根。低い門。庭の柿の木。
縁側に、小さな男の子が座っている。
男の子は裸足で、手に積み木を持っていた。
老婆の顔が歪んだ。
「たかし」
声は、ひどく弱かった。
老婆は風呂敷包みを抱え直した。
「ごめんねえ。ばあちゃん、迎えに行けなくてねえ」
私は何となく分かった。
この人も、降りるのだ。
老婆の手が、降車ボタンへ伸びる。
その時。
老婆がこちらを見た。
「お嬢さん」
「はい」
「帰る場所は、声に出して言っておきなさい」
「桜坂三丁目です」
私はすぐに言った。
でも、その言葉はひどく頼りなかった。
老婆は首を振った。
「停留所の名前だけじゃ駄目よ」
「え?」
「そこへ帰って、何をするの」
私は答えられなかった。
帰って、何をする?
シャワーを浴びる。寝る。明日も仕事に行く。
それだけ。
それだけなのに、それが急に遠く感じた。
老婆は悲しそうに笑った。
「帰る場所っていうのはね、場所の名前じゃないのよ」
ピンポーン。
老婆がボタンを押した。
バスが停まる。
老婆は料金箱へ向かった。
風呂敷包みをほどく。
中には、小さな青い長靴が入っていた。
片方だけ。
老婆はそれを料金箱へ入れた。
ドアが開く。
縁側の男の子が立ち上がる。
老婆はゆっくりバスを降りた。
その背中が雨に溶けるように薄くなっていく。
ドアが閉まった。
バスはまた走り出す。
乗客は、私一人になった。
車内が、さらに広く感じた。
座席が左右に並び、吊り革が揺れ、窓には雨の線が走っている。
たった一人。
私だけ。
運転手がバックミラー越しに言った。
「お客さん」
「はい」
「まだ、覚えていますか」
私は口を開いた。
桜坂三丁目。
言おうとした。
でも、声が出なかった。
さくらざか。
さくら。
ざか。
三丁目。
その言葉が、自分のものではないみたいに遠い。
「覚えています」
私は嘘をついた。
運転手は何も言わなかった。
代わりに、前方の電光掲示板が変わった。
『次は、あなたの降りる場所。あなたの降りる場所です』
窓の外が明るくなった。
雨がやんでいる。
バスは、見覚えのある坂道を走っていた。
街灯。コンビニ。弁当屋。
そうだ。
ここだ。
桜坂三丁目。
私は立ち上がりかけた。
その時、窓の外に人影が見えた。
バス停の横に、女が立っている。
傘も差さず、濡れたまま、こちらを見ていた。
私だった。
仕事帰りの服。
肩からずり落ちかけたバッグ。
片手には濡れた傘。
バスを待っている。
私は凍りついた。
窓の外の私は、スマホを見ていた。
時刻はきっと、午前零時過ぎ。
そして、まもなくこのバスが来る。
運転手が言った。
「押しますか」
私の手は、降車ボタンの前にあった。
押せば降りられる。
桜坂三丁目に。
自分が帰るはずだった場所に。
でも、窓の外には、これからこのバスに乗る私がいる。
もし私が降りたら、あの私はどうなるのか。
いや。
そもそも、今ここにいる私は誰なのか。
整理券を見る。
文字はほとんど消えていた。
残っているのは、一行だけ。
『降りる場所を、忘れた方は、そのまま終点までご乗車ください』
車内放送が流れた。
『降車ボタンを押してください。降車ボタンを押してください』
私は耳をふさいだ。
外の私が、顔を上げた。
バスの窓越しに、目が合った。
彼女は驚いた顔をした。
そして、口を動かした。
何を言ったのか、雨のせいで聞こえない。
でも、分かった。
彼女はこう言っていた。
乗らないで。
私の指が、赤いボタンに触れた。
押せばいい。
ここで降りれば、元に戻れるかもしれない。
外の私は、必死に首を振っている。
運転手の声が低くなった。
「お客さん。降りるなら、今です」
私は震えながら言った。
「ここは……私の降りる場所ですか」
運転手は答えなかった。
その沈黙で、私は理解した。
ここは、私の帰る場所ではない。
私がこのバスに乗る場所だ。
降りてはいけない。
私はボタンから手を離した。
バスは停まらなかった。
窓の外の私は、後ろへ流れていく。
バス停に立つ私は、絶望した顔でこちらを見ていた。
そして次の瞬間、もう一台の同じバスが、反対側から静かに現れた。
外の私は、そのバスに乗った。
私は見ていた。
過去の私が、濡れた傘をたたみながらステップを上がるのを。
運転手が、あの時と同じように首をかしげるのを。
「……乗りますか」
ドアが閉まる。
もう一台のバスは雨の中へ消えていった。
私の乗ったバスは、さらに暗い道へ進んだ。
前方の掲示板が変わる。
『終点、忘れ物預かり所。忘れ物預かり所です』
運転手が言った。
「お客さん、終点です」
私は座席に座り直した。
「降りないと駄目ですか」
「終点ですので」
「降りたら、どうなりますか」
「忘れたものを、預けていただきます」
「何を忘れたんですか」
運転手はバックミラー越しに私を見た。
「帰る理由です」
バスが停まった。
ドアが開く。
外には、巨大な建物があった。
倉庫のようにも、駅の忘れ物センターのようにも見える。窓はなく、入口だけが明るい。
中には棚がいくつも並んでいた。
靴。花束。割れたスマホ。赤いリボン。青い長靴。
さっきの乗客たちが料金箱へ入れたものが、すべて棚に置かれている。
その奥には、数え切れないほどの整理券が吊るされていた。
どれも白く、文字が消えかけている。
私は立ち上がれなかった。
運転手は言った。
「お客さんの番です」
「私は何を預ければいいんですか」
「もう、ほとんど預かっています」
私は自分の手を見た。
名前を思い出そうとした。
思い出せない。
職場の場所。
部屋の間取り。
家族の顔。
友達の声。
全部、遠い。
私は誰だった?
なぜ帰ろうとしていた?
桜坂三丁目に、何があった?
涙が出た。
泣いている理由も、もう分からなかった。
ただ、悲しかった。
その時、ポケットの中で何かが震えた。
スマホだった。
電源が入っている。
画面に、一件の通知が表示されていた。
『母:今日は遅いの? ご飯あたためて待ってるね』
私は息を止めた。
ご飯。
あたためて。
待ってる。
その言葉だけで、消えかけていた何かが胸の奥から戻ってきた。
そうだ。
今日は実家に帰る予定だった。
転職が決まって、久しぶりに母に報告しに行くはずだった。
桜坂三丁目じゃない。
私は、桜坂三丁目で降りる予定なんかじゃなかった。
駅から実家行きのバスに乗るはずだった。
実家の最寄りは――
「青葉台団地前」
声が出た。
はっきりと。
「私の降りる場所は、青葉台団地前です」
運転手の顔が、初めて歪んだ。
車内の蛍光灯が激しく点滅する。
開いていたドアが、ゆっくり閉まり始めた。
「お客さん」
運転手の声が低くなる。
「途中で変えない方がいいと言いましたよ」
「違う。最初から間違えてた」
「桜坂三丁目とおっしゃいました」
「それは、前に住んでた場所」
私は思い出していた。
半年前まで住んでいた部屋。
別れた恋人と暮らしていた場所。
もう帰る理由のない場所。
疲れて、ぼんやりして、私は昔の帰り道を口にした。
帰る場所を間違えたのだ。
だからこのバスに乗ってしまった。
私は降車ボタンを押した。
ピンポーン。
『次、停まります』
車内放送が、初めて普通の声に聞こえた。
運転手が舌打ちした。
バスが急発進する。
私は手すりにつかまった。
窓の外で、忘れ物預かり所が遠ざかっていく。棚に並んだ品物たちが、一斉に揺れた。
靴が落ちる。
花束が黒く散る。
赤いリボンが蛇みたいに床を這う。
奥の暗闇から、さっき降りたはずの乗客たちがこちらを見ていた。
作業着の男。
花束の女性。
スーツの男。
口のない女子高生。
老婆。
みんな、私を見ていた。
羨ましそうに。
憎そうに。
バスは暗い道を走った。
次の停留所名が表示される。
『青葉台団地前』
私は泣きそうになった。
今度こそ、見覚えのある道だった。
団地の前の小さなロータリー。
雨よけの屋根があるバス停。
近くの自動販売機。
向かいにある古いパン屋。
間違いない。
私はここで降りる。
バスが停まった。
ドアが開く。
外には、母が立っていた。
傘を差して、スーパーの袋を持っている。
私を迎えに来てくれたのだ。
母はほっとした顔で笑った。
「遅かったね」
私は立ち上がった。
料金箱の前に立つ。
でも、何を入れればいいのか分からない。
運転手が言った。
「運賃をお願いします」
「お金じゃないんですよね」
「この便では、帰るために一つ預かります」
「何を?」
「乗っていたことを」
私は母を見た。
母はバスの外で待っている。
早く降りなければ、またドアが閉まる。
私は整理券を握りしめた。
白い紙には、もう文字が戻っていた。
『降りる場所を、忘れないでください』
私はそれを料金箱へ入れた。
紙は音もなく沈んだ。
その瞬間、車内のことが頭から抜け落ちていった。
戻り橋。
白い病室前。
最後の電話口。
声を捨てた踏切。
忘れ物預かり所。
全部、夢のように薄くなる。
私は慌てて外へ飛び降りた。
ドアが閉まる。
バスは雨の中を走り去った。
母が私に駆け寄ってきた。
「どうしたの、顔真っ青よ」
「……変なバスに乗った気がする」
「変なバス?」
「覚えてない。でも、怖かった」
母は困ったように笑った。
「疲れてるのよ。帰ろう。ご飯、温めてあるから」
その言葉を聞いて、私は泣いた。
帰る場所がある。
それだけのことが、こんなにありがたいと思ったのは初めてだった。
それから数日、私はバスに乗らなかった。
駅から実家へ行く時も、タクシーを使った。
降車ボタンを見るだけで、胸が苦しくなる。
あの夜のことは、ほとんど思い出せない。
でも、ひとつだけ覚えている。
降りる場所を間違えてはいけない。
帰る理由を忘れてはいけない。
忘れた人は、きっとまだ乗っている。
そう思っていた。
一週間後。
私は会社帰りに駅前を歩いていた。
雨は降っていない。
終電前で、人も多い。
バスロータリーの電光掲示板には、いつもの行き先が並んでいた。
青葉台団地前。
市民病院。
桜坂三丁目。
私は足を止めた。
桜坂三丁目行きのバスが、ちょうど到着していた。
古い車体。
くすんだ緑色のライン。
あの夜のバスとは違う。
違うはずだった。
でも、窓際に女子高生が座っていた。
夏服の制服。
口元のない顔。
彼女は私を見ていた。
そして、膝の上にある降車ボタンを、ゆっくり指さした。
車内放送が、ロータリーに漏れてくる。
『次は、あなたの降りる場所。あなたの降りる場所です』
バスの前方には、運転手がいた。
帽子を深くかぶり、顔は見えない。
けれど、バックミラー越しに笑っているのが分かった。
その時、私のスマホが鳴った。
母からのメッセージだった。
『今日も遅いの? ご飯あたためて待ってるね』
私は画面を握りしめた。
乗ってはいけない。
そう思った。
なのに、バスのドアが開いた。
運転手が、こちらを見て言った。
「乗りますか」
私は一歩、後ずさった。
すると、車内の乗客たちが一斉にこちらを向いた。
知らない人たち。
でも、どの顔にも見覚えがある気がした。
みんな、どこかへ帰る途中の顔をしていた。
疲れて、濡れて、ぼんやりして。
自分の降りる場所を、まだ覚えているつもりの顔。
私は叫びたかった。
乗るな。
行き先を間違えるな。
降車ボタンを押すな。
でも、声が出なかった。
あの夜の運賃として、私は乗っていたことを預けた。
だから、伝えることができない。
バスのドアが閉まる。
車体がゆっくり動き出す。
その瞬間、窓際の女子高生が、指で窓の曇りに文字を書いた。
――まだ、空席があります。
バスは夜の道へ消えていった。
私はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
そして気づいた。
ロータリーの時刻表に、いつの間にか見覚えのない便が増えていた。
午前零時十三分発。
行き先は空白。
備考欄には、小さな文字でこう書かれていた。
――降りる場所を忘れた方専用。




