第三部 閑話 逃げ道 (ライザ)
お嬢様が北へ行って、十日。
私は、北側の診療所で、芋の皮をむいていた。
今日は、非番の日だ。でも、お嬢様もイザベラ様もいない診療所が気になって、結局、朝から来てしまった。お嬢様に「任せてください!」って、胸を叩いたんだもの。
……それに。
屋敷にいると、つい、考えてしまうから。
「──ライザ先生、この芋も?」
「そうそう! ぜんぶむいちゃって! ……あと、私は先生じゃないからね!」
子どもたちが、きゃあきゃあ笑いながら、芋をかかえて走っていく。
イザベラ様が「先生」と呼ばれていたから、その代わりに私が「先生」になってしまったらしい。子どもって、そういうところ、ちゃっかりしてる。
私は、笑いながら、またひとつ、芋を手に取った。
──そのとき。
「──手伝うよ」
すぐ横から、声がした。
やわらかい、ゆったりした声。
……知ってる。ぜったい、知ってる声。
おそるおそる、顔を上げる。
地味な灰色の外套。帽子を深くかぶって、そのすきまから、金色の髪が、ちょっとだけのぞいている。
その人は、私の隣の木箱に、ちょこんと腰を下ろして、もう、芋をひとつ手に取っていた。
「……で、で、殿……!?」
「しーっ。今日は、ただの手伝いの、セドだよ」
その人は、人差し指を唇に当てて、にこりと笑った。
いつもの完璧な笑顔だった。でも、ちょっとだけ、いたずらっ子みたいな笑い方だった。
「た、ただのセドさんは、そんなきれいな金色の髪してないです!」
「うん。だから、帽子をかぶってきたんだけどね」
「ちょっと、はみ出てます!」
「あらら」
殿下は、まったく気にした様子もなく、小刀で芋の皮をむきはじめた。
……うまい。
王子様なのに、皮が、するすると、一本につながっていく。
「……殿下、どうして、芋の皮むきなんか……」
「練習したからね」
「練習!?」
「王宮の厨房で。この三日間。……厨房長に、ものすごくいやな顔をされたけど」
……三日間。
王子様が。王宮の厨房で。芋の皮むきを。
なんで。
どうして、そんなこと。
診療所に来るために? 私の隣で、芋をむくために?
……いやいやいや。
そんなこと、あるはずがない。
私は、ぶんぶんと首を振って、芋に向き直った。
そのあいだに、自分の芋の皮が、ぶちっと切れた。
◇
ふたりでむいた芋は、いつもの倍の速さで、籠いっぱいになった。
殿下は、そのあとも、水を運んだり、子どもたちに手の洗い方を教えたりしていた。子どもたちは、すっかり「セドにいちゃん」と呼んで、なついていた。
……セドにいちゃん。
王子様を。
もう、どうしたらいいのか、わからない。
夕方。診療所の片づけを終えて外に出ると、殿下が、入り口の横の壁にもたれて、待っていた。
「……送っていくよ。公爵家まで」
「えっ、い、いえ! ひとりで帰れますから!」
「うん。知ってるよ」
殿下は、にこにこしながら、私の隣に並んで、歩きはじめた。
……知ってるよ、じゃなくて。
夕焼けの下町を、ふたりで歩く。
市場の前を通ったとき。屋台のおばさんたちが、ひそひそ話しているのが、耳に入ってきた。
「──聞いたかい。第二王子さまのご縁談、隣の国のお姫様と、そろそろ決まるんじゃないかって」
「そりゃあ、王子さまだもの。きれいなお姫様がお似合いだよ」
……ちくっ。
胸の奥が、小さく、痛んだ。
隣を歩いているのに。その人が、すぐそこにいるのに。
足が、つい、止まっていた。
「……ライザ?」
「……殿下。ご縁談、たくさん来てるんですよね」
口が、勝手にしゃべっていた。
「隣の国のお姫様とか。……こんなところで、芋なんかむいてて、いいんですか」
殿下は、立ち止まって、私を見下ろした。
夕焼けの中で、青い瞳が、ほんの少しだけ、細くなった。
「──全部、断ったよ」
「……えっ」
「隣の国のも。……全部。ひとつのこらず」
……。
胸の奥のちくっが、すうっと、とけていくのがわかった。
……なんで。
なんで、今、ほっとしたんだろう。
「……どうして、ですか」
「芋を半分こする約束が、まだだから。……君が言ったんだよ。芋畑で。『今度また、半分こしましょうね』って」
……あ。
言った。たしかに、言った。
どうしていいかわからなくて、なんて言えばいいかわからなくて、とっさに口から出た、あのひとこと。
「僕はね、ライザ。あれを、君からもらった、いちばん最初の返事だと思ってるんだけど。……ちがった?」
「だから、あの約束が果たされないかぎり、ほかの誰との縁談も、受けるつもりはないよ」
殿下は、にこりと笑った。
いつもの、完璧な笑顔。
なのに、その青い瞳だけは、少しもまばたきをしないで、じっと、まっすぐに、私だけを見ていた。
「……それにね、ライザ」
殿下が、一歩だけ、近づいた。
「君が今、いちばん気にしていること。……身分とか、お嬢様に申し訳ないとか、王宮の人たちがとか。それから、お母さんのこととか」
……どうして。
どうして、それを。
「ひとつずつ、片づけているところだから。……安心していいよ」
殿下の声は、どこまでもやさしかった。
やさしくて、ゆったりしていて。
なのに、なぜか、背中が、ぞくりとした。
「……逃げても、いいよ。ライザは、足が速いからね」
殿下は、夕焼けを背にして、もう一度、にこりと笑った。
「でも、逃げる場所は、もう、あまり残ってないと思うけどね」
◇
公爵家の裏口で、殿下と別れたあと。
私は、厨房に、ものすごい勢いで飛びこんだ。
「──お母さん!!」
「おや。おかえり、ライザ」
お母さんは、大鍋をかきまぜながら、振り向きもせずに言った。
「……お母さん。殿下、ここに来た?」
「来たよ」
「……いつ!?」
「この前。あんたがお嬢様のお供で、診療所に行ってたときにね」
お母さんは、おたまを置いて、やっと振り向いた。
そして、にんまりと、笑った。
「……あたしはね、口は出さないって約束したから。何も言いやしないよ」
「そ、そんな……!」
……お母さんも。
そういえば、この前、ルーカス様が、めずらしく私を呼び止めて、「非番の日は、診療所に顔を出すといい。子どもたちが喜ぶ」って言った。……殿下は、どうして、今日が私の非番の日だって、知っていたんだろう。
大叔母様も。おととい、急にお部屋のお茶に呼ばれて、「あなた、お母様のこと、どう思っているの?」なんて、聞かれた。
奥様も。廊下ですれちがうたびに、にこにこして、「あら、ライザ。もうすぐね」って。何が、もうすぐなんだろう。
旦那様なんて、私の顔を見るたびに、ハンカチを握りしめて、目をうるませている。
……みんな。
みんな、知ってる。
もう、どこもかしこも。
──逃げる場所は、もう、あまり残ってないと思うけどね。
あの声が、耳の奥で、やさしく、ゆったりと、よみがえる。
私は、厨房のすみっこにしゃがみこんで、両手で、真っ赤な顔を覆った。
……お嬢様。
早く、帰ってきてください。
私、もう、どうしたらいいのか、わかりません。




