面会の椅子
父の病室には、いつも椅子が出ていた。
面会用の、古い丸椅子だった。
銀色の細い脚に、茶色いビニールの座面がついている。ところどころ破れていて、中の黄色いスポンジが少しだけ見えていた。
病室に入ると、その椅子だけが、父のベッドの横にきちんと置かれている。
まるで、今まで誰かが座っていたみたいに。
父が倒れたのは、十一月の終わりだった。
軽い脳梗塞だと聞いた時、僕はすぐに病院へ向かわなかった。仕事が抜けられないとか、明日の朝一番で行くとか、いくつか言い訳を並べて、結局その日は電話だけで済ませた。
父は命に別状はないらしい。
右手に少し痺れが残るかもしれないが、会話はできる。
そう聞いて、安心した。
安心したから、行かなかった。
翌日の夕方、市立病院へ行くと、四階の古い病棟に通された。
新館ではない方の建物だった。
廊下は薄暗く、壁の下の方に車椅子がこすった黒い跡が残っている。消毒液の匂いに、古い布団の匂いと、どこかの病室から漏れる味噌汁の匂いが混ざっていた。
四〇七号室。
四人部屋の窓際が、父のベッドだった。
カーテンを開けると、父は上半身を起こしていた。思ったより顔色はよかったが、少しだけ小さくなったように見えた。
「来たのか」
父はそう言った。
「来たよ。大丈夫?」
「ああ」
会話はそれだけだった。
昔から父とは、あまり話さなかった。
父も僕も、言葉を選ぶのが下手だった。母が生きていた頃は、間に入ってくれていた。母が死んでから、僕たちはますます話さなくなった。
僕はベッドの横に置かれた丸椅子に座ろうとした。
その時、少しだけ違和感があった。
座面が、温かかった。
誰かが、今まで座っていたような温かさだった。
僕は思わず椅子から腰を浮かせた。
「誰か来てた?」
父は窓の外を見たまま答えた。
「さあな」
「看護師さんとか」
「知らん」
僕はもう一度、座面を指で触った。
やっぱり、ほんのり温かい。
けれど、病室には父しかいなかった。
隣のベッドは空きで、向かいの二人はカーテンを閉めて寝ている。看護師の姿もない。
僕は気のせいだと思い、その椅子に座った。
父はあまり話さなかった。
僕も何を話せばいいか分からず、売店で買った水と、下着と、タオルをベッド脇の棚にしまった。
帰る時、父が言った。
「昼も来たな」
「え?」
「いや」
父は少しだけ眉を寄せた。
「何でもない」
「俺、今日初めて来たよ」
「そうか」
父はそれ以上何も言わなかった。
その時は、薬のせいか、少しぼんやりしているのだろうと思った。
二日後、また病院へ行った。
仕事終わりだったので、面会時間ぎりぎりの午後七時前だった。
四〇七号室の前に立つと、病室の中から小さな話し声が聞こえた気がした。
父の声ではない。
低い、男の声だった。
僕はカーテンを開けた。
父はベッドで横になっていた。
丸椅子は、またベッドの横に出ている。
誰も座っていない。
でも、椅子の脚が少し斜めになっていた。
誰かが急に立ち上がったあとみたいに。
「今、誰かいた?」
僕が聞くと、父は目を開けた。
「お前だろ」
「今来たところだけど」
「そうか」
父は天井を見た。
「じゃあ、違うか」
「誰か来たの?」
父はしばらく黙っていた。
それから、少し言いにくそうにした。
「お前に似てた」
「俺に?」
「顔は見えなかったけどな」
僕は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「夢でも見たんじゃないの」
「かもしれん」
父はそう言って、話を終わらせた。
僕は椅子に座った。
また、座面が温かかった。
その温かさが、前よりはっきりしていた。
人の体温だった。
翌週から、僕はできるだけ毎日顔を出すようにした。
別に急に親孝行に目覚めたわけではない。
ただ、あの椅子が気になった。
病室に入るたび、丸椅子は父のベッドの横に出ている。
看護師が片づけた日もあった。
僕が帰る時、壁際に戻した日もあった。
それでも次に来ると、必ずベッドの横にある。
しかも、父に向かって少し斜めに置かれている。
座る人が、父の顔を見やすい角度。
僕はある日、看護師に聞いた。
「あの椅子、いつも出てるんですけど、誰か面会に来てますか?」
若い看護師は、父のベッドを見て、すぐ目をそらした。
「ご家族の方以外は、特に」
「でも、父が誰か来てるみたいなことを言うんです」
「ご高齢の方は、入院中に少し混乱されることもありますから」
「そういう感じじゃないんです」
看護師は困ったように笑った。
そして、小さく言った。
「あの椅子、古いんですよ」
「椅子ですか?」
「はい。病棟を建て替える前からあるみたいで」
「捨てないんですか?」
「何度か替えたそうです」
「でも、あるんですか」
看護師は返事をしなかった。
その沈黙で、僕は聞くのをやめた。
父は少しずつ回復していた。
歩行訓練も始まり、言葉もはっきりしている。
退院の話も出ていた。
だから、僕はあまり深く考えないようにした。
ただ、その頃から、父の様子が少し変わった。
僕が病室へ行くと、父は時々、僕を見て驚いた顔をした。
「何?」
僕が聞くと、父は言う。
「いや、さっき帰ったと思ったから」
「今来たんだけど」
「そうか」
「また俺に似た人?」
父は首を振った。
「似てるんじゃない」
「じゃあ何」
「お前だった」
父は真面目な顔で言った。
「お前が、そこに座ってた」
僕は丸椅子を見た。
空っぽだった。
「何か話した?」
「何も」
「何も?」
「ただ座ってる」
父は少し嫌そうに眉を寄せた。
「こっちを見るでもない。寝てるでもない。ずっと、黙って座ってる」
僕は背中が冷たくなった。
「怖くないの?」
「最初はな」
「今は?」
「慣れた」
父はそう言った。
「お前だと思えば、まあ、いい」
その言い方が、妙に寂しかった。
僕は父の顔を見られなかった。
母が死んでから、僕は父の家にあまり行かなかった。
正月も、盆も、電話だけで済ませることが増えた。
父は一人で古い家に住み、僕は仕事を理由にそれを放っておいた。
入院してからも、毎日来ているつもりだったが、それでも面会時間の終わりに滑り込む程度だった。
父にとっては、黙って座っているだけの誰かでも、いないよりはましだったのかもしれない。
ある日、仕事が長引いて、病院へ行けなかった。
翌日、病室へ行くと、父は少し機嫌がよかった。
「昨日も来たな」
僕は返事に詰まった。
「昨日は行けなかったよ」
父は僕を見た。
「来たぞ」
「誰が」
「お前」
「俺じゃない」
「でも、お前のコートを着てた」
僕は自分のコートを見た。
黒いウールのコート。
去年買ったものだった。
「顔は?」
「見えない」
「顔が見えないのに、何で俺だと思ったの」
父は少し考えた。
そして言った。
「座り方が、お前だった」
それ以上、僕は何も言えなかった。
その日、帰り際にナースステーションの前を通ると、面会者名簿が目に入った。
面会者は、部屋番号と患者名、面会者名を書く決まりになっている。
僕は父の名前を探した。
篠原正幸。
その横に、昨日の日付があった。
面会者名。
篠原拓也。
僕の名前だった。
書いた覚えはない。
字も、僕の字ではなかった。
ゆっくりした、年寄りのような字。
でも、間違いなく僕の名前だった。
僕は受付の看護師に聞いた。
「昨日、僕、来たことになってるんですか」
「え?」
「これ、僕の名前なんですけど、昨日は来てません」
看護師は名簿を見た。
そして、少しだけ顔をこわばらせた。
「記入があるなら、来られたんだと思います」
「僕は来てません」
「代理の方とか」
「いません」
看護師は黙った。
それから、名簿を閉じた。
「確認しておきます」
その言い方は、確認するつもりのない言い方だった。
僕はその夜、家に帰ってから眠れなかった。
病室の丸椅子が頭から離れない。
父の横に座っている、僕に似た何か。
顔は見えない。
喋らない。
ただ、座っている。
それは幽霊なのだろうか。
それとも、父の寂しさが見せているものなのだろうか。
幽霊なら、なぜ僕の姿をしているのか。
僕の代わりに父を見舞っているのか。
それとも、僕が行かなかった時間を、誰かが勝手に埋めているのか。
次の日、僕はいつもより早く病院へ行った。
午後三時。
面会時間が始まってすぐだった。
病室の前で足を止めた。
カーテンの隙間から、父のベッドが少し見えた。
丸椅子がある。
誰かが座っていた。
黒いコートの背中。
僕と同じくらいの背丈の男。
うつむいた頭。
髪型も、肩の形も、僕に似ていた。
でも、顔は見えない。
父は、その男に向かって何か話していた。
声は聞こえなかった。
男は答えない。
ただ、じっと座っている。
僕は足が動かなかった。
カーテンを開ければいい。
誰なのか確かめればいい。
そう思った。
でも、できなかった。
その背中が、あまりにも僕だった。
後ろ姿だけで、自分だと分かってしまうことがある。
鏡に映った時よりも、写真で見た時よりも、よほどはっきりと。
父の横に座っているのは、僕だった。
僕ではないのに、僕だった。
廊下の奥から看護師の足音が聞こえた。
その瞬間、病室の中の男が少しだけ顔を上げた。
僕はとっさに廊下の角へ隠れた。
数秒後、もう一度カーテンの隙間を見る。
椅子は空だった。
父だけが、ベッドに横になっていた。
僕はしばらくしてから病室へ入った。
父は僕を見ると、少し驚いた顔をした。
「また来たのか」
声が、乾いていた。
「またって?」
「さっきまでいた」
「……何話してたの」
父は天井を見た。
「昔の話だ」
「どんな」
「お前が小さい頃、熱を出した時のこと」
僕は何も言えなかった。
父はそんな話を、普段絶対にしない人だった。
「覚えてないな」
「そうだろうな」
父は少しだけ笑った。
「母さんが買い物に行ってて、俺が病院に連れていった。待合室でお前、吐いてな」
「そんなことあった?」
「あった」
父は丸椅子を見た。
「さっきのお前は、覚えてた」
僕は椅子に座れなかった。
その日から、父の容態は少しずつ悪くなった。
脳梗塞そのものではなく、肺炎を起こしたらしい。
高齢者にはよくあることだと医者は言った。
高齢者。
僕はその言葉を聞いて、父がもう若くないことを初めてちゃんと理解した気がした。
ベッドの上の父は、日ごとに痩せていった。
話す言葉も少なくなった。
それでも、丸椅子だけは毎日ベッドの横にあった。
僕が座る前に、誰かが座っている。
僕が帰ったあと、また誰かが座る。
ある晩、父が言った。
「お前が二人いると、変な感じだな」
「やめてよ」
「一人はよく喋る」
「俺?」
「いや」
父は目を閉じたまま言った。
「今のお前の方が、あまり喋らん」
僕は返事ができなかった。
それは、父の言う通りだった。
昔の僕はよく喋ったらしい。
母が死ぬ前の僕。
まだ父の前で遠慮せずに笑っていた頃の僕。
椅子に座っている何かは、父が覚えている僕なのかもしれない。
僕よりも、ずっと父に近かった僕。
そう思うと、怖いよりも嫌だった。
自分の代わりに、父の知っている自分がそこにいる。
今の僕より、父にとって本物に近い顔で。
父が亡くなったのは、金曜日の明け方だった。
前日の夜、僕は病院へ行けなかった。
大事な打ち合わせがあった。
医者から状態が悪いと聞いていたのに、どうしても抜けられないと思ってしまった。
終わってから病院へ向かおうとしたが、面会時間は過ぎていた。
明日の朝一番で行こう。
またそう思った。
朝五時半、病院から電話が来た。
父は、眠るように亡くなったという。
病院へ着くと、父は個室に移されていた。
顔には白い布がかけられていた。
看護師は静かに言った。
「最後は、穏やかでした」
「一人でしたか」
僕は聞いてしまった。
看護師は少しだけ間を置いた。
「お父様は、どなたかと話されていました」
「誰と」
「お名前は分かりません。ただ」
看護師は言いにくそうにした。
「面会の椅子が、出ていました」
僕は病室へ戻った。
父がいた四〇七号室。
もうベッドは整えられていた。
白いシーツ。空の棚。何もない枕元。
丸椅子は、壁際に戻されていた。
僕はその椅子に触った。
冷たかった。
初めて、冷たかった。
ナースステーションの面会者名簿には、父が亡くなる前日の記録が残っていた。
篠原正幸。
面会者。
篠原拓也。
時間は、二十一時四十六分。
面会時間は、とっくに終わっている。
字は、やはり僕のものではなかった。
でも、その日は少し違っていた。
名前の下に、小さく一言、書き足されていた。
『今日は、話しました』
誰が書いたのか、分からない。
父なのか。
看護師なのか。
あの椅子に座っていたものなのか。
僕はその文字を見ながら、自分が泣いていることに気づいた。
父の葬式は、親族だけで済ませた。
火葬場の待合室にも、茶色い丸椅子があった。
病院のものとは違う。
分かっているのに、僕はその椅子に座れなかった。
父の骨を拾い、家へ戻ると、玄関に父の古い靴が一足だけ置かれているような気がした。
もちろん、実際にはなかった。
そういうものが見えるほど疲れているのだと思った。
それから何か月かして、父の家を片づけに行った。
古い一軒家だった。
母が死んでからほとんど物が減っていない。
食器棚には母の湯呑があり、押し入れには僕が子どもの頃使っていた布団が残っていた。
父の寝室を片づけていると、机の引き出しから古い封筒が出てきた。
中には、僕の小さい頃の写真が何枚も入っていた。
運動会。
七五三。
家の前で撮った写真。
病院の待合室で、父の膝に座っている写真。
僕はその一枚で手を止めた。
写真の中の僕は、熱を出した時らしく、額に冷えピタのようなものを貼っている。
父は若く、ぎこちない顔で僕を抱いている。
母が撮ったのだろう。
写真の隅に、丸椅子が写っていた。
病院の待合室の椅子。
茶色いビニールの座面。
銀色の細い脚。
四〇七号室にあったものと、同じ椅子に見えた。
その椅子には、誰かが座っていた。
大人ではない。
子どもでもない。
黒い影のような人が、少し背中を丸めて座っている。
顔は写っていない。
ただ、膝の上に置いた手だけが見える。
その手は、僕の手によく似ていた。
写真の裏には、母の字でこう書かれていた。
『拓也、三歳。お父さんと病院へ。知らない子がずっと隣にいたと言って泣く』
僕はその写真を、しばらく見つめていた。
何も思い出せなかった。
でも、写真の中の父は、若いのにひどく疲れた顔をしていた。
まるで、その時すでに、いつか自分の横にも同じ椅子が置かれることを知っていたみたいに。
その夜、父の家に泊まった。
片づけが終わらなかったからだ。
夜中、目が覚めた。
隣の部屋から、畳を踏む音がした。
父の家は古い。
木が鳴ることもある。
そう思った。
でも、音は廊下を通り、僕の寝ている部屋の前で止まった。
襖の向こうに、誰かがいる。
僕は息を殺した。
しばらくして、襖の向こうから、椅子を引く音がした。
ぎい。
父の家に、丸椅子なんてなかった。
それでも、その音は病室で何度も聞いた音と同じだった。
古いビニールの座面が、わずかにきしむ音。
誰かが腰を下ろす音。
僕は襖を開けなかった。
怖かったからではない。
開けても、そこにいるのが父ではない気がしたからだ。
そこにいるのは、たぶん、父の横に座っていたもの。
僕に似ていたもの。
あるいは、父が最後に話した相手。
そして、もしかすると。
父がいなくなったあとも、まだ僕の代わりに何かを待っているもの。
朝になると、廊下には何もなかった。
ただ、父の仏壇の前に、見覚えのない丸椅子が置かれていた。
茶色いビニールの座面。
銀色の細い脚。
ところどころ破れて、中の黄色いスポンジが少しだけ見えている。
座面には、うっすらとへこみが残っていた。
誰かが、ついさっきまで座っていたみたいに。
僕はその椅子に触れなかった。
今も、父の家にはその椅子がある。
処分しようとしたことは何度かある。
でも、粗大ごみの日になると、なぜか椅子は仏壇の前に戻っている。
鍵を閉めていても。
誰も家に入っていなくても。
椅子は、いつもそこにある。
父の遺影の少し斜め前。
誰かが父の顔を見やすい角度で。
僕は月に一度だけ、父の家へ行く。
仏壇に線香をあげ、水を替え、花を捨てる。
その間、丸椅子には座らない。
座ってはいけない気がする。
なぜなら、行くたびに座面は少し温かいからだ。
父がそこに座っているのか。
僕に似た誰かがまだ座っているのか。
それとも、もっと昔から、その椅子に座るものがいるのか。
僕には分からない。
ただ一度だけ、線香の煙の向こうで、父の遺影の目が椅子の方を見ている気がした。
笑ってはいなかった。
怖がってもいなかった。
ただ、誰かの面会を受けている人の顔だった。
その日、帰ろうとして玄関に向かうと、背後で小さな声がした。
「今日は、早いな」
父の声だった。
僕は振り返らなかった。
返事もしなかった。
ただ、玄関の鍵を閉める手が、しばらく震えていた。
外に出ると、冬の夕方の空気が冷たかった。
門を出る前に、一度だけ家を振り返った。
仏間の窓の奥に、茶色い丸椅子が見えた。
その椅子に、誰かが座っていた。
顔は見えない。
でも、その人は父の遺影ではなく、窓の外にいる僕の方を向いていた。
僕はその日から、父の家へ行く時間を少し早めるようにしている。
夕方になる前に帰る。
面会時間が終わる前に。
あの椅子に座っているものが、こちらを向く前に。




