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裏願い

 絵馬には、表に願い事を書く。


 それくらい、俺でも知っていた。


 だから、裏に何か書いてある絵馬を見つけた時、最初はただの落書きだと思った。


 大学一年の冬、俺は地元の小さな神社で年末年始の短期バイトをした。


 神社といっても、大きなところではない。駅から離れた住宅地の奥にある、昔からその土地にあるだけの古い神社だった。参道は短く、鳥居の朱色はところどころ剥げている。社務所も狭く、正月三が日だけ人手が足りなくなるので、近所の学生に声をかけていた。


 俺の仕事は簡単だった。


 お守りを並べる。

 おみくじを補充する。

 絵馬を渡す。

 夕方になったら境内に落ちた紙くずを拾う。


 絵馬は一枚五百円だった。


 表には、今年の干支の絵が印刷されている。参拝客は、その空いた部分に願い事を書いて、境内の絵馬掛けに吊るす。


 合格祈願。

 家内安全。

 良縁成就。

 病気平癒。


 どれもよくある願いだった。


 ただ、その神社には一つだけ変な決まりがあった。


 宮司の高坂さんは、初日に俺たちバイトを集めてこう言った。


「絵馬を整理する時は、表だけ見てください」


 最初、意味が分からなかった。


 表だけ。


 普通、絵馬は表に願いが書かれている。裏を見る必要なんてない。


 高坂さんは続けた。


「裏に書いてあるものは、願い事じゃありません。見つけたら、私に渡してください。捨てたり、読み上げたりしないように」


 それだけだった。


 理由は説明されなかった。


 他のバイトは、古い神社のしきたりかな、と軽く流していた。


 俺も、その時は深く考えなかった。


 正月二日の夜だった。


 参拝客が減り、屋台も片づけ始めた頃、俺は絵馬掛けの周りに落ちた紐や紙くずを拾っていた。


 その時、一枚の絵馬が足元に落ちているのを見つけた。


 吊るしていた紐が切れたらしい。


 表には、子どもの字でこう書いてあった。


『たくみのせきがとまりますように』


 病気平癒だろう。


 たくみ、というのは子どもの名前だと思った。


 絵馬はまだ新しかった。木の色もきれいで、墨も乾いたばかりに見える。


 俺はそれを拾い、元の場所に戻そうとした。


 その時、風が吹いた。


 手の中で絵馬がひっくり返った。


 裏に、文字があった。


 表の子どもっぽい字とは違う。


 細く、力の入った大人の字だった。


『代わりは、誰でもいいです』


 俺は指先が冷たくなった。


 意味はすぐには分からなかった。


 でも、嫌な言葉だった。


 咳が止まりますように。

 代わりは、誰でもいいです。


 つまり、そういうことなのか。


 俺が絵馬を持ったまま固まっていると、背後から声がした。


「それ、見ましたね」


 振り返ると、高坂さんが立っていた。


 いつ来たのか分からなかった。


 高坂さんは俺の手元を見て、小さく息を吐いた。


「読んでしまいましたか」


「すみません。風で裏返って」


「責めているわけではありません」


 高坂さんは絵馬を受け取ると、社務所の奥へ持っていった。


 その横顔は、怒っているというより、疲れているように見えた。


 俺は後を追った。


「あの、どういう意味なんですか」


 高坂さんは、しばらく答えなかった。


 社務所の奥に、小さな木箱があった。


 古い菓子箱くらいの大きさで、蓋に御札が貼られている。


 高坂さんはその蓋を開け、さっきの絵馬を中へ入れた。


 中には同じような絵馬が何枚も入っていた。


 そのほとんどが、黒く変色していた。


 焼け焦げた黒ではない。


 墨を吸い込んだような、内側から黒く染みた色だった。


「絵馬は、神様に願いを預けるものです」


 高坂さんは静かに言った。


「でも、人は表に書けない願いを持ってくることがあります」


「表に書けない願い?」


「誰かが落ちますように。誰かが病気になりますように。誰かがいなくなりますように。誰かの分を、自分の家へください」


 声は淡々としていた。


「そういうものは、裏に書かれる」


 俺は木箱の中を見た。


 黒い絵馬の縁に、白い紐が絡まっている。


「叶うんですか」


 そう聞いてから、馬鹿な質問だと思った。


 高坂さんは蓋を閉めた。


「叶ったように見えることはあります」


「じゃあ、あの絵馬も」


「分かりません」


「代わりって、誰なんですか」


 高坂さんは俺を見た。


「それが分からないから、怖いんです」


 その夜から、絵馬掛けを見るのが嫌になった。


 昼間は何でもなかった。


 参拝客が並び、子どもが甘酒をこぼし、若いカップルがおみくじを引いて笑う。表に書かれた願い事は、どれも普通に見える。


 お母さんの病気が治りますように。

 大学に受かりますように。

 彼と結婚できますように。

 家族がずっと幸せでありますように。


 だけど、一度裏の文字を見てしまうと、表の願いまで少し違って見えた。


 お母さんの病気が治りますように。

 その代わりに、誰が病むのか。


 大学に受かりますように。

 その代わりに、誰が落ちるのか。


 家族が幸せでありますように。

 その家族に、誰が含まれていないのか。


 もちろん、すべての絵馬に裏書きがあるわけではない。


 ほとんどは普通の願いだ。


 だからこそ、余計に嫌だった。


 普通の願いの中に、ときどき本当の願いが混ざっている。


 それが見えない。


 正月三日の夕方、一人の女が社務所へ来た。


 三十代くらいの、痩せた人だった。


 濃いグレーのコートを着て、小さな男の子の手を引いている。男の子はマスクをしていたが、元気そうだった。


「絵馬を返しに来ました」


 女はそう言った。


 高坂さんはいなかった。


 その時、社務所にいたのは俺だけだった。


「返す?」


「去年、お願いしたものです」


 女は鞄から一枚の絵馬を出した。


 それを見た瞬間、俺は息を止めた。


 表に書かれた字。


『たくみのせきがとまりますように』


 あの絵馬と同じ字だった。


 けれど、その絵馬は黒く変色していた。


 昨日見たものとは違う。


 もっと古い。


 木の表面が黒く滲み、干支の絵もほとんど見えない。


 女はそれを両手で差し出した。


「おかげさまで、すっかり良くなりました」


 横にいた男の子は、境内の方を見ていた。


 その子が、たくみなのだと思った。


 マスクの下で、咳はしていない。


 元気そうに、石畳の上を足でこすって遊んでいる。


 俺は絵馬を受け取れなかった。


「少しお待ちください」


 そう言って、高坂さんを呼びに行こうとした。


 その時、女が小さく言った。


「今年も、お願いします」


 俺は振り返った。


「今年も?」


 女は鞄から新しい絵馬を出していた。


 買った覚えのない絵馬だった。


 たぶん、先に授与所で買ったのだろう。


 表には、もう願い事が書かれていた。


『たくみが、ずっと元気でいられますように』


 女は裏返そうとした。


 俺は見てはいけないと思った。


 でも、目が動かなかった。


 裏には、細い字でこう書かれていた。


『今年も、誰かでお願いします』


 女は何でもない顔で、それを絵馬掛けへ持っていった。


 男の子は、帰り際に一度だけこちらを見た。


 マスクの奥の目が、妙に黒かった。


 その夜、俺は高坂さんに全部話した。


 高坂さんは長く黙っていた。


「止められないんですか」


 俺が聞くと、高坂さんは言った。


「止めたことはあります」


「どうなったんですか」


「その年、その子は入院しました」


「じゃあ、代わりに誰かが」


「亡くなった人がいます」


 俺は言葉を失った。


「誰ですか」


「ここで働いていた人です」


 高坂さんはそう言った。


 それ以上は教えてくれなかった。


 その日から、俺は咳が出始めた。


 最初は本当に軽いものだった。


 冬だから、喉が乾燥したのだと思った。


 こん。


 こん。


 それくらいの咳。


 でも、三日経っても治らなかった。


 熱はない。

 鼻水もない。

 喉も痛くない。


 ただ、咳だけが出る。


 夜になると少し強くなる。


 こん。


 こん。


 布団の中で咳をしていると、境内の絵馬が風で鳴る音が頭に浮かんだ。


 から。


 から。


 木がぶつかる音。


 咳をするたび、胸の奥で小さな木片が揺れているような気がした。


 正月のバイトは七日で終わる予定だった。


 俺は最後の日、高坂さんに咳のことを話した。


 高坂さんは俺の顔を見た。


 表情が変わった。


「いつからですか」


「三日くらい前です」


「病院へは?」


「まだです。咳だけなんで」


 高坂さんは社務所の奥へ行き、あの木箱を持ってきた。


 御札を剥がし、蓋を開ける。


 中の黒い絵馬を一枚ずつ確認する。


 そして、手を止めた。


「これを見てください」


 差し出されたのは、あの女の絵馬だった。


『たくみが、ずっと元気でいられますように』


 表はそう書かれている。


 裏を見るのが怖かった。


 でも、高坂さんは裏を向けた。


『今年も、誰かでお願いします』


 その下に、昨日まではなかったはずの文字が増えていた。


 俺の名前だった。


 山瀬航平。


 知らない人間が書いた字ではない。


 俺自身の字に似ていた。


 昔から自分の名前を書く時の癖がある。

 山の最後の線が少し長くなる。

 平の横線が右上がりになる。


 その癖まで同じだった。


 俺は咳をした。


 こん。


 絵馬が、手の中で小さく震えた。


「何で、俺の名前が」


 高坂さんは答えなかった。


 代わりに、絵馬をすぐ木箱へ戻し、蓋を閉めた。


「今日はもう帰ってください」


「どうすればいいんですか」


「病院へ行ってください」


「病院で治るんですか」


 高坂さんは何も言わなかった。


 俺はその夜、家に帰った。


 咳は少しずつひどくなっていた。


 こん。


 こん。


 そのたび、喉の奥に木の粉のようなものが引っかかる。


 洗面所で吐き出すと、唾に混じって黒い粒があった。


 血ではない。


 小さな墨の粒のようなもの。


 俺は怖くなって、翌朝病院へ行った。


 レントゲンも撮った。


 医者は「軽い気管支炎でしょう」と言い、薬を出した。


 薬は効かなかった。


 咳は、毎晩二時過ぎになると強くなった。


 その時間になると、部屋のどこかで絵馬が鳴る音がする。


 から。


 から。


 もちろん、部屋に絵馬なんてない。


 でも、音はする。


 押し入れ。

 玄関。

 窓の外。

 枕元。


 少しずつ近づいてくる。


 バイトが終わってから二週間後、神社へ行った。


 高坂さんに会うためだった。


 けれど、社務所は閉まっていた。


 境内には誰もいない。


 絵馬掛けには、正月の絵馬がまだたくさん吊られていた。


 風もないのに、かすかに揺れている。


 から。


 から。


 俺はその中に、あの絵馬を探した。


 見つからなかった。


 でも、絵馬掛けの一番下に、黒い絵馬が一枚だけ吊られていた。


 真っ黒だった。


 願い事も、干支の絵も、何も見えない。


 近づくと、裏側が少し浮いていた。


 見てはいけない。


 そう思った。


 でも、もう自分の名前が書かれていることは知っている。


 俺は震える手で絵馬を裏返した。


 裏には、俺の名前はなかった。


 代わりに、こう書かれていた。


『山瀬航平の咳が止まりますように』


 その下に、細い字で。


『代わりは、次に読む人でお願いします』


 俺は絵馬を落とした。


 からん、と乾いた音がした。


 その瞬間、咳が止まった。


 本当に、ぴたりと止まった。


 喉の違和感も、胸の重さも、全部消えた。


 俺は境内に一人で立っていた。


 足元に落ちた黒い絵馬を見下ろしたまま、しばらく動けなかった。


 助かった。


 そう思ってしまった。


 同時に、それが一番いけないことだと分かった。


 誰かに渡ったのだ。


 俺の咳は、次に読む誰かへ。


 俺はその絵馬を拾えなかった。


 触ったら戻ってくる気がした。


 そのまま神社を出た。


 高坂さんとは、それ以来会っていない。


 神社には一度電話したが、つながらなかった。


 あとで知ったことだが、その神社は春に無人になったらしい。高坂さんが体を悪くしたと聞いた。


 俺の咳は、それから一度も出ていない。


 あの夜以降、風邪をひいても咳だけは出ない。


 喉が痛くても、熱があっても、咳は出ない。


 それがかえって気持ち悪い。


 最近、近所のスーパーで親子を見かけた。


 グレーのコートの女と、マスクをした男の子。


 たくみだった。


 大きくなっていた。


 元気そうだった。


 女は俺に気づかなかった。


 でも、男の子だけは俺を見た。


 マスクをしていないのに、口元が動かなかった。


 ただ、こちらを見て、少しだけ頭を下げた。


 その夜、部屋の郵便受けに封筒が入っていた。


 差出人はない。


 中には、小さな木片が一枚入っていた。


 黒く染みた絵馬の欠片だった。


 表には、かすかに俺の名前が残っている。


 裏には、細い字で一行だけ書かれていた。


 ありがとうございました。


 その字は、あの女の字だった。


 俺はその欠片を捨てられなかった。


 今も机の引き出しに入れている。


 たまに、夜中に鳴る。


 から。


 から。


 絵馬が揺れる音。


 そして、その音がする日は、どこか遠くで誰かが咳をしている気がする。


 こん。


 こん。


 聞こえるはずがない。


 それでも聞こえる。


 俺の代わりに。

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