切り札
イザク・パシャが完全に息絶えたのを確認すると、女児は部屋の隅に置かれていた荷の口を開ける。
「あった……」
彼女が奴隷となった時に着ていた、垢とほこりにまみれたコンスタンティノーポリの庶民の服。動きやすい服装になった彼女は船室の裏口からこっそりと抜け出した。
室内にも聞こえていた剣戟や怒号がよりはっきりと女児の耳に飛び込み、彼女は耳をふさぐ。コンスタンティノーポリの戦いがフラッシュバックするが、震える全身をなんとか押さえつけた。
主だった将兵は迎撃のため甲板に出ており、艦橋の陰に人影はなかった。
さらに負け戦が決定的となったためかはしけ舟で逃げ出す兵の姿が高い船上からいくつも確認できた。
甲板に転がっている身ぐるみはがれた男の死体は彼らの将だろう。
女児は忍び足で素早く船の側面、船を進めるための櫂が百足の足のように突き出ている場所まで進んだ。
本来船の上では逃げ場がない。
だが、トルティーアでは船の漕ぎ手に奴隷を使っておりその中には戦争で捕虜となった者も多い。
女児は扉の外からそっと奴隷のいる部屋を観察した。明かり取りのための窓が部屋の高い位置に開けられ、壁の下側の隙間には大黒柱ほどの長さがある櫂が海上にまで届いているのが見えた。
砲撃のためか船体にはいくつもの穴が開いており、聞いていたよりもだいぶ明るい。
普段ならば彼らの背に鞭を振り下ろす奴隷頭の姿があるはずだが、すでに逃げてしまったのか室内のどこにも見当たらない。
「トルティーアが負けたらしいぞ」
「イザク・パシャがやられたらしい」
「沈んでいく船も、白い半月の旗を掲げたものばかりだしな」
「俺たち、帰れるのか」
手足を錆びた鎖でつながれた彼らの目には光が宿っている。コンスタンティノーポリが落とされて以降、背中を襲う鞭の痛みに耐えながらただ櫂を漕ぐだけだった日々に終わりが訪れようとしていた。
胸のきしむような罪悪感をおぼえながら女児はそっと扉を開く。
「お前は?」
戦場にこんな小さい少女がいることにある者は驚き、ある者は眉をしかめる。
イザク・パシャのお気に入りだと知っている者は自分の娘に重ね合わせているのか、涙ぐんだ。
だがそのうちの一人は目を見開く。
「あなたは……!」
「話はあと」
トルティーアの船が次々と沈む中、ウルバンが乗った船はまだ浮かんでいた。
船底を仕切りで区分けしたことで実現したすぐれた排水機能により、ガレアッツアからの大砲を受けたにも関わらず沈まない。
「そろそろいいか」
ウルバンは指示を出し、止まっていた櫂をゆっくりと動かさせる。
「どいつもこいつも僕の意見を無視しやがって…… せいせいした」
波間に浮かぶ焼け焦げた船を器用に避け、海上に浮かびながらもまだ息のある兵を無視し船は進む。
「た、助けてくれ」
「船に乗せてくれ」
「助けるわけないだろ…… そもそもこうなったのは、お前らが僕の意見を無視して攻め込んだせいじゃないか」
これまで艦橋に下がっていたウルバンが初めて船首に立った。船の前方であり、狙われやすいが狙いやすい場所。
「アルティギアリーア」
ウルバンの伸ばした手の先に突如大砲が出現した。
沈み始めた日を照り返す黒鉄の砲身、にもかかわらず巨大な砲身を支える砲架は木製の甲板にヒビ一つ入れることはない。
砲身に頬ずりし、寵姫を愛でるかのように官能的に指を這わせながらウルバンはつぶやく。
「やっぱり大砲はいいなあ……」
頬ずりしながらも砲口は見えない糸に操られているかのように動き、進路をふさぐイタリアーナの船に照準を合わせる。
相当な重量があるはずなのに、「アルティギアリーア」を乗せたウルバンの船に動揺はまるでなかった。
「まずは基本、榴弾からいくか」
ウルバンの手に一抱えもある砲弾が再び出現し、蓋を開けた砲身の後方に吸い込まれるように装填された。
「切り札は取っておくものだよね」
ウルバンの船に乗った将兵が耳をふさぎ、甲板に伏せる。
この戦場で、誰も聞いたこともないほどの轟音が響いた。




