第2話 「名前なんて衣装よ」
金曜の夜は、店の空気が少しだけ軽い。
平日に押し込めていたものを、みんな雑に外してくるから。
ドアが開いて、見覚えのある顔が入ってきた。
この前の子。あの、壊れる直前だった子。
「いらっしゃい」
「あ、どうも……」
スーツじゃない。ラフなシャツにデニム。
でもね、歩き方がまだ会社員なのよ。肩に見えない鞄を下げてるみたいに、重心が前に落ちてる。
「辞めたの?」
「はい。ちゃんと、辞めました」
“ちゃんと”がつくあたり、まだ真面目ね。
私はいつもの席に座らせて、軽いのを出した。
今日は顔色がいい。けど、その代わりに“空白”がある。
人ってね、何かを手放すと、一瞬だけ中身が空になるのよ。
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「で、今は?」
「一応、転職活動してます。でも……なんか、自分が誰なのか分かんなくなって」
来たわね。
辞めた後に必ず来るやつ。
「名前は?」
「え?」
「アンタの名前よ」
「……えっと、田中です」
「それ、本名でしょ」
ぽかんとしてる。
そういう顔、嫌いじゃないわ。
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昔ね、バレエ団に入ったとき、名前を変えさせられたの。
フランス風の、いかにもそれっぽいやつ。
本名はね、日本のどこにでもある名前だった。
でも舞台に立つときは、それじゃダメだって言われたの。
「観客が夢を見られないから」って。
でね、最初は嫌だったのよ。
自分じゃない名前で呼ばれるの、気持ち悪くて。
でも不思議なもんでね、その名前で踊ってるうちに、“その人”になっていくの。
背筋の伸び方も、指先の使い方も、全部変わる。
名前ってね、ラベルでありながら、身体を変えるのよ。
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「アンタさ、会社員の“田中”やってただけじゃない?」
彼は少し考えて、頷いた。
「……そうかもしれないです」
「で、今それ脱いだから、寒いのよ」
苦笑い。いいわね、その顔。少しずつ分かってきてる。
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芸能のときもそう。
キラキラした名前、付けられたわよ。今思えば笑っちゃうくらいの。
でもね、その名前でステージに立つと、ちゃんと“商品”になるの。
ファンはその名前を愛して、キャラクターを欲しがる。
逆に言うと、本名の私は、そこにはいない。
解散したとき、一番困ったのはそこよ。
“その名前じゃない自分”に、誰も拍手してくれないの。
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「じゃあ、どうすればいいんですか」
いい質問ね。やっとそこに来た。
「別の名前、着ればいいのよ」
「……また?」
「当たり前でしょ。裸で外歩く気?」
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禅にね、「無我」ってあるの。
“我がない”って書くやつ。
これ、よく勘違いされるのよね。
“自分をなくす”って意味だと思われがちだけど、違うの。
固定された自分なんて、そもそもないって話。
川みたいなもんなのよ。
同じ形に見えても、水はずっと流れてる。
なのに人はね、「これが私です」って、どこかで止めようとする。
そりゃ濁るわよ。
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「でも、どれが本当の自分か分からなくなりません?」
「ならないわよ」
即答すると、少し驚いた顔をする。
「だってね、本当の自分なんて、探すもんじゃないの。使うもんなの」
「使う……?」
「そう。今この場で、一番ちゃんと立てる自分を選ぶの」
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私はカウンターに肘をついて、少しだけ身を乗り出した。
「アンタ、今のままだと“元会社員”っていう一番つまんない名前で止まるわよ」
「……それは、嫌です」
「でしょ」
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二丁目で店やってるとね、いろんな名前の人が来る。
本名の人、源氏名の人、昨日と今日で名前が違う人。
でもね、どの人も“嘘”じゃないのよ。
その瞬間に必要な顔をしてるだけ。
逆に、一つの名前にしがみついてる人のほうが、よっぽど不自然。
サイズの合わない服、ずっと着てるみたいで。
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「アンタ、何ができるの?」
「えっと……営業、ですかね」
「それ、“会社の中での役割”でしょ」
少し黙る。
いいわね、ちゃんと考えてる顔。
「人と話すのは、好きです」
「それよ」
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私は少しだけ笑った。
「じゃあ、“人の話を聞く人”になりなさいよ」
「カウンセラー、とかですか?」
「名前はどうでもいいの。機能よ」
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体操でもバレエでもね、“名前のある技”ってあるでしょ。
でも本質はそこじゃないの。
どう跳ぶか、どう回るか、どう止まるか。
それができて初めて、名前が意味を持つ。
人間も同じよ。
肩書きは後からついてくる。
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「……なんか、少し楽になりました」
「そう。じゃあ次」
「次?」
「新しい名前、考えなさい」
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彼は少し笑った。
「そんな、すぐには……」
「いいのよ、仮で。どうせまた変わるんだから」
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グラスの氷が、静かに溶けていく。
店の奥では、誰かが笑ってる。
私は最後に、少しだけ声を落とした。
「いい? 名前なんて衣装よ」
彼が顔を上げる。
「似合わなくなったら、さっさと脱ぎなさい」
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外に出るとき、彼の背中は少し軽くなっていた。
歩き方も、ほんの少しだけ変わってる。
ああ、いいわね。
ちゃんと着替え始めてる。
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カラン、と氷が鳴る。
今夜は、よく響く音だった。




