第一部 ダンスと浄化
黒いもやは、騎士の右腕にまとわりついていた。
袖の上からでもわかる。腕に巻いた包帯のあたりから、じわじわと滲み出すように立ちのぼっている。騎士は何度も腕を押さえて、そのたびに顔をしかめていた。
討伐で、魔物にやられたんだ。
ゲームで見た熊の魔物と同じ、あの黒いもや。放っておいたら、どうなるんだろう。ゲームの中では、瘴気に触れた作物は枯れて、動物は弱っていった。
人間は?
「サラフィーナ嬢?」
はっとして顔を上げる。セドリック殿下が、首をかしげて私を見下ろしていた。
「何か、気になるものでも?」
「い、いえっ! シャンデリアが、きれいだなって!」
「そう。シャンデリアね」
殿下はにこりと笑った。笑顔の形は、さっきとひとつも変わらない。まるで、絵に描いた笑顔みたいに。
◇
音楽が変わった。
今夜デビューする令嬢たちの、最初のダンスの時間だ。広間の中央に、色とりどりのドレスが花びらのように広がっていく。
「では、踊っていただけますか。僕の婚約者殿」
殿下が、優雅に手を差し出す。
大丈夫。ダンスの練習は、ゲームの中で何度もした。先生に足を踏んだ回数は、たぶん百回を超えている。……いや、大丈夫じゃないかもしれない。
でも、不思議なことに、殿下の手を取ってステップを踏み出すと、体が勝手に動いた。右、左、くるり。十八年分の練習を、この体はちゃんと覚えている。
「おや。思っていたより、お上手だね」
「思っていたより、は余計です」
「失礼。君はいつも君の侍女殿と芋畑を走り回ってばかりだからねぇ」
「それ事実ですけど!」
殿下が、ふっと吹き出した。今のは、ちょっとだけ本当に笑った気がする。
でも、今はそれどころじゃない。
私は踊りながら、ちらりと壁際を見た。あの騎士は、さっきよりも顔色が悪くなっている。立っているのもつらそうだ。
行かなきゃ。
でも、デビューの真っ最中に、婚約者の手を振りほどいて騎士のところに駆け寄ったら、どうなる? 大騒ぎだ。お父様が倒れる。お兄様の眼鏡が割れる。
それに、お父様と約束した。この力のことは、家の外では誰にも話さないって。
……だったら。
「殿下」
「何かな」
「あっちのほう、回りませんか?」
「あっち?」
「壁際の、あのへん。なんか、そっちのほうが床がすべりやすそうで」
「……床がすべりやすいと、何かいいことが?」
「回りやすいです!」
自分でも何を言っているのかわからない。殿下はほんの一瞬だけ黙って、それから楽しそうに目を細めた。
「いいよ。君の望むままに」
くるり、くるりとステップを踏みながら、殿下は私を壁際へと導いていく。
騎士まで、あと三歩。二歩。
ターンの瞬間、私はドレスの裾をひるがえすふりをして、そっと右手を伸ばした。
指先が、騎士の腕をかすめる。
──消えて。
心の中で、ゲームのときと同じように願った。
指先が、ほんのりあたたかくなる。ほんの一瞬、淡い光がこぼれた気がした。黒いもやが、朝の霧が晴れるように、すうっと溶けていく。
騎士が、驚いたように自分の腕を見下ろした。青白かった頬に、ゆっくりと血の色が戻っていく。
よかった。
ほっとして、私はそのまま殿下とステップを続けた。何事もなかったみたいに。完璧に。たぶん。
「──今、何をした?」
耳元で、低い声がした。
心臓が止まるかと思った。
殿下は笑顔のまま、ステップを一つも乱さずに、私にだけ聞こえる声でささやいていた。
「な、何のことでございましょう」
「あの騎士の腕。君が触れた瞬間、光った」
「シャンデリアの光では?」
「シャンデリアは、あんなにあたたかい色をしていないよ」
だめだ。見られてた。
どうしよう。どうごまかそう。頭の中で、ありとあらゆる言い訳がぐるぐる回る。
でも、殿下はそれ以上何も聞かなかった。ただ、私の手を握る力を、ほんの少しだけ強くした。
「面白いね、君は」
見上げると、殿下が笑っていた。
さっきまでとは違う。青い目の奥まで、ちゃんと笑っている。……ただし、すごく悪い顔で。
「その話は、また今度ゆっくり聞かせてもらおうかな。婚約者殿」
ひぃ。
◇
曲が終わって、拍手が広がる。
私はなんとか礼をして、顔を上げた。
そのとき、背中に冷たいものが走った。
誰かに、見られている。
視線をたどると、大広間の奥、一段高くなった場所に、白と金の法衣をまとった男の人が立っていた。白髪まじりの髪をきっちりとなでつけて、首から大きな聖印を下げている。
神殿の人だ。それも、たぶん、すごく偉い人。
その隣には、銀色の髪の令嬢が背筋を伸ばして立っていた。紫の瞳が、まっすぐ私をにらんでいる。
でも、私が怖いと思ったのは、令嬢のほうじゃなかった。
法衣の男の人は、さっき騎士がいた壁際を、じっと見ていた。
それから、ゆっくりと視線を私に移して。
にこり、と微笑んだ。
セドリック殿下とは違う。目だけじゃない。顔じゅうで、穏やかに笑っている。
なのに、どうしてだろう。
その笑顔を見た瞬間、私の背中を、ぞっと冷たいものが這い上がった。




