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ゲームの中のお嬢様に転生したら、嫌味しか言わない護衛騎士が、十二年わたしだけを見ていたらしい  作者: 八重


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第一部 ダンスと浄化

黒いもやは、騎士の右腕にまとわりついていた。

 袖の上からでもわかる。腕に巻いた包帯のあたりから、じわじわと滲み出すように立ちのぼっている。騎士は何度も腕を押さえて、そのたびに顔をしかめていた。

 討伐で、魔物にやられたんだ。

 ゲームで見た熊の魔物と同じ、あの黒いもや。放っておいたら、どうなるんだろう。ゲームの中では、瘴気に触れた作物は枯れて、動物は弱っていった。

 人間は?

「サラフィーナ嬢?」

 はっとして顔を上げる。セドリック殿下が、首をかしげて私を見下ろしていた。

「何か、気になるものでも?」

「い、いえっ! シャンデリアが、きれいだなって!」

「そう。シャンデリアね」

 殿下はにこりと笑った。笑顔の形は、さっきとひとつも変わらない。まるで、絵に描いた笑顔みたいに。

◇

 音楽が変わった。

 今夜デビューする令嬢たちの、最初のダンスの時間だ。広間の中央に、色とりどりのドレスが花びらのように広がっていく。

「では、踊っていただけますか。僕の婚約者殿」

 殿下が、優雅に手を差し出す。

 大丈夫。ダンスの練習は、ゲームの中で何度もした。先生に足を踏んだ回数は、たぶん百回を超えている。……いや、大丈夫じゃないかもしれない。

 でも、不思議なことに、殿下の手を取ってステップを踏み出すと、体が勝手に動いた。右、左、くるり。十八年分の練習を、この体はちゃんと覚えている。

「おや。思っていたより、お上手だね」

「思っていたより、は余計です」

「失礼。君はいつも君の侍女殿と芋畑を走り回ってばかりだからねぇ」

「それ事実ですけど!」

 殿下が、ふっと吹き出した。今のは、ちょっとだけ本当に笑った気がする。

 でも、今はそれどころじゃない。

 私は踊りながら、ちらりと壁際を見た。あの騎士は、さっきよりも顔色が悪くなっている。立っているのもつらそうだ。

 行かなきゃ。

 でも、デビューの真っ最中に、婚約者の手を振りほどいて騎士のところに駆け寄ったら、どうなる? 大騒ぎだ。お父様が倒れる。お兄様の眼鏡が割れる。

 それに、お父様と約束した。この力のことは、家の外では誰にも話さないって。

 ……だったら。

「殿下」

「何かな」

「あっちのほう、回りませんか?」

「あっち?」

「壁際の、あのへん。なんか、そっちのほうが床がすべりやすそうで」

「……床がすべりやすいと、何かいいことが?」

「回りやすいです!」

 自分でも何を言っているのかわからない。殿下はほんの一瞬だけ黙って、それから楽しそうに目を細めた。

「いいよ。君の望むままに」

 くるり、くるりとステップを踏みながら、殿下は私を壁際へと導いていく。

 騎士まで、あと三歩。二歩。

 ターンの瞬間、私はドレスの裾をひるがえすふりをして、そっと右手を伸ばした。

 指先が、騎士の腕をかすめる。

 ──消えて。

 心の中で、ゲームのときと同じように願った。

 指先が、ほんのりあたたかくなる。ほんの一瞬、淡い光がこぼれた気がした。黒いもやが、朝の霧が晴れるように、すうっと溶けていく。

 騎士が、驚いたように自分の腕を見下ろした。青白かった頬に、ゆっくりと血の色が戻っていく。

 よかった。

 ほっとして、私はそのまま殿下とステップを続けた。何事もなかったみたいに。完璧に。たぶん。

「──今、何をした?」

 耳元で、低い声がした。

 心臓が止まるかと思った。

 殿下は笑顔のまま、ステップを一つも乱さずに、私にだけ聞こえる声でささやいていた。

「な、何のことでございましょう」

「あの騎士の腕。君が触れた瞬間、光った」

「シャンデリアの光では?」

「シャンデリアは、あんなにあたたかい色をしていないよ」

 だめだ。見られてた。

 どうしよう。どうごまかそう。頭の中で、ありとあらゆる言い訳がぐるぐる回る。

 でも、殿下はそれ以上何も聞かなかった。ただ、私の手を握る力を、ほんの少しだけ強くした。

「面白いね、君は」

 見上げると、殿下が笑っていた。

 さっきまでとは違う。青い目の奥まで、ちゃんと笑っている。……ただし、すごく悪い顔で。

「その話は、また今度ゆっくり聞かせてもらおうかな。婚約者殿」

 ひぃ。

◇

 曲が終わって、拍手が広がる。

 私はなんとか礼をして、顔を上げた。

 そのとき、背中に冷たいものが走った。

 誰かに、見られている。

 視線をたどると、大広間の奥、一段高くなった場所に、白と金の法衣をまとった男の人が立っていた。白髪まじりの髪をきっちりとなでつけて、首から大きな聖印を下げている。

 神殿の人だ。それも、たぶん、すごく偉い人。

 その隣には、銀色の髪の令嬢が背筋を伸ばして立っていた。紫の瞳が、まっすぐ私をにらんでいる。

 でも、私が怖いと思ったのは、令嬢のほうじゃなかった。

 法衣の男の人は、さっき騎士がいた壁際を、じっと見ていた。

 それから、ゆっくりと視線を私に移して。

 にこり、と微笑んだ。

 セドリック殿下とは違う。目だけじゃない。顔じゅうで、穏やかに笑っている。

 なのに、どうしてだろう。

 その笑顔を見た瞬間、私の背中を、ぞっと冷たいものが這い上がった。

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