草川さん
香葉は静かにスケッチブックを閉じた。
窓の外へ目を向ける。
ただ何となく、夜景を眺めていた。
「浜中さん?」
後ろから優しい声が聞こえた。
振り返ると、仕事を終えた草川が立っていた。
「何してるの?もうすぐ消灯だよ。病室戻らないと。」
「……ちょっと、色々不安で。」
香葉は少し照れくさそうに笑う。
「草川さんは……巡回ですか?」
「いやいや。」
草川は苦笑しながら首を振った。
「今仕事終わって、これから着替えるところ。」
そう言って肩をすくめる。
「今日は夜勤と交代する直前に入院の患者さんが来ちゃってさ。バタバタだったよ。引き継ぎやら何やら終わって、やっと一息。」
「看護師さんって……本当に大変なんですね。」
「大変だよ。」
草川は笑いながら答えた。
「でも、自分で選んだ仕事だからね。」
少しだけ視線を夜景へ向ける。
「実は僕も、小さい頃は患者だったんだ。」
香葉は思わず顔を上げた。
「え……。」
「自分じゃあんまり覚えてないんだけど、小さい頃は結構危なかったらしい。」
苦笑いを浮かべながら続ける。
「親も覚悟を決めてたって後から聞いた。」
香葉は何も言えず、ただ耳を傾ける。
「その後も、中学生くらいまでは体が弱くてね。入院したり退院したりの繰り返し。」
ロビーの静けさの中、草川の声だけが穏やかに響く。
「病院ってさ、外から見るよりずっと時間がゆっくり流れるんだよね。一日が長く感じるし、先が見えないと余計に不安になる。」
香葉は静かに頷いた。
まさに今、自分がそうだった。
「でも、その頃お世話になった看護師さんたちが、本当に優しくて。」
草川は少し懐かしそうに笑う。
「検査で泣いた時も、『よく頑張ったね』って声を掛けてくれたり、眠れない夜に少し話を聞いてくれたり。」
その笑顔には、今でも感謝している気持ちが滲んでいた。
「その時かな。」
「将来は看護師になりたいって思ったの。」
「僕も誰かの不安を少しでも軽くできる人になれたらいいなって。」
香葉は草川を見つめた。
昼間はいつも明るくて、冗談ばかり言っている人。
そんな草川にも、こんな過去があったなんて思ってもいなかった。
「だからね。」
草川は香葉の方を向く。
「不安になること自体は悪いことじゃないよ。」
「不安だから、前に進みたいって思えることもある。」
香葉は少し俯いた。
「私……大丈夫なふりばっかりしてました。」
「うん。」
草川は優しく笑う。
「何となく分かってた。」
「患者さんって、意外と笑顔の奥が見えたりするんだよ。」
香葉は思わず苦笑した。
「隠せてると思ってたのに。」
「全然。」
その即答に、二人とも思わず笑ってしまう。
草川は腕時計を見る。
「さて、本当に消灯時間だ。」
「今日はちゃんと眠ろう。」
「焦っても、答えは今日出ないから。」
香葉は小さく頷いた。
「……はい。」
草川は軽く手を振る。
「おやすみ、浜中さん。」
「おやすみなさい、草川さん。」
香葉はスケッチブックを胸に抱え、ゆっくりと病室へ向かった。
さっきまで胸いっぱいに広がっていた不安は消えてはいない。
それでも、一人ではないと思えるだけで、少しだけ心が軽くなっていた。




