第一部 初めまして、ただいま
扉を開けると、そこに彼がいた。
黒い髪。灰色の瞳。騎士の正装に身を包んだ、背の高い青年。
画面の中で、十八年見てきた人。
アルフレッド。
「……お嬢様?」
アルが、わずかに眉をひそめた。
「お顔が赤いようですが。まさか、熱でも」
「な、ないない! 元気! 超元気!」
声が裏返った。
だって、無理だよ。画面越しでもイケメンだったのに、本物は解像度がおかしい。睫毛の一本一本まで見える。肩幅が広い。背が高すぎて、首が痛い。
……え、私、こんな人に六歳のとき泥を塗ったの?
「……左様ですか」
アルは私の頭のてっぺんからつま先まで、さっと視線を走らせた。それから、ほんの少しだけ目元をやわらげる。
「おきれいです」
「……え」
「ドレスが」
「ドレスがね!?」
「ええ、ドレスが」
しれっと言って、アルは完璧な礼をした。後ろでライザが「きゃーっ」と小さく叫んでいる。何がきゃーなの。
◇
記憶は、ちゃんとあった。
この廊下の角を曲がると、お父様の書斎があること。階段の三段目が、ちょっとだけきしむこと。窓から見える芋畑の、どのあたりに去年いちばん大きな芋ができたか。
全部知っている。画面の中で、ずっと見てきたから。
でも。
手すりの冷たさも、絨毯のやわらかさも、焼きたてのパンのにおいも。触れるのは、ぜんぶ初めてだった。
「サラ!」
玄関ホールに下りた瞬間、名前を呼ばれた。
金の刺繍の服を着た、背の高い男の人。私と同じ桜色の髪を後ろになでつけて、琥珀色の目をしている。お父様だ。その隣に、栗色の髪をゆるく結い上げて、やわらかく微笑むお母様。そして、お父様の桜色とお母様の栗色をまぜたような、薔薇色がかった栗色の髪で、眼鏡を押し上げるお兄様のルーカス。
「おお……おお……! なんと美しい……! 父は……父はもう……」
「父上、泣くのは会場に着いてからにしてください。まだ玄関です」
お兄様が冷静にハンカチを差し出す。お父様はそれで盛大に鼻をかんだ。
画面で見ていたのと、同じ。
同じなのに、目の前で動いている。しゃべっている。笑っている。
お母様が、ゆっくりと私に近づいてきた。
「サラ。こっちへいらっしゃい」
そっと、抱きしめられた。
あたたかかった。
ふわりと、花のにおいがした。お母様の手が、私の背中をとん、とん、と優しくたたく。赤ちゃんのころ、画面の中で何度も見た仕草。
「十八年、あっという間だったわね」
……だめだ。
喉の奥が、きゅうっと熱くなる。
お母さん、と呼んだのは、もう何年前だろう。こんなふうに抱きしめてもらったのは。
「サラ?」
「……ごめ、なさい。なんか、うれしくて」
ぽろぽろと涙がこぼれて、止まらなかった。
「まあ」
お母様は少し驚いて、それからくすりと笑った。
「デビューの前に泣く子がありますか。お化粧が崩れてしまうわ」
「お嬢様ーっ! お化粧直しは私にお任せください! 三分で! いえ一分で!」
「ライザ、廊下を走らない」
お兄様のツッコミが飛ぶ。お父様はまだハンカチに顔をうずめている。アルは玄関の扉の前で、黙って空を見上げていた。……たぶん、見ないふりをしてくれている。
にぎやかで、あたたかくて。
ああ、そうか。
私、ここに帰ってきたんだ。
◇
王宮へ向かう馬車の中で、私は窓の外を眺めていた。
石畳の道。並んだお店の看板。字が読める子どもたちが、看板を指さして笑っている。広場の噴水のそばで、小さな女の子が『だれでも読める、字のおけいこ』を広げていた。
「お嬢様の本、王都でも大人気なんですよ」
向かいの席で、ライザが胸を張る。
「私が書いたわけじゃないけどね」
「でも、お嬢様が教えたことです!」
馬車の横を、馬に乗ったアルが並走している。窓越しに目が合うと、彼はわずかに顎を引いた。前を見てください、と言われた気がした。
王宮が近づいてくる。
白い石でできた、大きなお城。ゲームの中では小さなアイコンだったのに、見上げても見上げても、てっぺんが見えない。
「お嬢様。会場では、セドリック殿下がお待ちです」
ライザの言葉に、私はぴたりと固まった。
そうだ。忘れてた。
私、婚約者がいるんだった。
エルディア王国の第二王子、セドリック殿下。家同士が決めた婚約者で、小さいころから、ときどき公爵家に遊びに来ていた。婚約者の顔を見に、という名目で。……でも、私と話している時間より、お茶を運んでくる侍女たちのほうをぼんやり眺めている時間のほうが長かった気がする。いつも微笑んでいて、何を考えているのかよくわからない人。
……本物だと、どうなんだろう。
◇
大広間は、光の洪水だった。
天井から下がるシャンデリアが、何百もの蝋燭の火をきらきらと跳ね返している。色とりどりのドレス。楽団の音楽。人の話し声と、グラスの触れ合う音。
その入り口で、ひとりの青年が待っていた。
金色の髪。澄んだ青い瞳。絵本から抜け出してきたみたいな、完璧な王子様。
「やあ。久しぶりだね、サラフィーナ嬢」
「桜色のドレスがよく似合っている。今夜のこの広間で、君より美しい花はないだろうね」
……すごい。
流れるように褒められた。一言一句、よどみがない。息つぎの位置まで完璧だ。たぶん、鏡の前で百回くらい練習したか、もしくは百人くらいに言ったことがある。
同じドレスを褒められたのに、さっきのアルの「ドレスが」のほうが、よっぽどどきっとした。……いや、あれはあれで失礼なんだけど。
セドリック殿下は、にこりと微笑んで手を差し出した。
その笑顔を見て、私は思った。
……目が、笑ってない。
「お、お久しぶりでございます、殿下」
ぎこちなく礼をして、差し出された手に自分の手を重ねる。
殿下に手を引かれて、大広間に足を踏み入れた、そのとき。
視界の端に、何かが引っかかった。
壁際に立つ、警護の騎士。まだ若い、茶色い髪の青年。顔色が、ひどく悪い。額に汗が浮いて、ときどき、腕を押さえている。
その腕に。
黒い、もやが、まとわりついていた。
……え。
あれ、知ってる。
ゲームで、何度も見た。熊の魔物にまとわりついていたのと、同じ。
瘴気だ。




