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42ページ目 菫さんとドンキーの穴場グルメ


「えっ!……結局告られなかったんだ!」


 数日前と同じように、耳に当てがったスマホからはめぐるの声が響いてくる。ただあの時と違い、菫は机に向かっている。数多い夏休みの宿題の一つである、読書感想文を書くために。


「そうなのよ〜……やっぱりデートじゃなくて、

ただ映画観に行くだけだったんじゃないかしら?」


 自分に言い聞かせるついでに言ってみたが……電話口の向こうのめぐるは「え〜」と言う。スマホを耳に当てながら、怪訝そうな顔をしているのが想像に難くない。


「初めてのデートだから告らなかっただけじゃね?友達で彼氏いる子も、だいたい2、3回目のデートで告るか告られて付き合って……ってパターンだよ」


 今時の高校生もそこは昔と変わらないのね……と菫は痛感した。

 直と映画に行った翌日、菫はまたも朝からめぐると電話をしている。映画に行く前に電話した時、めぐるから話を聞かせて欲しいと言われたからだ。とは言っても、めぐるが睨んだような告白イベントはなく、ただ映画を見て昼食を食べ公園に行ったというだけだから、大して面白くもないのでは……と菫は思っていた。と思いきや、めぐるはやはり食いついてきたのだが。


「もしかしたらまたご飯とかに誘ってくるんじゃね?今ちょうど夏休みだしさ」


「そ、そうかしら……」


「あっそうだ!ばったんは行くの?今度きよみーの別荘行くやつ」


「あぁ、行くって言ってたわよ」


 あの時も別荘の話題が出て、直は行くと明言していた。それを聞いためぐるは電話口の向こうでふふっと笑う。


「マジか〜。輪をかけて楽しみなんだけど!ばったんの奴また猛アプローチしてきそうじゃん」


「で、でも別荘行くのは他の皆も一緒だし……」


「さぁ〜、わかんないよ?たぶん海で泳ぐだろうし……すー様の水着姿にニヤニヤしてるかもね!」


「!!!!」


 「水着」とめぐるが口にしたので、菫は絶句した。言われてみると、そもそも別荘のある伊豆は海に近く、皆で泳ぎに行くことも十分あり得る。そうなると……自分だけ水着を着ないのも怪しまれそうだし、だからといってアラサーにもなって水着を着るのも恥ずかしいし、それ以前に菫は今スクール水着以外で水着を持っていない。


「み、水着なんて……恥ずかしいっ……」


「なんで〜?私達だって泳ぐし水着着るよ?」


「わ、私……幼児体形だから……」


「でも水泳の時普通に水着着て泳いでたじゃん。スク水みたいに露出少なめのやつにすりゃよくない?」


 そう言われると……返す言葉が見つからず、菫は口籠る。むしろ、あのスク水なら海に行く時に着て行っても大丈夫な気がしないでもない。


「そうね、じゃああのスク水来て……」


「え〜、つまんないの。すー様どんな水着着るか気になるのに〜」


「……そういうめめちゃんはビキニでも着るの?」


 逆に菫がそう訊くと……めぐるは思いっきり吹き出したうえ、暫くの間ひとしきり笑っていた。


「ビキニなんか着る訳ないじゃ〜ん!男子もいるんだから」


「あっ、男の子と一緒じゃ着ないのね」


「流石にな〜」


 いくら日頃から一緒にいても、そこは線引きしているのね……と菫は思った。そこで、めぐるが話題を変えてくる。


「ところでさ……ばったんとどんな映画観たの?」


「あぁ、『冨造親分と十二人の舎弟達』よ」


「えっ……?」


 直と観た映画のタイトルを言うと、菫がその映画を観るなんて予想外だと思ったのか、めぐるは黙り込んだ。



 めぐるとの電話が終わった後も、菫は引き続き机に向かっている。途中で昼食を食べに一旦自室を出たが、食べ終わるとすぐに戻って再び宿題に取り掛かる。その後も小一時間……いや、2時間ほど集中した後、菫は大きく伸びをした。


「あー!!終わったぁ!」


 机の上に広げてあるのは原稿用紙で、そこには地理のレポートが書かれてあり、今ちょうど完成したばかりだ。昼過ぎには読書感想文も無事に仕上げている。これで国語と社会の宿題が早くも全て終わり、菫は肩の荷が降りた気分になっている。


(後の英語と数学の問題集がやっかいだけど……まぁ、まだまだこれからよね!とりあえず今日の宿題はこれで終わり……っと)


 菫は完全に集中力が切れて脱力し、机から離れベッドに大の字に横たわる。もう今日は何もしたくない……と思いながらスマホを手に取ると、画面の時刻はまだ15時半とある。菫の感覚ではもう16時半は過ぎていると思っていたが。


(15時半か……まだ少し時間があるわね。そういえば今日は葵が帰り遅くなるって言ってたし、晩ごはんの準備は急がなくても良さそうね……

 それなら…………まだまだ暑いけど……)


 昨日犬と遭遇しておやつをあげたおかげで、菫の頭にはある人物とそのペットの顔が浮かんでくる。菫はめぐるとの電話が終わって以来、一旦閉じていたLINEの画面を再び開けた。











「いいな〜夏休み!!私だって夏休み欲しいんだけど!!」


 久しぶりに会った瑠奈はコーヒーを淹れながら、愚痴るように言った。そんな飼い主の気も知らず、柴犬のドンキーは菫が持ってきたビスケットを美味しそうに食べている。バリバリと音を立てて。そして部活が終わった琴葉も菫が来る前からいて、ドンキーの頭を撫でている。


 瑠奈のマンションに菫が到着したのは、16時半頃のこと。地理のレポートを終わらせた後、菫は今度は瑠奈に電話をしてもう少し時間を潰してから家を出た。すぐだとドンキーの散歩には流石に暑いと思い……それでもまだ暑そうだが。

 ここ最近の菫は介護体験にテストと忙しく、お邪魔したのは久しぶりになる。それでもドンキーは菫のことを覚えており、嬉しそうに尻尾を振っていたのは言うまでもない。


「そんな忙しいの?瑠奈ちゃん」


「忙しいってゆーか……人間関係ヤバすぎんのよ。派閥にいじめにお客さん関連のトラブルに……菫ちゃんだってあったでしょ?」


「あ〜……あるあるよね。男関係でも揉めてる子いるし……」


「でも今菫ちゃん……デートしたんでしょ? つい最近」


「ちょっ! 琴ちゃん!」


 こんなドロドロした人間関係があることは、夜職を10年弱ほど経験した菫も身を持って知っている。嫌な記憶が蘇ると共に菫は懐かしくも思っていた中、ニヤニヤ笑う琴葉にまさかのデートの話題を振られ、菫は慌てて止める。だが時既に遅しで、この後菫が瑠奈から散々尋問されたのは言うまでもない。




「いいじゃんいいじゃん、菫ちゃんは学校楽しんでて。私なんか今日だって仕事行くの憂鬱よ……。最近いつもこんなんだからタバコの量増えてんだよね〜。せっかく禁煙しようと……」


「瑠奈姉ちゃんいつも失敗してるじゃん。一番長続きして1週間弱だっけ?」


「………………」


 菫の恋バナにニヤニヤした後も瑠奈は仕事の愚痴話をし、禁煙のことでツッコんできた琴葉を軽く睨んだ。程なくして琴葉はトイレに行き、その間に瑠奈は菫に別の話題を切り出した。


「そういえばさ…………あの時菫ちゃんいたっけな〜」


「ん?」


「あの店でさ……心菜(ここな)って子いたの覚えてる?」


「……あ〜、心菜ちゃん?覚えてるわよ。確か女優になりたいとか言ってたわよね?」


 菫は膝の上に乗ってくるドンキーを撫でながら言う。その心菜という元同僚は菫が辞める間際に入店しており、顔が容易に思い浮かぶほどには覚えている。ただあまり絡むことはなかったが。


「で、その心菜ちゃんがどうしたの?もしかして女優になったとか?」


 ニコニコする菫だったが……それに反比例するかのように瑠奈の表情はどんどん険しくなる。その顔のままで、瑠奈は言いづらそうに口を開く。




「いや、なったんだけどね…………女優には。


 ……ただ……


 ……………………AV女優だけど」




「へぇー、そうなのね〜…………


 …………え、えぇえ!!??」





 うっかり聞き流しそうになった菫だったが……大事なことはしっかり聞き逃さず、ただただ驚き呆れて叫びそうになり、トイレにいる琴葉に聞かれないよう慌てて口を手で覆った。膝の上で驚いてビクッと震えるドンキーをよそに。



 琴葉は宿題をするため瑠奈のマンションに残ることになり、菫一人でドンキーを散歩に連れて行くことになった。17時半頃になっても外はまだまだ暑い。若干薄暗くなったというのに、未だにニイニイゼミやツクツクボウシが大合唱している。アスファルトの上も当然暑いままで、犬が触れると間違いなく熱く火傷してしまいかねない。なのでドンキーは今は歩かずに犬用のベビーカーに乗っている。暑そうにヘッヘッと舌を出しているが、地べたを歩くよりはマシなようだ。


「もうちょっとしたらいつもの土手に着くわよ。待っててね、ドンキー」


 そう言い聞かせると、ベビーカーの中でお座りするドンキーはやはり目を輝かせている。どうやら歩かずに乗っているだけでも楽しいらしい。

 瑠奈のマンションから10分ほど歩いた先には土手があり、下がアスファルトでないうえ、ところどころに木があり日陰になっていて比較的涼しい。なので夏場のドンキーの散歩場所はいつもこの土手なのだ。

 

(それにしても心菜ちゃん……AVって……)


 ドンキーがいるベビーカーを押す菫の頭には、再び元同僚のことが嫌でも浮かんでくる。

 話を聞いた時は菫も流石に半信半疑だった。事実なのか確かめたくなり、菫は瑠奈から心菜の現芸名を聞いてネットで検索した。すると……出るわ出るわで、菫は改めてショックを受けた。デビュー作と思われるパッケージもヒットし、確かにその女優は心菜の面影がある。少々顔はいじっているようだが。


(しかも心菜ちゃん、お店辞める前にスカウトされてたらしいけど……まさかAVのスカウトだったってこと?

 でも瑠奈ちゃんは騙されたんじゃないかって言ってたわね……。確かにあの子ちょっと抜けたとこあって騙されやすそうだし、そもそも女優になりたいって言ってた割には、女優になるための努力は特にしてそうな感じでもなかったような……

 てゆうか、今時そんな悪質なスカウトなんか…………ん?)


 悶々としながら色々考えていると、ふと甘い匂いが菫の鼻をくすぐった。菫よりずっと鼻が利くドンキーも鼻をヒクヒクさせている。


「いい匂いするわね、ドンキー。なんか焼き菓子みたいな……」


 この匂いのおかげで……菫はお腹が空いてきた。今日は昼食以来何も食べておらず、瑠奈にコーヒーをご馳走してもらったぐらいである。


「ねぇ、ドンキー。ちょっと寄り道していいかしら?大丈夫よ、後でちゃんと土手に行くからね」


 ドンキーにそう聞かせながら、菫はいい匂いのする方向へ歩を進めた。

 

 暫く歩くと……匂いの元がわかり、菫は足を止めた。

 目の前にあったのは、プレハブ小屋のような建物だ。だがただのプレハブ小屋ではなく、上には達筆で書かれた「寄り道三昧」の文字と共に、鯛と蛸の絵が書かれた大きな看板がある。その周りには「たこ焼き」「たい焼き」などと書かれた幟や、「お品書き」が書いた看板が立てかけられている。それだけでなく、「祝開店」と書いた花輪まであるので、恐らくつい最近に開店したのだろう。


「ありがとうございまーす!」


 早速、中学生ぐらいの客がソフトクリームを買っている。他にも近くのベンチにはたこ焼きをつつく客がいたり、立ったままたい焼きを頬張る客もいる。

 こんな光景を見ると……菫も何か食べたくなり、ベビーカーを押しながらお品書きの看板へと向かう。どうやらメインはたこ焼きとたい焼きで、他には夏季限定のソフトクリームとかき氷がある。どのメニューも軒並み安く、たこ焼き6個入りを含む全メニューが100円である。


(ちょっと薄暗くなってきたけどまだ暑いし……ソフトクリームかかき氷かしら……。いやでも冷たいものばかり食べるのも体によくないし、そもそも看板メニューはたこ焼きとたい焼きっぽいわよね……)


 暫く迷った結果……菫は看板メニューの一つであるたい焼きに決めた。しかし、そのたい焼きの中身にも粒あん・白あん・カスタードに限定のクリームチーズと4種類ある。が、初めての店なのでここは王道の……と菫は迷わなかった。

 ドンキーのいるベビーカーを押したまま菫はカウンターへと向かい、「いらっしゃいませ!」と元気よく挨拶する店員に、ひとまずたい焼きを一つ頼んだ。


「たい焼き一つお願いしまーす、つぶあんで!」



(……美味しそう!やっぱりたい焼きはこうでなくっちゃね!)


 茶色い小さな紙袋から出ている頭を見て、菫は思わずニヤついた。西日が射していて外は暑く、持っているたい焼きも焼きたてでホカホカだが、そこまで不快にはならない。


(そういえば昔言ってたわね……たい焼きをどこから食べるかで性格がわかるって。頭から食べる人が大胆で、尻尾から食べる人が慎重で……私は迷わず頭派だけど。……ん?)


 たい焼きをすぐに食べずにじーっと眺めている菫に、この西日並みに熱い視線が刺さってくる。すぐ横の犬用ベビーカーから。


「……ドンキーは食べちゃダメよ。犬には甘過ぎるんだから」


 そうは言ったものの、ドンキーにはもちろん人間語がわからず、依然として何かを訴えるかのように見つめてくる。目をぱっちりと開け、柴犬らしい凛々しく賢そうな顔で。

 菫がたい焼きの頭にかぶりつくと、ドンキーは一瞬だけ不安そうな顔をした後で、すぐに元の賢そうな顔に戻る。


(美味しい!外はパリッとして中はフワフワで、粒あんも甘過ぎないし……これで100円はお買い得ね!)


 美味しそうに食べる菫の横で……ドンキーは恨めしそうにその様子を眺めている。やがて見ているだけじゃ我慢できないのか、ベビーカーの中から身を乗り出してたい焼きへ顔を近づける。が、間一髪で菫に見つかって避けられた。


「ダメって言ったでしょドンキー!」


 ドンキーを一喝した後、菫はたい焼きを右手から左手に持ち替えて遠ざけたが……それでも彼は菫の顔とたい焼きを交互に眺めながら訴えかけてくる。自分にもちょうだいと。

 あまりの必死さに、菫はため息をついて頭を抱えた。


「もぅ……ドンキーはこれで我慢しなさいよ!」


 菫はそう言いながらバッグの中に右手を突っ込み、再び犬用ビスケットの袋を取り出した。瑠奈のマンションにいた時にもあげていたが、ドンキーにとってはそれでも嬉しいのか、目を輝かせながら見つめてくる。


「はい!食べな」


 ビスケットを一つ差し出すや否や、ドンキーは勢いよくかぶりつく。もう数ミリずれていたら完全に菫の指まで噛んでいただろう。それでもドンキーはあっという間にビスケットを噛み砕いて飲み込み、再び菫のたい焼きに視線を戻す。たい焼きが先程よりも明らかに小さくなっているのに気づいたのか、再び悲しげな目つきだ。


「だーかーらー、ダメだって何回も言ってるでしょ!」


 何回釘を刺してもドンキーは諦めてくれず……終いには前足を滑らせ、ベビーカーからずるっと落ちそうになった。


「!!(もぉ!何やってんのよ!)」


 菫は咄嗟にたい焼きを口に咥え、ドンキーの前足を持ち上げて再びベビーカーの中に入れる。するとドンキーはこれ幸いと言わんばかりに、菫が口に咥えたたい焼きを取ろうと距離を詰め、ガッと口を開けた。が、これも菫にギリギリ避けられて残念ながら取り損ねた。よく見るとドンキーはよだれまで垂らしている。


(ったく……油断も隙もないんだから!ていうかさっきおやつあげたじゃない)


 ドンキーのあり余る食欲に、菫は呆れて物も言えない。

 一方、同じくたい焼きを買った別の中年女性は先程からニコニコ笑っている。菫とドンキーの様子を見て。


「あらあら可愛いわね〜。ここのたい焼き美味しいから僕にもちょーだいって言ってるのよ〜」

「あはは……そうみたいですね〜」


 菫は苦笑いしながら、女性にそう返した。



 その後、依然としてドンキーの熱い視線を浴びながらも、菫は何とかたい焼きを完食した。


「ごめんねドンキー、遅くなって。行きましょ!」


 案の定残念そうな顔のドンキーをよそに、菫はベビーカーを押して足早に土手へと向かう。あのたい焼きの味を思い出しながら。


(帰りもまた「寄り道三昧」に寄りましょ……瑠奈ちゃんと琴ちゃんのたい焼き買いに。瑠奈ちゃんあんこ嫌いだからカスタードがあってよかったわ。それにしてもこんな穴場なお店があったなんて〜)


 幸い「寄り道三昧」の営業時間が19時までということもあり、瑠奈へのお土産を買うべく菫は帰りも寄ろうと決めていた。いかんせん暑いので土手での散歩も長くて20分ほどで終わるだろうから、閉店までには再び行けそうだ。

 



 土手に着いたところで菫はリードを持って、ドンキーを地べたに降ろした。ドンキーは嬉しそうに数回ピョンピョン跳ねてはぐるぐる回る。尻尾をビュンビュン振りながら。


「も〜!歩けるのがそんなに嬉しいのね」


 呑気にそう思っていると、ドンキーは何かに気付いたのか耳をピンと立て……突如走り出した。


「ちょっ!ドンキー!」


 完全に気を抜いていた菫は引っ張られるも、何とかリードを握りしめ両足に力を込めて、踏みとどまる。流石にドンキーは昨日会ったサントスよりも遥かに小さく、菫でも止められたものの、他人事ではないと痛感する。


「いきなり引っ張らないでよー!女の子の犬か猫でもいたの?」


 うんざりしながらドンキーに訊くと、相変わらずハァハァ息をしながら目を輝かせている。この顔を見て、菫は気付いた。この近くに雌犬、あるいは人間の女性がいることに。

 それに加えて、楽器らしき音色が菫の耳に入ってくる。


(この澄んだ音……フルートかしら?ジャカジャカ鳴ってるのはギターね。


 ……あれ?この歌……)


 暫く聞いていると……歌声までが菫の耳に届いてくる。しかも……その歌声に菫は聞き覚えがあり、ハッとする。


(この声…………もしかして…………!!)


 ドンキーがリードを引っ張るのに、菫は着いていく。そこまで遠くなさそうなので、ベビーカーは一旦置いたまま。




♪風のようなー うーたー 届けたいよー

 野生の残ーり火抱ーいてー 素足でー はーしーればー




(この歌……私でも知ってるわ!流石ね……阪口さん。確か杉浦さんも阪口さんもお家はこの辺じゃないはずなのに、まさかこんなとこで見かけるなんて……。確かにこの近くは家もそんなにないし、他にも楽器弾いてる人たまに見るけど……)


 心の中で感心しながら、菫とドンキーはその伸びやかな歌声の出処へと辿り着く。その土手の上では菫が予測した通り、ぽっちゃり体型のゆるふわボブカットの女性がギターを奏でながら歌っている。その横では長く美しい黒髪の女性がフルートを吹いている。どうやらまた別の曲を演奏しているらしく、二人の距離は少し離れている。部活は違えど、幼馴染の間柄である二人の練習場所は、今日はここであるようだ。

 

 暫くの間、菫とドンキーは近くの木の陰に隠れ、二人が奏でる音色に耳を傾けていたが……。


ワンワン!!


「ちょっ、ドンキー!」


 暫くすると、あろうことかドンキーが吠えてしまい、菫もつい声を出してしまった。すると、これまで演奏に集中していたはずの千穂と優香子は手を止め、菫とドンキーがいる方へ振り向く。


「……あっ!宮西さん?」


「菫ちゃんじゃ〜ん!どうしたの?こんなとこで。あっ、ワンちゃん可愛い〜」


 女子二人なので、ドンキーは例によって尻尾を振って近付き、千穂も手を伸ばす。彼に続いて、菫も恥ずかしそうに木陰から姿を現した。


「二人ともお疲れさま……ちょっと散歩に行ってて。……杉浦さんと阪口さんは練習してたの?」


「そー!ゆかちゃんも私も今日は部活ないから、ちょっと遠出して練習してたの」


「ここ、結構穴場って先輩から聞いたのよね。でももうすぐ暗くなるから、そろそろ帰ろうかなって……」


 優香子がそう言うので、千穂はドンキーを撫でながらスマホを覗いてみると……。


「……え!?もうちょっとしたら18時じゃん!まだまだ明るいからすっかり時間忘れてた〜。もっと歌いたいのに〜」


「この時期は日が長いからね〜」


「また明日も歌いましょ、ちーちゃん」


 千穂・菫・優香子の三人は笑い合い、ドンキーも嬉しそうに尻尾を振っていた。




「………………」




 そんな彼女らのすぐ近くを、仕事帰りらしいスーツ姿に眼鏡をかけた男性が歩いて通り過ぎた。どういう訳か、ふふっと不敵な笑みを浮かべながら。

 会話に夢中な女子三人はもちろん、同性に興味のないドンキーですら、この時は気付かずにいた。その男性が通りかかったことに。


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